幸福な人たちを見て、この人たちの幸福が、このまま一生続いてくれたらいいと、純粋に願ってあげられることは、度々ある。けれども、その幸福な人間が、自分の嫌いな人間だったら、早く不幸になってくれないかと内心思うこともある。その源泉にあるのは、その嫌いな相手に対する妬みかもしれないし、自分が幸せになれない劣等感かもしれない。ただ、「妊娠カレンダー」に描かれている「わたし」の姉に対する心情というのは、そういった普通に想像できる範囲の気持ちとは、一線を画している。にもかかわらず、妊娠した姉に作るグレープフルーツのジャムが、農薬に汚染されているかもしれないと想像するその心理は、どこかで自分も抱いたことがあるかもしれないと思わせられる、親近感をどこか持っているように感じる。
「わたし」が姉に対して抱く負の心情の源泉は、どこにあるのだろうか。それは、妊婦であるがゆえに許されていたわがままだったかもしれない。
つわりが始まった姉は、家の中に充満する匂いに敏感になり、毎朝起きるたび、内臓がかき回されるような感覚に苛まれる。「わたし」は、そんな姉のために家で料理をすることをやめて、どうしても必要なときは、庭に調理器具を持ち出して、地面に敷いたござの上で食事をする。
つわりが終わったら終わったらで、姉は、枇杷のシャーベットが食べたいと言い出す。そんなわがままを断りきれず、土砂降りの中、車を出すと言い出した義兄に対して「わたし」は呆れて止めに入る。すると姉は言うのだ。
「枇杷じゃなきゃ意味がないわ。枇杷の柔らかくてもろい皮とか、金色の産毛とか、淡い香りとかを求めてるの。しかも求めてるのはわたし自身じゃないのよ。わたしの中の『妊娠』が求めてるの。ニ・ン・シ・ンなのよ。だからどうにもできないの」(p54)
一度は買いに出ようとした義兄も、さすがに姉の気持ちを鎮める方へと切り替え、枇杷のシャーベットは諦めてもらうことになった。しかし、彼女を慰める義兄の様子は、「おどおどと」して、「怯えたように彼女をのぞき込むような目つき」であった。その様子がまた、「わたし」を苛立たせる。
おめでたいこととして祝われるはずの妊娠は、この物語の中で一切そのように扱われることはない。むしろ、妊娠によって変わる姉の体調と、それに振り回される家族の生活を描くことで、日常生活を支える周囲の人々が被る迷惑と、妊娠した姉の傲慢さを明らかにする。
そうした妊娠に対する不穏な気配は、次第に妊娠に至るまでの二人の関係にまで違和感を持たせるようになっていく。歯科技工士である義兄が姉と結婚する前に、「わたし」は患者として彼と会ったことがあった。金冠を被せる歯型をとるために、自分の口の中に触れる彼の指先の嫌な感触とともに、義兄と姉が結びつくことを「結婚」という言葉で表す違和感を、「わたし」は思い出した。
思い出したという表現は、もしかしたらおかしいかもしれない。「姉の妊娠と義兄の関係について、時々考えることがある」と語り出す直前には、例の枇杷のシャーベット事件が語られていた。義兄の態度に対する違和感の語りと、義兄と初めて出会ったときの違和感の記憶の語りは、語りの上では繋がっている。姉の妊娠を取り巻く違和感は、染み込んでいくように、その周囲の人に対する違和感となり、それは次第に、過去の記憶にまで浸潤していく。そうした違和感の浸潤が向かうもう一つの先が、姉のお腹の中にいる胎児であった。
「わたし」は、これから生まれてくるはずの赤ん坊について、具体的な思いを巡らすことができない。それは、「わたし」だけでなく、姉と義兄についても同じで、生活の中で、赤ん坊のことが話題にされることはなく、妊娠していることとお腹に赤ん坊がいることとは、まるで無関係のことであるかのように、家族はふるまうのだ。だからこそ、「わたし」には、赤ん坊というものの手触りがなく、代わりに思いうかぶのは、「双子の幼虫」のような「染色体」のイメージになってしまう。
これは、初めて胎児のエコー写真を見たときから、あるいは変わっていないと言えるかもしれない。写真を見たとき、最初に思ったのは「凍りついた夜空に降る雨のようだ」という感想だった。写り込んでいる赤ん坊に対しては、「そらまめ型の空洞」の「くびれた隅にひっかかっている」ものとしてしか認識できず、それは「もろい影の塊」だとしか思えない。そして、会話の話題は、写真の赤ん坊についてではなく、超音波の診断のやり方の話になってしまう。赤ん坊に対するイメージが、家族の会話の中で鮮明になることは、ないのである。姉は、写真について、一言、こう言う。「つわりの源泉がここにあるという訳」(p24)。そこにいるのは、あくまで一人の赤ん坊ではなく、「つわりの源泉」であって、それこそが、「わたし」の生活をかき乱す源泉でもあった。
こう考えてくると、毒薬に漬けられたアメリカ産グレープフルーツのジャムを食べさせるという、「わたし」の悪意のようなものの向かう先が、姉ではなくて、そのお腹の胎児であったことも頷けるように思う。普通の生活を壊したものは、姉のつわりであり、その「つわりの源泉」が、赤ん坊であった。アメリカ産グレープフルーツを犯す「防かび剤PWH」が破壊するのは、人間の染色体そのものであり、染色体とは、「わたし」にとって、お腹の赤ん坊のイメージそのものだった。
赤ん坊に対して、人間としての手触りを感じられない「わたし」にしてみれば、その悪意が赤ん坊に向かうということは、本来的にあり得ない。なぜなら、向かうべき対象に、具体的な形がないからだ。そう考えると、「わたし」の悪意が向かっている先は、姉が産もうとしている赤ん坊そのものではなくて、想像できない赤ん坊という存在に象徴されている「妊娠」という現象だったのではないかと思われる。
こうした「わたし」の内面を表す場として現れているのが、M病院という場所なのではないかと思う。幼い頃の「わたし」は、姉といっしょにM病院の一階を覗き込む。そこには、様々な医薬品のビンや医療器具など、魅力的なものが溢れていた。そんな神秘的とすら感じた一階の上には、窓から顔を出す女の人がいた。そのちっともうれしそうじゃない顔を見た「わたし」は、魅力的な物に溢れた診察室の真上に寝泊まりできるのにうれしそうでないことに疑問を覚える。
女の人がいた二階から上の階というのは、入院用の病室や赤ん坊の部屋、給食室のある階である。そこは、まさに「わたし」がリアリティを感じることができなかった赤ん坊のいる世界であるが、彼女は、その世界を見ることができない。幼い頃にM病院で見たもの記憶は、そのまま大人になった「わたし」の赤ん坊に対する感触を象徴している。そして、物語の最後、彼女は、再び姉が出産をしたM病院へとやってくる。彼女にとって未知の領域である二階、生まれた赤ん坊と対面することになるのである。
ちなみに、「わたし」は、「破壊された姉の赤ん坊」に出会うことを期待して新生児室に向かう。一見するとこの期待は残酷な期待のようにも見えるが、彼女にとっての赤ん坊が、一つの「妊娠」という現象だったと解釈するのであれば、この期待は、悪意とも言い切れないように思われてくる。「わたし」は、次のように言っている。
しかし、妊娠とは永遠のものではない。いつか終わるものだ。赤ん坊が生まれる時終わるのだ。
わたしと姉と義兄の三人の間に、赤ん坊がプラスされる状態について想像してみようと思うことがある。でもいつもうまくいかない。赤ん坊を抱き上げる義兄の目の表情とか、授乳する姉の胸の白さとかを思い浮かべることができない。浮かんでくるのはただ、科学雑誌で見た染色体の写真だけだ。(p70)
「破壊された赤ん坊」というのは、赤ん坊を染色体としてしか想像できない「わたし」にとって、「妊娠」の終わり以上の意味はないのではないだろうか。赤ん坊のいる生活というものを想像できず、想像できないからこその不安と、妊娠によって見出された生活を前にして、この生活が早く終わらないかと期待する気持ち。そうしたものが、現実の赤ん坊ではなくて、染色体としてしか形をもたない想像上の赤ん坊の破壊へと、彼女を掻き立てるのではないだろうか。
端的に感想を言うと、本当に嫌な感じのする小説だった。お腹のなかで育っている子どもに向けて毒を盛るというその想像が掻き立ててくるものが、本当に気持ちよくない。けれども、そうした決して気持ちのよくないものが、妊娠というものの周囲を取り巻いている現実なのだということが、子どもができたことをおめでたいとする雰囲気のなかで、不可視にされてきたものなのではないかと言っているように見える小説である。本来、幸福であるべきはずと思われている妊娠をめぐる不幸な出来事をもたらす不穏な気配は、そもそも何でもない普通の家庭のなかにもあることを暴いているのだと思う。
こう考えてくると、意義のある小説(?)だと思うが、それにしても、本当に読後感がよくない。