適菜収のレビュー一覧
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相変わらずの適菜っぷり。
容赦なく、遠慮なく、そして品もなく、自民党をぶった斬る。最終章の「バカ六〇連発(愚か者系;犯罪・暴力系ほか)」は圧巻。大丈夫か自民党。
…と、急に私の話だが、以前とある団体の会議に出席したことがある。発表者の資料読み上げ後、質疑での指摘は、資料の誤字や体裁ばかり。何が論点であるか理解して議論される事なく、指摘事項は瑣末な修正ばかりで終了。面倒くさくて傍観していたが、何だか本書を読みながらその体験を思い出したのだ。
一つは、適菜の指摘が所々で極めてショボいこと。菅義偉が「広島市」を「ひろまし」と読み違えたとか。ちょっと噛んだだけだろう。どうでも良い。もう一つは、自 -
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十人十色の「孤独論」とあるが、実際に20人近くの知識人、著名人による寄稿の寄せ集めなので、ダイジェストとしての読み応えはあるが、全てが皮層的で浅い。なんだか格言や至言を探し出したり、その言葉の周辺を少しだけ肉付けしたような文章。それでも思考のきっかけを得たり、脳内に連鎖して考えさせられるのだから、読書は面白い。複数人分を読んで、余韻で考えるのが、私自身のオリジナルな「孤独論」というわけだ。
人は、社会的分業をしているために完全な自給自足にはなり得ない。また、直接会話をする相手がいなくても、本や看板など、目に入る日本語は、その集団に帰属している証拠。ゆえに言葉が分からぬ海外での孤独感は一層強ま -
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いろいろと文句はあるのだが、訳文に対応する徒然草本体からの引用が一部分だけというのは一体どういうことなのか。これでは訳文が原典に忠実なのか著者の主観含みなのかがこの本だけでは判断できず、読者に対して不親切だと思うんですけど。
著者は歴史学者ではないので、引用箇所の歴史的背景の説明が薄っぺらい点にはひとまず目をつぶることにする。そのうえで現代における例示内容の悪趣味さにも目をつぶればその解釈自体はおおよそ同意できるんだけど、専門家との向き合い方の部分に関してだけは、コロナ禍を経験して専門家への信頼が失墜した現代日本でそのまま適用しちゃいけないんじゃないですかね。
総じて本書から先行して読んだ徒然 -
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三島由紀夫は表現者であり小説家、かつ顔も名前も売れていた。その彼が、ひっそり死なず、大衆に晒して割腹し、そこに主張を込めたのだから、その死はパフォーマンス以外の何物でもない。時代の変化に命を賭けたなら結果を見ずには無責任。諦めたという事なら、自らが忌避した小説家の自死と何が違うか。
その三島が憂いた日本の未来に関し、保守の定義に囚われて、結局、大衆を揶揄するだけで、その構造的変革に踏み込めないならば、B層以下だろう。今更、三島由紀夫を祭り上げた所でA層にもC層にも届かない。故に、放言は空中浮遊し虚しく響くだけで、ならばB層を使いこなす活動家の方がマシではないかと。自らの死を高く見積もっていた -
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改革とまでは言わなくとも,変えた方がいいものもあるだろう。保守も変化そのものを否定する立場ではないと思う。変化への慎重さ,思慮深さが,昨今のスピード重視やコスパ思考と異なるのだろう。
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B層は構造改革の目的を知らないし,知ろうともしません。ただ,「改革=新しい=なんだか良さそう」「抵抗勢力=古くさい=既得権益」という程度のイメージしか持っていない。
郵政選挙では,このB層に向けて「改革なくして成長なし」「聖域なき構造改革」といった小泉純一郎のワンフレーズ・ポリティクスがぶつけられました。要するに,問題を極度に単純化し,二択か三択を目の前にぶらさげることで,普段モノを考えていない -
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啓発とは、新たな知識や気付きを与えて人を導く事。自己啓発とは自らそれを得ようとする事だが、自己啓発本はその一助となる著者からの啓蒙。徒然草は、まさに自己啓発本の一種。人間社会の真理を語り記す。今読んでも学びがあるとすれば、数百年やそこらで変わらぬ、人間への本質的な見抜きがある。今の100冊より、徒然草。
ふむふむ。…で、徒然草ってどんな話だったかな、という所からスタート。
つれづれなるままに、ひぐらし硯に向かひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ
吉田兼好を調べると歌人、とある。歌集や日記みたいなものだと思っていた。読めば、腐った世の中