橋本治のレビュー一覧
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2014年刊。同著者の『これで古典がよくわかる』の妹分。
それにしても、くどい! くどいんだけど、読むのに慣れてくると、そのくどさが快感になる(橋本治の思考回路にチューニングしたってことか)。オビの宣伝文句には、「古典は『慣れる』とわかる」とある。これは、そのまま橋本治の文章にもあてはまる。
「ながめせしま」の小野小町、いろんなバージョンの浦島太郎、語り系vs.読む系の平家物語など、あっと思うところを突いてくる。
姉の『これで古典がよくわかる』(ちくま文庫)は目ウロコ本だったが、本書もかなり目ウロコ。併読すると、古典に対する見方ががらりと変わる。 -
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この数年で最も衝撃を受けた本だ。
こんなに面白い本が我が家の本棚に眠っていたのか。
なぜもっと早く読まなかったのか。
皆様はお疑いだろう「浄瑠璃について書かれた本などつまらないに違いない」と。
私も初めは「たまには真面目でお堅い本でも読むか」という気分で本書を手に取った。
結果、終始爆笑しながら本書を読み終えた。
いや、内容はいたって真面目なのだが…
本書は人形浄瑠璃の脚本の解説書だ。
人形浄瑠璃といえば今では「教養」になってしまっている。
しかし元はといえば「江戸時代の大阪の町人の娯楽」なのである。
そして近代以降の日本人のドラマは浄瑠璃に根差していると著者は説く。
元は「娯楽」だったものがなぜ「教養」になってしまったのか。
私見だが、浄瑠璃を「娯楽」として楽しむには、「言葉」「時代背景」「当時の大衆の考え方」など、あまりに多くの前提知識が必要とされるからだ。
本書は、そこを懇切丁寧に解説してくれる。
そして現代の「娯楽」としての表現に置き換えてくれるのだ。
本書で一番印象に残ったのが「妹背山婦女庭訓」だ。
舞台となるのは大化の改新。超人的な悪人である蘇我入鹿を討伐する話だ。
蘇我入鹿は、父親の蘇我蝦夷が子供ができないことを占い師に相談したところ「白い女鹿の血を妻に飲ませればいい」とアドヴァイスを受けた結果生まれた子だ。
そのため、蘇我入鹿を退治するには対になる黒い男鹿の血が必要となるのだ。
いかがだろうか。
現代のドラマ、というよりも現代のゲームにいかにもありそうな設定だ。
このように、浄瑠璃というドラマがいかに現代のドラマの下敷きとなっているかを思い知らせてくれる
私なんぞがいかに言葉を尽くして語ろうとも本書のおもしろさは伝わらないであろう。
なので本書の冒頭に現れ、一気に私をこの本の魅力に引き込んだ一文を引用させていただく。
「まったく、余計なことをする女だが、この『主人の複雑な状況をまったく推測しない新入りの腰元お軽』は、「今どきの新人OL」と考えて一向に間違いがない。」 -
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一見すると感性で物を言ってるようだけど、実際はかなり調べて物を書いていて、でもそれを表に出さずあくまで感覚的に書いてるように見せかけてるのでふわふわしてるようでどっしりしてる、という橋本治の本によくある書き方をしている。お勉強ではなく本当にゼロから考えさせたいからいろいろ前提や常識を取っ払って、でも本当に全部取っ払った独断の本になってはよくないからオーソドックスな考え方にはなっていて、ためにはなったけどぱっと要約するのは難しい。
一応自由を建前とする民主主義からなぜ度々国家主義的、独裁主義的なリーダーが出てくるのか、ということへの洞察はかなり鋭くて面白かった。 -
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江戸時代の江戸の歌舞伎の説明である。現在の歌舞伎と共通するところもあるが、かなり違っていて驚かされる。決まりごとが多いのに、守れないなら仕方ないというところ。昼間にしか興行しないので、時間切れになったら打ち切ってしまうところ。いい加減なようだけれど、江戸時代の人はそれも含めて、芝居を楽しんでいたのだろうと、少しだけわかった気がする。型があるからこそ、役者絵や芝居の絵が人気があったんだろうと、少し前に見た絵金の展覧会を思い出したりもした。
わかりやすく書いてあるのだけれど、時々、理屈っぽいなぁって思うところもある。格好良い挿絵は誰が描いているのかと思ったら、作者本人によるものだった。ニッチな内容で、この本だけで現在の歌舞伎がわかるわけではないけど、少しでも興味のある人にはおすすめです。 -
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これは前代未聞の迷著の名著ではないだろうか。
著者の言い回しが、複雑巧妙で、冗談か本気かわからないところが随所にあり、正直言って、頭が悪い私は振り回されて、ついて行くのがやっとである。
何よりも、「じいちゃんと私」の一節を紹介したい。タイトルの「小林秀雄の恵み」の意味がわかる。
<たとえて言えば、小林秀雄は、私に親しい「じいちゃん」である。「また学校で、先生に怒られた!友達の笑われた!」と言って帰って来る孫の私に、「なんだ、そんなこと気にするでねェ。昔の人はな、こういうことしてたんだぞ」と言って、とんでもなく難解な例を持ち出した慰めてくれる――こんなへんてこりんな小林秀雄の読み方をした人間は、そうそういるまいとも思うが、私にとっての小林秀雄は、「慰め励ましてくれるじいちゃん」だったのである。愚かな孫は、小林秀雄の『本居宣長』を読んで、「そうか、ちゃんと学問をすれば、じいちゃんが言うみたいに、自信を持って何でもやることが出来るのか。学問というのは、そういう自信を与えてくれるのか」と思ったのである。だから、「もう一度ちゃんと学問をしてみようかな」と思った。これがそもそも、私=橋本治にとっての、「小林秀雄の恵み」だったのである。>
小林秀雄を「じいちゃん」と呼んで手玉に取るような評論は他に例がないと思う。とは言っても、小林秀雄論などほとんど読まない私の狭い知見では、坂口安吾の「教祖の文学」は、そのよい「他の例」になるだろう。「去年、小林秀雄が水道橋のプラットホームから墜落して不思議な命を助かつたといふ話をきいた。泥酔して一升ビンをぶらさげて酒ビンと一緒に墜落した由で、・・・」という書き出しには大笑いしてしまった。そして「じいちゃん」が少し好きになった。
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【付録】
廣木寧氏の『小林秀雄と夏目漱石 その経験主義と内発的生』(133~135ページ)に次のようなことが書いてある。江藤淳氏の鋭い発言に、「じいちゃん」は狼狽えているように見える。
<保守派の文学者、思想家、論客の中で、江藤氏ほど幾度も三島氏の割腹自刃に疑念と不審と反撥を執拗に表明した人はなかった。小林氏はこの対談の機会を捕まえて若き俊秀を諭そうとしたと僕は思う。(略)再び近世の学者である、荻生徂徠、本居宣長、上田秋成を論じるところで、小林氏は語る、
《(略)宣長と徂徠とは見かけはまるで違った仕事をしたのですが、その思想家としての徹底性純粋性では実によく似た気象を持った人なのだね。そして二人とも外国の人には大へんわかりにくい思想家なのだ。日本人には実にわかりやすいものがある。三島君の悲劇も日本にしかおきえないものでしょうが、外国人にはなかなかわかりにくい事件でしょう。》
この小林氏の発言に江藤氏はすぐさま激越に反応した。以下、二人の応酬である。
《江藤 そうでしょうか。三島事件は三島さんに早い老年がきた、というようなものじゃないですか。
小林 いや、それは違うでしょう。
江藤 じゃあれななんですか。老年といってあたらなければ一種の病気でしょう。
小林 あなた、病気というけどな、日本の歴史を病気というか。
江藤 日本の歴史を病気とは、もちろん言いませんけれども、三島さんのあれは病気じゃないですか。病気じゃなくて、もっとほかに意味があるんですか。
小林 いやァ、そんなこというけどな。それなら、吉田松陰は病気か。
江藤 吉田松陰と三島由紀夫とは違うじゃありませんか。
小林 日本的事件という意味では同じだ。僕はそう思うんだ。堺事件にしたってそうです。
江藤 ちょっと、そこがよくわからないんですが。吉田松陰はわかるつもりです。堺事件も、それなりにわかるような気がしますけれども・・・。》
(略)
先に引いた「歴史について」の対談箇所のやり取りは、読む者に二人の語気の強さは伝わろうが、実際はこんなものでなく、双方掴み掛らんばかりの烈しさであったということである。ここに見られるものは日本の知識人の相の多様性ではない。戦後日本に、いや近代日本に日本の原理の衰滅が現れているのである。僕等はその内にいる。昭和四十五年は、小林秀雄氏六十八歳、江藤淳氏三十八歳。そして、三島由紀夫氏は四十五歳。ああ、日本よ、日本人よ。>
こういう詠嘆が日本人のハートをくすぐるのは、私も日本人だからよくわかるつもりだ。しかし、そういう情緒に浸っているうちに、冷酷無比な欧米に何度でもやられてしまうのだろう。
江藤淳氏は、「じいちゃん」を凌ぐ、優れた保守思想家である。その舌鋒鋭い評論が何かの逆鱗に触れたのであろうか、夭折とも言える急逝が惜しまれる。
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最初はあまりの「くどさ」にあえなく挫折。数年後、読み方を変え、再チャレンジ。今度は完読。読み方があるのだ(「くどさ」の理由を知るといいかもしれない)。
編み物のあの字も知らなかった橋本治、古文が苦手で『枕草子』をちゃんと読んだことのなかった橋本治。その彼がいかにして編み物の達人になり、清少納言になり通し、『男の編み物』や『桃尻語訳 枕草子』といった本を生み出したのか、そのメイキングについて語る。
周囲はわかっているのに、自分はどうしてもわからない。その「わからない」から出発するというアプローチ。先入観、定説や常道・常識をふり払い、ナイーヴに一から、自分が納得する形でわかることを積み上げてゆく(いわばボトムアップ方式)。すると思わぬ発見、目ウロコの連続が待っている。定説が覆ったりもするかもしれない。
徒手空拳で、知らない世界に飛び込んでゆくのに必要なのは、度胸と忍耐。でも(はっきりとは書いていないが)、基礎力も必要だ。橋本治、編み物は未経験、とはいっても、美的なセンスはもっていた(だってイラストレーターだもん)。古文が苦手、とはいっても、国文科出身だ(それに作家だもん)。
(p.s. カバーの帯には「著者初のビジネス書!?」とあるが、これはmisleading。それに、これって橋本治の一番嫌いそうなフレーズ。) -
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2001年刊。もとは『ハシモト式古典入門』(ゴマブックス)、その改題文庫版。
いにしえの日本語は、文字がなかったので、書き残せなかった。中国から漢字が入って来て、初めてなんとか書き記すことができるようになった。しかし、どう漢字を使うかについては試行錯誤。簡便な表音文字として、各種の万葉がな、次にはカタカナやひらがなが生み出された。公けの文書は漢文と漢字が基本、その読みの補助としてカタカナが用いられた。そしてそれは男だけのもの。一方、ひらがなは女性のもの。和歌はおもに女性が詠み、ひらがな書きした。そして和漢混交文の登場。……そんなふうに考えてゆくと、日本の古典作品のそれぞれのポジショニングがはっきりし出す。
言われてみれば、なるほど。コロンブスの卵みたいだ。書名は受験参考書のようだが、内容はそれをはるかに超えて、本質的。語り口はやや冗長で饒舌だが、読み終えると、古典がクリアに見えてくる。 -
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2047年、橋本治、98歳、栃木県の日光の杉並木にある被災者住宅にひとり住む。数年前に東京大震災が起こり、家を失ったのだ。
近所の杉林には、プテラノドンが営巣している。どこかのばか学者がゲノムなんたらでプテラノドンを再生させてしまった。この作品中では、自衛隊によるその駆除が行なわれる。
でも日常は日常。老人の日常も、平々凡々とスローに過ぎてゆく。
仕事柄、お金にならなくても、とにかくこの日常を書き綴る。そこに心の声が解説やら突っ込みを入れる。モノローグなのか、ダイアローグなのか。掛け合い漫才よりもおもしろい。それにこの老人がしゃべるトリビアも最高。
橋本治はよく作品中の登場人物に憑依してしまうが、今回は30年後の自分自身。完全に憑依しきっている。抱腹絶倒のエピソード、そして時々苦笑い、もう「すげェ」としか言いようがない。
(蛇足:文庫の解説は内田樹氏。この作品の冒頭は、カフカの『変身』を踏まえているという。そんなんじゃないと思うけどな。) -
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『桃尻娘』シリーズ(全6作)の完結編。1冊まるごと、温州蜜柑姫こと、醒井涼子だ。
結婚して子どものいる醒井涼子、30歳、誘拐をめぐる冒険活劇、これが第1話。第2話はお見合いで、26歳。第3・第4話はイギリス留学で、23歳。第5話は舞台が横浜・山下公園で、20歳。第1話から第5話へと、時間をさかのぼるという粋な構成。
なかでも第3話が読みどころ。舞台はイギリス。醒井涼子は上智大学英文科卒。度胸はあって、でもナイーブで、頑張り屋。実家はキャバレーチェーンを経営していて、裕福。彼女がオックスフォードに短期留学する。彼の地のディテールも彼女の心の機微も実にリアルに描かれている。橋本治はおそらく現地ロケを敢行したな。完全に醒井涼子になりきっているもんね。
なお、オックスフォードでの醒井涼子の足跡、しようと思えば追体験できる! 2021年11月、そんなとこに行くわけもない私も、ストリートビューで醒井涼子を追体験して楽しんだ♬
もちろん、前作までの登場人物たちも、ところどころに顔を出す。本書がシリーズ最初の人も、簡単な注釈が入るので、十分楽しめるはず。
(この文庫版の「あとがき」には、『桃尻娘』シリーズ誕生・完結の経緯が書かれている。ファンにはたまらないかも。) -
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1983年8月刊。橋本治34歳、『その後の仁義なき桃尻娘』の次の書き下ろし作品。いま読んでも(orいま読むからこそ)、おもしろい。2022年に集英社から新装版が出た。
1983年1月14日に始まる殺人事件。その頃のニュースやTVドラマも登場するので、まさにリアルタイム小説。探偵役は25歳、東大卒のイラストレーター、田原高太郎。彼の独白や内言と会話の形で物語は進んでゆく。『獄門島』『犬神家の一族』『不思議の国のアリス』を用いるなど、伏線の張り方も巧妙。上質のミステリー……と思いきや
最初は、橋本治特有の語りや会話の冗長・冗漫さ、反復や反芻が鼻につく。ところが、不思議なことに、読んでゆくうちに、そのリズムとテンポにはまり、それが心地よくなる。
地下鉄丸ノ内線の御茶の水から池袋までの暗い雰囲気の描写が絶妙。解体される直前の東京教育大学の荒廃した建物の情景の描写もいい。1983年には確かにそうだった。
書名は、ヴォネガットの『タイタンの妖女』中のフレーズから採られている。これは、没後に刊行された未完の大作の副題(『人工島戦記、あるいはふしぎとぼくらはなにをしたらよいかのこども百科』)にも使われている。新装版の巻末では、仲俣暁生がそれについて解説している。 -
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長い落語である。
真冬のデンマーク。真夜中、城壁のてっぺんには、北風が吹きつける。「うー、さぶい。さみい! 出ねェなァ」と言いながら、父の亡霊を待つ、ご隠居のハムレット。それにお供するホレイショー。ともに齢80を過ぎている。のっけから、落語の名調子。
『ハムレット』の原作通りのオールスターキャスト。みな高齢だが、それぞれ自分の文脈、自分の世界で生きているのがすごい。大臣のポローニアスなんか、108歳だもんね。尼寺に行ったはずの娘オフィーリアも70過ぎてるし。でも、筋書きは一応原作に即して進行する。違うのは、だれも死なないことか(みな棺桶に片足を突っ込んでるけど)。
物忘れ、記憶違い、勘違い、遠い耳(でも悪口はよく聞こえる)、よろよろ、よぼよぼ、ふがふが。お互いに、だれがだれだかわからなくなりかけている。同じ名前の父親なのか、息子なのか、孫なのか(原作でもハムレットの父親はハムレットだったもんね)。そんな老人たちの交わす会話の妙。ことばのキャッチボール(あるいはすれ違い)に、笑いを通り越してただただ唸りまくる。さすが橋本治。
もしシェイクスピアがこれを知ったら、怒ったか抱腹絶倒したか(後者かもね)。でも、芝居でないところがよかったね。ちゃんとした落語だもんね。
(橋本治の「落語世界文学全集」はこの1巻で終わってしまった。もっと読みたかったのにな。残念至極。)