小川洋子のレビュー一覧
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六遍が収録。どのお話にも
特別な才能がある人がでてくる。
前回、「完璧な病室」を呼んだばかりで、
重たい気分だったけど優しいお話が多くて良かった。
六遍とも、毒を持つ人より優しい人が多い気がした。
ちゃんと自分の幸せを自分のやり方で守れる人たち。
完璧な病室は逆に、
自分の幸せのために周りを巻き込んで
自滅する人たちが多かった感じがする。
最後のお話で、絶滅した鳥たちがデザインされた
メリーゴーランドに乗るシーンが素敵だと思った。
古びたメリーゴーランドとか、髪のレースとか、
自作のドレスとか。そういう些細なことで
幸せになれる人たちを見守る安心感。
約束された移動
ロイヤルスイートの客室清掃をする私は、
壁一面の本棚に小さな空洞を見つける。
抜き取られる本の共通点は
「移動してゆく」物語であるということ。
彼が抜き取った本と同じものを買い揃え、読み耽る。
私とBは同じ本をめくり、歩みを進めた者同士だ。
拾い集めたBの髪束を主任さんが
「まるでレース模様みたい、どんな絹糸にだって
描けない模様だよ」と言った場面は
『最果てアーケード』の、
遺髪レース職人さんを思い出した。そして主任さんの
物事の美点を挙げるところが、ほんとうに素敵。
Bが二度とホテルへ訪れなくなっても、
髪のレースと、お揃いの本と、
デビュー作の十八分四十秒のシーンがあれば、私は
いつまでもBの後ろを追いかけていくことができる。
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ダイアナとバーバラ
迷い、困惑している人を、正しい場所へ導く。
少女のころからエスカレーターの補助員として
細やかな気遣いができたバーバラ。
病院の案内係としても「わかります、わかりますよ」
の一言で、相手の心の内を吐露させることができた。
ただ、自作のダイアナの服を着ている間は
誰も寄って来ず、孫娘にだけは自分自身について
とりわけ自分が補助の妖精であったころのことを、
心ゆくまでお喋りすることができた。
補助の妖精には、たった一人友達がいた。
空港の乗り継ぎをしている男の子だ。少年が滞りなく
仕事を終えると、私は心の中で褒め称える。
二人は、人々の記憶に残らない仕事をする者同士、
お互いを励まし合うのだ。
最後、バーバラの黒いタフタドレスを撫でて、
まるでお姫さまみたいだ、という少年に
孫娘が「わかります、わかりますよ」と答える。
手作りの自由奔放に広がる服を上手く操る孫娘は、
補助員としての才能を
バーバラから受け継いだんだろうな。
————
元迷子係の黒目
裏の平屋に住むのは「ママの大叔父さんのお嫁さんの
弟が養子に行った先の末の娘」。
彼女の二個の黒目は、素早く泳ぐ魚の動きに合わせ
自在に回転し、水槽の隅々までとらえられる。
ゴールデンネオンテトラの骨も、グッピーの
鮮やかな尾びれも、黒目の中では平等に美しい。
警備課迷子係が、彼女に最も相応しい仕事だった。
広々して入り組んだデパートで、
迷子の合図を発する可愛そうな子どもを
彼女の二個の黒目は絶対に見逃さない。
グッピーのお産の時も、糸くずのような赤ちゃんを
小さな黒目を目印に、的確にすくい上げたのだった。
末の娘は、
熱帯魚たちを全滅させて落ち込むわたしを
デパートへ連れて行き、迷子ごっこをしてくれた。
迷子のわたしを、帰るべき場所へ帰してくれた。
二つの黒目は、どんな可愛そうな子も見逃さない。
————
寄生
見知らぬおばあちゃんが右腕に寄生した。
最早つなぎ目は無くなり、ジャケットも毛糸も皮膚も
脂肪も骨も、一続きになり静けさを守っていた。
虫博物館で出会った彼女の言葉が浮かぶ。
「自分の目がそんなふうに役立つなら、差し出しても
構わない。卵のゆりかごとして」
なんだか自分の右腕も、こんなに求めてもらえるなら
老女に差し出してもいいような気分になっていた。
待ち合わせに遅れて行くと、
彼女は全て理解しているふうだった。
寄生後の空洞が、彼女には誇らしく見えている。
————
黒子羊はどこへ
村はずれの寡婦の女が、
海岸に打ち上げられた二頭の羊を引き取った。
庭で過ごす羊たちを眺めて過ごすうち、
世界中で自分ほどこの二頭の羊について詳しい人間は
いないと自負するまでになった。
赤ん坊が生まれた、何から何まで黒色だった。
成長するにつれ黒色はますます艶と深みを増していく。
女には子どもを引き寄せる才能があった。
黒子羊に興味津々で集まる村の子どもたちを招き入れ、
遊ばせたり、アップルパイを振る舞ったり。
そうして、子どもがいなかった彼女は思いがけず
託児所の園長になったのだった。村人たちはそこを
「子羊の園」と呼んだ。
子どもたちが一番好きなお話は、黒子羊の死に方。
争いごとが苦手な羊は、得意の逃げ足で野犬から
逃げ出したが、ぶつかった柵に挟まった羊はそのまま
息絶える。芸術品のような骨や羊毛が見つかっても
死体と気付く人はおらず、今もどこかの美術館に
展示されているらしい。
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巨人の接待
巨人の地域の言葉の通訳係を任されたわたし。
囁くような声に苦戦しながら、それらしい言葉に訳す。
巨人の双子の弟は、お腹にいる間に天に召された。
いつも、足りない一人に向かってお話を語った。
彼の声が小さいのは、死者に向かって
語りかけているからだ。死者はとても耳がいいから
小さな声で充分なのだ。
食事の際はいよいよ無言になる。ひたすら料理に
神経を集中させる。「適当に答えておいてくれたまえ」
巨人の本を原書で読むため地域語まで学んだ私にとって
彼の返答の捏造は難しくない。
絶滅した鳥たちが廻るメリーゴーランド。
小さな声でドードーに語りかけ、笑う巨人は
足りない誰かに再会できて、とても幸せそう。
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カズオ•イシグロ氏の日の名残りの作品に近い人の深さを感じる作品だった
他の誰も入り込めないようなまるで本当に海の中で物語が進んでいくそんな静けさでとても神秘的な催しのように感じる作品
物語後半、猫と鈴のシーンがあるのだがとても尊さみたいなものを感じた。古い鈴の音を久しぶりの遠慮深いと表現し相棒につけてあげるのだ。
時に難しく感じる作品でもあったように思う、内容がではなく、受け止める自分側が漂う物語の面白さを飲み込めれてない点にあった。少年が叫びたい場面に叫んで欲しかったし、我慢が続く場面に何か助けを示してほしかったし、インディラやミイラ、家族はいたものの孤独感が強く映り、またチェスが緩和していた。つまり、面白い作品と思って読むのではなく、人の深さを感じとるように読んでこそ分かるものがあった
ラスト物語が始めに戻ってきたと思わせる老婆令嬢にチェスを教える場面は鼻を熱くさせた。ミイラとのラストの場面は哀しくも物語の温度に合ってる気がした
好きなフレーズ引用
八×八の升目の海 ボウフラが水を飲み象が水浴びをする海に 潜ってゆく冒険だ
生涯を通し 繰り返し開けることにぬる別格の小箱 そのものだった
慌てるな、坊や -
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1990年代、著者がアンネゆかりの地を歩いて綴ったもの。アンネの日記については、「良書」として読み、アンネの記号化されたシンボルが残っていく読み手、そういう記号化されたイメージを敬遠する読者などさまざまある中で、著者は自分と同じ一人の少女に親近感を感じながら魅了され、その歩んだ道をたどる旅に出るまでに至ったようだ。アムステルダムのアンネの家(隠れ家)からフランクフルトの生家、アウシュヴィッツ、ビルケナウ、そしてウィーンと回り、ジャクリーヌさんやミープさんに会い、他の支援者たちに思いを馳せ、生き延びた2人のユダヤ人に会っている。
去年、アムスのアンネの家を訪ねる前にアンネの日記を読んだ。多感な少女が綴る生活は、おそらくは大人が描くほどの悲惨さを醸し出さず、読書や好きな歴史の勉強、語学、狭い隠れ家での人間関係の観察、両親や姉との関係などを通して、自身を深く掘り下げる日々が淡々と報告されている。言葉を尽くして正直に書き綴っていて、ナチに追われる隠れ家の日記、という先入観を打ち破る瑞々しさにあふれていた。プツンと途切れた日記の最後はもちろん、ナチの連行だったわけで、アンネの家を訪ねた時に感じた「隠れ家での窮屈な生活」の先にあった収容所は、私の中では想像力の及ばない別次元の話になっている。
まったく別の時に訪ねたナチの収容所は2カ所。ダッハウとザクセンハウゼン。その時感じた収容所の一糸乱れぬ規則性は、著者の受けた印象とまったく同じだった。もう数十年前のことなのに、ダッハウでは複数の焼却炉の蓋がまったく同じ角度で開かれていて、ここで人が焼かれたのだということを忘れてしまうほど「展示物」と化していた鮮明な記憶がある。
この本を読みながら、日記の先にあったアンネの最期を改めて日記につなげて想像し、やはり「想像を超えている」という言葉しか浮かばないことに改めて愕然としている。 -
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自分が妊娠したのをきっかけに手に取った。
「妊娠カレンダー」
妹目線で、姉の妊娠について書かれた作品。妊娠の、得体の知れなさが表現されていた。自分自身、これからの身体の変化をどこか恐ろしく感じていたので、その感情とリンクして面白かった。ちょっと不気味に書かれているのがまたいい。女性ならではの作品だと思った。
「ドミトリィ」
もう妊娠の話ではないのだなと、最初はあまり興味がなかった。でも、読み進めていくと、止まらなかった。先生の身体と、寮の存在が、どんどん悪い方向へ進んでいく。どうなってしまうのだろう、と怖かった。結局、怖さは消えたものの、なんとも言えない気味悪さが残った。後味は決して良くないけど、なんだか心に残る作品。
「夕暮れの給食室と雨のプール」
不気味、の一言。自分の周りにも、こんなに不気味なことが潜んでいるのかもと思うと、どうしようもなく気持ち悪くなった。でも、不気味さでこんなに心が動くなんて面白いな、とも感じた。自分の学生時代はどうだったかな、とすこし考えた。
情景が浮かぶような、丁寧な表現が魅力的。普段抱かないような感情が生まれて、文学作品の面白さに改めて気づいた。小川さんの他の作品も読んでみたいな。 -
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小川洋子さんらしい、やさしい切ない話でした。
ことりの小父さんの生活から、まず両親がいなくなり、次に小鳥の言葉を話すお兄さんが、そして小鳥にこだわる小父さんにやさしい思いを寄せる司書さんがいなくなり、更に長年鳥小屋の掃除に通った幼稚園からも閉め出されて、少しづつ色々なものがなくなっていきます。そんな、ひとり残された年老いた小父さんに傷付いたメジロが飛び込んできます。お互いを必要とする小さな存在同士の愛情に満ちた最後の日々。とても幸福な気持ちで読め終えることができました。
それともうひとつ、あとがきを日美に出ていた小野正嗣さんが書いていて、それも私的にはとても良かったです。小野さんが小川さんをインタビューした時のエピソードは小川さんの人柄が感じられて素晴らしいあとがきだと思いました。 -
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彼女の小説を読んでいると、村上春樹の小説を早回しで読んでいる感覚に陥る。似たような花が咲く短い道を散歩しているような。
年老いた叔母や母親、収容所を経験して後に亡くなったユダヤ系の祖父など、この本には家族との関係を描いた短編が多い。肉親との微妙な距離感、距離があるのに心の片隅に確固たる場所を持つ人々。読み手の無意識の感覚を言葉でなぞっていくような文章。
後ろの解説で、著者の言葉が紹介されている。「小説の中に輪郭を持った主題、しかもまやかしの主題が、くっきりと見えてくるような小説は信用できない」。まさにこの輪郭が掴めない自然な成り行きの中に、ふと読み手の無意識を目覚めさせるような何かが埋め込まれていて、でも最後までそれが掘り出せない、そんな面白さが彼女の物語にはあるような気がする。 -
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河合隼雄さん、小川洋子さん、お二人の作品は読んだことがあり、どちらも好きだったので、二人の対談ということで楽しみに読んだ。
この本を読んで強く感じたのは、物語とは単なる娯楽ではなく、人が死や別れ、後悔や矛盾といった、理屈だけでは受け止めきれないものと折り合いをつけるために必要なものなのだ、ということだった。
特に印象に残ったことは大きく三つある。
一つ目は、現代では「死」が日常から遠ざかりすぎているということだ。
本の中で語られる「やさしさの根本は死ぬ自覚だ」という言葉が強く心に残った。医療の発展や生活の便利さによって、私たちは普段、死をあまり意識せずに生きている。特に、親しい人が死ぬことや、自分自身が死ぬことは、どこか心の中で遠ざけてしまっている。
けれど、「あなたも死ぬ、私も死ぬ」ということを本当に共有できていれば、お互いへの接し方は変わるのだと思う。相手の弱さや欠点も含めて受け入れようとする気持ちや、限りある時間を大切にする感覚が生まれる。死を意識することは暗いことではなく、人を大切にするための感受性につながるのだと気付かされた。
二つ目は、物語は現実逃避ではなく、現実を受け入れるための営みだということだ。
人は、生きていく中で受け入れがたい現実に直面する。そのとき、現実をそのままの形で受け止めることは難しい。だからこそ、自分の心の形に合うように現実を物語化し、記憶として整理していくのだという考え方が、とても腑に落ちた。
小説や漫画、映画などの物語に触れたとき、なぜか心が軽くなることがある。それはきっと、作品が自分の中にある言葉にならない感情を表に引っ張り出し、自分なりの物語を作る手助けをしてくれているからなのだと思う。以前は、漫画や小説などの物語にはどこか「子供のためのもの」という感覚もあった。しかしむしろ、人生経験を重ねるほど、物語に支えられたり、救われたりする場面は増えていくのかもしれない。
三つ目は、カウンセリングとは、相手を励ましたり、正解を教えたり、無理に引っ張り上げたりすることではないということだ。
子供を亡くした母親の後悔について語られる場面で、「荷物を礎にする」という言葉が出てくる。苦しみや後悔をなかったことにするのではなく、それを抱えながらも、生きていくための足場に変えていく。その過程に寄り添うことが、カウンセリングなのだと感じた。
これは簡単なことではない。相手の苦しみに対して、つい励ましたり、前向きな言葉をかけたりしたくなる。でも本当に必要なのは、相手が自分なりの答えや物語にたどり着くまで、そっと隣にいることなのだと思う。
この本を通して、物語が持つ不思議な力の秘密に少し触れられた気がした。
自然科学や論理では、「人はなぜ死ぬのか」に対する説明はできるかもしれない。しかし、「なぜ私の大切な人が死んだのか」「この悲しみをどう抱えて生きていけばいいのか」という問いには、それだけでは答えられない。そこに必要になるのが物語なのだと思う。
生きるとは、自分にふさわしい物語を作っていくこと。
その言葉の意味が、少しだけ分かったような読書だった。 -
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一つずつ何かが「消滅」するという不思議な島。ある時は鳥だったり、またある時は薔薇だったり。消滅するものが決まると、島の人たちは自らそれを処分しなければならないと同時に、記憶からも失ってしまう。中には記憶の消滅が起こらない特殊な人もいるのだが、そういった人たちは「秘密警察」に連行され、二度と戻って来ない。
現実には起こり得ないことなのに、消滅により徐々に悪くなる食糧事情、秘密警察の取り締まり、記憶を失わない知人の編集者R氏を匿う主人公といった設定は強烈に第二次世界大戦下を想起させる。
「モモ」のように失われたものを取り戻しに行くのかと思っていたら、小説家である主人公は小説が消滅しても、それを受け入れてしまう。ついに消滅は身体にも及び、主人公はそれに抗うことなく消えてしまうのだ。
主人公の視点で淡々と語られる物語は、静謐な美しさを湛えてはいるが、希望は感じられず喪失のかなしみや虚しさが残った。最後にただ一人、匿われていた部屋から人間が消滅した世界に出て行ったR氏の中に記憶として残ることが救いだろうか。 -
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ネタバレ表題作の「完璧な病室」は、大学の自主ゼミで集中ゼミの課題図書になった関係で、8人くらいのメンバーで一段落ずつ音読をして議論していく、というレベルの精読をしたこともあり、かなり思い出深い小説だった。当時は、コピーで読んだので、手元に小説を持っていなかったのだが、自分で小説を書いているときに、まったく書き進まなくなってしまい、何か参考にしたい小説があるかと思い返したとき、自分で買い直すことにしたのが、この本である。
初読の時から、文体と内容が合致しているというのは、こういうことを言うんだろうと思ったことを覚えている。ガラスや水、雪、真っ白な病室といった細かな描写が、常に白く、透明であることが、白血病によって少しずつ命を削られていく弟の体の衰弱に重ね合わされていく様は、物語の展開に文体が常にマッチしているような感覚を与えられる。白血病は、少しずつ弟の身体から血の気を失せさせていく。ある意味、透明に近づいていき、死という形で完全に透明になってしまう弟というテーマが、冒頭から続く、透明なものの描写の積み重ねによって、すでに表現されているのだろうと思う。
だからこそ、汚いものの描写が、物語の中で際立つことになる。手術室でチョコレート膿疱になってしまった内臓が摘出される場面と、夫がビーフシチューを食べる姿が重ね合わされるシーンなんかは、最も対照的になるシーンだろうと思う。人が美味しそうに食べている姿を見て、グロテスクな手術のシーンが語られる様子は、食べるという生きていくために必要不可欠な毎日の行為が、いかに汚いものとして、語り手の目に映っているのかを、よく表している。
それとは対照的なのが、弟がぶどうを食べるシーンだ。そもそも弟は、決まった品種のぶどう以外の食べ物をどんどんと食べることができなくなっていってしまう。それは、真っ白で清潔な病室の中での出来事であり、食べられなくなるということによって、弟の存在は、清潔になっていくように感じられるのである。
なぜ、語り手にとって、生活というのは、そんにも汚く、醜いものになってしまったのだろうか。それは、母の描写として描かれることになる。
精神的な病に罹っていた母が家事をする家の中は、常に混沌として、汚れていた。その最も象徴的なエピソードとして語られるのが、庭に放置されたショートケーキのエピソードである。母は、どういうわけか、お皿に乗せられたケーキを庭に放置してきてしまう。当然のことながら、そこには大量のアリがたかる。その虫にたかられたケーキをしっかりと見てしまい、処理することになったのは、娘である語り手だった。
こんなにも食べ物が、食べるという行為が、気持ち悪いものとして描かれる小説もなかなかないように思う。その気持ち悪さの生々しさが、この小説では凄まじい。
語り手の語りには、弟の死を、美しい記憶として残しておきたいという強い思いが感じられる。そんな感覚に共感してしまい、この小説が、自分の小説の一つのお手本にしたいと思うくらいに、好きになった。大好きな誰かとの思い出は、美しい思い出としてしまっておきたい。
大切なものを、大切なものとしてしまっておくには、どのように過去を語ればいいのか。その語りのあり方を感じ取るのに、最良の一編だと、未だに思っている。 -
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ネタバレ島からさまざまな物が消滅していく。物だけでなく記憶までもが。
消滅の度にパニックが起こるのかと読み進めたら、島の人たちにとっては当たり前のことだからか恐ろしいほど簡単に受容して自ら物を消そうと行動を起こしていて戸惑った。
きっとR氏も、消滅しない側の人間として同じ思いを抱いていたんじゃないかなって思う。
主人公とおじいさんのシーンはほっこりする場面も多く、心があたたまった。
なんとなくおじいさんも消滅しない側の人間で、でも完璧に消滅する側を演じることで主人公に寄り添っていたのではないかと感じた。
主人公が書いた小説では声が一番に失われたけど、島では一番最後まで声は消滅せずに残っていたんだな。 -
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完璧な病室 生活感のない、完璧に清潔な弟の病室に惹かれる私。そこに完璧に溶け込む綺麗な弟と、いつまでも一緒にいたい。一方、食べるという行為や生活そのものに嫌悪感を抱いている。その不快さを、これでもかというくらい気持ちの悪い描写であらわしていて、こちらまで食欲が無くなりそうだった。
揚羽蝶が壊れる時 一緒に暮らしていた祖母(さえ)は痴呆症になり、今まで信じてきたものを一つずつ忘れて胎児に遡っている。わたしのお腹では、祖母の痴呆症が進むのと同じ速度で、わたしとは違う塊が密度を増していく。
揚羽蝶の標本を握り潰したあと、この人はベイビーをどうしたんだろう?カレンダーを破いたのは祖母とのお別れの意味?自分が認識している世界が正常か異常か分からない、というのが印象に残った。全体的に抽象的な表現が多くて、難しかった。このお話は、読者に何か伝えたいというよりは、著者が書きたいことを好きに書いたという感じなのかも。
そういえば、小川さんの本で人物の名前が出てくるのはちょっと珍しい。
冷めない紅茶 中学の図書室司書だった女性が、ライオンゴロシについて話す場面が面白かった。美しい人が、恐ろしい植物の生態について語っている。
「一緒にいる楽しさよりも、いないつらさでその人の大切さが胸にしみる時、わたしはその人を特別に愛することができる」 愛することが完全な形になるには、頭で理解するだけじゃ足りなくて、やっぱり痛みが必要なんだ。
ダイヴィング・プール 孤児院に生まれた、唯一孤児じゃない私。自分に何かとりとめのない気持ち悪さが取り付いていると感じる。家のアルバムは集合写真ばかりで、私は大勢の中に紛れている、それを切ない気持ちで眺める。「アルバムを閉じるパタンという音を、自分の家が孤児たちの間で押し潰される音のように聞く」 普通の家族らしい生活が奪われているように感じたんだろうな。孤児と自分が同等に扱われることに嫌な感情を持ってしまうこと自体、自分が嫌なヤツになりそうだし、複雑な立場だなと思う。「自分も孤児だったら良かったのに」という思考も理解できる。孤児院での生活のやるせなさを癒すため「残酷な気持ち」中毒になり、純を中和剤とする日々。表現が強烈だから引いてしまいそうになるけど、彩に限らずこういうサイクルに陥ること、あるよねと思う。
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途中までは物語がただ進んでいるかのように読んでしまったけれどラスト100ページぐらいは消失がどんどん進んでいってその中で主人公が自分の心迄を失わせないように必死になっている姿を見て、今の自分と重ね合わせてしまった。
自分が空気の存在の様に孤独感を感じているが、座っていれば給金が得られるので会社に行っている、、ぐらい仕事に行きたくないのが現状。元凶は上司。多分権力が蔓延っているからだと思う。駒使い、人を経営資源としか見做さず、人の心が分からない、エンゲージを下げるだけの役職者。誰が何を考えて仕事しているのか、考えようともしない。嫌味しか言わなくなる性格悪いオジサン。
多分一般的に嫌われるタイプ、人は付いてこない。
心までは奪われない、頭の中だけはいつも自分のもの。
この小説の中の出来事を読んで、北朝鮮などの共産主義国家の影響を想像できた。
企業は人で出来ているのに人格否定の様に否定発言を吹き込まれる。
人は働けなくなるはず。意識がどんどんなくなる、自分の意見も思っても出せなくて、考える事もしなくなる。独裁政権。
会社は資本主義経済の中で回っているのに、
きっとそのやり方だとマイナスにしかならない。
ただ、目の上のたんこぶのために、
この小説の感想で愚痴を吐いてしまうほど
精神衛生が良くないというのは
とても悲しい事だと、今更思っている。