小川洋子のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ薬指の標本。わたしは、工場での事故で薬指の先を失くし、退職。偶然見かけた標本室で事務員をすることに。
標本技術師の弟子丸はどんなものでも標本にできる。
きのこ、文鳥の骨、楽譜の音、少女の頬の火傷跡まで。
弟子丸から革靴をプレゼントしてもらった辺りから、
怖さを感じ始めた。古い靴を握り潰したり、浴槽の底を
歩かせたり、硬いタイルに寝転んで抱き合ったり、狂気を感じた。一番恐怖だったのは、活字板を運ぶわたしを
転ばせて、散らばった活字を朝まで1人で拾わせた場面。「君は一晩中、僕のために働いたんだ」
「二人で朝を迎えたのね」
なぜだかわたしも嬉しそうにしている。
靴磨きおじさんとの会話、「彼とはどうしても離れられない、根本的で徹底的な意味で絡め取られているんです」
「そりゃあこの靴のせいだな。靴の侵食と彼氏の侵食は
つながってるよ」と、やっぱり革靴が、全ての始まり?
標本室で彼に封じ込められていたい、と最後は自分の薬指を標本にするために、彼が待つ標本技術室へと向かう。
歪な関係に見えるけど、ちょっと変わったハッピーエンドという感じで受け取った。
六角形の小部屋の主人公は、背中の痛みに悩まされている。なぜかジムの更衣室で見かけたおばさんに興味を
惹かれて尾行すると、林の奥に、廃れた社宅と管理事務所が。中には「語り小部屋」という不思議な六角形の部屋があった。ランプとベンチだけ、声は外に聞こえず、
何を話しても構わない。わたしも入ってみたい!
自分なら、やっぱりネガティブなことを話すかな?
自分の頭の内を吐き出すのは、開放感がありそうだけど
やっぱり束の間だから良いんだな。あのままずっと
通い続けていたら、小部屋が無いと生きていけないくらいにハマってしまいそう。そう思うと少し怖い。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ3編とも静かだけど少し不穏な物語で好みだった。
「妊娠カレンダー」
グレープフルーツの皮に農薬が付着していることを意識しながら妊娠中の姉ためにグレープフルーツのジャムをせっせと作る妹。神経質な姉に対する嫌悪感な気もするけど、ただ農薬が付着しているんだろうという事実だけを見つめている感じがした。
「ドミトリイ」
まさか先生が黒幕⁉︎と思っけど違った。浮世離れした寮が魅力的。手足が不自由な先生の動きの描写が細かくてすごかった。
「夕暮れの給食室と雨のプール」
電報っていいなぁと思った。「誰でも一度は、集団の中に自分をうまく溶け込ませるための、ある種の通過儀礼を経験すると思うけど、僕はたまたまそれに手間取ってしまった。」という言葉があの男性の全てを表している感じがした。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ短編集2作品の詰め合わせである。まず最初はタイトルにもなっている「薬指の標本」標本を作る店で働く20代の女性の視点で紡がれる幻想的な物語だ。現実にはない世界観だと読んでいるだけで夢か現かに迷い込んだような感覚と詳細な描写はないのに色っぽい話だと感じ取った。途中で今まで働いていた女性たちはこつ然と消えることが多かった、アパートに住む老婆の発言だと特徴的な靴の音を鳴らし地下室の標本室に降りて行ったと書かれた時は主人公は標本を作る店主と肉体関係にあったしいずれ足と一体化し足から外れなくなる靴を貰っていて本人もどんどん靴を脱ぐ気がなくなっていくから主人公は何かを標本にして消えるだろうなと思った。結果タイトル通り「薬指」の標本を作りに貰いに消えていく。ここで私と解釈が違ったのはあとがきにあった解説で体は消滅していると書かれていた点だ。私はまだこの世界に完全に入り込めていなかったらしい薬指を標本にしたら体が消えるという解釈ができなかったのが、死体が残ると思っていたのだ。でもまたそれが読書ではないのかと思った
もう一冊の六角形の小部屋またこれも不思議な世界観で現実味の無い話でありながら当時はおそらくまだ無かった蛙化現象を書かれて六角形の小部屋の主人公は元カレと別れた理由が自分でも理不尽と言っていたが令和も日本ではその現象に名前はついている。おかしいことではない。でもそれを知らなかったら苦しむよなという話だった。結局六角形の小部屋はまた違う地域に移りあの部屋の事は離してはいけないとそっと終わるがこの後彼女はどうなるのかが全くも予想がつかない物語だった。
2つの小話ともこれから何が起きるかは予想はつくけど完全には描き切らずその後どうなったかはこちらの解釈に任せる話であったと思う。短い話だからこそギュッと濃縮されたジュースを飲むような小説はページ数が短くて胸やけしないですみ気持ちよく終わった -
Posted by ブクログ
ネタバレ幸福な人たちを見て、この人たちの幸福が、このまま一生続いてくれたらいいと、純粋に願ってあげられることは、度々ある。けれども、その幸福な人間が、自分の嫌いな人間だったら、早く不幸になってくれないかと内心思うこともある。その源泉にあるのは、その嫌いな相手に対する妬みかもしれないし、自分が幸せになれない劣等感かもしれない。ただ、「妊娠カレンダー」に描かれている「わたし」の姉に対する心情というのは、そういった普通に想像できる範囲の気持ちとは、一線を画している。にもかかわらず、妊娠した姉に作るグレープフルーツのジャムが、農薬に汚染されているかもしれないと想像するその心理は、どこかで自分も抱いたことがあるかもしれないと思わせられる、親近感をどこか持っているように感じる。
「わたし」が姉に対して抱く負の心情の源泉は、どこにあるのだろうか。それは、妊婦であるがゆえに許されていたわがままだったかもしれない。
つわりが始まった姉は、家の中に充満する匂いに敏感になり、毎朝起きるたび、内臓がかき回されるような感覚に苛まれる。「わたし」は、そんな姉のために家で料理をすることをやめて、どうしても必要なときは、庭に調理器具を持ち出して、地面に敷いたござの上で食事をする。
つわりが終わったら終わったらで、姉は、枇杷のシャーベットが食べたいと言い出す。そんなわがままを断りきれず、土砂降りの中、車を出すと言い出した義兄に対して「わたし」は呆れて止めに入る。すると姉は言うのだ。
「枇杷じゃなきゃ意味がないわ。枇杷の柔らかくてもろい皮とか、金色の産毛とか、淡い香りとかを求めてるの。しかも求めてるのはわたし自身じゃないのよ。わたしの中の『妊娠』が求めてるの。ニ・ン・シ・ンなのよ。だからどうにもできないの」(p54)
一度は買いに出ようとした義兄も、さすがに姉の気持ちを鎮める方へと切り替え、枇杷のシャーベットは諦めてもらうことになった。しかし、彼女を慰める義兄の様子は、「おどおどと」して、「怯えたように彼女をのぞき込むような目つき」であった。その様子がまた、「わたし」を苛立たせる。
おめでたいこととして祝われるはずの妊娠は、この物語の中で一切そのように扱われることはない。むしろ、妊娠によって変わる姉の体調と、それに振り回される家族の生活を描くことで、日常生活を支える周囲の人々が被る迷惑と、妊娠した姉の傲慢さを明らかにする。
そうした妊娠に対する不穏な気配は、次第に妊娠に至るまでの二人の関係にまで違和感を持たせるようになっていく。歯科技工士である義兄が姉と結婚する前に、「わたし」は患者として彼と会ったことがあった。金冠を被せる歯型をとるために、自分の口の中に触れる彼の指先の嫌な感触とともに、義兄と姉が結びつくことを「結婚」という言葉で表す違和感を、「わたし」は思い出した。
思い出したという表現は、もしかしたらおかしいかもしれない。「姉の妊娠と義兄の関係について、時々考えることがある」と語り出す直前には、例の枇杷のシャーベット事件が語られていた。義兄の態度に対する違和感の語りと、義兄と初めて出会ったときの違和感の記憶の語りは、語りの上では繋がっている。姉の妊娠を取り巻く違和感は、染み込んでいくように、その周囲の人に対する違和感となり、それは次第に、過去の記憶にまで浸潤していく。そうした違和感の浸潤が向かうもう一つの先が、姉のお腹の中にいる胎児であった。
「わたし」は、これから生まれてくるはずの赤ん坊について、具体的な思いを巡らすことができない。それは、「わたし」だけでなく、姉と義兄についても同じで、生活の中で、赤ん坊のことが話題にされることはなく、妊娠していることとお腹に赤ん坊がいることとは、まるで無関係のことであるかのように、家族はふるまうのだ。だからこそ、「わたし」には、赤ん坊というものの手触りがなく、代わりに思いうかぶのは、「双子の幼虫」のような「染色体」のイメージになってしまう。
これは、初めて胎児のエコー写真を見たときから、あるいは変わっていないと言えるかもしれない。写真を見たとき、最初に思ったのは「凍りついた夜空に降る雨のようだ」という感想だった。写り込んでいる赤ん坊に対しては、「そらまめ型の空洞」の「くびれた隅にひっかかっている」ものとしてしか認識できず、それは「もろい影の塊」だとしか思えない。そして、会話の話題は、写真の赤ん坊についてではなく、超音波の診断のやり方の話になってしまう。赤ん坊に対するイメージが、家族の会話の中で鮮明になることは、ないのである。姉は、写真について、一言、こう言う。「つわりの源泉がここにあるという訳」(p24)。そこにいるのは、あくまで一人の赤ん坊ではなく、「つわりの源泉」であって、それこそが、「わたし」の生活をかき乱す源泉でもあった。
こう考えてくると、毒薬に漬けられたアメリカ産グレープフルーツのジャムを食べさせるという、「わたし」の悪意のようなものの向かう先が、姉ではなくて、そのお腹の胎児であったことも頷けるように思う。普通の生活を壊したものは、姉のつわりであり、その「つわりの源泉」が、赤ん坊であった。アメリカ産グレープフルーツを犯す「防かび剤PWH」が破壊するのは、人間の染色体そのものであり、染色体とは、「わたし」にとって、お腹の赤ん坊のイメージそのものだった。
赤ん坊に対して、人間としての手触りを感じられない「わたし」にしてみれば、その悪意が赤ん坊に向かうということは、本来的にあり得ない。なぜなら、向かうべき対象に、具体的な形がないからだ。そう考えると、「わたし」の悪意が向かっている先は、姉が産もうとしている赤ん坊そのものではなくて、想像できない赤ん坊という存在に象徴されている「妊娠」という現象だったのではないかと思われる。
こうした「わたし」の内面を表す場として現れているのが、M病院という場所なのではないかと思う。幼い頃の「わたし」は、姉といっしょにM病院の一階を覗き込む。そこには、様々な医薬品のビンや医療器具など、魅力的なものが溢れていた。そんな神秘的とすら感じた一階の上には、窓から顔を出す女の人がいた。そのちっともうれしそうじゃない顔を見た「わたし」は、魅力的な物に溢れた診察室の真上に寝泊まりできるのにうれしそうでないことに疑問を覚える。
女の人がいた二階から上の階というのは、入院用の病室や赤ん坊の部屋、給食室のある階である。そこは、まさに「わたし」がリアリティを感じることができなかった赤ん坊のいる世界であるが、彼女は、その世界を見ることができない。幼い頃にM病院で見たもの記憶は、そのまま大人になった「わたし」の赤ん坊に対する感触を象徴している。そして、物語の最後、彼女は、再び姉が出産をしたM病院へとやってくる。彼女にとって未知の領域である二階、生まれた赤ん坊と対面することになるのである。
ちなみに、「わたし」は、「破壊された姉の赤ん坊」に出会うことを期待して新生児室に向かう。一見するとこの期待は残酷な期待のようにも見えるが、彼女にとっての赤ん坊が、一つの「妊娠」という現象だったと解釈するのであれば、この期待は、悪意とも言い切れないように思われてくる。「わたし」は、次のように言っている。
しかし、妊娠とは永遠のものではない。いつか終わるものだ。赤ん坊が生まれる時終わるのだ。
わたしと姉と義兄の三人の間に、赤ん坊がプラスされる状態について想像してみようと思うことがある。でもいつもうまくいかない。赤ん坊を抱き上げる義兄の目の表情とか、授乳する姉の胸の白さとかを思い浮かべることができない。浮かんでくるのはただ、科学雑誌で見た染色体の写真だけだ。(p70)
「破壊された赤ん坊」というのは、赤ん坊を染色体としてしか想像できない「わたし」にとって、「妊娠」の終わり以上の意味はないのではないだろうか。赤ん坊のいる生活というものを想像できず、想像できないからこその不安と、妊娠によって見出された生活を前にして、この生活が早く終わらないかと期待する気持ち。そうしたものが、現実の赤ん坊ではなくて、染色体としてしか形をもたない想像上の赤ん坊の破壊へと、彼女を掻き立てるのではないだろうか。
端的に感想を言うと、本当に嫌な感じのする小説だった。お腹のなかで育っている子どもに向けて毒を盛るというその想像が掻き立ててくるものが、本当に気持ちよくない。けれども、そうした決して気持ちのよくないものが、妊娠というものの周囲を取り巻いている現実なのだということが、子どもができたことをおめでたいとする雰囲気のなかで、不可視にされてきたものなのではないかと言っているように見える小説である。本来、幸福であるべきはずと思われている妊娠をめぐる不幸な出来事をもたらす不穏な気配は、そもそも何でもない普通の家庭のなかにもあることを暴いているのだと思う。
こう考えてくると、意義のある小説(?)だと思うが、それにしても、本当に読後感がよくない。