養老孟司のレビュー一覧
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昔読めばよかった
流行った当時、タイトルの意味も分からず、何の興味も覚えなかったが、今読んだら面白い。
それな!という共感しかない。
本当に頭の良い人は頭が柔らかいなと、そう思いました。 -
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しょうがない話
タイトル通り、ずれてしまうのはしょうがないねと、先生と伊集院さんが話してくれるお話です
先生達にカウンセリングしてもらってるような感じ
自分以外のずれてる人も折り合いをつけながら生きてるんだな、少なくとも二人は確実にと思わせてくれます
明日が劇的に変わることは無いけど、しょうがないねと自分を励ませるかもしれない気持ちになりました -
Posted by ブクログ
子育てに真剣に向き合っている印象の小島さんと、全ては「自然」からの視点で捉える養老先生の子育て対談という、噛み合っているんだかズレているのだかよくわからない対談で面白かった。
「変質する世界」に収録されていた、ぶっ飛んでいた養老節を思い出す。他のジャーナリストや学者さんが微に入り細に入りコロナ問題を議論する中で、養老先生は人間という生物の生き方そのものとは、みたいな高見からの意見で、印象に残っているのは養老先生のエッセーだけだ。
第一パンチは「哺乳類の子育てが始まったのは6000万年前。人間はせいぜい25万年でそこに意識を持ち込んで、自然である子供をコントロールしようとしている」という話。ドキュメンタリーで見るシロクマやオオカミの子育てを思い出し、その延長に自分の子育てがあるという見方が目から鱗だった。
その文脈で、早期教育や小学校受験、中学校受験はいわば抜け駆けであり、長い目で見れば結果は同じ、早期英語教育をしたところで、もし自分がそれなりの成果を出せば誰かが翻訳してくれる、という、一見乱暴な議論も、本当に何がしたいのか、人を育てる目的は何で、何を目指しているのかが定まっていれば話は簡単だという議論に納得。さらにその延長として、グローバル化も、ローカルがしっかりしていればグローバルがついてくるのであって、グローバル化しようと他に追従しようとする姿が間違っている(中身が伴っていない)という議論には色々頷く部分があった。英語が話せること等の能力はフリルであって、その能力で何がしたいのかという議論が抜けているということに気づかせてもらえた。
男性が育児をすべきかという議論には、家事育児を公平にと考える小島さんとのズレが激しくてこれも面白い。養老先生の場合、子育ては母がメイン、でも子育てだけしていればいい状態はむしろ理想的で、それに文句を言うのは贅沢だという考えらしいが、その考えの元は「自然界ではメスが子育てしている」という事実と、自身の母親がシングルマザーの女医という、なんとも特殊な環境で育ったことにある。他の男性が発言したら「は?」というところも、先生の場合は自身を含めて人間をあくまで動物としてのオスメスで捉えている感があり、世間一般とのずれが激しくて面白い。そして時間がある人は山林の手入れに手を貸して欲しいというぶっ飛んだ結論。
その他印象に残った部分
原発の失敗:平均的な人間の能力内に収まっていなかったことが根本的な問題。現場にはそれに率先して対処しよう責任をとろうというエリートはいなかった。
「ある程度の年齢になったら、育ちがああだった、こうだったと言わないことです。育ちのせいにしない。過去は全部チャラ。それが大人になるということです」
一次産業=自分の力で生きることの重要性。 -
Posted by ブクログ
お二人とも大学で教育に携わっていらっしゃったフィールドワーカーなので、やっぱり、教育に関する言葉がズシズシ響く。
以外、一部引用。
--心地よいものばかり求めていったら、ダメになると思います。……AIが分析したら、心地のいいものばかりつくる可能性がありますよね。(山極先生)
--今のような環境に子どもを放り込んじゃうと……ようするにもう、「受け付けない人」ができちゃう。(養老先生)
--学校って、何かを教わる場所だと、皆さん思っていませんかね。学習というのはようするに「自習」なんですよ。……自分が学ぶ以外に、学びはないんです。(養老先生)
--学習というのは「自習」と「対話」だと思います。(山極先生)
人間教育の鍵は、幼児期と思春期にある、とのこと。もっと早く読んどけばよかった…… -
Posted by ブクログ
まずタイトルにどきっとする。絵になる子育てにしてることってたくさんあるぞ私、と。
「子育ては自然である。」という養老さんの説に沿って繰り広げられる対談本。
面白かったのはテレビでホームドラマが流れるようになって、一個のカメラが撮っている画像を全視聴者が見るという非常事態が続いているという話。目は普通共有してなくて皆違うものをみてるのにそれを忘れてしまっていると。母親が見ているものと子供が見ているものは違うのだということ。
そしてわるい叔父さんの意義。その人の器なりの人生。社会でどうやって人の役に立つか。二地域居住制。どん底に落ちたら掘れ。 -
Posted by ブクログ
『ヒトの欲にはキリがない。かたや、猫に限らず、動物は足ることを知っています』―『吾輩はまるである』
「唯脳論」を読んだのは何時のことだったか。全ては脳の機能に帰結するという考えかと思いきや、あくまで脳を意識などに直結する機能を持つ身体として捉え、ホムンクルス的なものとして位置付けないというのが新鮮だったように思う。その後の著作も含めて著者には「考える」ということはどういうことなのかを随分と示唆されたように勝手に思っている。
『今は極端で、なんでも言葉にしようとする世の中ですよね。言葉にすると変わらないものになるから。情報化社会ってそういうことです。変わらないもので埋め尽くしていく。そうすると意外にわからなくなるのは、生きているとはどういうことかということなんですね』―『日本語は「悪魔のコトバ」』
時に養老孟司の言葉は紋切り型に響き、結論に辿り着くまでの細かな論理展開を省略するあまり乱暴に聞こえることもある。しかしその背景にあるのは、自分の頭で試行する手数を踏まないで解った気になることへの批判であろうと思う。頭で試行するとは身体の鍛錬と同じこと。自分の思考だと思っていることが単に記憶という脳の機能の一部に保存された情報であることに気付いていますか、と常に問われている。
『脳は、非常に適応性が高い。だから、変わるんです。でも、人間はそれに気づいていない。感覚を通して変わっても、自分が変わったとは思っていないんです。それは意識が騙しているんですね』―『脳みそを変える』
もちろん、養老先生の言うことが全て正しいと考える必要はない。しかし人の意識や思考を脳という臓器の機能を通して捉え、何故そうなっているのかを考え続けてきた先人の知恵は傾聴に値する。 -
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森博嗣さんとの対談が…
あまりに首肯出来るので、二度読みしてしまった。
特に、元は安全装置を含めた設備系機械の開発設計者だった小生としては、「絶対」や「完璧」を振りかざすのは「絶対」と「実現性」の意味を知らない愚か者だと考えるので、「55%賛成」「絶対安全は言葉だけ」には、唸った。
「前提を問う」のくだりも含めて、「自分は文系でアナログだ」というヒトには、是非読んでもらいたい本である。
「文系の方がデジタルだ」は、誤解する文系もいそうなので、解説すると、このくだりでの「デジタル」は、「アナログ」の対義語ではなく、「ファジー」の対義語として語られている。工学者や科学者は、「現状」厳密に定義出来ない曖昧な概念は、曖昧なままでスルーする。又はそのまま利用しようとする。ファジー理論とは、そういう工学者の姿勢の上から生まれた。
ここは、勘違いして欲しくない。 -
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和風「FACTFULNESS」
題名の通り、逆さめがねをかけた視点をたくさん学べた。筆者からすると、世間が逆さめがねで見てるだけで私が裸眼だとも言っている。確かにそうかも知れない。
特に印象に残った内容を自分の解釈で
・空き地って空き地じゃなくない?木も鳥も虫もいるじゃん!
・現実はひとそれぞれ。公平とか真実とか無理に求めるな!
・「ああすればこうなる」ばっかり求めるな!教育は特にそういう風潮あるよね!
・身体を使わなくなってきている、核兵器発射もボタン1つだもんね!
・学問、読書をすること→自分が変わること
・起きたことばっか注目されるけど、努力の末起きなかったことも大事!
・説明できないこと→間違っているという風潮あるよね!
特に、「ああすればこうなる」が全てじゃないことは頭の片隅に置いておこう。 -
Posted by ブクログ
昔、ヒトは洞窟に住んだり、森で獣を捕まえたり、自然の中で生きていたが、文明が進むにつれ、建築物や道路、街路樹に囲まれた社会を作っていった。この社会は脳の大脳皮質が生み出した幻想。都会に住んでると、周囲のあらゆるモノゴトは単なる記号や情報にしか見えなくなってくる。自然から切り離されたデジタル世界に生きてる錯覚になる。でも、ネットとかで生々しい死体の写真や「九相詩絵巻」を見ると、「あぁ、ヒトも自然の一部なんだ」「あらゆる意識を生み出すのは脳という身体の器官なんだ」と気づいて背筋がゾッとする。心地よい幻想から目が覚めて、生々しい自然の中にいることに愕然とする。隠されるものは、一皮剥いだ死体、すなわち異形のものである。しかし、それがヒトの真の姿である。なぜなら、われわれがいかに進歩の中へ逃走しようと、それが自然なるものの真の姿だからである。ヒトを生み出したのは、その自然である。『唯脳論』1989
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サヴァンのカレンダー計算能力、眼前の景色を完全に記憶するカメラ・アイ、演奏された曲をその場で覚える、桁の大きい素数を順次追う能力。これら能力はヒト社会では役に立たない。要求されるのは言語を使って他人と共有する力。p.165『人間科学』2002
機能は場所が決まっていない。肺の場所は決まっているが、呼吸の場所は決まっていない。心臓の場所は決まっているが、循環の場所は決まっていない。筋肉の場所は決まっているが、運動の場所は決まっていない。脳の場所は決まっているが、意識の場所は決まっていない。▼人間は自分の内臓に発生するがん細胞を感知できない。人間が感知できるのは外界。『からだを読む』2002
一元論。壁の内側だけが世界で向こう側が見えない。自分は変わらないという根拠のない思い込み。自分が違う人になるかもしれないと思えば、絶対的な原理主義は主張できない。p.194。人間は悩むのが当たり前、生きている限り悩むものなのに、悩みがあること、全てがハッキリしないことを悪いことと思い、無理やり悩みを無くそうとして、確かなものが欲しくなり、科学・宗教を絶対視してしまう。p.121▼己の日常とは別の世界を見て自分で何かを考える。p.169。安易に「わかる」「話せばわかる」「絶対の真実がある」と思うな。思考停止して強固な壁の中に住むこと(一元論)は楽だが、向こう側・自分と違う立場のことは見えなくなる。話が通じなくなる。p.204『バカの壁』2003
『まともな人』2003
人間が自然であり、高度なシステムだと捉えれば、畏怖の念が湧いてくる。それは結局自分を尊重していることになる。p.23▼自分の死体は「ない死体」。親しい人の死体は「死体ではない死体」。他人の死体は「死体である死体」。p.82▼中国には「墓を暴いて死者に鞭打つ」という考えがあり、中国人は死んだ後も人は別人になるわけではないと考えている。p.109▼ハプスブルク家は死ぬと心臓だけ取り出して銀のケースに入れて教会におさめていた。p.149▼「どうせ死ぬから今死んでもいい」は「どうせ腹が減るから喰うのを止める」と同じ。p.174『死の壁』2004
元気な自分と死にそうな自分は別の人。死ぬのは私ではなく別の人。死体は私にとって想像ではなく、平たい現実。▼フツーの顔を何枚も重ねていくと美人(特別)になっていく。当たり前の極限がノーベル賞。▼与えられた自然状態に対して、人間社会がやり遂げたことを考えれば、日本は世界でも模範的な国家のひとつ。p.242『人生論』2004
『無思想の発見』2005
感覚の世界ではすべてが違うが、言葉の世界ではすべてが同じ。言葉の「リンゴ」は赤くても青くても、大きくても小さくてもリンゴ。マンガはその「違う」と「同じ」をつなぐところに位置している。感覚の世界が地面で「同じ」の世界が天井で、そこに唯一絶体の神がある。p.34。人間は12兆個の細胞からできたものすごく複雑なもの。人間の複雑さに比べたら、原爆なんておもちゃみたいに簡単。そういう簡単なものに、ややこしいものをこわす権利はない。p.143『マンガをもっと読みなさい』2005
人は眠るとき意識が切れている。起きていると意識がある状態が続き、眠っている間は意識は切れている。死ぬということは最後に意識が切れてもう戻ってこない状態をいう。人生は点線。▼人が抱く死への恐怖は生前のものであって、死後は意識はなく死への恐怖もない。『養老訓』2007
現代人の悩みは人間関係の比重が大きすぎる。人間関係が肥大しすぎている。家族がどうだとか、友達がどうだとか。▼自然がない。花鳥風月。気ままな猫。方丈記。人間はあくまで自然の一部であり、自然の世界が縮小しすぎるのは良くない。▼日本人は7割が自分は無宗教と思っている。無宗教の「無」は仏教の無。『未来を変える選択』2012
個性は放っておいても誰にでもある。この世で生きていく上で大切なのは人といかに違うかではなく、人と同じところを探すこと。p.12。伝統芸能では徹底的に師匠の真似をさせられる。しかし、どこかがどうしても違ってくる。その違いが個性。弟子入りの段階から個性を伸ばせと言っても意味がない。p.34▼自分と世界との区別がつくのは、脳がそう線引きしているから。地図の中で自分の場所「矢印」はここと決めてくれているから。脳の空間定位の領野が壊れれば、自分と世界との区別はつかない。境目がない。p.19『「自分」の壁』2014
理系と文系の違いよりも、野外か実験室かの違いが大きい。『文系の壁』2015
同じの世界:見えているものが同じ,意識,数学,一神教,グローバル,イコール。違うの世界:見えているものが違う,感覚,芸術,多神教,ローカル,ノットイコール。現代社会は「同じの世界」に偏り,バランスを欠いている.たとえば,「白」という文字.これは意識でとらえると白色,感覚でとらえると黒色(文字は黒色だから).鴨川はつねに鴨川だと思っているが,流れている水は常に違う水.私はつねに私だと思っているが,人の身体は物質的には7年で入れ替わって違うものになる.人間はイコールを理解できるが,動物はできない.猿の話.朝三暮四(ちょうさんぼし)目先の違いに囚われて,実際は同じであることに気付かない.都市社会はエアコンで「同じ」気温,照明で「同じ」明るさ,石の床は「同じ」堅さ.「違う」「変化」は排除される。人間関係は「同じ」が好まれ,「違う」「変化」は嫌われる.生身の人間は常に変化する.その「違い」や「変化」が面倒臭い.いらない.となる。*ペットは「死ぬ」から飼うのを嫌がる人がいるが,これも「死ぬ」という自然の「変化」を嫌う現代人の特徴なのかも.『遺言』2017