角幡唯介のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
『もし私が今度の旅で何か分かったことがひとつだけあったとすれば、それはあの時に感じた、ある種の生きることに対する罪悪感であった』
北西航路発見の探検で死んでいったフランクリン隊の足跡をたどりながら1600kmの道のりを歩き続けた冒険・旅
とても面白かった
”自分の体から出る水分の多さにうんざりした”
”通信手段として、岬や丘など目立つ場所にケルンを積み上げ、中に記録を残すのが連絡手段であった”
”山岳地帯の探検で重要なのはGPSが教えてくれるデジタルデータではなく地形図から読み取れるアナログデータだ。極地では緯度と経度という厳密な数字によって把握するしかない。”
”フランクリン隊と私たちの大 -
Posted by ブクログ
角幡唯介の本を読むのは「極夜行」に続いて2冊目。「極夜行」を読んだのは、随分以前の話なので、内容については記憶が曖昧ではあるが、北極圏での極夜(陽が昇らない時期。白夜の時期の反対)での冒険譚、それも、かなり危険な冒険譚だったように記憶している。
それに比べると、本書は、趣を異にする。筆者は、北海道の日高山脈に地図や、その他の日高山脈に関する情報を持たずに入り、「漂白」する。冒険にも色々な種類があるだろうが、何も情報を持たずに人里離れた地域に入っていき、徐々に自分なりにその土地の(今回の場合には、北海道の日高山系の)情報を積み上げていく、すなわち、その土地について、徐々に分かっていくことも冒険で -
Posted by ブクログ
陽はまたのぼりくりかえす。が当たり前な世界で生活している側の人間として、闇に覆われた世界は未体験ゾーンでしかない。
その、ワンミス=死というハードコアな環境で脱システムを掲げ、現代テクノロジーを遮断し、4ヶ月もの冒険を決行する角幡氏を襲うブッ飛びエピソードの数々に恐怖し爆笑する。
そして、どんな状況下に置かれても、生き物としてのシンプルな強さとセンスで順応する、角幡氏のサイドキックである犬のエミリヤックは今作のMVP。
それ故にクライマックスの展開は映画的で、作中の言葉を拝借して、まるでフィクション。しかし事実は小説よりも奇なり。なわけでグッときた。
あと、時折挟まれる、スピリチュアルと -
Posted by ブクログ
極夜行をフルに楽しむ為に、気は乗らないが今作を読んでみる。結論、面白い。
まだスタート地点にも立ってない準備段階で、ピンチの連続、死亡フラグの連続。なかでも海象への印象をガラッと変えるエピソードは、スピルバーグの傑作ジョーズを彷彿させる緊張感でゾッとする。
そして犬橇に使われる犬への、忖度しないし躾け方法は犬好きの怒りを買うのは待ったなしだろうが、ハードな環境で生きる為に、合理的な関係を築くイヌイット式犬の飼い方には納得しかない。
社会の窓、いわゆるズボンのチャックが開いてるだけで死にかけるグリーンランドの生活。こちらは日本ですが、日常生活でも引き続き気をつけて閉めて行きたいと思います。 -
Posted by ブクログ
奥只見の教訓から地図無し登山を日高山脈で決行したあと、著者は極夜での放浪を終えた後に漂泊を思いつく。
第一部ではその考えから、橇を引いての北極探検へと犬一匹と向かう。
「自分の土地」を広げていく。
この言葉について、狩りを経験した人なら分かると思う。
俺自身も罠を仕掛けてイノシシを狙うハンターの一人だが、何度も同じ場所を歩いて、イノシシの動静を想像して罠を仕掛ける場所を決める。
何度も同じ場所に行くことで、その土地を深く知っていくということが「『自分の土地』を広げる」ことだと分かる。
ただ、著者のように命がけで自分の土地を広げようという領域までは理解が及ばない。
その領域の分 -
-
Posted by ブクログ
事前知識なしに自然と対峙することで太古の人類が経験したであろう自然との関係を追体験しようとした試みの記録。
そのため著者は北海道の日高山系に、事前に地図を見ることなく、また山などの固有名詞も知ることなくおおよその位置関係だけで山を登っていく。また長期間の旅となるため釣りなどをしながら食べ物も調達しながら旅行するというスタイルを取る。読んでいるとラーメンや蕎麦などある程度は食料は持ち込んでいるがコンロなどはなく、焚き木で加熱している。関野さんのグレートジャーニーと似ているが、地図が無かったり、できるだけ自分で対処するするようにしており、旅の趣旨はよくわかる。しかし、釣り竿を持っていたり、コンパス -
Posted by ブクログ
自分は新型コロナワクチンで後遺症になったのが42歳の頃だから、本書でいうところの43歳が頂点というのとは少し趣旨が違うのだが、結果的にそれに近い状況であることに間違いはない。
またそのような後遺症があるかないかに関わらず、何かに思い悩んだり迷ったり後悔したりすることがほぼなくなった。もともと自分の思うがままに生きてきたのでそれは以前からそうだったといえばそうだったのだが、やはり10代、20代前半くらいまでは何かにならなくてはいけない、という思いに駆られていたのは間違いない。あのヒリヒリした生に真正面から向き合う姿勢はなぜあの頃にはあって今はなくなってしまったというか平たいものになってしまった -
Posted by ブクログ
著者の言う43歳頂点論に初めて接したのは『狩りと漂泊』だった。40代前半で体力と経験のバランスが微妙に齟齬をきたし、冒険家が命を落としてしまうという考察。その時も激しく同意したが、本書はさらにその周辺を深堀りしている。
43歳までの膨張期、43歳の頂点、43歳を過ぎて迎える減退期と、大きく3期に分けて論じているが、どれも面白い。取組んでいるアクティビティや、活動レベル、本業の有無等により、程度の差は大きくなるだろうが、みんな感じてきたことと思う。著者はまた、43歳を過ぎると、今まで考えもしなかった引退後の生活を考えるようになったことも43歳を頂点と考える要因雄一つに挙げている。家庭を持っ -
Posted by ブクログ
極域の極夜単独行など、独自の視点で探検を行い、その体験を文章化してきた角幡氏。結婚を機に「なぜ結婚したんですか」という質問に向き合うなかで、それは「なぜ冒険をするのか」という問いと同じ構造で捉えられると考察します。
「なぜ結婚したんですか」という問いの背景には、”冒険家として生きるなら結婚は邪魔なのでは”という質問者の思い込みがあり、だからこそ”合理的に判断すれば結婚しない”という結論に行き着くはずなのに、”なぜ結婚したのか”という問いが発せられると著者は分析します。それに対し、著者が思索の末にたどり着いたのは”結婚を思いついたら、それをしない選択はあり得なかった”というものでした。一見、飛 -
Posted by ブクログ
最近、自分がこれからどう生きていくのか考えるようになった。無論、結婚もそれに含まれる。
自分はいつ結婚するのか、結婚しようと思ったら早いうちに行動すべきなのではないか、そのためにはどんな相手を求めるのか、自分がどんな人間であるべきなのか、結婚を合理的に進めるための行動を考えていた。
自分はいつも誰かを好きになる時、相手は恋人として合理的でない人ばかりだった。つまり相手(=私が)を恋人して見ていなかったり、そもそも恋人という存在を必要としていなかったり、恋人に対して歩み寄ったり関係を進めるための行動を起こさなかったり、という具合である。
合理的に考えればそんな相手よせばいいのに、どうしたって