小川洋子のレビュー一覧
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魔犬に襲われると死んでしまうから、決して外には出ないように。
そう母親に教えられ、箱庭の中だけで生きてきた三人の子どもたちの物語。
オパール、琥珀、瑪瑙、そしてあの子。
兄弟愛がなければ、発狂してもおかしくないような環境下で、皆が身体を寄せ合って、ひとつになって静かに生きていた。母親の歪さに気が付いたとしても、ここから出て行くとして、どこでどのように生きていけばいいのかその術を誰からも教えてもらえない子どもたちの無力さが、彼らをこの家に縛り付けていた。琥珀と瑪瑙は外の世界をあまりにも知らなかったから、家に居続けることが当たり前だっただろうが、オパールはきっとそうではなかった。だから、誰かが手を差し伸べてくれるのを自分も知らないうちに待っていたのだろう。
彼らの家での独特な遊び方が、とても好きだった。オリンピックごっこ。私もやってみたくなる。
最初から、この暮らしにいつか終わりが訪れることはわかっていた。しかしそれがこんな結末になるなんて。カレンダーに星印をつけた母親の心情を、完全には理解していなくとも、あのXデーに全員が散り散りになったことを思えば、その時点で子どもたちは何か異変を感じ取っていたのではないだろうか。誰も、それを目撃しなくて本当に良かった。 -
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あまりに静謐で無言で無限で、こうして感想を残すことすらノイズになってしまいそう。
「アカシアの野辺」に住みたいかと言われれば悩む。
人に入りすぎるのも入られすぎるのも嫌だけど、あそこまで無言と孤独を愛せるだろうか。
「アカシアの野辺」の特徴から、衰退していくことは自明だったように思うが、少しずつ衰えていく共同体に暮らすことも「完全な不完全」を体現しているのだろう。
声を使って会話することのない野辺に住む男たちでも、一人一人が決まった木に思いを伝えることがある。
この小説では口から声を出さないことと、歌うことに焦点を当てているが、「聴くこと、聞き上手」な野辺の男たちにも作中触れられている。
普段は外部からの音を聞くのみの男たちではあるが、自分の声を自分で聞き、自分の思いを耳から入れて、認識して咀嚼する時間は自分と世界を繋ぎ、同時に隔てる足場のようなものであったと感じた。
感想が難しい!
静かに静かに通り過ぎていく風に乗った歌のような小説。
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『アンネの日記』は歴史の授業で習ったりと存在は知っていましたが内容までは全く知りませんでした。最初の入り口として分かりやすそうな本書を手に取りました。
10代とは思えない、大人も舌を巻く文章力や表現力、何より人生の価値観がありありと溢れている内容だと言うことがわかりました。
好きな言葉は本書のp105に出てくる、
「じっさい自分でも不思議なのは、わたしがいまだに、理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。(中略)いまでも信じているからです―たとえいやなことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを。」
というアンネの言葉です。差別的な扱いを受け、学校にも通いたくても通えない、隠れ家生活を余儀なくされる、そんな原因を作ったのはまごうことなきナチスドイツ軍なのに、同じ人間なのに、そんな相手にも性善説を信じて希望を見出だしているのが、アンネのすごい所だと思います。
そんな『アンネの日記』の魅力を私に教えてくれたのは100de名著を記した小川洋子さんです。まとめ方や伝え方がとても分かりやすかったです。
いつか、完全版を読んでみようと思います。 -
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主人公の朋子が、ある事情によって、芦屋の富豪でもある、伯父・伯母のお屋敷に、1年間同居することになった。お屋敷には、朋子より1歳年下の体の弱いミーナと、伯父の母親(おばあさま)、家事を手伝う米田さんと小林さんが住んでいた。ミーナには、スイスの寄宿学校に留学をしている兄がいて、彼も朋子がお屋敷にいる間に帰省をしてくる。そして、お屋敷にはコビトカバのポチ子が住んでいて、体の弱いミーナを乗せて、小学校までの道のりを送り迎えしていた。
物語は、そのような家族と偶然に1年間住むことになった朋子の視線で、その間のあれやこれやを描写したものだ。
正直、芦屋での1年間の描写は、少し退屈なものだった。が、ミーナと朋子が成長した後の2人の手紙のやり取りが、物語の最後に登場する。中身はネタバレにもなるので、ここでは触れないけれども、この手紙のおかげで、舞台となった芦屋での1年間が、2人にとって、とても大事なものだったということが、しみじみと感じられるようになっているし、この1年間は、朋子とミーナの成長物語として、あらためて読み直せることに気がついた。
最後の手紙のやり取りが、とても効いている。 -
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ふと気づくと、金属に穴があきはじめている。そもそもの目的がこれなのだから、驚く必要もないのに、なぜかとても不思議な現象を目にしている気分になる。一点の窪みが少しずつ、慌てず慎重に、奥へ奥へと潜り込んでゆく。電極と金属は一定の距離を保ち、決して触れ合わない。電極の回転も、穴の形成も、想像よりずっとゆっくりしたスピードで行われる。金属はまるでそれが自らの意思であるかのように、穴を受け入れている。この密やかな営みを、火花が祝福している。(第1章 株式会社エストロラボ〈細穴屋〉より)
凡ゆる仕事には、たとえ文化勲章受賞者ではなくとも、匠の技が隠れている。と、私は思う。
例えば、封筒詰めの単純作業であっても、横幅に合わせてセロテープを切るために、カンとしか言いようのない切り方をする達人たちがいる。しかも、多くの作業員はその域に達している。長すぎたら不恰好、短すぎたら用を足さないどころか、失礼に当たる。測ってもないのに常に横幅ぴったりにセロテープを切ることができるのは何故なのか。
芥川賞作家の工場見学記である。
普通の工場作業員の矜持や匠の技を見事に描いてきた作家に、例えば直木賞作家の高村薫がいる。「マークスの山」や「照柿」など、空気を吸うように作業をする傍ら、愚かな罪を犯してしまう男たち描いていた。それら、ノンフィクションのような硬質の文体に対して、小川洋子さんの文体は、幽玄の世界に呼び込むような軟質の文章だ。たとえノンフィクション作品になっても、彼女の文章は小説なのである。
「細穴の奥は深い」
女性のみの工場。細穴を作ることのみに特化した工場。
「お菓子と秘密。その魅惑的な世界」
洋子さんが子供の頃魅惑された岡山駅前のお菓子工場は「梶谷のシガーフライ」工場かなと思ってかなり調べたが、どうも違うようだ。何のお菓子作っていたんだろ。洋子さんが見学したのは神戸のグリコ。「グリコのおまけ」ではないらしい。正式な呼び名は「グリコのおもちゃ」。
‥‥私は「おまけ」と聞く度に、幼少時自宅の建て前で、まき残った「グリコのおまけ」を全部開いて、生涯一度のみ、母から涙ながらに叱られたことを思い出す。
「丘の上でボートを作る」
今は縄文時代丸木舟のようにくり抜くんじゃなくて、スポーツ工学を駆使して手作りされているらしい。琵琶湖近くにあるけど、完成品は琵琶湖に浮かべない。
「手の体温を伝える」
洋子さんと同じで、町で見かける度に幸せになれる「車輪付きの大きな箱」。1、2歳の子どもたちが数人乗せられて、みんなお揃いの帽子を被って、思い思いの表情で運ばれてゆく箱。あれは向島の五十畑工業が発明したらしい。〈サンポカー〉というらしい。
「瞬間の想像力」
山口硝子製作所。5000年前、アラビアの商人が焚き火をしている時、積み荷のソーダをかまどに使ったところ、溶けて砂が混じり、ガラスらしいものが出来た。それ以降、人類はガラス容器を作ってきた。そして此処では複雑極まる理化学用のガラス器具を作ってきた。
「身を削り奉仕する」
北星鉛筆株式会社。洋子さんには今でもペンだこならぬ鉛筆タコがあるらしい。現代の我々に、それを持っている人は少なくなっているだろう。PCタコ指先にタコがある人っているのだろうか?鉛筆の芯の黒鉛に鉛は入っていない。炭素の塊である。鉛色なので、そう名づけられたらしい。書き味と強度には油が必要で、これが手が汚れる原因。木も一回茹でて中の細胞を壊して削り易くさせている。精度は伝統工芸レベル。外国鉛筆が粗製なのは、日本の下町工場のレベルが違うかららしい。
2016年の取材開始から21年に単行本、25年に文庫本になるまで9年の月日が経っている。10年そこらでは色褪せない世界が、そこにあった。
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Posted by ブクログ
素晴らしかった。大切に、大切に読み進めた小川さんのエッセイ集。エッセイ集と言っていいのかわからなくなるほど、短めの深い思いで唯一無二。いろいろなところで書かれたエッセイを章に分けて載せている。1、2章あたりのエッセイがたまらなかった。日常や、家族の幸せが美しく切なく心に響くエッセイがたくさんあった。亡き両親との思い出。よその子や赤ちゃんとふと、些細なきっかけで顔見知りでないその子たちと触れる中で思い出す、自分の子供との思い出。想像するということ、読書ということとは何か。と思えば、少し抜けた感じのクスッと笑えるエッセイもあり…ということで絶妙なバランス。小説も美しく、エッセイも美しく、すごい、小川さん。前作もそうだったが、5章の読書記録のような、解説や小川さんが読んだ本にまつわるエッセイはなんだか入り込めず、ここはさらっと読んだ。小川さんの読む本の中で読みたいと思えるものはあまりなくて…
でも小川さんのエッセイも小説も大好きだ、ということを再確認できる。
また折に触れて読みたいエッセイ。