『少しだけぜんそくになる。一昨年、生まれて初めてぜんそくになったときにはびっくりしたけれど、それがぜんそくという名のものだとわかってからは、だいじょうぶだ。』
ひらがなの川上弘美を読む。自分の思う川上弘美にはひらがなの川上弘美とカタカナの川上弘美が二人いて、例えば「蛇を踏む」はカタカナ。というか、川上弘美といえばカタカナの川上弘美が主で、むしろひらがなの川上弘美は少ない。例えば俳句を詠む川上弘美はひらがな。あとは「椰子・椰子」はひらがなかな。
エッセイならひらがなになってもよさそうなものだけれど、それが意外とカタカナ。日経に連載した日記のようなものも実にカタカナ。これは日本経済新聞というメディアのせい? 本人もどこかで言っていたけど、川上弘美は媒体によって書くものが結構変化するし。
艶っぽい話を書いていても(例えば「溺レる」)、淡い恋心のお話を書いていても(例えばクウネルの連載)、カタカナがひらがなになるってわけではなくて、やっぱりカタカナの川上弘美がそこにはいる。
多分その印象を決定づけたのは、なまえ、なんだと思う。川上弘美の小説にはカタカナの名前の登場人物が多い。そこにはフィクションというやっぱりカタカナの名詞がぴたりとする雰囲気があって、中性的というか湿度の低さというか、SF者である川上弘美がどこかにいる。溺レる、の一文字をカタカナにしたりすることをの意味を、本人は感覚的なことだと言っているけれど、糸井重里が言葉の距離を遠ざけて世界を増やす働きがあると言っている意味は、解るような気がする。
一方、ひらがなの川上弘美はお猪口をにぎって、くぅーっ、と言っている絵が浮かぶような雰囲気のする文章の中にいて、本気とも冗談ともつかないようなことをどしどし言う。ガリガリ君を食べて舌を染めたり、赤いパンツを穿いて仕事をしたりする(そういえば「其処彼処」の中にもパンツを穿かずに学校に行った話があった。パンツ率は今になって上がったわけではない、と思う)。硬く言えばそんな諧謔趣味が心地よくてひらがなの川上弘美の本はとても楽しい。
最近お目にかからなくなってしまって残念だけれど書評の川上弘美も結構ひらがな。「ビシュヌの死」の書評「度数の高いお酒のよう」とか、「くるーりくるくる」の書評「あふれるナマケモノの魅力と哀しさ」とか。そうしてみると、ひらがな的な要素は、素に近い川上弘美的なものが表に出てくるかどうかということと関係があるんだろうか。
今回収録されている日記の本当のこと率が随分と上がったと本人は言うけれど、これは嘘を書こうとして本当のことを書いてしまう率ってことなんだろうなと、一応冷静に解釈。誰かが書いていたことだけれど(あるいは二人の対談だったかも)、岸本佐知子は本当のことを書こうとして嘘になる率の高い日記を書いている(例えば今ならモンキービジネス連載の「あかずの日記」)。本当のこと率は全く違うのだけれど、過程を切り離してしまうと文章から感じる印象が驚くほど似通っている、ってこれは余談。
海外にいる内にいつのまにか東京人の連載が終わってしまっているのを知ったのはちょっとしんみり。でも最近はWebの連載をチェックしているので以前よりもきちんとフォローしている。最新の回は、第118回「すべて空白。」。ひらがらなの川上弘美炸裂中です。