あらすじ
パールは東京裁判を「政治」と見抜き、「A級戦犯全員無罪」を主張した。欧米の帝国主義・人種差別・原爆投下も徹底批判、この文書は日本人に何を問いかけるのか? 右も左も注目する論点を対論で検証、 自称保守派の訪哲学の乱れを正す。
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Posted by ブクログ
東京裁判で唯一被告人全員無罪を主張したパール判事の判決文について2人の思想家が吟味し、対話する。本書は単なる法律論にとどまらず、パール判事の法律観や思想を読み解きつつ、どのように教訓とすべきかというメッセージを提示している。
まず、そもそもの法律論的な観点から言えば、そもそも東京裁判は事象が行われた後に制定した法で裁く、という意味で無効であるというものである。(読む前の私も含め、知らない人も多いのではないかと思うが)A級、B級、C級戦犯という言葉は、何に対しての罪であるか、という意味であり、序列があるわけではない。それぞれ「a.平和に対する罪、b.(通例の)戦争犯罪、c.人道に対する罪」となっている。一方、「平和に対する罪」、「人道に対する罪」は、ドイツ降伏後に新たに設けられた罪であることが法律論として問題となる。その行為をなした時、犯罪とされていなかった行為を事後に作られた法律(事後法)で処罰するのは本来、禁じられている。しかしながら、東京裁判のための「極東国際軍事裁判所条例」でも、そのまま使われたものであり、東京裁判が「裁判」の名を冠しながらも、極めて政治色の強いものであるという点はまず第一の論点となる。
通常の東京裁判に関する本であれば、ここで終わるのであろうが、本書では、まさにこの政治性を見抜き、その上で「被告人無罪」(≠日本無罪)と主張し、自身の絶対平和主義やコスモポリタニズムを表明したパール判決文の政治性や思想性を深堀するものである。
まず、パールのバックグラウンドとして、インドでの法学者としての経験がある。その際の、パールのテーマは長子相続法の研究であるが、その際のパールの狙いは「法は真理の表れであり、と言う認識」と「法は社会的存在であるという慣習法的認識」によってインドの法体系を確立させようというものであった。パール判事は、そうした背景から判決文においても、法の背景にあるような社会的な側面や価値観の部分を存分に記載している。
その後、本書はパール判決文の話から、平和主義やヒューマニズムに対しての吟味へ移り、最終的には保守思想家としてパール判決をどうみなすか、という論点へ移行するのであるが、そこまでで中島氏の発言が印象に残ったので、こちらに残しておく。
P86(世界人権宣言の文言が抽象的で、綺麗事にしかなっていない点について)
しかし、にもかかわらず私はきれいごとを認めなければならないと思っています。お互い人間じゃないか、お互い好き勝手に殺し合うようなことはしない、お互いの尊厳を傷つけあわない、そういう相互了解としてのヒューマニズムは認めます。しかし、話が具体レベルまで煮詰まると、ましてや戦争が起こるか起こらないかと言うところまで状況が過熱化してくると、ヒューマニズムの直接的な王用ではどうしようもなくなってしまうのです。
P103
四つの徳の間の矛盾、対立、平衡、(平衡のための歴史の)叡智を問うと言う保守思想のエッセンスを前提にして考えると、このガンディーの言う、怯懦よりも暴力を取るしかないと言う主張は、彼が法哲学上の問題とか価値観の問題について、層綿密に考えたわけでもないとみなすしかないのです。さらに、それ以上に私の言いたいのは、こういうことです。やっぱりガンディーにせよ、パールにせよ、ご都合主義で引用しては何の意味もない。そうではなく、臆病よりも力を取るべし、と彼が言ったことを自分ならばどう受け止めるか、いかに考えるか、とくに所与の状況の中でどのように実践するか、そうした思考のための重大なきっかけを与えてくれていることこそが彼らの存在の重要なところなんです。だから、ガンディーもパールも面白いのであって、それについて考えることを放棄した日本の保守派とはいったい何なのか。
P126
規範や観念は実現可能性だけに意味があるのではありません。人間はどうやっても不完全な存在ですから、世界は永遠に不完全なままです。しかし、不完全であることを認識するためにも、メタレベルにおいては普遍というものを想起せざるを得ないわけです。(中略)戦中に「大東亜共栄圏の実現」を叫び、戦後に「非武装」や「絶対平和」の実現を叫んだ多くの日本人にも言えることです。メタレベルの議論を、安易にベタな現実に直結してはならない。人間は常に不完全で、限界を持った存在で、そのことをメタレベルの嗜好によって反省的にとらえることが重要なのではないでしょうか。
Posted by ブクログ
太平洋戦争における東京裁判で連合国側判事にありながら日本の無罪を主著したインド代表のラダ・ビノード・パール判事。靖国神社に併設されている遊就館にも同博士の顕彰碑が建てられている。極東軍事裁判唯一の国際法専門家で、絶対悪とされた日本の戦争犯罪を無罪と言い切った勇気ある裁判官として、保守派から大きく尊敬される存在だ。書籍も多く出ており、私も幾つか読んだが、その都度パールの言葉に感動した事を覚えている。だがふと、Youtubeの動画なんかを見ていて保守系の大東亜戦争肯定論者にうまく利用されているのではないかと不安に感じたことがある。実際に動画の内容は、日本の戦争は正しかったとしており、アジアの解放のために日本が欧米の植民地政策で虐げられていた国々を救ったという礼賛動画が殆どである。そうした動画は常々、ナショナリズムに染まり戦争を知らない若い世代にとっては、日本があたかも正しい行為をしたと捉えられがちな内容で作られている。当然の事ながら如何なる理由があろうとも、一般市民を巻き込んだ戦争は悪である。
本書はそうした保守系から礼賛されるパール判事の判決内容について改めて考察し、同氏が伝えたことの真実及びそう考えるに至った背景を考える内容である。筆者の中島岳志氏と評論家の西部邁氏との対談形式という形で繰り広げられる議論は、多くの対談本がダラダラとただの傍観者になりかねないのに対して、最後まで白熱していて飽きがこない。
知っての通りパール判事の判決内容は、東京裁判で裁かれた三つの罪である「平和に対する罪」「人道に対する罪」「通例の戦争犯罪に対する罪」のうち前者二つについては国際法上成立要件が当時存在しない事後法的なものであり、法実証主義・罪刑法定主義の観点から「裁く事自体が不当」としたものである。その判決書は7部構成で、文庫本1400頁にも及ぶ超大作となっているが、その一部の内容や同判事の言葉の一部をかい摘んで、保守派は日本の戦争行為正当化に利用する。
よってパール判事が伝えたかった判決が正しく世の中に伝わっていないことへの危機感、ともすれば戦争肯定に傾きかけない危険な解釈を否定する事が必要である。言わずもがなパール判事は戦争肯定派でもなく絶対的な平和主義者だ。戦後の日本の再軍備に関しても厳しく非難している。内容はこれ以上触れないが、パール判事の生まれや育ち、判事になるまでの背景をしっかり押さえた上で本当の意味で評価する必要がある。
そうした意味でこの対談は興味深く楽しめるものとなっており、これまで読んできたパール判決の書籍と比べ公平中立的な立場から再認識するにはもってこいの内容である。