川上弘美のレビュー一覧
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ひとの人生に触れると実感して思い出すことがある。それは思い出だったり、生き方だったり、生と死の匂いだったり。
濃密な家族と、広義な愛の物語でした。
軽々しく時を越えていろんな場面が描かれているのに、全く不自然でなく、そこに存在しなかったわたしも、主人公たちのあたかもそばにいたように思い描くことが出来る。
夏のじっとりとした空気。しかし、冬になればその暑さを忘れてしまう。でもどうしてもあの夏のあの夜に戻ってしまう。
すごく読まされた、という気持ちです。
ぐいぐいと同じ沼に引き摺り込まれた気持ちでした。
時計だらけの開かずの間が開かれる時、やっと覚悟ができた気がします。
周りのキャラクターもとても魅力的で、わずかしか出てこなかったキャラクターの人生も空想します。 -
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わたしには、強烈な本でした。京は、失踪した夫、礼をずっと追い求めています。いつまで引きずっているの、気持ちはわかるけどいい加減・・と言いたくなる。
歩いていると、ついてくるものがあった。これはついてくるものとのお話。京の心の葛藤、立ち直るまでの心模様。
きっと、真鶴は女との修羅場だった場所でしょう。
空想の中では、逆上して刺したり、首を絞めたりしている。この現実かわからない、とりとめもなく入り混じった表現が好きすぎて。
「ついていかなきゃならないの?声に出して聞いてみたが、音にならなかった。それで、女との会話が、実際の声ではなく、からだの内側でおこなわれているのだと知った。」京がこたえを言っている。
そんななか、実母と娘のやりとりは現実味があって、わかる部分が多かった(この場面では現実にもどる感じ)。
わたしの頭の中では、礼は、清原翔さんで、京は川上弘美さんが浮かんだ。 -
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とても良かった。パラレルワールドと言ってしまえばそうなんだけど、人生って本当のところこんな風なのかも知れないと、読み終わって本を閉じ、しみじみ思ってしまった。
川上弘美って、たぶんもう大御所なのだろうけど、よくこんなこと思いつくなあ。
主人公は表裏みたいな「留津」と「ルツ」。わたしは、さばさばした性格のルツの方により共感できた。誰もが様々な選択をして、何かを得たり何かをあきらめたりしながら、ままならない、と思いながら生きている。
でも物語の終盤近くなって、選ばなかった人生を生きてきた「流津」や「るつ」が少しだけ登場するが、不思議と彼女たちは一様に満たされた表情をしている。どんな選択をしても自分なりに誠実に生きていれば、それなりの充足が得られるということか。
タイトルの「森へ行きましょう」。森って何のことかと思っていた。森の中の道を右へ行くか左へ行くかさんざん迷うけど、自分が自分でいる限り結局は同じ森の中を進んでいる。見えてないだけで。正解も不正解もない、ただ信じて進み続ければよいのだと思った。 -
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不思議な世界に溺れました。
現実とは、少し軸のずれたところにいるような男女。どの作品も片方は生活者として社会参加もしている、しかし、どちらかは日常生活の中で時間や、住んでいる地面から少し浮かんだような奇妙な空間で暮らしている。
二人はこういうカゲロウのような淡い、見方によってははかない弱い生き物になっている、そんな日向か蔭か、流されて生きる人を書くのは、川上さんならでの世界だ。
短編集だが、テーマは、道行というか、世間からはみ出した二人連れの話で、行き着くところは、お定まりの別れだったり、話の最初から心中行だったりする。
別れは、まぁ文字通り、二人のうち世間並みに生きていける方が去っていく。
情死は遂げたが、目的どおりうまく死ねたり、片方が生き残ったりする。そして死んだ魂が、百年、五百年と漂っていたりする。
こういう風に登場人物の生活は何かとりとめがなさそうで、その根源は、単純に見えたり、哀しかったり恐ろしいものかもしれない。
川上さんの言葉の独特の優れた感覚、感性が雰囲気のある、短編集になっている。
「溺レる」という題名。次第に日常から離れて溺れていく男と女がアテもなくさまよい、部屋に帰ればはアイヨクに溺れる。
そういう行為が全編にわたって書かれているが、アイヨクに溺れたり、交歓だったり、交合したり、情を交わしたり、挑みかかられたりして極まったり、極まれなかったり極まったフリをしたりする。男が可哀想で施してやったりする。
ポルノに堕ちない文学作品はこういう書き方もあるのか。
作品の背景によって書き分けてられている情景も生々しくおもしろい。
さやさや
溺レる
亀が鳴く
可哀想
七面鳥か
百年
神虫
無明
男がこどものころ寝ていたら「七面鳥」が胸に乗ったという、夢の話か、それにしても足をたたんだ七面鳥の感覚が今でも甦る。
面白い話。
「さやさや」もいい。飲んで揺れる男の腰を見ながらついて歩く。気持が悪くなって道端で吐き、草むらに入って放尿する「さやさや」と音がした。
「溺レる」では、逃げている二人の会話がどこかずれているのに、二人で逃げている。
「リフジンなものからはね、逃げなければいけませんよ」といわれ
ひとつ逃げてみますか、というので逃げ始め、だんだんその意味も分からなくなってくる。
女は何もしないでゴロゴロしている。物事も全うできなくなった、以前は出来ていたのに、だから男との生活も全うできなかったのだ、「別れる」「出て行く」といって男が去った。
「百年」は心中で海に飛び込み死んでしまったが、男は助かり何もなかったように家族との生活に戻った。男は87歳で死に子も死に孫も死んだのがわかる。
「無明」
不思議な世界、事故で二人とも死んだが、今度は不死の体になった。男は50年前にタクシーの免許を取り運転手をしている。五百年経ったけれどまた五百年くらいすぐ過ぎるさ、と男が言う。無明の一面。
あらすじは余り意味がない。短い物語なのに面白くて、特に結びがいい。
川上さんの作品は読むたびに後に残る。全作読みたい思う作家が多くてなかなか追いつかない。まだ先があるというのも嬉しいけれど。 -
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一編が文庫3ぺージに収まる長さで、ほっと心が休まるエッセイ集。
あ~そうですそうですと、思い当たるようなちょっとした出来事や、出先で見聞きしたことなどが書いてある。
中でも川上さんが引用されている本は、読みたくなってしまう。
好きな食べ物は飽きるまで食べる、なんかそのこだわりが良く分かる。私も米粉パンを卒業して今は塩バターパンに凝っている。
どこを読んでも、川上さんの人柄がにじみ出ている。拘らない楽そうな生き方や、作家で主婦でお母さんの、ゆったりした毎日が微笑ましい。
身近なものに向ける視線もユーモア含みのほっとする文章が納まっている。
" 織田作之助の「楢雄は心の淋しい時に蝿を獲った」にふれ、そうやって楢雄は自分の不器用な生をめいっぱい喜んでいたんじゃないだろうか、その人の奥底も知らずに、と思う。
少し淋しかったので風呂場に潜んでいた蚊を潰した。”
言葉で書いてある「あやとり」をやってみる。
そして再び小説に、もどる。安らかさとは正反対のところにある営為に。正反対にあるからこそ、いっそのこと安らかなのかもしれない、営為に。
博物館に行ったり、古本屋をめぐったり、昼顔を見たり、漫画の欠けた巻が近所ではどこにもないので、電車に乗って探しにいく。
あてもなくのんびりと電車に乗って隣りの町に行くことを信条としている私の人生が、たった一冊のマンガによってすっかり血走ったものになってしまった。
”「田紳有楽」という本を借りた。仰天したままその日のうちに本を読み終えた。「すごいね」とマリ子さんに言うと、マリ子さんはエヘへと笑った。以来私は「田紳有楽」という本を愛してやまないのだが、いまだにその全貌をうまく把握することができない。なんだかわからないけれど、小説ってものは、やはり凄いな、と私は思ったのだ。”
数えてみれば全部で59編あった。218ページにそんなに入っているのに、楽しく暖かい。
最後に詩のように日々の生活から切り取った言葉が並んでいる。
”(略)今まで言ったさよならの中でいちばんしみじみとしたさよならはどのさよならだったかを決める(決まったら心の中でゆっくりさよならをとなえる)
連載エッセイを書いていて、最後の回になると、私はさみしくてたまらなくなってしまいます、表題作も連載最後の回に書いた文章です。” -
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2011年3月11日に東日本大震災が起こり、川上弘美は3月中にこの小説を書き、自ら出版社に持ち込んだ。掲載されたのは「群像」2011年6月号だから、5月初旬発売で原稿の締切はおよそ4月20日あたり。刊行された小説として福島の原発事故をとりあげた最も早いもののひとつだった。本書にはこの時に発表された「神様 2011」の前に「神様」というタイトルの短編がおさめられている。並置されていると言うのが正しい。ぼくは2012年になったくらいか、当時勤めていた会社の同僚女性に本書を、短いし読みやすいだろうなと考えて、貸した。神戸の出身で阪神淡路大震災を経験していて、東日本大震災のすぐあとに東京へ引っ越してきたひとだった。
「神様」は川上のデビュー作だ。『神様』(中公文庫)のあとがきから引用する。
〜” 表題作『神様』は、生まれて初めて活字になった小説である。
「パスカル短篇文学新人賞」という、パソコン通信上で応募・選考を行う文学賞を受賞し、「GQ」という雑誌に掲載された。
子供が小さくて日々あたふたしていた頃、ふと「書きたい、何か書きたい」と思い、二時間ほどで一気に書き上げた話だった。
書いている最中も、子供らはみちみちと取りついてきて往生したし、言葉だって文章だってなかなかうまく出てこなかった。でも、書きながら「書くことって楽しいことであるよなあ」としみじみ思ったものだ。「めんどくさいけど、楽しいものだよなあ、ほんとにまあ」と思ったのだ。
あのときの「ほんとにまあ」という感じを甦らせたくて、以来ずっと小説を書いているように思う。
もしあのとき『神様』を書かなければ、今ごろは違う場所で違う生活をしいていたかもしれない。不思議なことである。
やはりこれもなにかの「縁(えにし)」なのだろう。と、『神様』に登場する「くま」を真似て、わたしもつぶやいてみようか。
(後略)”
「神様」の書き出しは、
くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。
「神様 2011」の書き出しもまったく同じだ。川上はデビュー作を改変して発表した。お茶の水女子大学理学部生物学科を出てから田園調布雙葉高校の理科の先生もしていたひとは、東日本大震災の直後から「原子力」に関する勉強をはじめる。本書のあとがきから。
〜” 1993年に、わたしはこの本におさめられた最初の短編「神様」を書きました。
熊の神様、というものの出てくる話です。
日本には古来たくさんの神様がいました。山の神様、海や川の神様、風や雨の神様などの、大きな自然をつかさどる神様たち。田んぼの神様、住む土地の神様、かまどや厠や井戸の神様などの、人の暮らしのまわりにいる神様たち。祟りをなす神様もいますし、動物の神様もいます。鬼もいれば、ナマハゲもダイダラボッチもキジムナーもいる。
万物に神が宿るという信仰を、必ずしもわたしは心の底から信じているわけではないのですが、節電のため暖房を消して過した日々の明け方、窓越しにさす太陽の光があんまり暖かくて、思わず「ああ、これはほんとうに、おてんとうさまだ」と、感じ入ったりするほどには、日本古来の感覚はもっているわけです。
震災以来のさまざまな事々を見聞きするにつけ思ったのは、「わたしは何も知らず、また、知ろうともしないで来てしまったのだな」ということでした。(中略)
2011年の3月末に、わたしはあらためて、「神様 2011」を書きました。原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段に構えた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性を持つものだ、という大きな驚きの気持ちをこめて書きました。静かな怒りが、あの原発事故以来、去りません。むろんこの怒りは、最終的には自分自身に向かってくる怒りです。今の日本をつくってきたのは、ほかならぬ自分でもあるのですから。”
本書を貸した当時の会社の同僚だった女性は、すこしして、もう一度この本を貸して欲しいと言った。小ぶりで可愛らしい本なのだ。川上はデビュー作を書き換えて、もう一度原点から歩こうと考えたんじゃないかとぼくは思う。原子力開発にまつわる諸問題、あらゆる面からまだいっこも解決していないことを覚えていますか? -
Posted by ブクログ
「好きな本があるよ、いい本があるよ、みんなもよかったら読んでね!」という、あとがきにあった川上弘美さんの声がたくさん聞こえてきた、面白い書評集でした。
好きな人がおすすめとして語ってくださるのを聞くのは楽しいです。小川洋子さんしかり、この川上弘美さんしかり。読み友さんたちも勿論。
どれもこれも面白そう…と思いましたが、今すぐにでも、と思ったのは、「むずかしい愛」、ジム・クレイス「死んでいる」、ジャネット・ウィンターソン「オレンジだけが果物じゃない」、倉橋由美子「老人のための残酷童話」、町田康「告白」、古井由吉「辻」、酒井順子「枕草子REMIX」、久世光彦「謎の母」です。
心に残った一文は「(中略)むろん簡単にその素晴らしさを提示できる本など、ほんとうはつまらない本なのであるから、これでいいのだ。」心強い言葉です。
これからも読み続けます。