橋本治のレビュー一覧
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タイトルに一目惚れした。思うに、住まいの国における古典について持ち合わせていた言葉が少なかった。そして、自分の扱う言語が、現代の日本語に限られてしまうのが勿体ないような気がしていた。そんな悩みに応えてくれるのではという期待を胸に、本書を手に取った。
結論を端的に言うなら、本書はそんな私の期待に十二分に応えてくれた。そもそも過去の言葉を扱う上で日本語にはかなり不利な面があることを踏まえることから議論が始まる。一口に日本の古典といっても、漢文と和文、文語と口語というような様式は一定でない、そして、たとえ平安の世に成立した物語でも、その意味ないし教訓のようなものは時代と共に移り行くのだという。
まとめるなら、少なくとも現代において古典というものを忌避するだけの理由には枚挙に暇がないように思われる。私にとって、本書は混沌たる古典に向き合う為の、或いはそれを受け容れる為の姿勢を示すものとして、優れた模範となってくれた。 -
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千年前に書かれた小説を、現代人にもわかりやすく、そして原文よりもさらに原文に忠実に伝えたいという橋本先生の思いが詰まった窯変源氏の執筆課程裏話がてんこ盛りの下巻でした。
たしかにそう言われてみれば窯変源氏は忠実な現代語訳ではないです。
ただ、読んでいて「そうそう、源氏ってこういう冷たさがあるよね」とか、「女君の気持ち、こっちの方がしっくりくる」と思うことが多かったです。
それは、現在人に寄せて私たちが理解を深められる工夫をしてくれていたからだったのですね・・・なんというか、感無量でした!(再読なのにすっかり忘れていた)
具体的にはどんな手法を使ったかというと、
紫式部が書こうとして書けなかった部分まで踏み込んで大胆に加筆修正したり、もっとすごいのは、現代人には読み解きにくい和歌を、意味はそのままに読みやすく修正したり、更には女が書くものではないからと式部が控えた漢詩の創作までされていたというから驚きでしょ。
橋本先生、天才過ぎる!!
あとは、平安時代という時代の特殊性を前提とした物語の常識を教えてもらったのも大きな収穫でした。
どういうことかというと、この時代世の中は平和で、男たちのエネルギーには、あまりはけ口がない。
余ったエネルギーはすべて恋に向けられるという平和な時代なのです。
女たちは、御簾に囲われた神秘的なものとして存在し、それを何とか手に入れたいと男が情熱を燃やす。
でも、それを手に入れてしまったら、いづれは飽きて、他の女への愛情の芽が出てくる。
女は御簾の中でじっとしているしかないので、先の展開がないから必ず飽きられる、必ずです。
女はみんな、追われて愛されて、その先で飽きられて不幸になる。この構造しかありえない。それを前提としながら紫式部は何を考え、どんな希望や絶望のために物語を描いていったのか、それを考えるのが源氏物語を読むということなんだ、と思い知りました。
最後に。
藤壺の女御、という存在は源氏にとって最愛の人、というわけではなく、元服前に父に連れられて御簾の内側に入り込んでいたことから、天皇の臣下としてではなく子として父に愛され、父帝の愛によって藤壺とも一つになっていたという、失われた過去の輝きの象徴として藤壺を慕っていたという解釈はやっぱり一番しっくりくるなあと思いました。
もう一度言っちゃいます。橋本先生天才! -
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ネタバレ源氏物語の訳本のなかでダントツに好きなのが著者、橋本治先生の窯変源氏物語です。
(桃尻娘を読んだ世代なので、先生呼び!)
本書はそんな窯変源氏の執筆にあたって著者が考えていたことをつらつらと綴った一冊です。
再読だけど、遠い昔に読んだきりだったので、新鮮に楽しめました♪
私なんかは思います。という語り口が懐かしかった~
とはいえ、すっかり忘れていたことも多かったし、難しくて理解できない所が多数ありました。
それでも、著者がつらつらと綴っているので私もつらつらとりとめもなく感想メモを書いてみようと思います。
まず、源氏物語は漢詩の対句的表現にあふれてるという指摘が面白かったです。
五条で女童に仲立ちをさせ出会った夕顔と、その直後、六条御息所邸で出会った彼女に仕える女房と男の侍童を仲立ちにして朝顔の花のやりとりをする対句的エピソードに始まり、その後は紫の上と光源氏の母方の家系、にまで言及しています。
窯変で、幼い紫の上を見た時源氏は「あれは私だ!」と言っていたのは印象的で覚えていましたが、この解説を読んで非常に納得!
次に、源氏物語は式部の体制批判の物語だという主張。
だからこそ、権力者の娘(藤原氏)がキライで、皇統の女性が好き。
桐壺帝が右大臣家の弘徽殿の女御を嫌い、先帝の皇女である藤壺が寵を得るのはその典型。
あとは、今更ながら、平安時代の身分制度の謎が解けました!
身分制度というと、その身分が固定されていると思いがちですがそうではありません。
身分である「官位」は年と共に上昇します。出世とは、身分を決定する官位が上がっていくことで、役職というものはその官位に応じて与えられるものなので、出世をしなければ身分は低い、いくら高い身分の家に生まれても、出世をしなければ身分は低い、というのが平安時代の構造なんですって。
だから夕霧が結婚前、学生時代バカにされてたのね、とようやくしっかり理解できました。源氏の息子なら、今は官位が低くても家柄がいいし出世は間違えないのに、なぜ女房にまであんなに言われてしまうのか、夕霧自身も恥ずかしがっているのがずっと腑に落ちなかったので。。
いや~、再読だし、平安時代好き・源氏好きをずっと公言してきたのに今更きほんのきを理解することになるなんて。。恥ずかしい・・・
最後に。
理解しきれなかったこと。。
「自分」という空白を埋めるために様々な女性を求めた、というのは、踏み込み過ぎた近代的な解釈で、実際にはこの時代は男にとって「自分」という把握は必要ないものだったのでそんな考え方はないという話。
わかりそうでわからなかった・・・
また、当時はモラルもなかったそうで、主人の目の前で主人の噂話をするという遠慮のなさが普通で、同情したり気遣ったりする配慮、というか行動が、ない。忠義の心も江戸時代的な考え方で、この時代はそれが、ない。自分の利益になると思えば働くけれど、世相が変わったらすぐに鞍替えが普通。美学はあってもモラルがないのが平安時代だというおはなし。
もっと言うと、スタイルに合わせて欲望を作り出すのがこの時代の美学で、だから、スタイルがなければなにもない、というのが普通。
どういうことかというと、女とは恋愛の対象である、というスタイルに沿って行動しているだけであって、恋があるからスタイルがある、ではないということ。
すごい時代だなあーと思いつつも、実感としては想像がイマイチできない・・・
現代では当たり前の行動や思考が、平安の時代には言語化されていないために、その思考や選択肢自体がない、って普通にありえることなんですねえ。人間の神秘。 -
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とっても面白かった!
古典は慣れること。書かれた時代、言葉が違うのだから難しいのは当たり前。
まずは冒頭を覚える。暗唱するまで。
余計な知識はいらない。
そして「をかし、あはれ」など、
当時の人たちが感じていた感情を同じように感じてみる。
月を見よう、梅の花を嗅ごう。(P228など)
P181 「古典を書くのも、いま詠むのもみんな同じ人間。だからどこかに接点はある。昔の人たちもみんなその時代に生きていた。現代人だった。」
P219 古典が教えてくれるのは、
「え、昔から人間はそうだったの?」
という人間に関する事実。
とんでもない(元)現代人でいっぱい!
☆P62
紀貫之が古今和歌集の序文で言っていることが刺さった。
「和歌は人の心の中にある感情を核として生まれた言葉によってできている。生きている人間は日々忙しいが故に、さまざまな感情を生む。ほれがあるからこそ人間は見聞きすることで、自らの感情を形にした歌を詠むのだ」と。
日本人にとってその感情を最もよく表現する道具は 日本製の平仮名だった。
→なるほど。だからこそ和歌には人の感情がいっぱいいっぱい込められているのだな。
P47 昔の人はカタカナでカンニングをしていた。
P53 漢字は男のもの。平仮名は女のもの。女が漢字本を読むなんて気持ち悪い! それが平安時代。
P57 紀貫之は 女になりきって、土佐日記を書いた。当時は漢文ばかりの時代。日記に用いるのは漢字。しかし紀貫之は和歌の名人。歌は万葉仮名で詠むもの。つまり、平仮名は女しか使わないもので、それで日記を書くのだから、当然平仮名になる。ひらがなの文章を書くためなら女にでもなる!という紀貫之。
いとをかし!!
P60 様々な人が自由に詠んだ詩を集めた万葉集に対して、
勅撰和歌集は国家事業として作られた本。
P72 作者が歌人で、主役は和歌。という伊勢物語。
P74.5 紫式部は紫式部日記の中で、清少納言はやな女!と書いている。
平安時代は、「女は漢字の外にいるべきだ!」というのが常識だった。
いくら男たちが声に出して漢詩を歌っても、あまり女の子ところには届かない。
ならば届けてみせようじゃないか、と彼らは平仮名で和歌を詠み、贈ったという。
つまり、和歌は団所が恋愛状態になるときや、その後に贈るラブレターのようなものだった。
→P78 平安時代の和歌が、ほとんど言葉や感情を同じだった。
P112 源氏物語が難解なのは、平仮名だらけで、登場人物がやたらと多く、それぞれが複雑な気持ち心理や社会的地位背景を抱えており、主語が平気で抜けているため。
P140 源実朝は、和歌を詠む将軍。「金子恵美塊和歌集」
将軍だが和歌を愛していた珍しい人。
→P158 「はかなくて 今宵あけなば ゆく年の 思ひ出もなき 春にやかはなむ」
大晦日に思う。この1年何の思い出もなかった・・・と孤独に押しつぶされそうになる歌。
はかない。。。
P147 平安時代の貴族たちは
「京都以外には文化がなく、他の地はまともな人間関係の住むところではない」と考えていた。
P168 藤原定家は、源氏物語や新古今和歌集からの本歌取りが多い。楽しむには教養が必要。
だからこそ、源実朝の シンプルさが際だつ。
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深い。深すぎる。これで橋本氏の著作は読み収めかと思うと何とも残念だ。こんなにも人々のモヤモヤを端的に表現できる人を他に知らない。
オヤジの権威低下という卑近な題材から始めて、ジェンダー論や政治論、更には組織論まで父権性の崩壊に由来する社会課題の本質を鮮やかに描き出している。1年にわたった雑誌連載だと言うのに、最初から最後まで首尾一貫した完璧な構成で、一体この人の頭の中はどうなっているのかとただただ驚くばかりである。
オヤジを成り立たせている『男が女を支配する』という『論理』が豊かさのお陰で消滅し、自由になった女が『それっておかしくない?』と声を上げているのが今の状況。それを理解できない一部(大部分?)の政治家や、ボクシングおやじ、大学理事などが世間の空気を読めずに叩かれている。もう我々と彼らの間の断絶は埋められなくなってしまったが、昨今話題になっている安倍派の裏金問題でも『秘書がやりました』とか、まだそんなこと言ってんのかよ!という時代錯誤の発言が続いている。橋本氏は創設者の私物ではなく個人の集合体になった現代組織はオープンにならざるを得ないのだから、組織内の特殊な言葉はもう理解されないよと喝破する。本来は会見に参加しているマスコミが『はぁ?何言ってんの?』とツッコミを入れないといけないのだが、彼らマスコミ自身も田舎おやじの論理からなる古い組織だから、説明になっていない説明がまかり通る。一体いつになったらこんな茶番がなくなるのかと思うが、世襲産業の政治家も守旧派大企業の代表たるマスコミも組織の(=オヤジの)論理は次の世代に継承されるのだろうな。女性ガンバレ! -
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よくわかる、というよりは、古典に対する敷居の高さをぐっと低くするための好著。
古典のよみにくさのカギとなるのは、どう書かれていたかだと筆者は説く。漢文・ひらがなのみ・漢字×カタカナの書き下し文から、漢字×ひらがなの和漢混淆文へ至る文体の変遷を追うことで、上代から鎌倉後期までの文学史が辿れるというわけで。
著者の語り口が巧みだ…と思ったのは『徒然草』について語る第6章。有名だが訳しづらいフレーズ「おぼしき事言わぬは腹ふくるるわざなれば…」を「思っていることを言わないと腹がふくれる=欲求不満になる」と解きほぐす。で、その"思っていること"が何か、つまり引用箇所の直前に何が書かれているかは章の後半で紹介されるのだが、それにくすりとさせられ、兼好法師と私の距離感がぐぐっと縮まる。うわあ古典おもしろ! となるのはある程度もとからこういうのが好きだからかもしれないが、でも人に勧めたくなる本なのは確か。 -
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チャンバラ映画を軸にしてたどる、日本人の文化史・精神史の後編。ネットでは毎日のように「映画は娯楽なんだから!」VS「創作とは政治なんだから!」の論戦が囂しく繰り広げられるが、その辺の答えはこの上下巻に詰まっている。というか、「日本的なエンターテイメントとは何ぞや」という問いの答えは全て詰まっている。
ただ……。
橋本は「テレビは芸が無いヘタクソでも有名人になれるメディア(※要旨)」とテレビを蔑み、「1962年にチャンバラ映画は終わった」と断言している。要はテレビ時代劇を下に見ているので、その辺は割引いて考える必要がある。
実際のところテレビ時代劇とは、クリエイターや俳優が映画につづく新たな開拓地として情熱を燃やした、素晴らしいコンテンツだったのだから……。 -
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高校時代、古文の授業を受けながら「同じ日本語なのになんでこんなにわからないんだ。訳さなきゃ意味がわかんないなんてもう外国語じゃん」などと理不尽さを感じ、よくわからない怒りをおぼえていたものでした。
あれから数十年、大人になってもなおこの思いは持ち続けていましたが、読書を愛するようになった今、「日本語なのに何て書いてあるかわからないのは悔しい!」という思いに変化、「古文をすらすら読めるようになってやる!」と強く思うようになりました。どうやら高校時代のイライラは、日本語なのに理解できない自分への苛立ちだったようです。
古文の文法書を買ってみたり、「近い将来読む!」と決めて原文のみの古典の文庫をボックスで買ってみたりしながらも、読みたい本は次々と現れるので、古典はなんとなく先延ばしになっておりました。それが最近になって古典文学を読みたくなり、それにはまずここからだと、本書を手に取った次第。
本書は〈ベーシックで普遍的なテーマを扱い〉、〈若い読者にもわかりやすい表現を用い〉た入門書の新書レーベルなので、古典はなぜ読みにくくてわからないのか、という、私が長年抱いてきた疑問について、とても読みやすくてわかりやすい解説がなされています。だからもう我が意を得たり、うれしくておもしろくて、ザックザック読めました。
樋口一葉の『たけくらべ』を皮切りに、『南総里見八犬伝』、『源氏物語』、『古今和歌集』、『枕草子』、『徒然草』、『伊勢物語』など、数々の例文を挙げながら、「ほらね、わからないでしょ、めんどくさいでしょ」と説明されています。
小野小町の
《花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに》
という歌の解説には笑ってしまいました。こんなに〈ぼんやりした〉歌だったとは。
そして『浦島太郎』にはまぁびっくり。私の知ってる『浦島太郎』じゃなかった。亀をいじめる悪ガキなんて出てこないし、海の底でタイやヒラメの舞い踊りなんてのも出てこない。ラストがまた、この亀ったら、もうおもしろすぎるぞ『浦島太郎』。しかも、他にもいろんなパターンの『浦島太郎』があるなんて。
古典というものは、基本的にぼんやりしたものなんだというのがよくわかりました。何通りにも解釈できてしまうので、どういう意味で書いたのかは作者にしかわからない。でもそこは、作者の遊び心なのかも、という気もしました。読んだ人がどう解釈してもいい、という寛容さは、私には心の余裕にすら感じられます。あえてハッキリさせずにぼやかす、という、もともとの日本人のゆったり気質の現れのような気がして、なんとなくほんわかとうれしくなったのでした。
何が書かれているのかを探りながら本を読んでいく《智解》(慈円が『愚管抄』で説く「分かって行く能力」)を、ぜひこれから身につけて、古典をスラスラ、とまではいかなくても、読めばわかる、くらいにはなりたい、なるぞ、と決意を新たにしたところでこざいます。
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著者自ら言っているように、かなり面倒くさい語り口なのですが、あっちにこっちに振り回されながらもページめくる手は止まらない、という本でした。チャンバラ映画を語るということが、青年ということを語るという第四講の立て付けが面白かったから、なのか。ひさびさに出会う橋本治節が、心地よかったから、なのか。観客と時代劇の関係を1964年のNHK大河ドラマの第一作「赤穂浪士」を持って"卒業試験”とする、とか「らしい」見立てと論理展開を満喫した感じです。まさに、あとがきで自ら徳富蘇峰の『近世日本国民史』に張り合って『近代日本国民史』というのは紙数の膨大さ、だけではないと思います。上巻の感想でも書きましたが、直前読書の「社長たちの映画史」との繋がりと、東映アクション映画としての「シン・仮面ライダー」との重なり、が必然的で、1986年の書籍が今、文庫されてたまたま手にしたことにテンション上がります。そんな個人的な体験だけでなく、ここで書かれている大衆芸能論は、Youtubeや TikTokでのコンテンツについての未来予測になっていることにも驚愕しています。橋本治って存在の唯一無二性である「好きであること」「論評すること」の螺旋階段に巻き込まれた時間でした。
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塾の保護者向け定期冊子のオススメにあったので読んだ。
古典というものはそもそも難しくて投げ出したくなるものというのは仕方がないことというのがわかって良かった。
今の考え方と全く違う考え方をしていた時代もあると言うことを発見できるという面白さがあるということに共感した。
最近では毒親という言葉も流行っていて、放任主義な親を恨んだりもしたが、そもそも昔の貴族は自分の手では子どもを育てないから親子関係が希薄であったとか、在原業平が詠んだ句の「おもふことはでぞただにやみぬべき、我とひとしき人しなければ」を読んでこんな昔から歳をとるにつれ自分と同じ意見の人ばかりではないから思った事を言わないでおこうと思うことに深いなと思ってみたり、作者の伊勢物語の説明に「人の思いの集積が人生という物語を作る」という言葉にハッとしたり、私にとっては古典に興味を持つキッカケを与えてくれる充分に価値のある本だった。 -
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長女が古典好きで新古今和歌集を絶賛していて、かーさんも読め読め、定家はすごいぞと勧めてくれるのだが、古典苦手意識が強すぎて、まずはこれから。
新古今和歌集のことだけ書いてるわけじゃないけど、橋本治も定家絶賛でした。
現在の日本語というものが、どういう経緯で出来上がってきたのか。いや、「作られて」きたのか。日本語の成り立ちがわかりやすく書かれている。
橋本治の文章って一見分かりやすいようでなかなか難しい。とても論理的で、でもその論理は普段の人の生活の中に感じる情緒と繋がっている。月を見て、梅の香りを感じて感じるものこそ、生きることを豊穣にする。
あー、でもまだ新古今和歌集には手がでない。
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古典を小中学生向け、少年少女古典文学館シリーズ。監修が司馬遼太郎、田辺聖子、井上ひさし、文章はそれぞれの巻で名作家たちが担当するという贅沢なシリーズ。
古事記の文章担当は橋本治。三部ある古事記のなかで、上巻(天地創造から、神武天皇の登場まで)が入っています。
たしかに「古事記」と言われて有名なのはこの上巻の部分かもしれませんね。イザナミとイザナギ、ヤマタノオロチ退治、オオクニヌシの冒険、海幸彦と山幸彦の争いなどなど。
あとがきでは、この上巻を「まだ人間が一人も出てこない、神様たちだけの物語」としています。もちろん物語には”人”は出てくるのですが、日本の神話における”人”は神様が地上に降りてきて、人間のように暮らして、人間のように争い、人間のように恋をする。世界の神話には「人間を創った」というお話があるけれど、日本の神様は人間を作らない。だから日本では歴史と神話に明確な線引はない。
この内容は非常に納得でした。
神様は人間社会にも当たり前にいる。人間は神様の子孫そのもの。これが日本の神話で歴史書の根本なのですね。
訳註もとても充実しています。
言葉の語源や、出てくる物の意味は、私も初めて知ったものが多いです。
少し笑ってしまったのが男女関係の所。「すぐその場で愛し合いました」「すぐその場で夫婦になってしまったのです」うん、これは少年少女に分かるかなーー。
さらにヒコホノニニギの命からコノハナサクヤヒメへの求婚について、「『結婚したい』ということは、当然のことながら、『美しいから一晩だけ一緒に寝たい。一度結婚してみたい』という意味で、『一生連れ添う妻にしたい』とはお思いにならなかったのです」と書かれているのが、うん、男の本音はっきり言ったーというのと、これ少年少女に分かる?とも思う(笑)。
こちらの「古事記」上巻部分は、神話として終わっています。
中巻、下巻になるとだんだん人間同士のドラマや争いになりますね。
長い長い年月が一応まっすぐに繋がるお話しって、最初の頃のこの世ならざる神話の世界に自分が一生懸命合わせようとする、読者としての感覚が楽しんですよ。巻を追い年代が過ぎるごとに「その感覚人間としてわかるわ~」になってしまい、物語が読者に合わせてくれるというのは有り難いんだけど、私ががんばって物語に着いてゆくから、そっちから来てくれなくていいよ、という読書感覚になるんです。「古事記」の中下巻なんて今から何千年も前なのに「人間として分かる」と感じられるのは十分すごいことなのですが。
もちろん「古事記」中下巻も人間ドラマとして面白いし、古典の授業でも習う場面も多いので、こちらの「古事記上巻」の続きを少年少女版で出してほしいなあとは思います。