あらすじ
自民党の変容と日本の凋落
東西冷戦の終結が迫り、「政治改革元年」という掛け声に
人々が浮かれたのが平成元(1989)年。
しかし、皮肉にもその年が自民党、
日本の明暗を分ける分岐点になった。
以降の35年で日本は国力を失い、
腐敗と不正が蔓延る人治国家へと成り下がることになる。
本書では、自民党の政治家を個別に検証することで、
変容した党の本質を炙り出そうとするものである。
著者は、「小沢一郎がまいた種を小泉純一郎が悪用し、
安倍政権という悪夢に結実した」と指摘する。
支持率が20%にも満たない政権、
政党が権力を牛耳ることができる理由は何か?
思考停止した大衆が“悪党”を支え続ける社会の
歪な構造が明らかになる。
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Posted by ブクログ
「私は立法府の長」と四回も言う。「ヘタレ」という言葉でほぼ説明できてしまう。「踏襲」を「ふしゅう」、「頻繁」を「はんざつ」と読む。原稿を用意しているのに途中読み飛ばしてしまう。…全ては彼の党から選出された総理大臣の話。他にもこの党の大物議員の呆れる逸話がぎっしり詰まっている。吹き出してしまうのは怒りより笑い。これが日本の政治レベル。何でこんな政権が続いてしまっているのか。小選挙区二大政党制で選択肢はもう一つしかない。そこはもっと酷そうだったから。一番悪いのはこんな制度を推進するという「種をまいた」人物。
Posted by ブクログ
相変わらずの適菜っぷり。
容赦なく、遠慮なく、そして品もなく、自民党をぶった斬る。最終章の「バカ六〇連発(愚か者系;犯罪・暴力系ほか)」は圧巻。大丈夫か自民党。
…と、急に私の話だが、以前とある団体の会議に出席したことがある。発表者の資料読み上げ後、質疑での指摘は、資料の誤字や体裁ばかり。何が論点であるか理解して議論される事なく、指摘事項は瑣末な修正ばかりで終了。面倒くさくて傍観していたが、何だか本書を読みながらその体験を思い出したのだ。
一つは、適菜の指摘が所々で極めてショボいこと。菅義偉が「広島市」を「ひろまし」と読み違えたとか。ちょっと噛んだだけだろう。どうでも良い。もう一つは、自民党批判を発散するのは良いがそのオルタナティブは示さず、適菜自身にこれといった建設的な意見はないこと。相変わらずの悪口屋である。だが、それを味わいたくて読んだので満足だが。これは一種のカタルシスだろうか。
批判の鋭さと徹底した否定性。自民党政治の腐敗、大衆の思考停止、メディアの堕落など、誰もが薄々気づきながら言語化できていないものを、一気呵成に暴く。だが、「ではどうすべきか」という視点は、どこにも見当たらない。
適菜は現行の野党すら「バカ」と切り捨て、国民の選択肢そのものを奪う。一方で、「考えろ」「アホに投票するな」と呼びかけるが、提示される代案は皆無。結果として、彼の批判はただの揚げ足取りにしか見えなくなる。言っていることは一つ一つ正論のようでありながら、行動には結びつかない。
なぜか。それは彼自身が何も背負わず、何も賭けていないから。希望も未来も提示せず、ただ否定と皮肉を並べる姿は、知性の仮面をかぶった怠慢にしか見えない。むしろ、自己免責的な態度の極致であるようにすら思える。
知性とは、単に他人を批判する能力ではない。問題の構造を深く掘り下げ、同時に何らかの価値や行動指針を提示する力である。適菜の言論には、後者が決定的に欠けている。そのため、彼の批判はどれほど正確でも、時間が経つと軽くなる。記憶に残るのは「口の悪さ」だけであり、思想や美学といった核心には届かない。
私は彼を、批評家とは呼ばない。カタルシスを売る、エンタメ枠である。そしてそれを楽しむ私自身も浮薄だと自覚するのである。自覚するから良いというのではない、悪いというからには、議論は良い方に導くべきで、論点は本質的であるべきだ。これだと適菜がB層を狙っているみたいではないか。