【感想】
『資本論』は、資本主義経済を批判的に考察したマルクスの著作である。
資本論が刊行されてから150年近く経つ今、当時よりも一層ラディカルに資本主義が進行している。もちろん弊害も多発しており、そうした「現代社会の暗部」にフォーカスを当てながら、マルクスの論を再考していくのが本書の目的だ。身近な例を持ち出しながら資本主義の欠点を挙げ、その問題は150年以上も前にマルクスによって記されていたことを振り返りつつ、今後の人間の在り方を洞察していく。『資本論』の解説本というよりは、現代社会に潜んでいる資本主義の欠点を具体的にピックアップし、それに資本論はどういう答えを出していたかを紹介する「教本」という位置づけが正確かもしれない。
この本の核となる部分は「どうして資本主義は瓦解するのか」いう問題であるが、マルクスは「労働時間のありかた」にその理由を見出し、2つの「剰余時間」を定義している。
①絶対的剰余価値:労働時間の延長から得られる剰余価値
②相対的剰余価値:必要労働時間の削減から得られる剰余価値、生産力の増大から得られる製余価値(働く時間を伸ばさない代わりに生産性の上昇によって生み出す価値)
資本主義の大きな特徴は、市場競争と技術革新により生産性が上昇し、身の回りの物が一層廉価で便利になっていくことである。
しかし、技術革新は人を幸せにしない。なぜかと言えば、技術革新は特別剰余価値を増幅するためのプロセスにすぎないからだ。
特別剰余価値とは、高まった生産力で商品を廉売して得られる利益のことであり、いずれ同業者が模倣していくことで、ゼロに限りなく近づいていく。特別剰余価値が低下していくと、資本家は①と②の追求によって何とか利益を生み出そうとする。歴史を紐解くと、産業革命から近代までの手段は①の追求であった。しかし、違法労働問題や人口数の減少から、物量による効率は次第に求められなくなる。現代以降はもっぱら②の追求がメインであり、イノベーションにさらなるイノベーションを重ねて利益を得ようとしてきた。
しかし、これらはどちらも破滅に向かうステップである。①は言わずもがな、②もやがて人に不幸をもたらしていく。「生産性が上がった」とは、その生産に従事する労働者から見れば、労働の価値が低下したことにほかならないからだ。
この洞察は直感的に納得できるものだと思う。現在の社会では、マネジメントスキル、PCスキル、ライティングスキル、英語力など、一昔前までは必要とされていなかった様々なスキルが求められている。労働者が自らの価値を高める、と言えば聞こえはいいが、スキルが普遍的になればなるほど、労働に占める希少性が安売りされていく。昔は1時間かかっていた仕事が10分でできるようになっても、絶対的な給料が6倍になっていなければ、労働価値のデフレが発生しているのだ。
結局のところ、イノベーションは人を便利にするが幸せにはしない。
ではイノベーションの追求の代わりに人間にできることは何かというと、筆者は、かなり面白い結論に至っている。「食にこだわる」ことである。
資本論を話しておきながら「ごはん」とはどういうことだ、と思うかもしれないが、これがなかなか真っ当な理由である。人が感じる「最低限度の生活」を譲らない、という方針だ。
市場の取引は等価交換によって成り立っているが、「価」の基準は人によって異なる。毎日ファストフードでOKという人もいれば、3日に1回寿司を食べねばやっていけない人もいるだろう。「価」の範囲は下から上まで幅が出るが、イノベーションによる特別剰余価値の減少を甘んじて受け入れ続ければ、次第に労働者の価値は下がっていく。
必要性の水準がどんどん低くなって、やがて「そんなに贅沢しなくても、毎日カロリーメイトでいいじゃないか」と言われたとき、「それはいやだ」と言えるかどうか。これが階級闘争の原点になるのだ。
食とは、人間に根差した基礎的な文化である。人間を根本から規定する土台である。そして、人間の基礎価値を信じることが、資本制社会への行き過ぎた迎合を止めるトリガーになるのである。
筆者「『私はスキルがないから、価値が低いです』と自分から言ってしまったら、もうおしまいです。それはネオリベラリズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。(略)それに立ち向かうには、人間の基礎価値を信じることです。『私たちはもっと賛沢を享受していいのだ』と確信することです。賛沢を享受する主体になる。つまり豊かさを得る。私たちは本当は、誰もがその資格を持っているのです」
私はこの一節を読んでいるとき、老後2000万円問題を思い出してしまった。今までは退職金+年金によって、老後の人生を不自由なく楽しむことができたのに、時代が流れるにつれ受給額がやせ細り、最終的には「年金制度なんて頼らずに、自分で2000万円貯蓄していないとゲームオーバーです」と言われるようになった。「これっぽっちの贅沢」がいつの間にか「大きな贅沢」と見なされて、譲れない部分が次々と侵されていった例だ。人々は「それはいやだ」という声を挙げるも、もはや手遅れになりつつある。
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本書は真っ赤な表紙に小さなタイトルという装丁で、そのタイトルも「武器としての『資本論』」であり、何だか難解そうな印象を受ける。しかし、手に取ってみるとこれがかなり分かりやすく、大学の講義を受けているみたいでスルスルと読めてしまった。剰余価値のほかにも、「物質代謝」や「包摂」といった概念によって、現代社会に通ずる問題を非常に明瞭にあぶり出している。是非オススメの一冊である。
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【まとめ】
1 資本制社会のありかた
マルクスが考える資本制社会
→「物質代謝の大半を商品の生産・流通・消費を通じて行う社会」であり、「商品による商品の生産が行われる社会(=価値の生産が目的となる社会)」
「物質代謝」とは、ある物質を作り、それにより別の物質を使っていくサイクル。例えば石炭やガスを燃やして電気を作り、電気が工場を動かし、工場がパソコンを作り、消費者がパソコンを買うような循環のこと。言い換えれば、物がめぐりめぐるプロセスのことが「物質代謝」である。
このプロセスが、「商品による商品の生産」によって稼働する、つまり労働力という商品を使って別の商品を生産していくのが資本制社会である。そして、「大半」の範囲が際限なく拡大し続ける(昔は商品で無かったものもどんどん商品化されていく)のが、資本制社会の宿命だ。
2 商品
富と商品は違う。
お金による商品交換の原理は「無縁」。取引関係の中では、相手と関係を持つ必要がない。後腐れなく、関係はその場で切れる。一方、共同体の中では無縁の商品交換はできない。贈与、手伝い、育児など、共同体における価値取引は関係性とは切り離せない。
しかし、資本制社会が発達するにつれ、共同体の外の原理が共同体を飲み込んでいく。これをマルクスは「包摂」と呼んだ。
3 包摂
資本制社会は余剰価値を生産し、生産性を不断に高め続けなければならない。やり方を変革していけば行くほど、資本による包摂の度合いも高まっていく。生産工程が細分化され、労働者一人ひとりは決まりきった作業をやらされるようになる。
やがて資本制社会は、生産の過程、労働の過程を飲み込むだけでなく、人間の魂、全存在への包摂へと向かうようになる。人間存在の全体、思考や感性までもが資本のもとへと包摂されるようになるのだ。
4 資本の増大と余剰価値
資本の目的はとにかく増大することだ。「増えることによって、人々が豊かになる」ことは資本の目的ではない。増えることそのものが資本の目的。
資本が増えるとは、「価値増殖していく」ことである。
機械化が進めば人は働かなくて良くなる、と言われ続けていた時代から何年経とうとも、人の仕事は楽にならず、より大変になっている。
商品には「使用価値(質)」と「交換価値(量)」の二重性がある。使用価値とはそのままの意味で、使用に値する自然的属性のこと。交換価値とは、その商品に投じられた人間労働を通して、その価値を表示できるという「抽象的人間労働の結晶」のことである。
労働力についても同じであり、労働力は「具体的有用労働(質)」と「抽象的人間労働(量)」という二重性を帯びている。
資本制社会において商品は全て等価交換される。では、なぜ労働力によって余剰価値が生産できるのか?
それは、「労働によって形成される価値が、労働力の価値よりも大きいから」である。
「労働力の価値」を、マルクスは「労働力の再生産に必要な労働時間によって規定されている」「労働力の所持者の維持のために必要な生活手段の価値である」と規定している。労働者が搾取されすぎて死んでしまうほど低くはなく、かといって金持ちになって働かなくてすむようになるほど高くもない水準ぐらいが「労働力の価値」だ。もちろん、人によってこの水準は変わる。
5 余剰価値
マルクスは、労働時間を「必要労働時間」と「剰余労働時間」に分けた。「必要労働時間」とは、「賃金に相当するだけの生産を上げるのに必要とされる時間」であり、言い換えれば自分のために働く時間である。一方、働かされているのに支払いを受けられない労働時間が「剰余労働時間」である。
マルクスいわく、「奴隷労働にあっては、奴隷が彼自身の生活手段の価値を補填するにすぎない労働部分、したがって、彼が事実上自分自身のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現れる」「賃金労働にあっては、逆に不払労働さえも、支払労働として現れる」。
賃金労働は奴隷労働とは真逆で、資本家のための労働の部分まで、まるで労働者自身のための労働であるかのごとく錯覚されるのだ。
マルクスは余剰価値の生産方法を2つに分けている。
①絶対的剰余価値:労働時間の延長から得られる剰余価値
②相対的剰余価値:必要労働時間の削減から得られる剰余価値、生産力の増大から得られる製余価値(働く時間を伸ばさない代わりに生産性の上昇によって生み出す価値)
技術革新が人を幸せにしない理由は、技術革新は特別剰余価値の獲得にあるからだ。特別剰余価値とは、高まった生産力で商品を廉売して得られる利益のことであり、いずれ同業者が模倣することで、特別剰余価値はゼロに近づいていく。剰余価値を求めることこそ資本の本質であり、その運動を続けることこそが資本そのものなのである。
20世紀の終盤になって、相対的剰余価値の生産が行き詰まってしまった資本主義は、グローバル化に活路を見出す。これは労働力商品の価値の引き下げであり、絶対的剰余価値の追求への回帰である。
近代になって生産力が向上したが、生産性が上がったとは、その生産に従事する労働者から見れば、労働の価値が低下したことにほかならない。現代社会においては、それが大きな問題として人類の前に立ちふさがっている。
イノベーションによって生まれる剰余価値、すなわち資本主義の発展のキモにあたる部分は、結局、安い労働力を時間的差異と空間的差異を活用してダンピングした結果に他ならないのだ。
6 階級闘争
マルクスは「資本主義の破局的帰結をどうやって避けるのか?」という疑問に対して、「階級闘争によって」と答えている。
マルクス「資本主義の発展に伴い、独占資本が巨大化し、階級分化が極限化する。それにより窮乏、抑圧、隷従、堕落、搾取が亢進し、ある一点でそれが限界を迎える」
パシュカーニス「等価交換の廃棄こそコミュニズムが進むべき道である」
人によって必要最低限の暮らしについての基準が異なるように、等価交換の「価」は、実際には人によって上下する。
生活レベルの低下に耐えられるのか、それとも耐えられないのか。実はそこに階級闘争の原点があるのではないか。「これ以上は耐えられない」という自分なりの限界を設けて、それ以下に「必要」を切り下げようとする圧力に対しては徹底的に闘う。そして闘争によって求める「必要」の度合を上げていく。それはすなわち、自分たちの価値、等価交換される価値を高めていくということである。これが階級闘争の原点だ。
筆者「『私はスキルがないから、価値が低いです』と自分から言ってしまったら、もうおしまいです。それはネオリベラリズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。(略)それに立ち向かうには、人間の基礎価値を信じることです。『私たちはもっと賛沢を享受していいのだ』と確信することです。賛沢を享受する主体になる。つまり豊かさを得る。私たちは本当は、誰もがその資格を持っているのです」
新自由主義は資本主義文化の最新段階であり、その特徴は、人間の思考・感性に至るまでの全存在を、資本のもとへ実質的包摂することにある。したがって、そこから我が身を引き剥がし、ベーシックな感性――例えばうまいものを食べ、量ではなく質の点で豊かさを享受するなど――の部分を大切にする必要があるのだ。