橋本治のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
なんだかとりとめのない語りだなあと思って気乗りせずに読んでいたら、第六章「老いの貧苦」が驚きの内容。「余は如何にして貧となりしか」と題して億単位の借金を抱えることになった経緯が記されている。これだけでもすごいのだが、さらに、第七章「病気になる」では、免疫系の難病を発症し、それでもなお借金返済のために入退院を繰り返しながら働いていることが綴られていて、なんともまあ壮絶である。あるのだが、しかし、そこが橋本治であって、あっけらかんと、というか、飄々と、というか、形容に困るのだけれど独特の語り口なので、あらまあそうなの?という感じで読まされてしまう。
自分より十歳ほど年上の、いわゆる団塊の世代の方たちが、「高齢者」の仲間入りをしつつある。従来の「年寄り」という概念が崩れている今、どう年をとっていくか、参考にしたくて注目している方たちがいるのだが、著者もその一人だ。「老・病・貧・孤」という状況を抱えつつこの境地。とてもじゃないが自分には無理だけれど、どこか気持ちを楽にしてくれるのは確かだ。 -
Posted by ブクログ
1991年におこなわれた、橋本治と中野翠の対談。昭和天皇の崩御から始まって、「昭和」という時代とそれを支えてきた世代に対する批評が展開されています。
本書の読み方は二つあって、一つは、中野の考えに橋本がえんえんと注釈をつけた本として読むやり方、もう一つは、橋本のえんえんと続く議論の結論を中野がスパーン! と明快に(若干キレ気味に)取り出して見せた本として読むやり方でしょう。個人的には、中野翠という人については「林真理子の亜流」というくらいの認識しかなかったので、橋本の手引きによる「中野翠入門」として読みました。
読者の目を引くポイントとしては、今の男の子の通過儀礼は「やっぱり男と寝るしかないと思う」という橋本の発言ではないでしょうか。いまの男の子は通過儀礼というものがないから、「可愛い」少年のままで成長して、自分のなかで「可愛い」ということをどう位置づけてよいのかわからなくなっていると橋本はいいます。ところが、そういう男の子に「君は可愛いんだからいいじゃない」といってしまうと、「俺は可愛いと言われたぞ」という仕方で権力志向に走ってしまいがちで、それはつまらないと橋本はたたみかけます。そして、このようなごたいそうな「自分」の身体を、ふたたび他人のために譲歩できるものへと作り変える通過儀礼が、「男と寝る」ことだという主張が展開されることになります。
話題が次々と移っていくので全体の見通しのようなものを得るのはたいへんむずかしいのですが、むしろ対談の醍醐味はこうしたところにあるのではないかという気がします。 -
Posted by ブクログ
タイトルに惹かれて読んだ。
なるほどと思いつつも、話があちらこちらに飛んで、結局訳分からないメチャクチャな印象もある。ここまで頭がこんがらがるような本は、初めて読んだかもしれない。
・下=現場。上=会社
・会社は現場を収奪する。現場を痩せさせる。
会社は利潤を追求するために存在する組織。
現場と出会えなければ、会社は簡単に枯れる。
・最前線=現場=下からの風。
上司=組織のピラミッドの一部=下に部下、上に上司=現場と隔離=上からの風。
最大の問題は、現場と会社の分裂。最初は現場と会社は分裂していない。分裂すればするほど、官僚的な組織になる。
・会社には二つの風が吹いている。「上から下への風」と「下から上への風」。しかし官の組織は、下から上への風はない。官の仕事は法令に基づいた仕事=上からの風のみ。(現場は必要だが、仕事は根拠に基づく。矛盾を強く感じる。耳が痛い話)
・上司は偉くて、部下は偉くない?ルーツを探って儒教(冠位十二階)の影響まで話が及ぶw。
・「日本的オリジナル」を! 日本の会社は現場の声を聞いて大きくなった。現場の声を聞いて、どうすれば痩せた現場を豊かに出来るかを発見する。
・世界は「現場」、他人も「現場」、そして自分も「現場」
・上司(代表的な概念)の思いつきに、ちゃんと「あきれられる」(能力)ことができるように自分を育てる。 -
Posted by ブクログ
あとがき(by橋本治)より
「今をときめく内田樹が橋本治と対談をしているのである。なにも知らない人がこれを聞いたら、「きっと、すごく重要なことを縦横無尽に語っているのだ」と勘違いしてしまうかもしれないが、この本には「重要なこと」なんかろくにない。なにしろ、この対談集の主たるテーマは、「橋本治」だからである。」
まさにそう、そう勘違いしてしまっていました。
基本的には、橋本治の盛大な自分語りの本。橋本治を大好きな内田樹に促されるままに、語る語る。そのための本だから良いんだけど、これを享受できるだけの橋本治愛は、いまの私にはまだなかった。読んだことのあるいくつかの本は全てとても面白かったのだけれどね。
それでも随所随所、私が少なからず興味をもっている「なにか」について、たとえば戦後の民主主義教育のことや、小津映画のこと、おしゃれについて、神仏混こうについて、、、語っている箇所は、それぞれへ~と思えて楽しかった。 -
Posted by ブクログ
漢文=難解なため知識階級
ひらがな=貴族女性文化
で、平安時代の衰退で武家社会になっていき、戦争ばっかりで漢文を解するがいなくなっちゃったから、仕方なくなく和漢混淆文が生まれた、と。論理的な文字である漢字を混ぜることで、比較的論理的な現代語に近づいたのね。平安時代の多義的で曖昧な仮名文化のまま発展しなくてよかったよ。
枕草子は現代的。
ファッション、上下あり。袴に。上は単衣、うちぎ、上着を着るもの。裾を出すのは最先端、今と同じ。それが、袴がなくなって、着流しとなる。
和漢混淆文は、愚管抄と平家物語から。平曲語りを言葉に直す。その分詳細が曖昧。勢い任せ。
和歌は多義性こそが重要。何を言いたいのかはわからない。それが正しい。現代的な論理的解釈はそもそも不可能。主語や対象がどうとでもとれるように記述するからそうなる。それが平安時代の文化。なぜなら、正確な言語記録は漢文でよいから。
当時の時代感覚はずれていることを知ろう。
平安時代は、仏教の因果応報と、輪廻転生が重要。親子の縁は仮のものと考える。ドライ。他生の縁。婚姻関係は二世。自分で選ぶものだから。
理想は極楽での転生?
輪廻転生も平安後期から、死んだら仏に変わるという思想に変化。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ「美しい」と思う感覚はどこから来るのか。著者によると、「美しい」を感じるには「リラックスを実現させる人間関係」と、自分の所属するもの以上にいいものがあるという「外への憧れ」が必要とのこと。なんとなく分かる。そして、どういうわけか日本では「美しいが分かる人」は敗者との位置づけらしい。そうであれば、圧倒的な敗者にこそなりたいものだ。
橋本治はあまり読んだことがないので分からないのだけど、うねるような、伸縮するような文章が特徴なのか、思考の流れをそのまま文章にしたような感じと、言葉を多義的に使ったりしている部分とが少し読みにくかった。 -
Posted by ブクログ
「まえがき」を読む限りでは、古典嫌いの学生に向けた、古典ってこんな魅力があるよー!という入門書に思えたのだが。(プリマーだし)
内容を読んでいると、一つのことを深めるというよりは、様々語りたいことが出てくるタイプ。軽い語りに慣れていると、いきなり専門的な所に食い込んできたりもして、バランスが取れていないように感じる。
更に「めんどくさい」「わかりにくい」「そんなもんだ、仕方ない」という前提条件が、私は好きではない。
古典って苦手、わかりにくいと思っている人が、これなら?と思って読んだ結果、果たして好きになるだろうか。
知識の並べ方は、面白い。
けれど、学生に向けた入門書としては、やや魅力が足りないように思う。
学生を卒業して、そういえば古典って習ったなーくらいの大人が読む方が、良いのでは。
再入門向け。 -
Posted by ブクログ
1970年代末頃に書かれた著者のエッセイをまとめた本です。
中森明夫が「解説」の筆を取っているというのも時代を感じさせますが、そこで中森は、「80年安保」についての意見が橋本と一致したというエピソードを紹介しています。中森は、「80年初頭、物質的豊穣さと精神的寂漠さの間で現実の理性の抑圧をすり抜け感性のプレイグラウンドで遊ぶ一群の少年少女たち」が築いた、「不可視の感性のバリケード」ということばによって、そのことを表現しています。
たとえば著者は、なぜ『現代詩手帖』や『現代思想』、『ユリイカ』といった雑誌で「特集・杉良太郎」という企画がおこなわれないのか、という問いを立てて見せます。そこには「日本のインテリにはエンターテインメントというのが分らない」という批判が含まれています。そしてこうした観点は、知人の部屋の本棚にかならず高橋和巳の『わが解体』と吉本隆明の『共同幻想論』があった、と語る中森の述懐とかさなってきます。
ただその一方でわたくし自身は、自意識への沈潜を通して問題に到達しようとするインテリへの対抗言説として「大衆の原像」という考えかたがあった時代と、現代とのへだたりをも感じてしまいました。もはやそうした「インテリ」が役割をうしない、「大衆」の矜持が溶解してしまったいま、橋本治という人物に、輝かしくも「時代から浮いている」という印象をいだいてしまう読者は、すくなくないはずです。「極楽までは何マイル?」とため息混じりに聞きたいのは、われわれ読者のほうではないかという気がします。 -
Posted by ブクログ
「20世紀は理論の時代だったが、それはもう終わってしまった。」
つまりは、いまや世の中のことは、体系立てて整然と解き明かして
説明できるものではなくなったということです。
そして、そのわからない状態に加えて、
どうわからないのかもわからないくらいややこしさを増している。
そんな世界になって、それをどうでもいいとするか、
それとも少しはわかりたいとするか。
本書の態度は後者で、その未来はどうなんだ?という形式にあてはめて
論じていくものとなっています。
著者の橋本治さんはこの本を書き始める前からご病気になり、
どうにも集中力の続かない「頭の停止した」状態からこれ以上回復しないのではないか、
と医者に言われるような、その水準での安定をしている体調だったようです。
なので、知の武装はいたって平準。
とはいえ、読んでいると、その剣豪っぷりがうかがえました。
この喩えをまとめていってみるとわかりやすいと思うので続けますが、
普通の頭のいい人は、剣の腕もさることながら、
装備している防具や武器もたいそうなものなので、それらの能力にまかせたり、
武器防具自慢をしてしまうところってあります。
しかし、橋本さんの場合、病気のために防具も武器も、
軽いものしか身につけられなくなっており、さらに弱っていると見受けられる、
ご自身の剣術しか頼るものがないような状態なんです。
それなのに、最後の章になっていくにつれて、
その快刀乱麻ぶりが発揮されていくように感じられる。
借り物ではない、ご自身で生み出して育んだ、自分でしかない言葉を使って、
身体からにじみだすような思考と論理を駆使して、
わかるところは解き明かし、わからないところはぼんやりとしたまま無理はしない。
僕はまぁ、人並だと思っていますが、
それでも橋本さんのそういうところには憧れ以前に共感をしてしまいます。
僕は、暗記とかそういうのはもうやめて、自分の頭で論理的に解釈したり創造したり
していく方向で行こうと、高校生くらいの時に決めたふしがあって、
それはまぁ極端なんですが、そうやって鍛えられた部分ってあるんですよね。
それで退化したのが記憶力じゃないかと言われれば、そうでございます、と
弱気に答えるしかないんですが、橋本さんの場合はもともと
そのどちらも達者な人なんだろうな、という気がしました。
この方の本を読むのは二冊目でしたが、もっと読みたいな、
エッセイだけじゃなくて小説も気になるな、と思いました。
本書は2012年に発行されたものですが、
TPPについてや民主主義、歴史解釈についてなどの硬派なものが最後のほうに控えていて、
序盤は、テレビについて、ドラマについて、シャッター商店街について、
各々の未来についての考え、いや、現状を確かめる度合いが強いのですが、
そういう内容になっています。
うわべだけとか、表面しかみないでこれはこうだと決めがちなのが人というもの。
著者はちゃんと横からも後ろからも裏からも見る習慣がついている人だという印象です。
それだから、読んでいてハッとさせられたり、頭をくすぐられたりするんですよね。
すごい武器になるような本ではないかもしれないですが、
思考の経路を体感的に学ぶようなものとしてはとても好い読み物だと思います。
私ごととしては、テレビの項とシャッター商店街の項を参考にすると、
うちの従兄を痛烈に批判できそうな感じでした。
テレビ大好きゆえ、そして都市というものを解釈できていないためなのだなぁとわかりました、
服装に気をつけないところだとか。すごくオシャレせい、と言うんじゃないですが、
そこそこ服装に気を使え、と思う人っているじゃないですか。
それでしたね。僕が言うなってところもありますけども。 -
Posted by ブクログ
高度成長を迎えた1970年代にウーマン・リブの運動が起こり、フェミニズムが男性による女性の差別を告発してから40年が経った現在から振り返って、なぜ男女をめぐる問題はこのような状況に立ち至ったのかを考察している本です。
著者はまず、男性は「自分の恋愛の対象になる女」と「自分の恋愛の対象にならない女」を選別しており、前者だけが「女」で後者は「どうでもいい」と思っていることを指摘します。そして、男性にとってフェミニズムは、「どうでもいい」女が、何を「女」とするかは私たちが決める、と主張している運動だったと言います。「どうでもいい」女が、従来の社会の男性優位を告発し、女性の社会参加や社会進出を口にしても、男にとっては、「どうでもいい女をどう位置づけるか」が分からないという状況に置かれてしまうことになったと著者は主張しています。
後半では、1970年代の高度成長を達成する以前の日本社会で、長く男性優位が問題として取り上げられてこなかった理由を探っています。
もちろん、現在の社会が完全に男女の不平等を撤廃することに成功したとは言えない以上、フェミニズムの役割はまだ終わってはいないのでしょうが、「男女平等」をめざす運動の具体的な着地点が分かりにくくなってしまっていることの背景に、本書で語られているような問題が控えているのかもしれないと思います。 -
Posted by ブクログ
いじめ問題や格差問題、環境問題や経済問題など、さまざまな題材の周りをめぐりつつ、「日本の行く道」について著者が論じた本です。
「いじめ」問題が「学校化社会」の閉塞感によって深刻化しているという指摘は、とくに目新しいものではありません。ただ著者の議論のおもしろいところは、こうした問題を格差社会の問題に結びつけているところです。
著者は、現在の日本が「格差があるから格差社会だ」という同語反復の中に閉じこもっていると指摘しています。「このままでは生きていけない」という崖っぷちに立たされている人びとへの想像力を、「格差」という言葉が隠蔽してしまっているというのが、著者の着眼点です。そして、「さっさと自立しなさい」と言われた「子ども」が、「子ども」のままで「促成栽培の大人」になってしまったことが、こうした問題の背後にあると著者は主張します。こうして「促成栽培の大人」になってしまった「子ども」は、「自己責任」という言葉を口にして、「その自立した自分と他人との関係はどうなるのか」という面倒くさい問題を引き受けないままでいると論じられます。
後半は、日本が近代化という道を選択し、そこで成功を収めたにも関わらず、その後の日本の自立について何も考えてこなかったことが、ここへきて問題として現われてきていることが論じられます。
最近の著者の議論は、以前よりも格段に読みやすくなった一方で、やや図式的な議論に陥りがちな気がします。 -
Posted by ブクログ
「勝ち組」「負け組」という二分法が、経済的な勝利だけを唯一の指標とする考え方を前提としていると著者は指摘し、その前提の外側の世界があるということを疑うことさえしない怠惰な知性を批判しています。
著者は、「経済」という語が「経世斉民」に由来することを指摘して、「生きることが幸福でありたいという感情。これこそが経済という人間行為の本質ではなかろうか」と述べています。とはいえ、竹中平蔵でさえ「エコノミー」がギリシア語の「オイコノミア」に由来する語だということに触れつつ、経済学がほんらい人びとの幸福の実現をめざす学問だということを語っており、著者の指摘にそれほど目新しいものはないように思います。
もし、現在の経済より理想的な状況を描き出すことができるのだとすれば、じっさいにその方向へと舵を切ってソフト・ランディングを実現するための具体的な方法を見いだすことが、本当の問題なのではないかと思うのですが。 -
Posted by ブクログ
著者は、「敬語は人と人とのあいだにある距離を認める言葉だ」と指摘します。それから、歴史を遡り、かつて日本には「身分のある人」と「身分のない人」がおり、「身分のある人」の話の中ではお互いの身分関係によって複雑な敬語が用いられていたのに対して、「身分のない人」どうしの横の関係に関しては、決まった言葉遣いがないと言います。
だから、私たちの人間関係には「自分よりえらい人」と「命令口調ですませられる人」の二種類しかなく、「えらいとかえらくないとかとは関係ない、親しい人」というのがいないと著者は述べています。そのことは、英語のYouのようなニュートラルな二人称がないことに現われています。
しかし著者は、このことが日本語の構造的欠陥だとは考えません。むしろ、相手と自分との距離をよく考えて、仲良くなれるのだったら仲良くなるために努力をすることと、相手の呼び方を考えることとが密接に結びついていることを示していると、著者は主張します。「「相手によってどう言っていいかわからない」という日本語の欠点は、じつは、「人はそれぞれに違うから、違う相手にはどう接すればいいのかを考えなさい」ということでもある」と、著者は述べます。
敬語をはじめとする、相手との距離を考慮しながら話される言葉を用いるということは、相手との距離をきちんと考えて付き合うことと別のことではないというのが、おそらく本書の主張だと理解しました。タイトルの「ちゃんと話す」というのは、敬語のルールに頼るのではなく、ちゃんと相手に向き合って話すべきだということでしょうか。