橋本治のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
2005年出版。
しかし内容は震災と原発事故、悪化する一方の経済に喘ぐ
今の日本にますますふさわしい。
タイトルからは「何らかの解答」が示されているように思えるけれど、
これは「ほとんど解決不能な問題を前にしたときの考え方」
について書かれた本。
そんな問題に直面した時には「これからどうしよう?」ではなく
「過去にどういった選択をした結果、この状況に至ったのだろう?」
と考えるといい。
コナン・ドイルの「緋色の研究」でシャーロック・ホームズは
「物事を訴求的に推理する(reason backward)」ことの大切さを
説いているが、まさにこれが遡及的な思考。
例えば地球温暖化について著者は
「じゃあ冷房の温度設定を28℃にしよう」ではなく
どうしてこうなったかを遡って考える。
すると「炭酸ガスの排出が劇的に増加した19世紀の産業革命」に
辿り着く。それは「自分が必要とする以上のものを生産し、
必要か不必要かに関係なく誰かに売りつけて利潤を増やす」という
道を選択した、ということである。
その結果、原材料と市場の確保のために植民地を必要とし、
いくつもの直接的な戦争と、その後の貿易戦争、
そして様々な廃棄物と炭酸ガスを生み出した。
著者は「じゃあ、産業革命以前に戻ったらどうなる?」
せめて「日本が調子よかった1960年前半くらいに戻ったらどうか」
という大胆な仮説を立てる。
それはあまりにも壮大で笑ってしまうくらいなのだが、
よく考えると妙に納得してしまうものだったりする。
「せめて日本が調子よかった1960年前半くらいに戻ったらどうか」
「新幹線は辛うじてあるが、高層ビルはまだなく、クルマもまばら」
そんなのも悪くないな。と感じさせるのはさすが。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ本にマーカー引きすぎてえらいことになっている。
それくらい「そうだよな!」とか「そうだったのか!」が詰まっている。
身体知は大事。
水泳ばかりやってたら水泳に有利な身体になるように、
文句ばっかり言ってたら文句を言うのに有利な身体になる。
この前読んだ「ミラーニューロン」も、
人間が形から変化することを証明しているのではないかな。
特に唯物論的なことを言いたいのではない。
心というものはあると思う。
愛とか勇気とかと同じくらいには。
愛とか勇気とか国家とか常識とか、
それらすべては共同幻想だから、
なんとなく皆が「在る」と思っているものは「在る」ことになっている。
その方がこのよくわからん世界を生きるために都合がよろしいのだろう。
幽霊もそう。
天皇もそう。
天皇が万系一世というのも実際にそうである必要はなくて、
そういう物語が共有されているというのが大切。
その方が上手く社会が廻る。
少なくとも今までは廻ってきたわけであるからね。
以下、
興味のあった話題を羅列。
・文明化された都市で残された自然は身体である。
とするとピアッシングやタトゥーは身体の文明化になる。
・「、」と「・・・」の違い、タメの表現。
・タフネスの理由は幸福な思い出にある。
・「義務教育」を「教育を受ける義務がある」と思っている学生が多い。
「オレ様化する」のは無時間モデルの消費者思考だから、
少ない労力(授業に出ない・聞かない)で、
どれだけ利益(単位・点数・学歴)を得るかに執心する(コスパ)。
とりあえずクレームつける、とかは典型的な「賢い消費者」の行動だろうな。 -
Posted by ブクログ
集英社新書から出版しているアンチ・ノウハウ論、サラリーマン論に引き続き、今度は経済について考察しています。とは言っても、著者の事ですからいわゆる「経済学」の土俵にのって経済を論じるわけではありません。なので、いわゆる「経済学」を期待した読者からは、概念定義がちょっと違うだとか議論や過程が乱暴すぎるとかいった不満が噴出しそうです。まあ、経済学とは一種のモデルに基づいた仮説の社会科学ですから、議論のためには統一した概念とか言葉が必要なのでしょう。しかし、こういった土俵の外からの声に応えるのも、いわゆる「経済学」の役目でしょうし、そういった役割期待に沿えなかったのが現在の「経済学」不信の一因になっているのだと思います。
一見して乱暴な論理を持ち出してくるように見えますが、実は意外と鋭い指摘も随所に見られるのは、一夜漬けの浅薄な知識で議論を吹っかけるのではなく、沸々と長い間抱いていた疑問や洞察の賜物なのでしょう。
で、例のごとく話が中途半端な形で終わってしまうのも、無理矢理に結論を押し付けるのではなく著者の思考へ呼びかける開かれた著者の意図なのでしょう。それが三部作の完結編という所以かもしれません。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ橋本治は、ああでもなくこうでもなくの、力の抜けて、かつ的確な時事評論で知ることになったのだが、これまで小説は読むことがあまりなかった。この2-3年、巡礼、リア家の人々、橋などの
オリジナルを書き下ろしているが、そのさきがけとなっているのが
この短編集である。
どの話も、短編の中に細部までの描写が張り巡らされており、この人のもつ、人に対する確かな洞察力に感服させられる。
児童虐待を扱った「ふらんだーすの犬」は、身勝手な親に捨てられ、虐げられるまでがリアルに描かれる。報道で見る児童虐待や、日常診療で犯人捜しに終始する野次馬的第三者目線ではなく、このような加害者・被害者目線での鋭い視線がこの作家の生命線である。 -
Posted by ブクログ
橋本治の「『三島由紀夫』とはなにものだったのか」(新潮社 2002年)を読んで(全体の20%しか読まなかったが)ホッとしたところである。
三島由紀夫は1925年に生まれ1970年に死んでいる。
私は彼の著作を殆ど読んでいない。彼は文学者としてスター作家であり常に時の人であった。ましてやあの死にざまである。多少の本読みであり1935年生まれの私が”読んでいない”のは、よほどの”読まない”意思を反映している。
しかしこれほどの大文学者の著作を読まないことについて、常に”それでいいのかな”、”かたくなな独りよがりではないのかな”の思いも無くはなかった。
今、ホッとして、敢えて三島を読まなかった私の感性も捨てたものではないと密かに自賛している。
橋本治のこの著作の内容をここで紹介することはしないが、彼も三島を読まなかったのだそうだ。理由は自分を文学者と思わなかったから。しかし物書きとしてこの本を書くにあたってはすごい読み込みをしている。「豊穣の海」だけでも3度も4度も。
そして「三島は日本がこのように変わっていくことを全く洞察していなかった。」と言っている。
~~~~~~~~~~~~
私が橋本治の「『三島由紀夫』とはなにものだったのか」を読んだのは「三島」への関心からではなく、ちょっと前に彼の「小林秀雄の恵み」を読んだからである。
この本のテーマは小林の「本居宣長」である。
私にとって「本居宣長」はいかにも気になる本であった。書棚にあって、過去何度か読みかけては途中で挫折する本であった。
「小林秀雄の恵み」が「本居宣長」を扱っていることを知って、これを読めば少しは判るかなと思ったのであった。
私に判ったのは「本居宣長」はクソ真面目人間小林秀雄の独りよがりの著作で、本物の本居宣長は桜偏愛の歌詠み人間であったことである。小林のおかげで古事記に却って勿体が付いてしまった。
橋本治は「小林秀雄の恵み」を書くにあたって「本居宣長」を10度も読んだのではないか。橋本が書くまで小林に噛み付く人間はいなかった。凄い物書きだ。
その橋本に「三島・・・」があるのを知って読んだのだった。
~~~~~~~~~~~~
今私は日本の世界的大作家であるM・Hを読まない。
いや、それでも2,3冊は読もうとして買ったことはあるのだが、どうしても読み進められないのである。どうしてか判らないが読めない。
望むらくは何年かたって、橋本治がM・Hについて解題してくれることである。そして”読めなくて当然だよ”と言ってもらいたい。 -
Posted by ブクログ
清盛の先を頼もしく思った。清盛のためにならどんなことでもやってやろうと思い、そのようにして来た邦綱である。今更の他人行儀はおかしい。二十数年前も昔の話を持ち出して、無理なこじつけをする必要はない。清盛は、そのような人物ではなかったはずだ。しかし、清盛は変わった。
盛衰は、起こっては消え、消えてはまた起こる。御世の表の波頭。咲く花は、やがて散るためにこそ咲き誇る。盛りの華に降りかかる雨の滴を、風雅と見るか、無惨と見るか。治承二年の春、その一門の栄華の時は、盛りの蕾を開かせんとして息づいていた。
なにがどう絡み合っているのかは分からない。
しかし、重盛は面を動かさない。かつて勇んで敵に立ち向かって行った平氏の若武者は、今では何事にも動ぜぬ人物と成り変わっていた。それが慶事であれ、凶事であれ。
教盛は、理解出来なかった。まさか、そこに「絶望の表情」があるとは思えなかった。重盛自身さえ、そのように理解してはいなかった。まさか、一門の繁栄を推し進める中宮の懐妊に対して、自身が絶望の色を示しているなどとは。重盛はただ、一門を巡る人の思惑の中に、処理しきれぬ煩わしさだけを感じていた。「中宮の懐妊はよし。しかし、その先は――」と思うと、重盛にはどのような展望もなかった。「よし」と思うその先には、ただ『無』しかない。教盛は、「中宮ご懐妊」の慶事に不安を見、重盛は無を見ていた。なぜなのかは分からない。重盛には「その先」が見えなかった。
俊寛の一族は消え、これに仕える者達も四散して、今や、有王と俊寛の間を隔てるものは、ただ青く広がって続く海だけとなっていた。
人臣位を極めて身を退けた清盛は、すべてが自分の思うままになりうるものと、信じ込んでいた。しかし、重盛は違う。俗世を離れた父から一切を委ねられた重盛は、自身の一族が、藤の一族によって占められた大海に浮かぶ小島のようなものであることを、よく知っていた。
盛子によって、清盛は「摂関家」という格式を手に入れた。盛子があればこそ、高倉帝の立太子も御即位も可能になったーー摂関家の北政所たる盛子は、高倉帝の御生母滋子よりも先、遥かに高い身分を得ていたのであるから。…平氏一門の栄華の礎は、まだ年若い盛子によって築かれたのだ。
盛子は、栄華の女だった。そして、父に孝なるこの娘は、ひそやかな女だった。…11歳で「摂関家の後室」となった盛子には、愛する夫も、愛する子もなかった。ただ義務として、「母」の役割を勤めさせられたーー「在る」という以外になにもする必要のない「母」の役を。盛子にとって、その後の人生は、ただ「在る」ばかりで、実質のないものだった。盛子は、ただ待った。なにを待つとも思わず、ただ待った。待つ以外、盛子にはなすべきことがなかった。なにを待つとも分からずに待ち続けた盛子は、ついにその年になって、「待つべきこと」のなんたるかを知った。その年、盛子は二十四歳になっていた。夫の基実は、二十四歳で死んだのだ。盛子は、基実のそばへ行きたいと思った。盛子が愛し、盛子が「愛された」と思いうるただ一人の男ーー…基実の享年と同じ二十四歳の春を迎えた盛子は、ひそかに食を断った。その年まで生きて、盛子は、十分に自身の役割を果たしたと思ったのだ。…夫基実の命日より、一月ほど早い死だった。「故摂政殿よりも一日も若く」と、盛子は、それもまた望んでいたのである。
一門は、鳴りをひそめていた。八月になると…知盛が、嫡宗の兄重盛の喪に服して、官を辞した。殊勝な心懸けではあるが、これを見習う弟達はなかった。見習おうにも、辞するほどの官を持つ者は、まだない。
邦綱の支えるべき相手は、既に重盛であって、清盛ではない。その重盛が病み衰えて、幾許もない――邦綱は確かな頭脳で時代を読んだ。…彼が支え実現させた「伊勢平氏の栄え」は、既に先のない、散り始めた万朶の桜も同然のものだった。
「花は、咲き誇ってある。しかし、幹は折れた」
邦綱は、負けるわけにはいかなかった――清盛を、負けさせるわけにはいかなかった。
瞬く内に清盛は、人の世の階梯を登りつめた。登りつめた「先」はない。清盛は、栄華を達成した。達成することは許された――清盛一代に限って。…栄華の高みに駆け上った清盛は、栄華の高みに追いやられ、退けられたのである。…清盛の去った一門は、既に「栄華の一族」ではなかった。
清盛の生涯で最も輝かしくあったのは、栄華の頂で俗世を去るその日だった。…栄光と歓喜の中で、清盛は世を捨てた――それが当然のありようと、誰もが思っていた。であるならば、清盛に全き栄達を与えれば、清盛を朝廷から逐うことも出来る――
院が、清盛を「疎ましい者」と思し召されていたのなら――。「疎ましい者を逐い払わん」と思し召された院が、清盛に「身に過ぎるほどの栄達」をお与えになられたのなら――。清盛は、身に過ぎる栄を畏んで受け、歓んで朝廷を去った。…「逐われる」という自覚なくして、清盛は逐われた――その後の一門の不協和は、すべてこのことに由来する。
「夜討同然の、”官打ち”などという兵法が、この世にはあるのか?」
…しかし、それはあるのだ。昇進の矢を次々と放たれ、見事清盛は、人の世から退いた。昇進の矢に「射られた」と知らぬまま。
清盛と邦綱が「栄華への道」と信じて歩んだものは、「奈落への道」でもあった。
父の忠通はない。兄の基実もない。舅の公教もない。兄の遺領を奪って平然としている伊勢平氏の一族との縁もない。「殿下」を称される摂関家の長が、後盾のなさを嘆く時代が来ていた。
院にとっては、御自身のご勢威を瑕つけ奉る者のすべてが「敵」であられるのである。院のご勢威に拠り奉って力を得ようとする者のすべてが、疎まれ悪まれ、退けられてしかるべき者輩なのである。
十九年前、平治の乱の翌年、…一門は、院のおそばに一人の女を奉った――ひそかに、院のお胤を得るため。院は、奉られた女を寵され、同時に、一人の男をも寵された。女は、後の建春門院――平滋子。男は、世を去った平重盛。重盛へ賜わされた越前一国の知行権は、その一門へ賜わされた、院の初めてのご恩寵であった。院は、その初めへ戻られて、平氏一門へのお心を根こそぎお奪いになられようと思し召されたのである。
越前の国にあった重盛の知行権は、効力を失っていたのである。除目の席にいた公卿は、誰一人として、この決定に異を唱えなかった。唱えようがなかった。…席に姿のあった平氏一門の公卿は、清盛の義弟である公家平氏の時忠と、清盛とは微妙に距離を置いた異母弟頼盛。そして、喜界ヶ島から戻った婿の丹波少将成経を迎えて精魂の尽き果てた、人のいい門脇の宰相教盛の三人ばかりだった。…小松の内府重盛を欠いた平氏の一門は、いつの間にか、朝廷での勢威を失っていたのである。
(院を幽閉した時)
入道の声は落ち着いて、静かだった。季貞はなにも疑わず、これを静憲に告げた。しかし季貞は、清盛が涙を堪えていたことを知らなかった。清盛は、静憲の来訪に感謝していた。「したくてしたことではない」と思う清盛は、自縄自縛の嘆きの中にいたのである。
清和源氏の棟梁としてあった老将為義は、嫡男義朝と戦って、敗れた。我が子を思う為義に、義朝を憎む心はなかった。父に弓引いた義朝にも、その心はなかった。仕える主に「戦え」と命じられれば、戦わねばならない。それが、王朝の世に走狗としてあった、清和源氏の宿命である。
(頼政の、平治の乱の回想)
頼政の一党が固める橋を、既に自身が制したもののように心得て、義平は突進してきた。義平が何を叫んだか、頼政は覚えていない。しかし、軍神が乗り移ったかのような義平の形相を、頼政は忘れることが出来ない。それは、「戦う」ことがいかなることであるかを熟知し、それを己が性とした者の顔だった。そんな顔を、頼政は初めて見た。頼政にとって、「戦う」ということは、攻めることではなかった。まず、守る―― …第一になされるべきことは、戦いを回避すること―― …このことを第一とする都の武者達にとって、戦いの場から逃げ出すことは、卑怯でも怯懦でもなかった。
「ようぞや兵庫頭!清和源氏の一統ながら、なにゆえ伊勢平氏の麾下につく!臆したか!怯んだか!二心を恥じる心はないか!兵庫頭の二心、我が一族の恥として、末代までも語り継がん!」
…何をもって「二心」などと言い放てるのか。…しかし、頼政は、その言葉が忘れられなかった。聞き捨てにしようとして、その言葉が胸に食い込んだ。
「日本一の不覚仁、信頼卿に一味同心したることこそ、我が一族の恥となる!恥を唱えて恥を知られい!」
――そう義朝に怒鳴ったことを誤りとは思わない。しかし、「恥」の一語が、頼政の胸に深く突き刺さった。なにを「恥」とし「二心」とするのか――その根本が、頼政と義朝とでは、大きく違うのだ。
頼政が人となって行く時期は、清和源氏と伊勢平氏の勢力が交替して行く時期であり、院の御所がお主上の朝廷の上に立たれて、御世のありようが不思議に揺らぎ始める時期でもあった。
戦うことは、死ぬこと。王城の地の平安を守って、「戦いを回避する」という術は、もうない。守るべき王城の平安は、既に、頼政の知るものではなくなっていた。「生きるべき時は生きた」と、頼政は再び思った。「俺は、長く生き過ぎた」と。戦うということは、己の尊厳を賭け、己の尊厳を守り通すことであるのだと、その生涯の最後の時に至って、頼政は悟った。
(以仁王に挙兵を求められる)
「我が身は今、なにを陳べているのか」
――それを思うと、腹立たしかった。偽りを陳べ、「偽りにはあらず」と断じて、危うい状況に突き進む。覚悟のこととはいえ、自身の生の最後に訪れるのがこの空しい弁舌かと思うと、頼政は、腹立たしく、悲しかった。
++++++++++++++++++++++
邦綱はめっちゃ頭いいですね。どんだけ清盛のこと好きなんだ。こういう右腕がいるトップは、強くなります。参謀。
盛子ちゃんはとにかく幸薄です。摂関家に嫁がされた運命。「生きて居るだけ」の大切な存在だから出家もできず、再婚もできず。
そいてやっぱり黒い後白河。こいつは…嫌いだ…!清盛が疎ましくて、さっさと身を退いてほしくて、高い位をあげたってことですね。清盛の片思いかわいそうです。
しかも、この時期って「平家の栄華」とか言われる時期だと思うんですが、意外とそうでない。除目の席にいる平氏公卿は3人ぽっち。越前知行権の奪還を阻止することもできませんでした。全然力ないじゃんね…。
最後のほうは、頼政にスポット。平治の乱で義朝義平親子に「恥」と罵られたことが胸に残っているんです。恥とは何か。そしてとうとう、平氏と戦うことを決意します。勝てる見込みの無いことを知って。以仁王に勝てるか強く問い詰められたときには、仕方なく「勝つ見込みはある」と言い、己の不甲斐無さに悲しくなります。為義とかぶる部分が多いですね。上の人間の言葉で動かされるつらさ。 -
Posted by ブクログ
「朝廷中枢での官を上せる以前、受領の性に従う平氏の一族は、地方の任国を一つずつ増やしていったのだ。清盛の以前に、このように権勢を目指して勤勉なる男は、一人もいなかった。」
「清盛は争わなかった。彼が争う以前に、彼の行く道を塞ぐ男達が、争って斃れた。清盛はその後を行った。清盛が栄華を望まなかったわけではない。しかし、清盛が動くその以前に、勤勉を嫌い、権勢を望んだ男達の我執が、清盛のために道を開いてくれていた。清盛は、彼のために開かれた無人の野を行くだけでよかったのだ。」
「栄華を得たその後になって、清盛は、『人の嫉み』という敵と初めて出合わされることとなる。しかし、『嫉み』を敵として、これをかわす術を持つだけの成熟が、清盛とその一門には持ち合わされていなかった。」
「参議として朝廷にあるのは、いまだ年若い三男の宗盛と、成親に心を通わせる異母弟の教盛ばかりなのだ。」
(権大納言重盛は病で辞職、時忠は山門の問題で謹慎中)
「重盛に実を授け、宗盛に名を授けようと、清盛は思っていた。…清盛は、重盛に自身の分身を見ていた。それは、『力ある男』である。一方、宗盛には、『望みようのなかった夢』を見ていた。『女院の猶子』で『女院の婿』…自身の血を分けた息子が、輝ける女院の栄華を受け継ぐことを、恍惚と夢見ていた。…宗盛と重盛と、二人の息子は、清盛にとって優劣のつけがたい『二つの分身』であったのだから。」
「邦綱は、単純明快な男である。単純明快であることを通すのが難しい人の世で、邦綱はこれを通すための複雑怪奇を駆使した。」
「なにも変わらない。重盛はただ、頑固なのだ。父に対して、余分な表情を見せない。源氏の敵軍を逐った、あの平治の乱のその時から。重盛が何を考えているのかは分からない。乱の平定された後、決然たる面つきで、朝敵となった成親の命乞いをした――その時のことを思い出そうとして、清盛は何も思い出せなかった。」
「その嫡男の頑固さが憎く、また頼もしくもあった。しかし、その頑固者の息子は、父の意向も聞かず、独断で成親を救ったのである。清盛には、それが許せなかった。」
「五十を越えた入道と、五十を間近にする権中納言との間には、まだまだ取り組んでしかるべき問題が、山積していたのである。」
(入道:清盛、権中納言:邦綱)
「清盛はなんというお人好しだろう。自身の踏み込んだところが、いかなる状況へ通じるものかを、一向に理解していなかった。」
(基実が死亡し、盛子が財産を継いで基通の養母となったことから)
「平治の乱の功によって重盛が左馬頭となったのは、二十三歳の年だった。敗死した清和源氏の嫡宗義朝の得ていた官を、年若い伊勢平氏の嫡男が得る――重盛の左馬頭任官は、それだけの意義があった。…やがて左馬頭は、時子腹の弟宗盛へと譲られた。その時、宗盛は十六歳だった。十六歳の左馬頭は若い。しかし、…重盛は、『一門の要となる官を年若い弟に贈り、その自覚を促す』と解釈した。それから…左馬頭の官は、十歳の弟重衡へ、宗盛から贈られた。正三位の権中納言にまで上りつめていた重盛は、複雑なものを感じた。平治の乱の記憶は、重盛の中にまだ生きていた。戦いを勝ち抜いて敵将の官を得た重盛である。それが、わずか十歳の弟の身を飾るだけの官となった。同じ日、六歳の我が子は、越前守となっていた。国守の官は重いものであるはずである。左馬頭の官もまた――。六歳の我が子の国司就任を慶び迎えながら、それが『十歳の左馬頭』と同等の意味しか持たぬ人事であることを知って、一抹の不安を感じた。『これでよいのか』と。」
「重盛は、生真面目な男だった。栄華の階梯を登る清盛が臆病なまでに慎重であったその気質は、重盛にも受け継がれていた。」
「いつの頃からか、重盛は変わった。院にお仕えするのはよい。院のご寵を受けるのはよい。しかし重盛は、伊勢平氏の嫡男なのだ。…なにゆえ多氏のためび汲々としなければならないのか。無用の言辞を弄し、父の命令をかわそうとするのか。武に長けた一門の棟梁でありながら、一門を率いるその以前に、多氏のためを論じ立てる。」
「『義平の軍勢を追い払った重盛はどこへ行った?あの、誇り高い武門の嫡男はどこへ行った!』と、清盛は思った。」
(殿下乗合を経て、重盛による報復ののち)
「院の御所で、延期になった高倉帝御元服のお定めが催されたのは、その三日後の十月二十五日だった。その席に、重盛は出仕しなかった。『大事のお定めを延引させた咎である』と、人は囁いた。その通りだった。重盛は、『大事の咎』を身に引き受けるため、参内の基房を襲撃させたのである。それこそが、重盛の『報復』だった。摂関家へ対してではなく、我意を通そうとする福原の父入道へ対しての――。」
「重盛の『咎』を負った辞任によって、高倉帝のご元服と時を隔てずに行われることになっていた徳子の入内は、延引された。それが、『御自身のなされようをよくお考え遊ばされませ』と言う、父清盛に対する重盛の『報復』だった。父の威勢と院のご寵によって正二位の権大納言にまで上った平重盛は、摂関家を頂とする王朝社会の秩序の保持を、『一門の栄え』のその上に置く男だった。」
「重盛は、『多氏との調和』を第一に考えた。『平氏の専横』を、決して口にさせまいとした。そのために、慎重に事を構えて、最小限の勢力拡大を図った。…自身の勢力拡大のための敵となる最大のものは、世を退いた父の、その場限りの横車なのである。」
「配所の風さらされた師長に、栄達への野心などはなかった。…悲運の貴公子の胸には、世俗の欲とは違うものが芽生えていた。楽の音に対する、細やかで磨ぎ澄まされた感性である。人の世の賑わいから遠く離れたところで生きざるをえなかった師長は、己が心を楽の調べに溶け込ませて、長い孤独の歳月を過ごした。師長には、楽の音以外に心を傾けたいと思うものがなかった。」
「重盛は、大臣になりたかったのである。大臣になって、父清盛の干渉を撥ねつけたいと思ったのである。既に世を捨てた入道の身でありながら、清盛はさまざまの口出しをする。…清盛の後に太政大臣となってその官を退いた藤原忠雅は、在俗の身でありながらも、朝政からは正しく距離を置いている。それこそが、『前の太政大臣』にふさわしいあり方であろうと、重盛は思う。父の要らざる口出しは、『平氏の専横』として、都にあって一門を率いる重盛の上に降りかかって来る。」
「兼実は、重盛を悪まない。憎悪よりも深い心で、重盛を見ていた。すなわちそれは、『嫌悪』である。成り上がりの伊勢平氏を嫌悪する兼実は、嫌悪を表立てぬよう、重盛を見ていた。まるで、人ではない『獣』を見るような心で。…重盛は、『清盛の傀儡』から脱しようとしている。…武者の一族と争って、摂関家の兼実に勝ち目はない。しかし、人事という醜悪の泥沼の仲に引き込めば、新参の平氏に勝ち目はない。人事の世界で『摂関家』という家筋は、最大の武器となるものだからである。…王朝人事の世界は、魔性の森にも等しい。兼実は、『そこへ来い』と重盛を誘った。『物知らずの相国入道ならばいざ知らず、謹厳な重盛はそこで野垂れ死ね』…時の右大臣は、そのように平氏の嫡男をもてなしたのである。」
「思えば、保元の乱は、六条流をはじめとする新興勢力の前に、摂関家がその力を衰えさせていく落日の時の始まりだったのだ。」
「成親の存在は、父清盛との間で、諍いの種となっていた。それは、『伊勢平氏の父のありように従うか、王朝人士のありように従うか』の、二筋道だった。」
「院は、清盛をお悪みにはならない、しかし院は、御自身のご優越に障る者をもまた、決してお宥しにはなられない。院のご庇護の下、新たなる権勢を得た清盛は、この禁忌に触れたのである。」
「周到な重盛は、ただ一つのことを除いて、すべてを手に入れていた。重盛がただ一つ手に入れられなかったもの――それは、父清盛からの自立だった。」
(神輿振りで山門入洛)
「神に従い仕える者達を傷めればどのようなことになるのか――それを重盛は知っていた。…『やめい!』の声を上げさせながら、内大臣重盛の中で、事態の収拾を図らんとする公家の血と、戦いに燃え上がろうとする武家の血が、一瞬交差した。」
「大将とは、既に儀礼の官である。いかなる事態にあっても、近衛の大将が陣頭直々に立って指揮をするなどという事態は、絶えてなかった。御世の大臣たるものが、左大将の官を兼帯するだけの理由で内裏警衛に立ち働こうなどという事態もまた、なかった。しかし、重盛はそれをする。それをする内大臣重盛は、王朝に繋がれた走狗であることから脱することが出来ない、哀れな武家――伊勢平氏の嫡男でしかないのである。」