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Posted by ブクログ
凄いものを読んでしまったような気がする。事実が時系列で並べられているだけなので、不思議なことはなにもないはず。なのに、これに類するものは読んだことがなかった。
いにしえの日本語は、文字がなかったので、書き残せなかった。中国から漢字が入ってくることによって、初めてなんとか書き記すことができるようになった。しかし、どう漢字を使うかについては試行錯誤。簡便な表音文字として、各種の万葉がな、次にはカタカナやひらがなが生み出された。公けの文書は漢文や漢字が基本、その読みの補助としてカタカナが用いられた。そしてそれは男だけのもの。一方、ひらがなは女性のもの。和歌はおもに女性が詠み、ひらがな書きした。そして和漢混交文の登場。……そんなふうに考えてゆくと、日本の古典作品のそれぞれのポジショニングがはっきりし出す。
言われてみれば、なるほど。コロンブスの卵みたいだ。書名は受験参考書のようだが、内容はそれをはるかに超えて、本質的。語り口はやや冗長で饒舌だが、読み終えると、古典がクリアに見えてくる。
(p.s. 2017年刊の橋本治『だめだし日本語論』(太田出版)では、本書の内容が歴史的に補強されている。併読もおすすめ。)
Posted by ブクログ
とっても面白かった!
古典は慣れること。書かれた時代、言葉が違うのだから難しいのは当たり前。
まずは冒頭を覚える。暗唱するまで。
余計な知識はいらない。
そして「をかし、あはれ」など、
当時の人たちが感じていた感情を同じように感じてみる。
月を見よう、梅の花を嗅ごう。(P228など)
P181 「古典を書くのも、いま詠むのもみんな同じ人間。だからどこかに接点はある。昔の人たちもみんなその時代に生きていた。現代人だった。」
P219 古典が教えてくれるのは、
「え、昔から人間はそうだったの?」
という人間に関する事実。
とんでもない(元)現代人でいっぱい!
☆P62
紀貫之が古今和歌集の序文で言っていることが刺さった。
「和歌は人の心の中にある感情を核として生まれた言葉によってできている。生きている人間は日々忙しいが故に、さまざまな感情を生む。ほれがあるからこそ人間は見聞きすることで、自らの感情を形にした歌を詠むのだ」と。
日本人にとってその感情を最もよく表現する道具は 日本製の平仮名だった。
→なるほど。だからこそ和歌には人の感情がいっぱいいっぱい込められているのだな。
P47 昔の人はカタカナでカンニングをしていた。
P53 漢字は男のもの。平仮名は女のもの。女が漢字本を読むなんて気持ち悪い! それが平安時代。
P57 紀貫之は 女になりきって、土佐日記を書いた。当時は漢文ばかりの時代。日記に用いるのは漢字。しかし紀貫之は和歌の名人。歌は万葉仮名で詠むもの。つまり、平仮名は女しか使わないもので、それで日記を書くのだから、当然平仮名になる。ひらがなの文章を書くためなら女にでもなる!という紀貫之。
いとをかし!!
P60 様々な人が自由に詠んだ詩を集めた万葉集に対して、
勅撰和歌集は国家事業として作られた本。
P72 作者が歌人で、主役は和歌。という伊勢物語。
P74.5 紫式部は紫式部日記の中で、清少納言はやな女!と書いている。
平安時代は、「女は漢字の外にいるべきだ!」というのが常識だった。
いくら男たちが声に出して漢詩を歌っても、あまり女の子ところには届かない。
ならば届けてみせようじゃないか、と彼らは平仮名で和歌を詠み、贈ったという。
つまり、和歌は団所が恋愛状態になるときや、その後に贈るラブレターのようなものだった。
→P78 平安時代の和歌が、ほとんど言葉や感情を同じだった。
P112 源氏物語が難解なのは、平仮名だらけで、登場人物がやたらと多く、それぞれが複雑な気持ち心理や社会的地位背景を抱えており、主語が平気で抜けているため。
P140 源実朝は、和歌を詠む将軍。「金子恵美塊和歌集」
将軍だが和歌を愛していた珍しい人。
→P158 「はかなくて 今宵あけなば ゆく年の 思ひ出もなき 春にやかはなむ」
大晦日に思う。この1年何の思い出もなかった・・・と孤独に押しつぶされそうになる歌。
はかない。。。
P147 平安時代の貴族たちは
「京都以外には文化がなく、他の地はまともな人間関係の住むところではない」と考えていた。
P168 藤原定家は、源氏物語や新古今和歌集からの本歌取りが多い。楽しむには教養が必要。
だからこそ、源実朝の シンプルさが際だつ。
Posted by ブクログ
よくわかる、というよりは、古典に対する敷居の高さをぐっと低くするための好著。
古典のよみにくさのカギとなるのは、どう書かれていたかだと筆者は説く。漢文・ひらがなのみ・漢字×カタカナの書き下し文から、漢字×ひらがなの和漢混淆文へ至る文体の変遷を追うことで、上代から鎌倉後期までの文学史が辿れるというわけで。
著者の語り口が巧みだ…と思ったのは『徒然草』について語る第6章。有名だが訳しづらいフレーズ「おぼしき事言わぬは腹ふくるるわざなれば…」を「思っていることを言わないと腹がふくれる=欲求不満になる」と解きほぐす。で、その"思っていること"が何か、つまり引用箇所の直前に何が書かれているかは章の後半で紹介されるのだが、それにくすりとさせられ、兼好法師と私の距離感がぐぐっと縮まる。うわあ古典おもしろ! となるのはある程度もとからこういうのが好きだからかもしれないが、でも人に勧めたくなる本なのは確か。
Posted by ブクログ
長女が古典好きで新古今和歌集を絶賛していて、かーさんも読め読め、定家はすごいぞと勧めてくれるのだが、古典苦手意識が強すぎて、まずはこれから。
新古今和歌集のことだけ書いてるわけじゃないけど、橋本治も定家絶賛でした。
現在の日本語というものが、どういう経緯で出来上がってきたのか。いや、「作られて」きたのか。日本語の成り立ちがわかりやすく書かれている。
橋本治の文章って一見分かりやすいようでなかなか難しい。とても論理的で、でもその論理は普段の人の生活の中に感じる情緒と繋がっている。月を見て、梅の香りを感じて感じるものこそ、生きることを豊穣にする。
あー、でもまだ新古今和歌集には手がでない。
Posted by ブクログ
世界価値観調査によると、日本人の世俗性は世界トップクラスです。
世俗性というのは、言い換えると、ミーハー(新しいモノ好き、古いものはダサいと思う)で、
また、物事に対して、損か得かの判断をとても重視するということです。
この特性からいうと、古典を学ぼう、学びなおそうという人は、
確実に少数派になります。
それでもなぜ学ぶのか?
①試験・受験に必要だから
②面白いから
③強制的に学ばされているから
毎年、何万点も書籍は出版されていますが、
その中で10年後、価値あると言われる本は1%もありません。
20年後、30年後になると、0.01%以下になります。
古典と呼ばれるものになると100年の経年数は余裕でありますから、
出版された出版物の中からすると、何千分の一の確率で生き残っているということになります。
つまり奇跡に近いものです。
では、1000年前になると、どうか?
本が生き残る条件は何か?
それは、不特定多数の人が、その本に価値を認めたことになります。
自分が面白いと思っても、他人が面白くないと思ったら、
残らない可能性が高い。
また学術的価値が高いとか、芸術性とか、いろんな判断基準で、価値を測りますが、
古典というのは、「偉い」というのは間違いありません。
ただ、この「偉い」は、権威的にならざるを得ない宿命にあるのか、
わかりませんが、日本人は、特に権威を嫌います。
古典を忌避する理由の一つが、この権威性かもしれません。
また、「わからない」ということが、非常に怖く思ってしまう人が多い。
オトナになると、ますます、わからない、知らない、できないを、
認めたくならないように、なります。
著者の論の進め方は、非常に丁寧です。
古典を怖がらないでくださいと言っています。
古典=わからないもの、難しいものであることを認めた上で、
現在の私たちが、わかるもの(箇所)もたくさんあるとして、
多くの例を挙げてます。多くが、古典で出だしの部分です。
著者は、枕草子から、源氏物語、平家物語の逐語訳の名手です。
氏ほど、日本の古典から現代的な意味での知恵を引き出した人はいません。
それは、古代人も、現代人も、共通するものは、たくさんあるし、
また、新鮮味があるとしています。
日本人は、どこまでもいっても世俗的ですが、
新しいモノを、すぐに取り入れることに長けています。
ただ、今はその新しいモノが欠乏しています。
もう取り入れるモノがない、飽和状態になっています。
その時に、過去から学ぶことは、誰でも思いつくことですが、
できる人は、ほとんどいません。
しかし、やろうとしている人は、豊かな人生を手に入れたものと、
同義と言えるかもしれません。
著者は、既に故人となりました。
非常に残念ですが、膨大な量の書籍を私たちに残してくれました。
おそらく一生かかっても、著者の見識には到達できません、
現在の混迷な時代を生き抜く上で、著者の作品は、自分たちに、
多大なるヒントを与えてくれるのは、間違いないと思います。
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