中島岳志のレビュー一覧
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ファシズムが台頭した20世紀のスペインを生きた哲学者オルテガの『大衆の反逆』を解説しながら、オルテガのフィロソフィーとリベラルの定義について考えた本。
オルテガは「私とは、私と私の環境である」と言い、自分に特別な要求をせず、みんなと同じであることに満足する「大衆」による近代個人主義に危機感を覚えていた。また、立憲主義を忘れた民主主義を傲慢と批判し、死者とともに民主主義を行なっていくことが文明の英知であると唱えた。「大衆」の対局にある「貴族」とは自分に厳しい規律を課し、困難に立ち向かう人と捉え、こうした考えを持つには他者との対話が必要であることから、自分とは異なる考えを持つ「リベラル」の重要性に行き着いた。
本を通じてオルテガの考え方に共感したうえ、さらにオルテガの思想を学びたいとも感じた。自分の「内」と「外」を認識して捉える考え方は、現代の能力至上主義の社会において非常に重要な考え方であり、自分自身に対する過信を適切にコントールするうえで大事な定義となりうる。 -
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政治の勉強のために読んできた数冊の中で断トツに人におすすめしやすい! なぜなら、薄くて、読みやすくて、面白くて、安いから(700円台)!!!
レイアウトもそれっぽいんだけど、読みやすさとかの種類は教科書に近いかも。
「はじめに」の副題が「分かり合えない他者と共存するために」で、「政治とは何ですか?」という問いに政治学者である自分は「簡単には分かり合えない多様な他者とともに、何とか社会を続けていく方法の模索」であると考えている、というところから始まったのも、結構好きでした。
全然分厚くないんだけど、右派左派、リベラルと保守、大きな政府と小さな政府、民主主義と立憲主義…、とか何となくのイメージに留まってる概念と、日本はそのあたり実際どうかが説明されてるのと、それからこういうのが理想なんじゃないのかっていう筆者の考えが書かれてて、構成にメリハリがあるしバランス感もよかったと思います。
内容的には、以下のあたりがかなり読んで知ることができてよかったです。
・リベラルと保守を対立軸として考えるのには無理があって、リベラルの対立概念はパターナル(父権的)と考えるのがわかりやすい
・憲法は(死者から)未来に託されたもので、過去の知見を無視して生きている人間だけで物事を決定しようとするのは生者の驕り -
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縄文の著書 中島岳志 による昭和深掘り。
これを読みながら近代に至るまで幕末から深掘りするしかないか…と思わされた。
縄文にも取り上げられていた太田竜や本書に登場する井上日召のような、左右問わずピュアリティが高い人間が私は好きなようで、少年期のエピソードを読んでいてついつい肩入れしてしまうのだけど、スピリチュアル界隈で以前から言われている 宇宙の法則 がここでも登場し、参政党以前に右翼とスピリチュアル界隈の結びつきがあって非常に興味深い。
後の縄文に繋がる文脈で書かれていて、相変わらず調査の深さ、範囲の広さ、精度がすごくて中島岳志の著書をもっと読んでみたくなる。
また、当然ながら法華経についても当事者たちの発言を引用し掘り下げる。余談ではあるが、山仁という日本のラッパーが 君が世 と言っている。 君が世の中そのものであり全ては自分次第だ と。自身が仏であり仏が自身である、というような一切衆生の教えが法華経にはあるが、ここの関連性がhip hopを追っている身としては非常に興味深いものだった。山仁は 神を信じる前に自分を信じろ 好きなことやれ 全て幻だからね とラップしている。
話は逸れたが、井上日召と彼の法華経の解釈・説明は経済的にも精神的にも困窮した者の心を掴むものであったのだろうと強く思う。宮沢賢治も深く法華経に関わっていた。
私自身も原子力関連に従事し3.11を経た時期には精神的にかなり困窮しており、スピリチュアルな言説に心が掴まれた経験がある為、このくだりは今の私には響かないことはわかりつつも人心掌握力の強さを肌で感じて鳥肌が立った。インターネットもなく、様々な意見や言説に触れられなかった当時なら尚更でしょう。
血盟団と呼ばれたいきさつや、メンバーの行動、心境の変化を細かに触れつつ事件への経緯を綴る。
また、社会の深刻な不況や政財界の腐敗が現在と共通するところが多く、安倍首相暗殺と重なる部分がある。官と民の構造は改善されないまま現代に尾を引いている。
終盤の、詳細な日付や時間の記載が映画を観ているかのような心持ちにさせる良書でした。 -
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My life is my message.
(私の人生そのものが、私のメッセージです)
ガンディーが晩年、残した言葉です。
ガンディーのメッセージを、現代社会に生きる我々が、どのように受け止めればよいかを考察している本です。
ガンディーの思想は、あらゆる欲望を抑制し、自己をしっかり制御するというもの。様々な対立や紛争を非暴力によって解決してきました。断食により紛争が解決したという事実は驚くべきことです。しかし、誰がやっても成功するとはかぎらないことは明らか。ガンディーという人物でしか成し得なかったこと。我々にはそこまではできない。それでは、彼から学びとれること何か。
ガンディーの素晴らしさは、歩く(塩の行進)、断食、糸車を回す、という具体的な行動をし続けたことにあります。民衆に分かりやすい行動を示したということもさすがです。ここから導き出せることは、メッセージを発するだけでなく、愚直に行動し続けることの大切さです。この点において、我々も学ぶべきであり実践できそうです。
現代の我々の生活を見つめ直すということにおいて、ガンディーの思想は意味があります。しかし、極端であることは否めず、家族に対しては強制的、支配的であったそうです。長男はグレてしまったとありました。
人間は、全て善であることはあり得ないし、若い頃色々あっても仕方ない面はあります。しかしガンディーは晩年になってから、若い女性を裸にして横に寝かせ、性欲が起こらないかの実験をしてスキャンダルになったとのこと。初めて知った事実にびっくりして、ここまで極端なってしまうことに恐ろしさを覚えました。大ショックでした。
ガンディーの偉業は、大きく讃えられるべきですが、身近な人への感謝の気持ちや人間性については、疑問が残ります。
ガンディーの思想から得るべきものはあり、残された言葉は深く考えさせられるものもあるので、その部分は自分の今後の生き方に取り入れていきたいです。 -
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東京裁判で唯一被告人全員無罪を主張したパール判事の判決文について2人の思想家が吟味し、対話する。本書は単なる法律論にとどまらず、パール判事の法律観や思想を読み解きつつ、どのように教訓とすべきかというメッセージを提示している。
まず、そもそもの法律論的な観点から言えば、そもそも東京裁判は事象が行われた後に制定した法で裁く、という意味で無効であるというものである。(読む前の私も含め、知らない人も多いのではないかと思うが)A級、B級、C級戦犯という言葉は、何に対しての罪であるか、という意味であり、序列があるわけではない。それぞれ「a.平和に対する罪、b.(通例の)戦争犯罪、c.人道に対する罪」となっている。一方、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」は、ドイツ降伏後に新たに設けられた罪であることが法律論として問題となる。その行為をなした時、犯罪とされていなかった行為を事後に作られた法律(事後法)で処罰するのは本来、禁じられている。しかしながら、東京裁判のための「極東国際軍事裁判所条例」でも、そのまま使われたものであり、東京裁判が「裁判」の名を冠しながらも、極めて政治色の強いものであるという点はまず第一の論点となる。
通常の東京裁判に関する本であれば、ここで終わるのであろうが、本書では、まさにこの政治性を見抜き、その上で「被告人無罪」(≠日本無罪)と主張し、自身の絶対平和主義やコスモポリタニズムを表明したパール判決文の政治性や思想性を深堀するものである。
まず、パールのバックグラウンドとして、インドでの法学者としての経験がある。その際の、パールのテーマは長子相続法の研究であるが、その際のパールの狙いは「法は真理の表れであり、と言う認識」と「法は社会的存在であるという慣習法的認識」によってインドの法体系を確立させようというものであった。パール判事は、そうした背景から判決文においても、法の背景にあるような社会的な側面や価値観の部分を存分に記載している。
その後、本書はパール判決文の話から、平和主義やヒューマニズムに対しての吟味へ移り、最終的には保守思想家としてパール判決をどうみなすか、という論点へ移行するのであるが、そこまでで中島氏の発言が印象に残ったので、こちらに残しておく。
P86(世界人権宣言の文言が抽象的で、綺麗事にしかなっていない点について)
しかし、にもかかわらず私はきれいごとを認めなければならないと思っています。お互い人間じゃないか、お互い好き勝手に殺し合うようなことはしない、お互いの尊厳を傷つけあわない、そういう相互了解としてのヒューマニズムは認めます。しかし、話が具体レベルまで煮詰まると、ましてや戦争が起こるか起こらないかと言うところまで状況が過熱化してくると、ヒューマニズムの直接的な王用ではどうしようもなくなってしまうのです。
P103
四つの徳の間の矛盾、対立、平衡、(平衡のための歴史の)叡智を問うと言う保守思想のエッセンスを前提にして考えると、このガンディーの言う、怯懦よりも暴力を取るしかないと言う主張は、彼が法哲学上の問題とか価値観の問題について、層綿密に考えたわけでもないとみなすしかないのです。さらに、それ以上に私の言いたいのは、こういうことです。やっぱりガンディーにせよ、パールにせよ、ご都合主義で引用しては何の意味もない。そうではなく、臆病よりも力を取るべし、と彼が言ったことを自分ならばどう受け止めるか、いかに考えるか、とくに所与の状況の中でどのように実践するか、そうした思考のための重大なきっかけを与えてくれていることこそが彼らの存在の重要なところなんです。だから、ガンディーもパールも面白いのであって、それについて考えることを放棄した日本の保守派とはいったい何なのか。
P126
規範や観念は実現可能性だけに意味があるのではありません。人間はどうやっても不完全な存在ですから、世界は永遠に不完全なままです。しかし、不完全であることを認識するためにも、メタレベルにおいては普遍というものを想起せざるを得ないわけです。(中略)戦中に「大東亜共栄圏の実現」を叫び、戦後に「非武装」や「絶対平和」の実現を叫んだ多くの日本人にも言えることです。メタレベルの議論を、安易にベタな現実に直結してはならない。人間は常に不完全で、限界を持った存在で、そのことをメタレベルの嗜好によって反省的にとらえることが重要なのではないでしょうか。 -
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中島岳志氏と縄文、、、初見ではなぜ中島先生の新著で縄文が取り上げられているかの意図がよくわからなかった。
しかしながら、読み進めていくにつれ、本書が縄文というキーワードを追い求めた人々の思想や幻想を追う論考であり、ナチュラルとナショナル、という戦前の農本主義と近い現象であることがよくわかった。戦後、岡本太郎に始まり、柳宗悦の民藝論、島尾敏雄の「ヤポネシア」論、吉本隆明、スピリチュアリズム、太田竜のような左翼思想家、さらには梅原猛等、多くの人が縄文を論じ、理想視した。終戦直後に国家神道等の戦前の世界観が崩壊し、日本人が自分自身のアイデンティティを喪失したことで、戦前の思想が受け継ぐ弥生時代からの連綿とした価値観以外のところ、つまり縄文にアイデンティティの一端を求める悲痛な動きが活発化した。縄文は歴史学的に解明されている内容が多くはない。こちらは本文からの引用だが、「人々が縄文に何を仮託してきたのか」と追うことは、その時代の理想や欲望を明らかにすることに繋がる。戦後史の中に「縄文」という補助線を引くことによって、新たな歴史が浮かび上がってくる。そう考えて、中島氏は戦後の縄文言説を追ってきたのである。
岡本太郎は、日本の弥生的な、整然かつ貴族的な価値観へのアンチテーゼとして、縄文の猛々しい魅力に真の日本の姿を見入った。島尾氏の「ヤポネシア論」は、奄美大島等の温暖な気候から、日本は本来的にはミクロネシア等の諸島部にルーツがあるのではないかという仮説を提示した。太田竜は、本論考の中心的な人物でもあるが、彼は左派として<被征服民としての日本原住民><征服者としての天皇・天孫族>の闘争という構造で日本の歴史を捉え直し、連合赤軍として日帝打倒の旗印として縄文やアイヌ族への再評価を試みた。また、その他の思想家も西洋近代文明や物質主義へのアンチテーゼとして、縄文論を展開した。こうした縄文への信奉が排外主義やナショナリズムと結びつくのは想像に難しくない。こうした物質主義への超克の意思は、エコロジー論や自然派にも影響を与えている。まさに、冒頭に引用した中島氏の主張のように、縄文幻想の中には常に、戦後日本人の同時代批判の自画像が埋め込まれている。その系譜をたどると、戦後日本人の新たな精神史が浮かび上がるのである。
大人気漫画のワンピースも、大きな筋書きとしては、800年前の歴史が空白とされ、<被征服民><征服者>という構図が見え隠れする。現代批判は常に、歴史の中の空白に論拠を求められるという説話形態は人々になじみやすい。近年の陰謀論等に代表されるような、「誰かが裏で糸を引いている、支配している」という信仰と、縄文のような未解明でありながらも素朴で無垢なイメージは常々利用されてきた。無論、何を信じようと人々の自由ではあるが、そうした言説が安易な排外主義に結びついたり、社会制度そのものへの無視できないレベルの批判となる場合には、しっかりと警鐘を鳴らさねばならない。 -
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ページ数としては短いながらも要点がまとめられており、
気づけばいつの間にか読み終わっていた。
楽しく学べるので1000ページくらい読みたかった。
右翼(原理主義):原点になっている過去の時代に回帰すれば、理想社会の実現が可能と考えている
左翼(進歩主義):未来に向けて社会が進歩していった先に理想社会があると考えている
時代のベクトルが逆に向いているという発想はなかったので新鮮だった。
左派 vs 右派 という構図の無効化
左派は、近代の進歩主義に対する懐疑的な事件(原発事故)があり、自然との調和を講じる。
右派は、原理主義の考えに基づき過去の叡智を求めるが、人間の理性は必ずしも正しくないと考え、少しづつ知識にアップデートを加える漸進的な変化を講じるようになった。
左派と右派という対立軸で語られなくなった今、筆者が着目しているのが「お金(リスク)」と「価値」の2軸4象限である。
この4象限を今の政治家や政党の立ち位置にあてはめて考える。
リスクには「リスクの個人化」と「リスクの社会化」があり、リスクの個人化は税金が安い代わりに、社会保障などのサービスが乏しく、個人の自己責任によって社会を維持するものである。
リスクの社会化は、税金が高い代わりに、社会保障などの行政サービスが充実しており、社会で助け合おうという考え方である。
価値には「リベラル」と「パターナル」があり、
リベラルは個人の考えを尊重し、価値観に対する権力的な介入は少ない。
パターナルは個人の価値観を無視し、権力的な介入を強めて行うものである。
「民主」と「立憲」の対立
民主は多数決によって判断するもの
立憲は多数決で賛成が出ても、憲法に照らし合わせてやってはいけないことはやってはいけないと制約によって判断するもの。
立憲は今までの死者が積み上げてきた過去の経験値によって生み出された憲法を礎にしている
一方民主は今を生きている者同士での対話である
現代では死者は軽んじられ今を生きている者だけで
政策を論じようとする傾向にある。
死者の思いを背負ったうえでよりよい社会を作っていく「立憲」民主主義を今こそ思い出さなければいけない。 -
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6人の論客が日本の問題点を明らかにする。
275ページの新書に6つの論文。
1人40-50ページと短い文章だが、
その中に鋭い視点を見た。
一番鋭いと思ったのは中島岳志氏。
「保守とリベラル」という対立軸に、新しい視点をもたらした。
「リベラルとパターナル」がそれ。
パターナルとは、家父長的、権威主義的。
そこにリスクの社会化、リスクの個人化という軸を合わせ、
4象限で自民党の政策の変遷を分析する。
田中大平のころの自民党はリスクの社会化+リベラルだった、
それが小泉で個人化、リベラルとなり、
安倍で個人化、パターナルとなったと。
自民は時代とともに鵺のように変遷していると。
ちなみに「民主党」は社会化・リベラルだったと。
さらに中島氏は社会化・リベラルが好ましいとしている。
私もかなあ。。
以前は自己責任!と思っていたが、生まれ育った環境など運が大きすぎる現在、
社会化が大事だと思っている。パターナルなどもってのほか。
お次はお馴染み神保哲生さん。
政府に食いつくべきマスコミが、官僚になりそこなった偏差値エリートの
おりこうさんばかりになると、素直に言うことを聴いてしまう。まずい、と。
記者クラブ、クロスオーナーシップは論外と。
独立系メディア、ビデオニュースドットコムを自ら立ち上げた神保氏だから言えることば。
そして流石波頭さん。
法人税を下げ、消費税を上げ、消費を冷やしてしまった日本。
企業は法人税が下がって生まれた利益を配当で海外にばらまいてしまった。
結果需要は伸びず、負のスパイラルに陥ってしまったと。
ここからは私の意見。
百歩譲って安定財源の消費税を確保させるとして、
何で所得税を下げないのか。数式を変えるだけで、所得税減税は可能。
消費税をとっているのだからそれでよいではないか。
税収上振れが何年も続いているという無策。
財務省はそれで喜んでいるのかもしれないが、国民はどんどん疲弊する。
減税を歌えば「財源は?」と問うくせに、
政治家が五輪だ万博だといえば、どこからともなく出てくる予算。
それも当初予算より増えてもスルー。
バカすぎる。
AI本格稼働で労働力が賄えるようになれば、
ベーシックインカムを国民に与えることが現実的になる、
というものも2人からあった。
それを真剣に考えられる時代になってきたが、、
基礎控除の引き上げや選択的夫婦別姓すら決められない機能不全の国会に
それを求めるのは無理な気がする、、、
ピンチだよなア日本
第1章 歴史に学ぶ日本の再興(磯田道史)
第2章 生成AI:38億年目の創発(西川伸一)
第3章 わが国の今とこれからの方向性~経済からのスコープ~(波頭亮)
第4章 現代日本の政治思想(中島岳志)
第5章 日本のメディアの構造問題(神保哲生)
第6章 夢見るAI(島田雅彦) -
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ガンディー、誰もが知るインド独立のリーダーであるが、彼は政治家、宗教家、活動家等既存の枠組みでは表現できない独特な魅力を持つ。そんなガンディーについて、政治学者である中島岳志氏が迫る。
ガンディーの代名詞と言えば、「塩の行進」、「断食」、「チャルカ―(糸車)を回す」ことである。中島氏は、ガンディーの凄さを「喚起する力」に見出す。こうしたガンディーの行動は、非常にシンプルでわかりやすい「行」であるが、なぜ彼がこのような活動をしているのかと言えば、そこに宗教対立を超えたメタ的な信仰心を揺さぶるインド人の力を喚起するためであった。
ガンディー以前では、インド独立はヒンドゥー教とイスラム教の宗教対立やカースト制度等の歴史的な階層性も存在していた。特に植民地経営に長けているイギリスはそうした対立を煽る形で分割統治を進めてきたことも事実である。さらに、当時の植民地諸国は、近代世界システムの中の「周辺」国として、モノカルチャー経済化が進められていた。独自に資本を稼いでいくのではなく、英国への輸出を基調とし、経済を成り立たせると同時に、塩等の生活必需品の専売権を握り、経済的な面でも支配の網を巡らせていた。
そうした背景の中での、「塩の行進」なのである。「塩の行進」は、インド人がインド人のために塩を作る(=経済の自給性を取り戻す)ということをモットーとした行進(言ってしまえば歩くだけの活動)である。この活動の核心は、目的こそ明示すれど誰にできる「行」であり、宗教的な違いがなく、というよりむしろ宗教的な違いを超えて、誰もが参加することができる活動を行っていることである。このようにシンプルかつ簡単な「行」に落とし込むことで、宗教的対立を超え、そして文字の読めない市井の人々へも喚起するということができた点が、まさにガンディーの凄さである。
ガンディーの行動の凄い点は、重要なことを誰もがわかるように「単純化」するのではなく、自分自身が1つの象徴的な所作を行うことで、その重要なことを伝えつきっかけをつくり、見た人に深い内省を促すことにある。最近の政治談議では、重要なことを「単純化」することでクリアーカットな物言いで多くの人々を焚きつけるポピュリズム的な手法が横行しているが、ガンディーはそうした「単純化」とは全く異なる、傍から見るとそれとは全く気付かないような象徴操作でそれを成し遂げることであり、こうした手法や行動は今の政治家は見習うべきであろう。 -
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宗教とは何かを考えるうえで参考になる名著を、4人の有識者がそれぞれ1冊ずつ紹介している本です。
どの章も非常にわかりやすく、宗教(的な考え方)の大事さも恐ろしさも感じさせてくれる作りになっています。
別の本で半分ファンみたいになっている釈徹宗氏の著作だったため購入。認知的不協和や自我防衛機制、成熟した宗教的人格について述べている同氏の章は、読んでいるだけで何だか安心感を覚える内容です。
―宗教はどうしても信じている人と信じていない人との境界を生み出します。その境界ができないようであれば、生きる力にもならないことでしょう。しかし、その境界を超える回路がどれだけ多様にあるか、そこが大切です。(釈徹宗)
―そこから見えてくるのは、「信じる/信じない」という境界がはっきりあるわけではないということです。それはどこまでもグラデーションになっていて、人はその狭間で揺れ動き続けるのでしょう。信仰は揺れ動く。しかし、それでも自分はそこから離れられないと思ったときに、信仰は「本物」になっていく。(最相葉月)
―宗教は倫理や道徳ではありません。かくかくしかじかだからこうなるのだと合理的に納得させられるとしたら、それは科学であって宗教ではないのです。言い方を変えれば、科学ではないから宗教と呼ばれ得るのです。信じるか信じないかです。(片山杜秀)
―「自分の意志で選んだわけではない」という思いが、彼にとっての神という存在の根本にあるのではないかと思うのです。大津にとって信仰とは、「私が信じる」といった主格的なものではなくて、「私に信仰がやってきてとどまっている」といった与格的なものだったのではないでしょうか。(中島岳志)
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保守という用語に対する誤解(復古主義、反動、封建的、家父長的)がこれほどまで定着してしまっているのはなぜだろうか、と考えてみる。
それは、実はそのまま保守の理念の光で明るみになる。どういうことか。理性への過信である。いや、過信どころか、理性以外に人間のよってたつ判断基準などないという妄信である。
この妄信は、宇宙は一つの真実のもと、決まった法則で規定されているはずである、という思い込み(この妄信を突いた傑作SFが『三体』)を端に、人間が作る社会も一つの真実(正解)があるという演繹?がもたらしたものではないか。
自分の一日の生活ひとつでさえままならないのに、人間世界を一つの秩序(理念)でまとめることができるはずという信条は、中二病そのものである。
積み上げられてきたものに対する畏敬と疑念のバランス、真っ暗な闇の中で険しい崖沿いの道を歩くような慎重さ、そうした態度をとり続けるしかないのだという諦念。そうした態度には必ずしも知識は必要でないはずだ。 -
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オルテガ・イ・ガセットの名著である『大衆の反逆』の解説書として、中島岳志氏が簡易的に執筆された本書は、極めて平易かつ端的に原著のエッセンスを伝えている。私自身、中島岳志氏のファンではあるが、本書の解説の中で、彼の思想もハイライト的に織り込まれ、非常に読後の満足感が高い。
『大衆の反逆』とはきわめてセンセーショナルなメッセージではあるが、同時に、オルテガからの懇請でもある。彼は、大衆というものを特定の人々の性質として定義した上で、それは超克できるもの、超克すべきものとして提示し、願っている。
大衆とは、個性を失って群衆化してしまった人々を指す。さらに言えば、近代社会の中で、自分自身のよりどころとなるコミュニティ(トポス)を失い、ある種の身体の規律化により、大量生産社会の労働力の歯車として生きている人々を指す。そして、ここが最も重要であるが、大衆は対話をしない。自分自身のよりどころが希薄ゆえに、多数者であることに正しさを求め、自分と異なる意見を持つ他者に対しての敬意を持たず、対話の回路を持たない。まさに、この対話への拒絶に大衆としての特性が現れる。そして、それゆえに、大衆化は単なる庶民の問題ではなく、学者自身の問題としても提起される。丸山眞男も『日本の思想』で述べているが、学問がタコツボ化し、学際間での対話性を失ったアカデミズムの態様にも、まさに大衆性が存在する。
大衆は、ヨコへの対話が閉ざされているが、同時にタテへの対話も閉ざされている。タテへの対話とは、歴史や伝統に対しての敬意である。大衆はトポスを持たないために、時間的・空間的にも視野狭窄であり、自己自身の存在を、多数派との同調のみにしか求められない悲しき人々なのである。
オルテガ、そして中島氏は、こうした大衆が多数を占める大衆社会に対して、改めて対話の重要性を投げかける。
異なる考えの人々が互いに敬意を持ち、相互の理解に向かっていくこと、「敵と共に生きること」「反対者と共に統治すること」、これらの重要性を訴える。そうした対話をベースとした熟議型の民主主義を行うためのシステムとして、代議制の民主主義の存在を提示するが、オルテガにとって、国家とはあくまでシステムであって、動的なものであると考えられる。重要なことは、他者と合意形成をしながら自分たちで秩序を作っていく意志であり、国家はそうした目的があって初めて存在意義と持つと考えられる。静的な国家像はただの暴力装置となり、危険性を伴う。常に、対話による落としどころの探り合いと通じた、永遠の微調整により、社会を動かしていくことの重要性をオルテガは語る。そして、こうした対話の規矩となるのは死者であり、死者への参政権を与えるものが立憲民主主義である。憲法は過去の人々の成功と失敗も含めた叡智の結晶であり、憲法という死者の声を合議に取り入れることにより、現世代のみによる暴挙を抑制する。エドモンドバークが唱えた保守思想と深く共鳴する部分として、人間は必ず誤るという前提のもと、いかに人間の誤りにより齎される被害を最小化するかということに関心が払われる。そうした試みは、人間がすべてを設計できるという軽薄な設計主義とは真っ向から対立し、人間社会におけるセーフティネットとして機能する。
ここまで読めば、お分かりであろうが、もちろんオルテガは変化そのものを否定しているわけではない。むしろ、変わらないためには変わり続けなければならないとすら看破している。変化を生み出すために、その変化の度合いに節度を持つというところが、まさに本書の勘所であろう。
本書では、中島氏はオルテガの東洋的な人間観にも注目する。オルテガは「私とは”私と私の環境”である」という言葉を残している。これは、私という存在が、それだけに立脚しているものではなく、私の環境という周囲の要素にも多分に影響されることを示している。こうした考え方は。「私という意思を持った主体が自己決定している」という近代的人間観を否定するものである。つまり、今の私という存在には、環境による恩恵(無論、恩恵だけではないであろうが)が多分に含まれており、仮に自分が成功していると考えるのであれば、そこには多くの偶然(ラッキー)が存在しているのであるということである。こうした考え方は、成功している人々への自重を促すとともに、軽薄な自己責任論による不幸の原因の個人化という言説も抑制することを求める。これは私が好きな内田樹氏の言葉でもあるが、不幸の人々に対して、どれだけ自分自身もそうなりえたという変容態の意識を持てるかによって、他者とのかかわり方がが異なる。(大きく脱線しそうであるが、私が大好きな映画である「バタフライ・エフェクト」も、”私”がタイムトラベルを通じて多くの”私の環境”を飛び回り、”私の環境”要因による毎回のタイムトラベルで全く異なる多くの結末を迎えることに飽きて、一定の諦念をする物語であると捉えると面白い)
まずは、不幸な人々への惻隠の情であり、アダムスミスの言うemphathyの感覚が社会を支えるあらゆるセーフティネット像の出発点にあらねばならない。昨今の世代間の不公平を嘆く声も、若者は自分自身の未来を批判していることは、少なくとも自覚した方が良い。私自身も、人間が客体をコントロールできるという前提に立つデカルト以来の近代的な人間観に一定の区切りをつけ、オルテガよろしく東洋的な人間観を持つことで、すべてのことはコントロールできない前提に立ったうえで、せめて自分自身がもたらす邪悪さだけでもコントロールするという感覚を持ち合わせることの重要性を感じた。 -
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(2024/10/10 2h)
最相葉月『証し』を読み終え、著者について調べたら本書が出てきました。
2024年1月のNHK放送分をまとめたもののようです。
釈徹宗「人間と宗教のメカニズム」(『予言が外れるとき』)★★★☆☆
最相葉月「信仰に生きるということ」(『ニコライの日記』)★★★★★
片山杜秀「絶対的な「信じる心」と戦争の時代」(『大義』)★★★★☆
中島岳志「神はどこにいるのか」(『深い河』)★★★☆☆
宗教にまつわる書について、さまざまな視野から選ばれ、解説されています。
新興宗教と信者と信仰のメカニズムについて、正教の伝導について、天皇信奉(絶対観念)について、与格としての信仰について。
特に『大義』のほうは意外性もあり、面白い選書と思います。
4冊の解説を100余ページで読めるお得感がありました。