角幡唯介のレビュー一覧
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地図上にはもはや空白がなくなってしまった現在、新しい冒険、探検はどこにあるのか? かつて「空白の5マイル」でチベットのツアンポー峡谷の空白を埋めてしまった著者の答えは、地図を持たない「登山」だった。著者にとって未知の山域である日高山脈を地図なしで漂泊した4回、都合49日の記録。
チベットの峡谷や極北、辺境の冒険家である著者にして、2000メートル程度の日本の山域が地図がないだけで冒険のフィールドになってしまう。「人が生きるには未来予期が必要だ。未来予期こそ人間の第一の存在基盤である」のに、地図がないだけでその滝の向こうに何が広がっているかわからない状況は存在基盤が脅かされる怖れを抱くには十分だった。
特に最初の漂泊は、著者のツアンポー峡谷の探検を彷彿とさせるもので読者はその「怖れ」を共有するものとなった。
著者が後書きで書いているが、1回目の漂泊と2回目以降の漂泊の間には大きな断裂がある。2回目以降の漂泊はより山と身体が一体化し、読者は「怖れ」ではなく「楽しさ」を共有することになる。
「怖れ」も「楽しさ」もページをめくる手が止められない。 -
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なんだろうな?探検とは?
探検家に魅了される秘境?
一度自転車で日本一周したら、その虜になり、アルバイトして何度も行きたくなるとか。
僕の場合、ジョギングの魅力を知ったが最後、どんなに、足の怪我に悩まされても、走ることをやめられないということとか。
ギャンブルと同じなのかも?と思ったりした。
一度探検の魅力を知ってしまうと、また探検したくてたまらなくなるのではないか?
それはもう、探検したことのない人には、理解できないのではないだろうか?
なぜ命を落とす危険性があると知りながら、人は未開地?秘境?を目指すのか?
なんとなく想像するに、
血湧き肉躍る高揚感?危険と隣り合わせの状況に放り込まれてこそ、「生きている」という実感を、リアルに感じ取ることができるのではないか?
そんな気がする。
ギャンブルで大勝ちした時と同じく、エンドルフィンがドバドバ出るような経験って、日常生活ではあまりないですよね。
比較対象をギャンブルに置いてしまったが、無論そんなもの、実際には比較にならないのかもしれない。
それはもう、探検を実際に行った人でないと理解することはできない、ですよね。
誤解を恐れずに言えば、ある意味不幸な生き方と言えるかもしれない。
極限的な状況に身を置かなければ、生を実感できないのだから。
この著者の本は、2冊目なのだが、今回はあまり感情移入できなかった。
探検は素晴らしいのか?
正直僕はそうは思えない。
リスクとお金がかかる趣味だな。
そんな印象。 -
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高野秀行(1966年~)氏は、東京都生まれ、早大第一文学部卒。大学在学中に『幻の怪獣・ムベンベを追え』(1989年)で作家デビュー。代表作は、『ビルマ・アヘン王国潜入記』(1998年)、『西南シルクロードは密林に消える』(2003年)、『謎の独立国家ソマリランド』(2013年/講談社ノンフィクション賞)。植村直己冒険賞受賞(2024年/探検家・山田高司と共同)。
角幡唯介(1976年~)氏は、北海道生まれ、早大政経学部卒。代表作は、『空白の五マイル』(2010年/開高健ノンフィクション賞、大宅壮一ノンフィクション賞)、『アグルーカの行方』(2012年/講談社ノンフィクション賞)、『極夜行』(2018年/本屋大賞ノンフィクション賞、大佛次郎賞)。
本書は、ともに早大探検家出身(10歳差あるので大学時代に一緒に活動はしていない)の高野氏と角幡氏の対談で、2014年に出版、2016年に文庫化されたもの。上記の通り、2013年に講談社ノンフィクション賞を共同で受賞した後のタイミングに当たる。
私はノンフィクション物が好きで、高野氏の『アヘン王国』や『ソマリランド』、角幡氏の『空白の五マイル』や『アグルーカ』も読んでいる。一方で、対談本については、一人の作家の書き下ろしと比べて、焦点がボケたり、当たり障りのない内容となっていることが少なくなく、基本的には好まないのだが、この二人の対談がつまらないはずはないと思い、読んでみた。
目次(対談のテーマ)は、第1章:僕たちが探検家になるまで 第2章:早稲田大学探検部 第3章:作家として生きること 第4章:作品を語る 第5章:探検の現場 第6章:探検ノンフィクションとは何か で、まさに、探検をすることとそれを書くことについて、縦横無尽の議論が為されている。
私は、両氏の作品や、作品のあとがき等で書かれているポリシー的なものも認識しているので(角幡氏についてはエッセイや冒険論も読んだ)、大きな驚きはなかったのだが、同じ探検部出身で、同じ探検家(冒険家)+ノンフィクションライターと呼ばれるにもかかわらず、(誤解を恐れずにシンプルに言うと)感覚派の高野氏・理論派の角幡氏、人が好きな高野氏・自然が好きな角幡氏、動の高野氏・静の角幡氏。。。と、両氏は意外なほど対照的な印象が強く、その点は興味深かった。
また、二人が探検部の先輩後輩であることから、両氏の心理的距離が一般の対談よりも近く(年長の高野氏のさりげない気配りも感じる)、その点も本書を面白くしていると感じた。
両氏の作品を読む人ならもちろん、冒険+ノンフィクション好きなら十分に楽しめる一冊と思う。
(2024年7月了) -
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ネタバレようやく読書の時間を取れるようになってきたため再開。
二部構成、各6章-2章構成
探検家の魂のノンフィクション自叙伝
・メインストーリー
チベットのツアンポー峡谷にある、
前人未踏の空白の五マイルを日本の探検家が単独で踏破を試みる。
・サブストーリー
途中、角幡氏の回想シーンと、ツアンポー・チベットの案件にまつわる歴史的叙述のシーンがある。
・構成
基本的には角幡氏の探検中のシーンがほぼありのまま語られる。
・特に印象的な場面など
p.177
当然のことだが、滝には地元の人たちから呼び習わされてきた名前があった。〜米国人が思い入れたっぷりに名付けた「ヒドゥン・フォール・オブ・ドルジェパグモ」でも、中国人たちが無機質に命名した「蔵布巴東瀑布群」でもない、「ターモルン滝」という美しい名前があったのだ。
p.112,113
息子はどこかに流れ着いたら、そこで修行をするんだと答えたという。そこはチベットの有名な聖地なんだ。それが2人の間に交わされた最後の会話だった。『今になって思うと、どこかに流れ着いたらというのは、死後の世界のことを言っていたのかなとも思う。今でもあの言葉の意味を考えることが多いんですが、行く前からある程度の覚悟はあったのかなと思います。』
エピローグとあとがき全部
・気づき
1.究極の追体験
何かを追体験できる、というのが読書の魅力の一つだと思うが、そのような追体験のうち、何かしらは自分が共感できるものだったり、イメージしやすいものだったりする。
ただ、この本はそこが全く異なっていた。
角幡氏が体験した全ての出来事が、常軌を逸したものであり、私自身では到底真似することが不可能で、イメージさえも難しい領域にあるものだった。
ゆえに1文1文読むのにとてつもなく体力を使ったが、その分だけ無知(未知)の世界の広がりを感じることができた。
2.自分の行動の意味づけをすること
彼が敢行した探検行為は、周囲からすればどういう意味があるのか疑問に感じるし、実際私も読んでる途中になぜこんな死のリスクを冒してまで冒険をしているのか…?という気分になった。
角幡氏自身も探検途中にその意味するところを突き詰めきれてはいなかったのではないか。
というのも、今なぜそれに取り組んでいるのか、その時々では本能的・直感的に分かってはいるものの、それを言語化するよりも先に体が行動しているからだと思う。
言語化・意味づけをせずにやり過ごしてしまった体験は風化してしまい、せっかくの貴重な体験でさえも問答無用で錆びついてしまう。自分の血肉となるべき経験を無価値にしてしまうのは勿体無い。
しかし、そうは言っても簡単に自分の行動の意味づけを行うことはできないようで、角幡氏もあとがきの部分で、全てを書き記すことはできていないと書いている。
分からなければ何度も重ねて意味づけをする必要があるようだ。
3.文の構成
本書の内容はとんでもない出来事の連続ではあるが、割と最後の方は慣れてきて、若干単調に感じてくる。というのも、本書の位置付けが最初に提示されず、読み手が迷子になってしまうからでは?と感じた。最後の最後で本書の位置付けが明示され、その背景で書いたのね、と納得はできるが、その情報なしだと、どんな素敵な秘境があるのだろうと期待しながら読み進めるので若干面食らう。
構成として、この冒険に何の意味があるのだろう、と疑問を抱かせる点では本書の構成がエピローグで伏線回収的になっていいのかも、と思ったりもしたが、最初に位置付け明記した方が親切とも思った。 -
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角幡唯介(1976年~)氏は、北海道生まれ、早大政経学部(早大探検部)卒のノンフィクション作家、探検家。
『空白の五マイル』で開高健ノンフィクション賞(2010年)と大宅壮一ノンフィクション賞(2011年)、『アグルーカの行方』で講談社ノンフィクション賞(2013年)、『極夜行』で本屋大賞ノンフィクション賞(2018年)と大佛次郎賞を受賞。
本書は、自ら、チベット奥地の峡谷や極夜の北極などに挑む冒険を行い、それをノンフィクション作品として発表してきた著者が、「冒険とは何か?」、「人は何故冒険をするのか?」、「冒険の意義とは何か?」等について綴ったものである。初出は、季刊雑誌「kotoba」の2017~18年の連載。
私は、角幡氏の著作は、これまで、『空白の5マイル』、『探検家の憂鬱』、『旅人の表現術』、『アグルーカの行方』を読んだことがあるが、(一見)無謀な探検をする探検家としての側面と、理詰めで物事を捉える批評家的な側面を併せ持った、角幡氏の類稀な個性に惹かれており、本書も偶々新古書店で目にして手に取った。因みに、上記の講談社ノンフィクション賞の選考会で、小説家の高村薫氏は、「角幡という人はおそらく、人間的にも、探検家としても、あるいは文章家としても大変優れていると思う(が、それが整いすぎているという印象を持つ)」と語ったという。
本書で著者が言いたかったこと、私が印象に残ったことを列挙すると以下である。
◆日本の冒険論の嚆矢ともいえる、本多勝一のそれによれば、冒険の条件は、①明らかに生命への危険を含んでいること、②主体的に始められた行為であること、の2つ。更に、それが「パイオニアワーク」(=前人未到の行為=常識ではない行為)であると、より冒険的といえる。
◆人類史上最高の冒険は、(それ以前の国家プロジェクト的なものを除く)個人的な行動であることを前提にすれば、ノルウェーのナンセンが1893~6年に行った北極海横断探検。そのスケールと非常識ぶりは人類史上際立っており、驚異のひと言に尽きる。
◆冒険とは、一言で表せば、システムの外側に飛び出す行為、即ち「脱システム」的な行為のことである。しかし、現代では、①情報通信テクノロジー(GPSや携帯電話)の発達、②「登山」等のジャンル化、③人間の物の見方の変化(気付かぬうちにシステムを前提に行動をとるようになること)、により、冒険の現場のシステム化が進んでおり、脱システムが非常に難しくなっている。
◆現在冒険と称されている活動の多くは、システムの内側で行われているものであり、野外フィールドで肉体の優劣を競うだけの、疑似冒険的スポーツである。エベレスト登山ですら、今やマニュアル化されており、冒険とは言えない。
◆地理的・空間的観点からの「脱システム」の可能性がなくなった現代において、冒険をするためには視点の転換が必要であり、実例としては、狼の群れと暮らしたショーン・エリス、服部文祥のサバイバル登山、著者の極夜行等が挙げられる。
◆それでも冒険をする意義とは、①社会的には、脱システムした冒険者が、システムの外側から内側を見て、それを語ることよって、システム内部の常識・既成概念・価値観を見直すきっかけを与えられること、②個人的には、冒険者は、脱システムすることによって、自力で自分の命を維持管理するという、究極的自由を手に入れられること(その対価は死の危険)、である。
と、ここまでは、著者のいくつかの作品を読んでいれば、比較的容易に想像がつく内容なのであるが、目から鱗だったのは、「終わりに」に書かれた次の一節である。
「冒険とはあくまで身体的に脱システムすることに限定した言葉であり、身体的という条件をとり払えば、脱システム的価値観は冒険の境界を飛び越えてどこまでも広がる。文学でも芸術でも建築でも、何かを表現しようという世界では常に、予定調和的な決まりきった領域から飛び出して前人未到の領域をめざそうという営為がつづけられている。私は冒険の脱システム性をことさら強調することで、本書の議論に、冒険という狭い枠にとどまらない、人間の行動とか表現にかかわるより普遍的な強度をあたえられるのではないかと期待した。」
期待を裏切らない角幡・冒険論である。
(2024年1月了)