【感想】
短歌は簡単なようで難しい。五七五七七の31音しかない文章など、誰でも手軽に作れそうに思えてくるが、いざ自分で詠もうとするとセオリーが分からない。エモーショナルな感動を詠めばいいのか、それとも徒然なる日常の中の些細な発見を詠めばいいのか。歌に詳しい人はそれこそ「自由だよ」と言うが、いかんせん「いい短歌」を詠もうとすると、やれる幅が広すぎて困ってしまうのである。
そんなとっかかりにくい「短歌」のセオリーを、初心者にも分かりやすく示してくれる入門書が、本書『はじめての短歌』である。本書の特徴は、筆者がまず「良い短歌」を紹介し、その横に自身で作った「改悪例」を並べてくれていることだ。俳人が一般人の短歌を推敲し改善例を提示することはよくあると思うが、そのやり方では、俳人の感性をトレースすることが正しいことのように見えてしまう。そうではなく、「どういう言葉に変えたら歌が悪くなってしまうのか」という実例を示すことで、短歌を作る上での心構えや構成を客観的に学ぶことができる。
私が本書の中で面白いと思ったのは、「生きる」と「生きのびる」の関係についてだ。
生きのびるとは、社会の中で社会人を営んでいくことである。「効率的で」「お金になり」「意味がある」行動をする。対して生きるとは、一人ひとりが持つ唯一無二の生をひたすら追求することである。
そして、短歌はこの「生きる」に寄り添う歌なのだ。
短歌は、生きのびるための情報や価値とは一切無縁の場所にある。日常の何気ない一コマを切り取り、それを美しく照らし出す。無駄を愛する気持ち、余白を大切にする感性――短歌は「無為性」を重んじる芸術なのだ。
「有益性」というのは刹那的だ。移り変わっていく世の中において、社会的な価値を帯びた物や行動は、あっという間に別のものに取って代わられてしまう。対して「無為性」は、時代が変わっても普遍的である。月を愛でる、書を読む、日がな一日のんびりする……。そうした「生きる」営みは、太古の昔から人々に愛されてきている。だから万葉集や古今集の時代の人の短歌にも、共感することができるのだ。
――普遍的で共感されやすいものの方がいいじゃないかと思う人もいるかもしれない。しかし人間の感性とはそんなに単純なものではない。人間の感覚とは不思議なもので、「そんなのありえない」と思えそうなものの方が、「そんなにありえないものを大切にするなんてよほどのことなんだから、きっと本当なんだろう。あるある。」と思ってしまうのだ。
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【まとめ】
1 「生きる」と「生きのびる」
空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋はそういう状態(平岡あみ)
空き巣でも入ったのかと思うほどわたしの部屋は散らかっている(筆者がわざと改悪した例)
短歌とビジネス文章は、伝えたいことがちょっと違う。平岡さんの原文では、「私の部屋はそういう状態」って言われたとき「え、どういう状態?」と一瞬考える。
一瞬考えるっていうのは、コミュニケーションなのだ。その余地が、改悪例にはない。「散らかっている」と言われると、それ以上意識や感情が動かない。「散らかっている」という言葉はラベルだから、それをぺたりと貼られると、心が動かない。
短歌は、単純な情報以上の何かきらきらしたものを手渡すのだ。
よく学校の授業で、短歌や詩は非常に教えにくいって声が聞かれるけれど、それは当たり前だと思う。なぜ当たり前かというと、学校というのは基本的には言葉のベクトルをこれまで見てきた改悪例のほうに矯正するものだからだ。
教育機関の主な役割は、まだ社会的存在として完成しきっていない子どもたちを社会化すること。しかし短歌や詩というのは、それに対してベクトルが逆である。教えようとしても価値観が逆だから、「先生、さっきまで言ってたことと、ベクトルが違う」みたいな話になる。
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あっ今日は老人ホームに行く日なり支度して待つ迎えの車(相澤キヨ)
火曜日は老人ホームに行く日なり支度して待つ迎えの車(改悪例)
「あっ今日は」という言葉からは、相澤さんと僕の間に共通するものがある気がしてくる。同じ船に乗って運命を共有している感覚。
「火曜日は老人ホームに行く日なり」からは、死すべき運命の共有が感じられない。「火曜日」とすることで、死すべき運命を背負った個人の肉声ではなくて、社会化された情報になっている。純粋に個人的な体験である死の慄きにこそ「生きる」感覚が宿るのであって、万人が「生きのびる」ために有益な情報は短歌には不要なのだ。
「生きのびる」ためものというのは、「それがないと困る」と、万人が思っているもの。究極はお金だ。でも僕らは生きのびるために生まれてきたわけじゃない。「生きる」ために生まれてきた。「生きる」とは「生きのびる」に比べて不明瞭なもの。生きる何かと言われれば、はっきり分からず、一人ひとり答えが違う。
ぼくらはみんな、死すべき運命を共有している。だから、それによって照らしだされる歌を読んで、会ったこともないおばあさんのことを思い出したり、女の子の部屋のぐちゃぐちゃさを想像したり、千年前の人の気持ちがわかったりする。
短歌の価値、おもしろさっていうのは、そこに宿っていると思う。
2 短歌の中では、日常とものの価値が反転する
短歌においては、非常に図式化していえば、社会的に価値のあるもの、正しいもの、値段のつくもの、名前のあるもの、強いもの、大きいもの、これが全部、NGになる。社会的に価値のないもの、換金できないもの、名前のないもの、しょうもないもの、ヘンなもの、弱いもののほうがいい。
短歌の世界においては、社会的な価値を帯びているものはマイナスになるのだ。すてきなえがお、美味しいステーキ……。社会的に承認された価値ではなく、どうでもいいもの、つまらないもの、欠点こそが美しいものとされる。
短歌の中では、日常とものの価値はずれていく。それは「生きる」と「生きのびる」の二重性に関係している。
それぞれにつながる2種類の言葉で、ぼくらは生きているけれども、今の動向を見ると、圧倒的に社会化された「生きのびる」ための言語の強制力が強い。
「生きのびる」ためのものは悪いものではない。それがないとぼくらはみんな死んでしまう。ただ、強調したいのは、「その逆の価値はどうなるんだ?」ってこと。
3 生きることに貼り付く短歌
非効率、無意味、お金にならないもの、つまり「生きる」ということに貼りつく言葉が短歌ではどんな形をとるのか。
雨だから迎えに来てって言ったのに傘も差さず裸足で来やがって(盛田志保子)
これは怒っている?違うよね。これは感動している。
「雨だから迎えに来て」って電話で言ったら、それは傘2本持ってきてって意味だ。だけど言われたほうは1本も持ってこなかった。しかも裸足、靴も履いてない、ひどい。ひどいけど来た。迎えに来てって言ったから、迎えに来たんだ。ちゃんと約束は守ったんだよね。その約束がなんの役にも立っていない。なんの役かといえば、風邪をひかないため、「生きのびる」ため。風邪をひくと「生きのびる」のに不利だから。
つまりここでは、「生きのびる」ためのファクターが無視されて、迎えに来てって約束だけが存在している。果たされたのは、「生きる」側の約束だ。
この人は忘れないよね、この日のこと。あの日あの人は来たけど、傘も持ってなくて、2人で濡れて帰って一緒に風邪ひいた、みたいな。
「生きのびる」ためにはNGだが、「生きる」ためにはOKなもの。その基準はシンプルで、「忘れられないかどうか」。
ぼくらは、どんな人生が良い人生なのかを決めることはとても難しいんだけど、ひとつの尺度として、「死ぬ日に覚えている思い出が1個でも多い人生が、より良い人生なんじゃないの。そのとき1個も思い出せることがない人生は、ダメなんじゃないの」っていう考え方があります。
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三十歳職歴なしと告げたとき面接官のはるかな吐息(虫武一俊)
三十歳職歴なしと告げたとき面接官のかすかな溜息(改悪例1)
三十歳職歴なしと告げたとき面接官のひそかな苦笑(改悪例2)
普通の社会人は、「はるかな吐息」とはなかなか書けない。
こうして並べたとき、原作に近づくほど社会とのチューニングがずれている。そしてずれることによって、社会が世界のすべてじゃないということを痛切に感じさせる。
社会は世界のすべてじゃない。実際には世界には人間以外の動物もたくさんいるのだが、社会にはいない。そこには人間とペットと家畜がいるだけだ。
だけど社会が世界とイコールにならないと、経済とかはやっぱりダメなのだ。社会は世界とイコールで、社会は人間の集団とイコールっていうふうにしていかないと、経済の回転速度はどんどん落ちる。
実際にどう生きるかということは別として、言語レベルで、社会と世界はイコールではないんだと、世界というのは人間だけが構成員じゃないんだということを痛感するとか。そういうことを、はっきり言語でおさえることって重要だと思う。
4 チューニングをずらす
銀杏が傘にぼとぼと降つてきて夜道なり夜道なりどこまでも夜道(小池光)
銀杏が傘にぼとぼと降つてきて夜道なりけりどこまでも夜道(改悪例)
本来的には、短歌の根源的な特徴は五七五七七であるということなので、そこにはどれだけこだわってもこだわり過ぎることはない。
この歌では、「銀杏が傘にぼとぼと降ってきて」と、ここまではきちんと五七五。ところがそのあと、「夜道なり夜道なり」と10音もあって、字が余っている。これを短歌の形に戻すのは簡単で、「夜道なりけり」にすれば定型になる。だけど、じゃあそのほうがいい歌なのかというと、どうもそういう気がしない。
散文や詩で同じ言葉を50回繰り返すことは罪じゃないけど、短歌で2回繰り返すのは罪だ。五七五七七の定型の禁忌を破っている。罪を犯してまで2回繰り返したことによって、無限に繰り返されるような感覚が呼び起こされる。まさにこの歌の中で伝えたい感覚は、「夜道なり」が無限に続く状況だから。
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砂浜に二人で埋めた飛行機の折れた翼を忘れないでね(俵万智)
砂浜に二人で埋めた桜色のちいさな貝を忘れないでね(改悪例)
短歌を作るときに、慣れてない人は共感を価値の最上位に持ってくるし、共感する歌を作ろうとする。しかし上手くいかない。
多分オモチャの飛行機を歌っている歌だと思うが、実際の経験でいうと、「桜色の貝」を埋めたりした経験はかなりの人があると思う。だけど「飛行機の翼」を埋めたことのある人は、ほとんどいないんじゃないかな。
でもこの歌を比べると、なぜか「飛行機の翼」のほうが共感を呼ぶというか、ぐっとくる。実際見たことも聞いたこともない行為なのにぐっときて、「桜色の貝」を埋めた改悪例のほうは、まあ普通だなって思ってしまう。
これは、共感にはある特性が存在するから。
いきなり共感を目指すと上手くいかない。驚異ってぼくは呼んでいるのだが、一回ワンダーの感覚に触れてそこから戻ってこないと得られない。驚異から共感。砂時計の「くびれ」みたいな驚異のゾーンをくぐらないと共感をゲットできないという、普遍的な法則があるみたいだ。
だから、本当にあることをただ言ってもあるあるにはならない。共感のゾーンをそのまま狙いにいっても共感してもらえないのだ。
要するに短歌って、日本語がたどたどしい留学生の人が書いても問題ないのだ。子どもが書いても全然問題ない。五七五七七の形を意識してもらえば。あと考えてほしいのはひとつだけで、それはサバイバル的に、「生きのびる」側の言葉を使ってはいないかということだ。
では、そこから自由になるにはどうすればいいのか。
なんとなく素敵そうなことを詠むと失敗する。
いい短歌は、社会の網の目の外――一般的に素敵とか役立つとかそういう概念とは異なる場所にあって、お金では買えないものを与えてくれるのだ。