あなたは、”装飾用の役者として生活”してくださいと言われたらどうするでしょうか?
この世には数多の職業があります。厚生労働省による2022年時点の職業分類数は18,725種類にもなるようです。私たちは限られた人の一生の時間の中にそれら全てを体験することはできませんし、そもそもその全てを知ることもできないと思います。
そんな職業の中には時代が違えば極めて突飛なものもあるでしょう。例えば宇宙飛行士という職業がありますが、100年遡れば、ホラを吹いているとしか認識されないものでもあると思います。一方で、時代が変わっても、えっ?という思いを抱くものもあると思います。そもそもそれは単に犯罪の匂いのするアブナイ話ではないの?そんな思いを抱くものもあるかもしれません。
さてここに、”装飾用の役者として生活”することを課せられた一人の女性が主人公となる物語があります。怪しい匂いがプンプン漂うこの作品。他にも怪しさ満点の短編が詰め込まれたこの作品。そしてそれは、”小川洋子ワールド”全開に繰り広げられる摩訶不思議な世界に魅せられる物語です。
『今どきの幼稚園はどうしてこんなにややこしいのかしら。こまごまと寸法やらデザインやらに決まりがあるらしいの』と言う『金属加工工場の社長の奥さん』に『「入園式までに用意するもの」と書かれたプリントを広げて見せ』られたのは主人公の縫い子。『父子家庭の従業員がたいそう困っているから助けてほしい』と言う奥さんは『私がやってあげればいいんだけど、不器用で駄目なのよ。せっかくお向かいが縫製の専門なんだから、慣れた人にお願いするのがいいと思って。もちろん、あとで材料費は請求してね』と続けます。『駅に続く大通りの一本北寄りの筋に、向かい合わせで建ってい』る『金属加工工場と縫製工場』。縫い子は『半年ほど前、もっと大きな町にある家電メーカーの検品係を辞め、縫製工場に再就職してようやく仕事に慣れてきたところ』です。しかし、『工業用ミシンは手芸には不向き』という中に、『洋裁学校の友人に卓上ミシンを貸してもらい、日曜日を丸一日使って必要な品をこしらえた』縫い子。そのことが『少女と初めてつながりを持』つ機会となりました。『少女の好みを聞き忘れたので、手芸用品店で少し迷ってから、小花をくわえた小鳥のアップリケを選び、全部の袋に縫い付けた』縫い子。『やがて幼稚園を卒園し、小学校へ上がる頃になると、少女は金属加工工場の物置で父親の仕事が終わるのを待つようにな』ります。一方で『午後の休憩時間』、『作業場の裏口から外へ出て、一人で過ごすのが常』という縫い子は『少女』と『視線を合わせ、路地をはさんでお互いにぎこちなく、会釈とも目配せともつかない挨拶を送』るようになります。『縄跳びが上手だった』という『少女』を『丸椅子に座ってただぼんやりと』眺める縫い子。そして、『終業のベルが鳴ると、少女の父親は作業服も着替えないまま一番に工場から出てき』ました。『いかにも金属を加工するのにふさわしいと思える、たくましい体つきの父親』と『手をつないで家へと帰る』『少女』を見る縫い子は『ランドセルの脇にぶら下がる上履き入れが、以前自分が縫ったものだと』気づきます。『チェック模様は色あせたものの、白い小花をくわえた、赤いくちばしと水色の羽を持つアップリケの小鳥は、まだほつれもせず袋の真ん中に留まっていた』という『上履き入れ』を見る縫い子。
場面は変わり、『あなた、バレエに興味ある?』と『金属加工工場の社長の奥さんから、思いがけない申し出』をうけた縫い子。『お客さんから招待券をもらったんだけど、あいにく…』と話す奥さんは『例のお嬢ちゃんと一緒にバレエへ行ったらどうかと思ったわけ』と続けると『えっと、題名は何だったかしら…』と『切符を覗き込』みます。『あっ、そうそう。「ラ・シルフィード」。「ラ・シルフィード」よ』と言う奥さん。
再度場面は変わり、『町の文化会館はお城の近くにあった』、と『少女』を連れてバレエの会場へとやってきた縫い子は、『退屈した少女がじっと座っていられなくなった時』のことを考えます。『しかし実際、幕が上がったあと、半分近くうとうとしていたのは縫い子』の方でした。『瞬きするのさえ惜しいといった様子で舞台に見入っている』『少女』に気づくことなく眠ってしまった縫い子。バレエの後、少女は『ラ・シルフィードさま』と始まる手紙を書くようになります。そんな『少女』と縫い子のそれからが描かれていきます…という最初の短編〈指紋のついた羽〉。”小川洋子ワールド”に一気に連れていってくれる好編でした。
“舞台という、異界。舞台という、奇跡。演じること、観ること、観られること。ステージの此方と彼方で生まれる特別な関係を描く、極上の短編集”と本の帯に記されるこの作品。まさしく”小川洋子ワールド”全開と言って良い2022年9月刊行の小川洋子さんの短編集です。8つの短編から構成されたこの作品ですが、元々は月刊文芸誌「すばる」の2020年12月号から2022年2月号に掲載された作品を短編集として一冊にまとめたものとなっています。作品間に繋がりはありませんが、上記した通り収録されているのは”小川洋子ワールド”全開といった面持ちの短編ばかりです。
では、そんな”小川洋子ワールド”を見てみたいと思います。まずは、モノにこだわる描写です。この作品の最初の短編〈指紋のついた羽〉はこんな一文から始まります。
『鉄粉や金属の削り屑や機械油の滴が散らばる地面に、少女は箱を一つ、逆さまにして置く』。
『鉄粉や金属の削り屑…』といった言葉から物語を開始すること自体、小川さんならではです。そこに組み合わされるのが『少女』ですからこの落差に不穏な雰囲気がぷんぷん伝わってきます。そして、モノにこだわる小川さんの鉄板として、モノの単純羅列という表現がこの作品にも登場します。
『縄跳び』が好きな『少女』ですが、それに〈飽きてもまだ時間が余る時』、『地面に座り込』んでこんなものと遊びます。
『土に埋もれたナットや、のびたバネや、壊れたペンチや、納品書の切れ端や、その他雑多なもろもろを、工場から漏れる明かりの下に拾い集めて遊んだ』。
対象が『少女』と考えるとなんともシュールな光景が浮かび上がりますが、小川さんの作品と考えるとたまらなく絵になる光景が浮かび上がってくるのが不思議なところです。さらに、もっとモノの羅列にこだわる箇所も登場します。
『勘定科目、仮受消費税、仮払消費税、借方科目、貸方科目、品名、摘要、数量、単価、税込合計金額…』。
これは強烈です。〈鍾乳洞の恋〉という短編の主人公の室長、『定年を再来年に控え』た室長が得意とする『伝票』について、そこに記された項目を単純列挙したものですが、これは簿記の本ではなくあくまで小説です。こんな項目を列挙することに何の意味があるのか?とも思いますが、これまた小川さんの作品だと思うと、とても愛おしくなってもしまいますから摩訶不思議です。
そんなこの作品は、書名に「掌に眠る舞台」とある通り、どこか観られることを強く意識した作品が魅力的です。それが突き抜けたのが〈装飾用の役者〉ですが、それを含めて3つの短編を見てみましょう。
・〈鍾乳洞の恋〉: 『首が痛かった。春の終わり頃からもうずっと痛いままだった』というのは主人公の室長。『左下奥歯のブリッジを取り換えた』ことが『はじまり』という室長は『色は薄茶け、歯茎はぶよぶよに膨らみ…』という『四十年近く放置していたブリッジ』を新しくしました。しかし、『いつまでたっても新しい素材と形に慣れな』い日々を送る中、『始終、舌の先で新しいブリッジを触るようになった』室長は『ブリッジをまさぐりたいという欲求から逃れ』られなくなっていきます。そんなある日『いつものとおり無意識にブリッジを触っていた舌先に、奇妙な感触』を覚えます。『ふやけた極細の糸が一筋、舌先をかすめていったかのよう』という中に『洗面所の鏡』を覗いた室長は、『何か白いものがほんの一ミリほどはみ出してい』るのを見つけます。
・〈花柄さん〉: 『104号室の女が寝室で一人亡くなっているのを発見したのは、マンションの管理人』。『事態が判明するまで、丸一日もかからなかった』という中に『遺体はまだ傷んで』はいません。『明け方三時頃に起きた胸部大動脈瘤の破裂だと』いうその死因。『研究補助員として三十八年勤めてきた医科大学の研究室で、常に求められていた”正確さと清潔”が、そのまま自宅にも持ち込まれている』という部屋を見て『これなら原状回復のための清掃、改装も必要最小限』と思う管理人は、ふと『ベッドを覆うカバーの裾が足元に触れるのを感じ』ます。『さっきまで女の遺体が横たわっていた』というカバーを何気なく持ち上げた管理人は『はっとして息を呑み、目を見開』きます。そこには『何かが…何か、という以外に表現のしようのない』ものがびっしりと…。
・〈装飾用の役者〉: 『十九の歳から今までずっと』、『コンパニオンただ一筋』という主人公の『私』は、『およそ一年半をかけて世界旅行をする、そのお供』をしたのが『初めてのコンパニオンの仕事』でした。その後、『数々の雇い主の元を渡り歩』いたという『私』は、自身が『コンパニオンとして貴重な資質を持っている』ことを証明する一つの事例を話し始めます。『打診を受けた時、多少引っ掛かったのは相手が男性だったこと』と語る『私』は、その内容が、『用意した屋敷内の部屋に住み込』み、『部屋で待機していること。よって勤務中は決して部屋から外へ出ないこと』だったと説明します。『高級住宅街の最も奥まった一角』にある屋敷へと赴いた『私』は、『さあ、こちらです』と老人に案内されます。そこには、『小さな劇場』がありました…。
3つの短編をご紹介しましたがいずれも小川さんらしく突飛な設定が当たり前のように提示されるところから物語はスタートします。〈鍾乳洞の恋〉の主人公である室長は『左下奥歯のブリッジ』に問題が発生します。そもそも小説の題材に『ブリッジ』なるものを登場させること自体唯一無二だと思いますが、そんな『ブリッジ』から『白いものがほんの一ミリ』とそこにさらに不気味なものを出現させるところが真骨頂です。ホラーとも言えそうですが『ブリッジ』という前提条件がそんな緊張感を解くところが上手いと思います。〈花柄さん〉はその前提設定が『女が寝室で一人亡くなっているのを発見』した管理人という一気に緊張感が走るシチュエーションからスタートします。一方で淡々と業務をこなす管理人ですが、ベッドカバーの下に『びっしりと』、『ほんのわずかの隙間もなく』詰まっているというあるものを発見するところから始まります。これも予想外に展開していく好編です。そして、上記で少し触れた〈装飾用の役者〉がさらに強烈というかアブナイ世界を描いていきます。『コンパニオン一筋』という人生を送ってきた主人公の『私』が担当したまさかのお仕事。内容紹介に触れられている範囲まででお話すると、それは”装飾用の役者として生活する”というものです。『正式な意味でお芝居が上演されることは』なく、『劇場もまた、装飾』という中で『舞台の上に、いるだけでいいのです。そこで、生活するのです』という日々を送る『私』の物語、これは強烈です。これが小川さんの作品でなければ猟奇的な犯罪の匂いさえ漂うその前提設定。それを、何か?という感じで冷静に包み込んでしまう”小川洋子ワールド”の凄さを体感できるこの短編。そんな短編を含めた8つの短編が収録されたこの作品には、美しい言葉で紡がれた摩訶不思議な世界に導いてくれる小川さんらしい物語が収められていました。
『朝食が終われば、あとは舞台にいる限り、別に自由です。美容体操をする。小説を読む。ハーモニカを吹く。刺繡をする…役者が舞台上で行う演技として不自然でないなら、何をやってもいいというわけです』。
そんな不思議な前提設定の下に描かれていく8つの短編が収録されたこの作品。そこには、極めて小川さんらしい”小川洋子ワールド”全開な物語が収録されていました。小川さんらしいモノへのこだわりに思わずニンマリするこの作品。あくまで美しい表現にこだわった文章に魅せられるこの作品。
どんな前提設定でも物語にしてしまう小川洋子さんの上手さを改めて感じた、そんな作品でした。