あらすじ
くまにさそわれて散歩に出る。「あのこと」以来、初めて――。
1993年に書かれたデビュー作「神様」が、2011年の福島原発事故を受け、新たに生まれ変わった――。「群像」発表時より注目を集める話題の書!
2011年。わたしはあらためて、「神様2011」を書きました。原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段にかまえた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりもむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性をもつものだ、という大きな驚きの気持ちをこめて書きました。――<「あとがき」より>
感情タグBEST3
Posted by ブクログ
神様は再読です
こんなにステキやったかぁー涙が出るほっこり感
相手をお互い思いやる気持ち
言葉行動がいちいちすごく暖かい
2011は初めてでした
悲しい、読みたくなかった
あんな素敵な話をこんな風にしてほしくなかった
それをわかってほしかったんだろうけど
嫌だった
Posted by ブクログ
川上弘美さんらしい柔らかで優しい文体の中に、まじらわず冷たく光る"あの事"の描写。みんな口々に放射線の話をしている。神様自体が可愛らしくて大好きな短編だが、こんな形でリメイクするとは思いもしなかった。
変わってしまったんだなあ。もう戻もどらないのか、それとも人の力で元にもどせるのか。
Posted by ブクログ
熊に誘われて散歩に出るわたし。デビュー作『神様』に「あのこと」が起こった2011年に、書き直した『神様2011』。
「あのこと」により、私たちに生活、日常は大きく変わった。それでも生きていかなくてはならない。日常は続いていく。川上さんは、静に激しく怒っている。自分自身に向かって。『神様』には、熊の神様が『神様2011』には、ウランの神様が描かれている。そして、現在も大きな出来事により日常が変わっている。『神様2021』を読んでみたい。50ページ弱の短い作品ですが、何度も何度も読み返しました。
Posted by ブクログ
残念なことに私の人生、
川上弘美さんの「神様」を
知らずにやってきました。
しかしこれ読んで、
ちょっと凄味を感じています。
自身のデビュー作である「神様」を、
2011年の3月の末に、あらためて書いたという「神様2011」
そこには、「あのこと」として、あの時に起こったこと。
原発事故以前の幸せな「神様」を原発事故以降の「神様2011」として新たに書いたのですね。
その行動力に驚きました。「神様2011」は、2011年の6月にはすでに、「群像」に発表されている。。
詩人の斉藤倫さんがブックガイドに紹介したものを読んだのが、この作品を手にしたきっかけですが、
紹介文にはこうあります。
_ずれてしまった、いわば、平行世界の、残酷な「神様」がありました。それを読んでしまえば、私たちはあの幸福には、再び戻れない。もう純粋に楽しむことはできない…
ずれてしまった現実に、小説をずらし返すことで、異議を唱えていく。ものがたりで、のような激しく、厳しいことができるのだと…
私は物凄い不安に襲われました。
コロナ以前とコロナ後の今、またはこれからの世界は
こんな風にまたずれてしまったんじゃないかと。。
Posted by ブクログ
本当によかった
あとがきで泣いてしまった
もともと神様は読んだことがあったので、神様2011だけ初見。
“意地でも、「もうやになった」と、この生を放りだすことをしたくないのです。だって、生きることは、それ自体が、大いなるよろこびであるはずなのですから。”
川上作品は一見世紀末や退廃的な匂いのするSF系の設定が多いけど、根本はどれも生きていくうえでの意志みたいな、意識みたいなものが感じられていたのだけど、このあとがきを読んでそれが確信に変わったし、改めてこういうところが好きなんだよな〜と思えた
Posted by ブクログ
2011年3月11日に東日本大震災が起こり、川上弘美は3月中にこの小説を書き、自ら出版社に持ち込んだ。掲載されたのは「群像」2011年6月号だから、5月初旬発売で原稿の締切はおよそ4月20日あたり。刊行された小説として福島の原発事故をとりあげた最も早いもののひとつだった。本書にはこの時に発表された「神様 2011」の前に「神様」というタイトルの短編がおさめられている。並置されていると言うのが正しい。ぼくは2012年になったくらいか、当時勤めていた会社の同僚女性に本書を、短いし読みやすいだろうなと考えて、貸した。神戸の出身で阪神淡路大震災を経験していて、東日本大震災のすぐあとに東京へ引っ越してきたひとだった。
「神様」は川上のデビュー作だ。『神様』(中公文庫)のあとがきから引用する。
〜” 表題作『神様』は、生まれて初めて活字になった小説である。
「パスカル短篇文学新人賞」という、パソコン通信上で応募・選考を行う文学賞を受賞し、「GQ」という雑誌に掲載された。
子供が小さくて日々あたふたしていた頃、ふと「書きたい、何か書きたい」と思い、二時間ほどで一気に書き上げた話だった。
書いている最中も、子供らはみちみちと取りついてきて往生したし、言葉だって文章だってなかなかうまく出てこなかった。でも、書きながら「書くことって楽しいことであるよなあ」としみじみ思ったものだ。「めんどくさいけど、楽しいものだよなあ、ほんとにまあ」と思ったのだ。
あのときの「ほんとにまあ」という感じを甦らせたくて、以来ずっと小説を書いているように思う。
もしあのとき『神様』を書かなければ、今ごろは違う場所で違う生活をしいていたかもしれない。不思議なことである。
やはりこれもなにかの「縁(えにし)」なのだろう。と、『神様』に登場する「くま」を真似て、わたしもつぶやいてみようか。
(後略)”
「神様」の書き出しは、
くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。
「神様 2011」の書き出しもまったく同じだ。川上はデビュー作を改変して発表した。お茶の水女子大学理学部生物学科を出てから田園調布雙葉高校の理科の先生もしていたひとは、東日本大震災の直後から「原子力」に関する勉強をはじめる。本書のあとがきから。
〜” 1993年に、わたしはこの本におさめられた最初の短編「神様」を書きました。
熊の神様、というものの出てくる話です。
日本には古来たくさんの神様がいました。山の神様、海や川の神様、風や雨の神様などの、大きな自然をつかさどる神様たち。田んぼの神様、住む土地の神様、かまどや厠や井戸の神様などの、人の暮らしのまわりにいる神様たち。祟りをなす神様もいますし、動物の神様もいます。鬼もいれば、ナマハゲもダイダラボッチもキジムナーもいる。
万物に神が宿るという信仰を、必ずしもわたしは心の底から信じているわけではないのですが、節電のため暖房を消して過した日々の明け方、窓越しにさす太陽の光があんまり暖かくて、思わず「ああ、これはほんとうに、おてんとうさまだ」と、感じ入ったりするほどには、日本古来の感覚はもっているわけです。
震災以来のさまざまな事々を見聞きするにつけ思ったのは、「わたしは何も知らず、また、知ろうともしないで来てしまったのだな」ということでした。(中略)
2011年の3月末に、わたしはあらためて、「神様 2011」を書きました。原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段に構えた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性を持つものだ、という大きな驚きの気持ちをこめて書きました。静かな怒りが、あの原発事故以来、去りません。むろんこの怒りは、最終的には自分自身に向かってくる怒りです。今の日本をつくってきたのは、ほかならぬ自分でもあるのですから。”
本書を貸した当時の会社の同僚だった女性は、すこしして、もう一度この本を貸して欲しいと言った。小ぶりで可愛らしい本なのだ。川上はデビュー作を書き換えて、もう一度原点から歩こうと考えたんじゃないかとぼくは思う。原子力開発にまつわる諸問題、あらゆる面からまだいっこも解決していないことを覚えていますか?
Posted by ブクログ
著者のデビュー作。
くまと私が散歩するファンタジー。
熊の神様が印象的。
微笑ましくて、クスッと笑えるストーリー。
気軽に何度でも読み返したくなる本。
非日常体験よりも、
日常でちょっと楽しかったことを重ねていく方が
安心して幸せな気持ちでいられる。
今回、新たに作品が加えられているのだが、
(タイトル神様のあとに2011が追記されているように)
原発事故後を時間軸に置かれている。
同じ登場人物、同じ場所、同じシチュエーション。
けれども日常そのものが変わってしまった。
著者のあとがきが印象的。
「日常は続いてゆく、
けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう
可能性をもつものだ。」
Posted by ブクログ
2014年の締め括りに改めて読む。
かの震災から早3年、喉元過ぎれば熱さ忘れると言うがだがそれは被災地復興の労働力を奪うことも知らずにオリンピックだなんだと浮かれている部外者に限ったことであり原発事故が起こった福島の人たちにとっては未だ烈火の塊が喉に詰まったままなのである。
20世紀の終わりにのほほんと現れてわたしとピクニックをしお土産に干物を残し抱擁をして去って行ったくまが何故また21世紀に現れなければならなかったか?
目先の利益だけを追い求めるご都合主義の政治家や経済人など放っておいて先ずは私たち一人ひとりがこの国の未来を考えなければならないんじゃないか。
そんなことも怠り次にまたくまが現れなければならなくなった時、間違いなくこの国は滅びる
Posted by ブクログ
2011年3月11日東日本大震災。
直後、「被災地に対して、自分のできることをする」が流行った。
正しいと思う、でも、選択肢は多くなかったと思う。
被災地で身体を使い救援にあたるか、多めのお金を出すか。
実質的にはこの二つしかなかったと思うんだけど、なぜか芸術系のひとたちの「被災地の人を歌で励ます」的なものが流行って、関東の片隅で、自分は、首を傾げながらも、銭湯に行ったり計画停電に備えたり、自分としてはかなり多めの募金を振り込んだりしていたのだった。
「結果として励ますことになる」なら良いのだけれど。
川上弘美はもちろん違う。
励ましでもなく、説教でもない。
川上弘美の「神様2011」は、1993年に書かれた「神様」を書き直したもの。同じお話である。
川上弘美らしい、異空間に読者を連れて行く書き出しは変わらない。
「熊にさそわれて散歩にでる」。
しかし、散歩に出たはいいが、2011年では、それが、放射線量マイクロシーベルトを気にしなければ成り立たないものと変わってしまっていた。
これは結構、心を抉られる。
これは物語内の日常が変わっただけじゃなく、現実の日常が本当にこうなったわけだから。
福島だけではない。
新聞には毎日、各都市の前日のマイクロシーベルトが掲載されている。
これが2011年3月11日から変わってしまった、私たちの日常だ。
東日本大震災以前に戻ることはできないけれど、では、私たちはこれからどうしたらいいのか。
自分はどうするべきなのか。
いつの間にか異界へ連れ去られている、川上弘美の作風色濃いふうわりとした物語に、大変大変重いものを突き付けられた感じがする。
私は、放射線量を気にして日常を送りたくはないし、どの人にもそんな日常がこれから起こらないよう、ちゃんと考えたい。
Posted by ブクログ
名久井直子さん装丁の美しい本です。
1993年の神様と2011年の神様、並べて1冊になっています。あの日を境に被災した方々はもちろん、直接には被災していなくとも世界はこんなにも変わってしまったのだということを思わずにいられません。
それでも日常は続いていくのですね。
著者によるあとがきも心に響きます。
「わたしは何も知らず、また、知ろうとしないで来てしまったのだな」
この言葉を私自身もしっかり受け止めたいと思います。
Posted by ブクログ
2011年3月11日14時46分、宮城県牡鹿半島沖130キロメートルを震源とする大地震が発生しました。
金曜日の午後というその時間に目の前で起きた衝撃的な光景は今もはっきりと覚えています。しかし、その大地震の本当の恐怖はその後時間を空けた後にやってきました。場所によっては波高10メートル以上と言われた巨大な津波の襲来です。個人の携帯やスマホで録画された生々しい襲来の様子を映した映像には言葉を奪われました。そして、さらに恐怖が襲いかかります。それこそが、東京電力の福島第一原子力発電所で発生した全電源喪失による大規模な原発事故でした。少し離れた場所から撮影した、水素爆発によって建屋が壊れていくリアル映像には、身も凍るような恐怖心に襲われました。
あれから13年半という時間が経過し、この国も落ち着きを取り戻す中、一方で未だにいつ終わるとも知れない原発事故の後始末に、今もたくさんの人たちがかかわられていらっしゃいます。あらゆる資源を輸入に頼る他ないこの国において、エネルギー問題をどのように捉えていくのか、なかなかに難しい問題が横たわっていることを改めて思い知らされます。
さてここに、『あのこと』を舞台にした物語があります。『土壌の除染のために、ほとんどの水田は掘り返され、つやつやとした土がもりあがっている』という光景が描写されるこの作品。そんな物語に『くま』が当たり前のように登場するこの作品。そしてそれは、デビュー作「神様」に描かれた光景を、そのまま『あのこと』に移し替えた先に何が起こるかを描く川上弘美さんの静かな怒りを見る物語です。
『くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである』、『防護服をつけて行ったことはあったが』『弁当まで持っていくのは、「あのこと」以来、初めて』と語るのは主人公の『わたし』。『三つ隣の305号室に、つい最近越してきた』という『雄の成熟したくま』は、『ちかごろの引っ越しには珍しく、引っ越し蕎麦を同じ階の住人にふるまい、葉書を十枚ずつ渡してまわってい』ます。『ずいぶんな気の遣いようだと思』うも、『くまであるから、やはりいろいろとまわりに対する配慮が必要なのだろう』と思う『わたし』。そんな『わたし』は、『蕎麦を受け取ったときの会話で』、『満更赤の他人というわけでもないこと』を知ります。『表札を見たくま』に『もしや某町のご出身では』と訊かれ、『確かに、と答えると、以前くまが「あのこと」の避難時にたいへん世話になった某君の叔父という人が町の役場助役であった』ことが分かります。そして、『どうやら助役はわたしの父のまたいとこに当たる』ことがわかると、『くまはたいそう感慨深げに「縁(えにし)」というような種類の言葉を駆使していろいろと述べ』ます。『引越しの挨拶の仕方といい、この喋り方といい、昔気質のくまらしい』と思う『わたし』。そんな『わたし』は、『そのくまと、散歩のようなハイキングのようなことをしてい』ます。『ツキノワグマなのか、ヒグマなのか、はたまたマレーグマなのかは、わから』ず、くまの名前がわからない『わたし』は、『なんと呼びかければいいのかと質問してみ』ますが、『今のところ名はありませんし、僕しかくまがいないのなら今後も名をなのる必要がないわけですね』と答える『くま』。『まあ、どうぞご自由に何とでもお呼びください』と言う『くま』と川原へと散歩する『わたし』。『土壌の除染のために、ほとんどの水田は掘り返され、つやつやとした土がもりあがっている』という景色を見つつ、やがて『川原に到着』して、『荷物を下ろし、タオルで汗をぬぐっ』ていると、『男二人が、そばに寄ってき』ました。『くまですね』、『くまとは、うらやましい』、『くまは、ストロンチウムにも、それからプルトニウムにも強いんだってな』、『なにしろ、くまだから』という会話に続き、『くまの毛を引っ張ったり、お腹のあたりをなでまわしたりし』た後、『最後に二人は、「まあ、くまだからな」と言』うと歩いて行っていまいました。『いやはや』、『邪気はないんでしょうなあ』、『そりゃ人間より少しは被爆許容量は多いですけれど、いくらなんでもストロンチウムやプルトニウムに強いわけはありませんよね…』と言うと『くま』は、『急いで川のふちへ歩いていってしま』います。そんな中、『突然水しぶきがあがり、くまが水の中にざぶざぶ入ってい』き、『川の中ほどで立ち止まると右掌をさっと水にくぐらせ、魚を掴み上げ』ます。『驚いたでしょう』、『つい足が先に出てしまいまして。大きいでしょう』と、『くまは、魚をわたしの目の前にかざし』ます。『いや、魚の餌になる川底の苔には、ことにセシウムがたまりやすいのですけれど』と言いながらも、『担いできた袋の口を開け』『小さなナイフとまな板』を取り出した『くま』。そして、『器用にナイフを使って魚を開くと、これもかねて用意してあったらしいペットボトルから水を注ぎ、魚の体表を清め』、『それから粗塩をぱっぱと振りかけ、広げた葉の上に魚を置』きました。『何回か引っくり返せば、帰る頃にはちょうどいい干物になっています』という説明に『何から何まで行き届いたくまである』と思う『わたし』。そんな『わたし』は、『くま』と『ベンチに敷物をしいて座り』弁当を食べます。まさかの『くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである』と語る『わたし』と『くま』の『あのこと』以来のお出かけが描かれていきます。
“くまにさそわれて散歩に出る。「あのこと」以来、初めて ー。 1993年に書かれたデビュー作「神様」が、2011年の福島原発事故を受け、新たに生まれ変わった ー。「群像」発表時より注目を集める話題の書!”と内容紹介にうたわれるこの作品。まさかのデビュー作を2011年3月11日に発生した東日本大震災に連なる福島原発事故を加味した前提でリニューアルしたという作品になっています。デビュー作「神様」が含まれた短編集「神様」は9つの短編が収録されていましたが、この作品「神様2011」は、「神様」を再録すると共に、「神様2011」がその後に置かれるのみという非常に潔い作りになっています。川上弘美さんによる〈あとがき〉を含めても単行本50ページという分量ですからまさにあっという間に読み終えてしまいます。
そんなこの作品は上記した通り東日本大震災後を取り上げています。東日本大震災を扱った作品には、彩瀬まるさん「やがて海へと届く」、辻村深月さん「青空と逃げる」、そして宮下奈津さん「ふたつのしるし」などがあります。それぞれの作品が見る視点は当然に異なります。一方であの震災被害を見る中に独特な位置を占めるのが、福島原発事故だと思います。東日本大震災は今でも復興途上にある大きな災害ですが、その中でも人災ともされる福島原発事故は原発というものへの不信感を募らせることにもなる非常に衝撃的な出来事でした。このことは数多の作家さんの創作意欲を掻き立て他にも作品が刊行されています。私が読んできた中では、婚約相手の実家のある福島へと訪れた主人公がもてなしに出された”寿司”を目の前に戸惑う様を描く彩瀬まるさん「桜の下で待っている」、”僕は遥を被爆させたくない”という思いの先に食材を厳選し、放射線から逃れようと奔走する主人公を描く金原ひとみさん「持たざる者」があります。特に金原さんの作品は、それまで順風満帆だった人生の中に突如訪れた災厄によって、人生が狂っていく主人公たちの姿が鮮やかに写し取られていく分、大きな衝撃を受ける作品に仕上がっていました。そして、この川上さんの作品では、日常生活の中に『くま』が当たり前にいる、擬人化された『くま』がそこにいるという元々が摩訶不思議な世界観を放っていた「神様」の舞台を”アフター2011”として微妙に書き換えることによって東日本大震災による福島原発事故を描いていくというとても意欲的な取り組みとなっています。
それでは、具体的に両作にどのような差異があるかを見ていきましょう。実は私はこの作品を読むに当たって、「神様」、「神様2011」という二つの作品を横に並べて一字一句の差異を見比べながら読んでいくというマニアックな読書をしました。なんだか粗探しをするような読み方で、一体何をやっているんだか…と途中で虚しくもなりましたが結果として川上さんが如何に慎重に言葉を選ばれて、この「神様2021」を生み出されたかがよく分かりました。では、その見比べの結果を見てみましょう。「神様」を”1993”、「神様2011」を”2011”と記載して三箇所ほど比較してみます。
・1993: 『くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。歩いて二十分ほどのところにある川原である。春先に、鴫を見るために、行ったことはあったが、暑い季節にこうして弁当まで持っていくのは初めてである』。
・2011: 『くまにさそわれて散歩に出る。川原に行くのである。春先に、鴫を見るために、防護服をつけて行ったことはあったが、暑い季節にこうしてふつうの服を着て肌をだし、弁当まで持っていくのは「あのこと」以来、初めてである』。
作品の冒頭からの抜粋ですが、”1993”から『歩いて二十分…』から始まる一文が削除されているのがわかります。その代わりに、いきなり『防護服をつけて…』、『ふつうの服を着て…』という記述が付け加わることで”1993”の作品に漂っていたどこかのんびりした空気感が一気に消え去ってしまっています。さらには、「あのこと」という匂わせ方が引っかかりを生みます。この作品には、”福島原発事故”という記述は一切登場しません。あくまで、『あのこと』という記載で福島原発事故を暗示していきます。興味深いのは、後者の付け足しにもかかわらず両者の文字数にはあまり変化がないというところでしょうか。これこそが『歩いて二十分…』の一文を削除された理由でもあるのかなと思いました。
・1993: 『お父さん、くまだよ』、『そうだ、よくわかったな』、『くまだよ』、『そうだ、くまだ』
・2011: 『くまですね』、『くまとは、うらやましい』、『くまは、ストロンチウムにも、それからプルトニウムにも強いんだってな』、『なにしろ、くまだから』
二箇所目は主人公が『くま』と散歩の先に到着した川原において、話しかけてきた人物が会話する場面です。”1993”では『男性二人子供一人の三人連れ』だったのが、”2011”では、『男二人』と変わっています。そして会話の内容はもう似ても似つかないくらいに変化してしまっています。物語はどんどん異質なものへと変化していきます。そしてそれは原発事故の日常生活への影響というものを暗示する次の表現の変化へと続いていきます。
・1993: 『さしあげましょう。今日の記念に』、『何回か引っくり返せば、帰る頃にはちょうどいい干物になっています』
・2011: 『いや、魚の餌になる川底の苔には、ことにセシウムがたまりやすいのですけれど』、『何回か引っくり返せば、帰る頃にはちょうどいい干物になっています。その、食べないにしても、記念に形だけでもと思って』
川の中ほどに入っていった『くま』が魚を摑み上げたという先に、主人公の目の前で器用に魚をさばくという場面で『くま』が発する言葉です。”1993”では、魚が干物を作るという場面自体のファンタジー感を醸し出す場面でもありますが、”2011”では全く別物になっています。『セシウム』という言葉を聞かされてしまうと、『帰る頃にはちょうどいい干物になっています』と言われてもそこには躊躇しかありません。この言葉自体は”1993”、”2011”で共通ですが、後者には強い拒絶反応が起きてしまいます。そんな気持ちを察して『その、食べないにしても、記念に形だけでもと思って』とまとめるあたりも上手くできています。”1993”と”2011”の二つの物語、足し算、引き算、そして置き換えという三択を上手く塩梅しながら『あのこと』を描く物語は、それ自体全く違和感なく非常に上手くできているように思いました。
そんなこの〈神様2011〉は、兎にも角にも東日本大震災に起因する福島原発事故をきっかけに執筆されたことには違いありません。その感覚を川上さんはこんな風に記されます。
“原子力利用にともなう危険を警告する、という大上段にかまえた姿勢で書いたのでは、まったくありません。それよりもむしろ、日常は続いてゆく、けれどその日常は何かのことで大きく変化してしまう可能性をもつものだ、という大きな驚きの気持ちをこめて書きました”。
東日本大震災の被害は甚大なものがありました。多くの人命が奪われ、多くの日常生活が奪われもしました。そんな中でも目には見えない放射能という恐怖との戦いの完全収束にはこの先数十年の年月が必要ともされています。川上さんがおっしゃる通り、それまで平穏に続いてきた日常が”何かのことで大きく変化してしまう”という現実を私たちはまさしく目にすることになりました。この作品の元となった〈神様〉は、『くま』が私たちの日常にごく普通に存在する日常を巧みに描き出した好編でした。その基本的な枠組みはそのままに、それが『あのこと』の後、という設定において出来上がった〈神様2011〉には、放射能被害が前提となってしまった日常を、あくまで淡々と描く中に、そこかしこに漂う底知れぬ不気味さを感じさせる物語の姿がありました。
『「あのこと」の前は、川辺ではいつもたくさんの人が泳いだり釣りをしたりしていたし、家族づれも多かった。今は、この地域には、子供は一人もいない』。
『あのこと』によって決定的に崩れ去ってしまった私たちの平穏な日常を、デビュー作「神様」を元にした物語で淡々と描くこの作品。そこには、『あのこと』がもたらした現実を思う物語が描かれていました。川上さんの巧みな足し算、引き算に感心するこの作品。そんな物語に『くま』の存在感が絶妙なさじ加減を見せるこの作品。
決して押し付けがましくなく『あのこと』の意味を問う物語の中に、川上さんの”静かな怒り”を見た、そんな作品でした。
Posted by ブクログ
シチュエーションやセリフは、ほとんど同じだけど「神様」はファンタジー。東日本大震災の後で書かれた「神様2011」は寓話のように僕は読めた。
ラストで、くまが作った干し魚を「神様」では焼く描写が書かれていて、食べることを想像できるが「神様2011」ではくつ入れの上に飾り、そのまま眠ってしまう。
くまのアドバイスに従い明日になったら干し魚を捨てるんだろうか。福島原発の処理水放出が始まった今、このラストはなにかを暗喩しているようで心に残った。
Posted by ブクログ
ゴア描写もないのにグロテスクと感じる文章
作者あとがきにもある通り、何某かの怒りが、深い穴から湧き出てくるような描写力でした。
くまとのハグが、あんなに空寒く感じるのかなちい
Posted by ブクログ
東日本大震災を受けて、デビュー作「神様」を題材に「ポスト震災」「ポスト福島第一原発」を描く。既存作を題材にして改変を行うことで、日常の在り方が変わってしまったこと、そしてそれは二度と戻ることがないことを描き出した方法論が見事だと思う。実際、10年が経っても東日本大震災、福島第一原発の事故は消し難い傷跡を残しているのだから。
Posted by ブクログ
川上弘美さんの作品を知ったのはまだ数年前ですが、
1993年に書かれた「神様」が…ほんわかして優しくて大好きです。
その後、2011年に「神様2011」が「あのこと」をベースにした神様の物語が書かれています。
あのこととは、2011年東日本大震災による福島原発事故。わたしは、震災のニュースを見、大きな衝撃を受けたが、原発事故のことは、あまり意識の中になかった(というか、わからなかった)。
最後の川上弘美さん自身の「あとがき」は、まるで川上さんが話しておられるような語り調で、背筋が伸びる気がした。非常に訴えを感じた。怒りと受容にも似た。
本の中の前述の「神様」の文は、原文そのまま。
後の方の「神様2011」は、くまとの楽しい一日が、あのことがあって変ってしまった日常に加えて描いてある。例えばくまが防御服を着ているところとか。
日本は大きく変わってしまったけれど、日常は続いてゆく。怒りは最終的に自分自身に向かってくるのだが、(中略)それでもわたしたちは、それぞれの日常を、たんたんと生きてゆくし、意地でも「もうやになった」と、この生を放り出すこともしたくない。だって、生きることは、それ自体が、大いなるよろこびであるはずなのですから。
と締めくくってある、この文章は(よく思うのは、川上さんの書かれるものはラストは生きることの素晴らしさを訴えているように感じる)、原発のみならず、今起きているコロナ禍に向けてのエールにも感じる。
Posted by ブクログ
「神様」は以前読んだときと同じく、不思議でぽかぽかしたお話で好きでした。
「神様2011」と並べられることで、「あのこと」が起こって変わった日常と、それでもここで生きていくわたしのくまとのひとときが心に迫ってきます。
2011年からは何年も経ちましたが、薄れさせてはならない思いです。
あとがきも好きです。
Posted by ブクログ
神様2011
この本は、著者のデビュー作である「神様」を、福島原発事故を体験してしまった「神様2011」として書き換えた小説です。
先に当時の「神様」も収録されていて、そのあとに「神様2011」が続く構成です。
そもそもこの「神様」に出てくるクマは普通のクマだけど、だからこそ、大地の象徴というか、自然の代表というか、神の中でも八百万の神のようなイメージでいました。
その神とわたしの平凡な日常が、「あの日」を境に物々しいものに変わってしまうのです・・・防護服を着、被ばく線量を気にする日常です。
人間が手に負えない、手を出してはいけない領域に手を出し、結果としてのどかな日常は永久に戻ってこない、ということを痛感させられました。
哀しいです。
原発反対。
Posted by ブクログ
古本屋で見つけて、図らずも初の川上弘美。
短編『神様』は1993年発表。そして2011年3月末に、『神様2011』を発表されたそうです。
その2作とあとがきを収めたこの本には、連作としての意図がはっきりあるわけですが、単体の『神様』も良かった。くまの律儀さとか、寂しさとか。(なんて言っちゃうと陳腐ですが)
そんな『神様』が、「2011」が付いてセットで読まれることによって全然違った意味を放ってしまうという、周到な本。もともとの『神様』読者だったらどう思うだろう、いやそれより、そもそもこれを書こうと思い付いた作者の「静かな怒り(あとがきより)」を思うと。
Posted by ブクログ
前作ができた1993年は私が生まれた年で、「あのこと」がこんなにも風景を一変させてしまったんだなと感じた。『神様』と『神様2011』を読み比べることで、その変化が一層浮き彫りになった。それでも生きるということを熊の神様が静かに投げかけているように感じた。
Posted by ブクログ
「くまにさそわれて散歩に出る。」
想像をかきたてる印象的な冒頭。
ほのぼのとしているのに、どこか切ない雰囲気のただよう不思議な物語。
「あのこと」以前には、非日常とされていたことが日常になってしまう哀しさ。慣れてしまうことの恐ろしさ。
Posted by ブクログ
過去の作品と、時を経て書き直した作品とを載せている本。
最初なんで熊が普通に三つ隣りの部屋に住んで、散歩なり普通に会話をしたりなどしているのかと思い、何処か童話か寓話なのかと思われたが、これが福島原発事故を受けて、リメイクとなり、ところどころにストロンチウムやセシウムなど熊との会話で出てくるのであるが、全体的に柔らかい文体だけあって、逆に何処かそれらの言葉か生々しく、おどろおどろしさを感じた。
題名からも神様ということで、熊やセシウムは、人為を超える別のベクトルでの神々であり、それらの対象を描くことで、軽いながらも「悪くない日」を過ごしていく人としての生き方について考えさせられる。
Posted by ブクログ
日常は変わる。
話す熊、よりも不可思議なことが起きる。
体が大きいけれど礼儀正しくチャーミングな、
時に狂気も忍ばせる存在。
「貴方と頭の中で漢字を想像しながら呼びかけてください」
Posted by ブクログ
川上弘美のデビュー作である『神様』は、人間の言葉を話す熊が魅力的な短編であるが、このリメイク版。3.11の東日本大震災後に書かれた本リメイクでは、通常版の「神様」で繰り広げられる熊との日常生活が、原発事故などの影響により、捻じ曲げられる様子が描かれる。しかも、通常版とリメイク版が両方収録されているため、比較しながら、福島が失った日常生活とは何か、が静かに描かれている。
決して声高に叫ばれるわけではないけれど、静かな怒りがここにある。
Posted by ブクログ
1993年に書かれた「神様」を東日本大震災を受けてリライトしたもの。1993年版と2011年版が収録されています。短いのですぐに読めます。非日常は日常に変わりつつあり、風化されずとも薄まる情報や報道に対しての著者なりの怒りや警鐘が伝わってきます。大人はもちろん、子どもにも是非読んでほしい。震災はこれからも続いてしまうのです。評価し難いので、★3にしています。
Posted by ブクログ
熊のような人でなはく、熊。
熊は熊として産まれ、熊の運命を受け入れて、ただ生きていること。
これを読んで切なくなるのは、偏見を持つ側だからか、持たれる側だからか…。
Posted by ブクログ
収録作品は「神様」と「神様2011」。一瞬木で鼻をくくったような内容に戸惑いも。短いし何のこっちゃっ。それでも次第に熊との自然な関わりがじんわり伝わってくる感覚が何だか凄くよかった。原発事故後の2編目も静かな怒りが心に深く染みた。