三津田信三の作品、特に主人公が一人称の『僕』や「私」としか記されないホラー作品は、著者の経歴と絡めた創作なのか実話なのかが曖昧な書き出しからスタートすることが多い。そのなかでも本書は『忌館』や「刀城言耶シリーズ」に『異形コレクション』シリーズのような著者が実際に執筆し刊行されている書籍名が並び、虚実ないまぜの、いよいよ現実との区別がつかない書き出しとなっている。
この『序章』は本作の導入なのだが、『のぞきめ』に『僕』がすぐに飛びつかず、怪異譚を知ってからも文章として公表することを躊躇するなど行ったり来たりの心理を(くどくならない程度に)繰り返すことで、上手く本編への興味をつなぎながら物語の概況を説明している。『序章』の最後には恐怖を盛り上げるような警告を残し、しかし、主要な関係者が皆存命というちょっとした安心感も与えながら本編へ入っていく。
本編は二部構成で、一昔前に起きた怪異譚としての『第一部』と、怪異譚の本質に迫っていく『第二部』となっている。時間軸としては第二部が最も古く、『序章』と『終章』が最も新しいので、部が進むごとに数十年ずつ過去に戻っていくことになる。
100ページ程度の『第一部』は利倉成留らの体験した怪異を通して『のぞきめ』の性質や有効範囲、起点となっている廃村の様子や周辺地域からも相当に恐れられていることがわかる。
大学生達が好奇心から怪異に触れて追い詰められ、最後は霊能者に助けられるが・・?というテイストの典型的な怪談なのだが、これが怖い。静かな深夜に一人で読んでいると「自分も覗かれるんじゃ・・」と思ってしまう。
魅入られると逃げられない、土地を離れても憑いてくる、祓っても終わらないかのような展開にゾクっとする。
『序章』でこの話を仕入れた際の顛末があるので「霊能者に祓われたことで障は無くなったのだ」と安心できるのだが、最後の一行はその安心感を逆手に取った気味悪い締め方で、著者の怪談のうまさを感じる。このオチのせいで「利倉成留は無事だが、最後に鈴を触ってしまった彩子は大丈夫なのだろうか」といらぬ心配をしてしまう。
『第二部』は若き日の四十澤想一が主人公となり、第一部とは場面が全く転換するが、冒頭から『第一部』の謎解き要素が散りばめられている。すぐに出てくる『鞘落』の文字にギョッとし、その後の会話で彼の出身地が明らかに『第一部』で利倉らが怪異に襲われた村落だとわかっていく。
鞘落惣一の告白で鞘落家の因習や『のぞきめ』と巡礼の母子の関係性が明らかになるが、その直後に惣一が事故死し四十澤は単身で侶磊村へ向かう羽目になる。
『第一部』で常に彩子が頼れる相棒としてそばに居たことから、「第二部でも惣一とバディになり怪異を調査するのでは」とぼんやり期待していたのだが、それが裏切られることで「一人だけ」ということを強く意識することになる。
この一人という状況は村に入る前から効果を発揮しているようにみえる。他の人と話し合うことができないため、遭遇する不気味な現象が四十澤の不安によるものなのか怪異なのか判別できないという恐怖の演出や、ブレーキをかける他者がいないことで村に向かう前から幾度もある踏みとどまる、引き返す機会をすべて逃している。
村の中でも異邦人として知識なく孤立しており、誰を信じ頼って良いのか、儀式や現象の意図や手はずもわからないまま怪異にも遭遇し、孤立無援の手詰まり感を感じながら足掻くことになる。
『終章』はわずかなページ数ながら物語の核心に迫る答え合わせの内容となっている。
『終章』の最初の部分は、三津田のミステリ作品の推理パートのようだと感じる。これは「絡み合った事象を整理し、残った謎だけを抽出し、それらにもっとも合う解釈を当てはめる」というものである。ミステリ作品では多くの場合犯人が推理の成否と細部や残る謎に答えることになるが、それができない本作では推理の正しさを『僕の怪異体験が最小限で済んだ』つまり『のぞきめ』が担保するという構造になっている。ただの『妄想』で済まさず推理と怪異を絡める手腕が実に上手いと思った。
この『終章』によって『第二部』の事件はただの怪異譚ではなく、怪異が実在することを前提としながら、因習に囚われた村の作為やそこからの復讐劇といったミステリ作品のような仕掛けが含まれた複雑な物語であることを理解できる。
『第一部』が『のぞきめ』の純粋な怪異を扱っただけに、『第二部』も同じ原因からの怪異だと思い込んでしまった(: 物語の外にいる自分までもが侶磊村の村人と同じ認識になっている!)。これは『第二部』全体が読者の思い込みを利用した巨大な叙述トリックを形成しているようにも思えた。『終章』の解釈を知ると、ずっと二重の意味をもった物語が走っていたことが分かり、違和感なく物語を書ききっている筆力にも驚く。
以下は『終章』を読みながら考えたこと。
『第二部』では四十澤が無謀な行動を取りすぎているような気がしていて、「この著者の作品にしては行動に無理がありすぎる」と気になっていたが、『終章』のタネ明かしを経て、「四十澤の大学ノートの中身が帰還後に書き換えられているのか?」と思えた。
途中、ノートの中で『小説風』と記述しているが、これは「持蓑の少女の知識と四十澤自身の体験が混ざり合っていることを隠すためや、事件の顛末を曖昧にするために意図的に記述をぼかしたのではないか?」や、「ノートの中で書かれていないことがあるのでは?」と考えることもできる。
四十澤が実は”信頼できない語り手”である可能性も考えると、前述の叙述トリックと合わせて複数のトリックが物語の中で立体的に錯綜していることになり、それもすごい。
また、『終章』の推理のとおりに四十澤が少女を連れ帰ったとして、彼が研究者にならなかった(= 大学院に進学していない)理由にはなるのだが、在学中の学生が子供を育てられるのか?や、中退して働いたとして家族が黙ってないだろう(時代的に援助なしで大学に行く事なんてできないだろう)と、『終章』の推理への矛盾も考えられた。
『終章』最後の文言や想像の余地を残す推理などの怖さとは別の余韻も残る。ただの怪談に終わらないのが三津田作品の良さであると思う。
余談にはなるが、
本書よりもだいぶ後の出版年代までの「刀城言耶シリーズ」を読んでいるので、本書中で『爬跛村』や『蒼龍郷』の名前を目にして「コイツらまた(間接的に)悪さしているのか」という感想を抱いた。
「刀城言耶シリーズ」の外で関連する名称を見たのはこれが初めてのことなので三津田作品が根底で繋がっているような気味の悪さを感じるとともに、現実と創作の間が曖昧になるような感覚も感じた。