【感想・ネタバレ】双調平家物語12 治承の巻1のレビュー

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Posted by ブクログ 2012年07月03日

人名のややこしさMAX!でもとってもおもしろいです。清盛と重盛の間が徐々にズレて行く様がじっくりと描写してあります。しかし成親は黒いですね!平治の乱絡みの貴族って、処世術しか取り柄のない人が多いような…だからこそ貴族の力が弱体化してきたのでしょうか。後白河法皇が不気味な存在感を発揮しています。最近源...続きを読む氏物語関連の本ばかり読んでいたので、武張った男の世界が新鮮でした。

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Posted by ブクログ 2011年03月08日

「朝廷中枢での官を上せる以前、受領の性に従う平氏の一族は、地方の任国を一つずつ増やしていったのだ。清盛の以前に、このように権勢を目指して勤勉なる男は、一人もいなかった。」


「清盛は争わなかった。彼が争う以前に、彼の行く道を塞ぐ男達が、争って斃れた。清盛はその後を行った。清盛が栄華を望まなかったわ...続きを読むけではない。しかし、清盛が動くその以前に、勤勉を嫌い、権勢を望んだ男達の我執が、清盛のために道を開いてくれていた。清盛は、彼のために開かれた無人の野を行くだけでよかったのだ。」


「栄華を得たその後になって、清盛は、『人の嫉み』という敵と初めて出合わされることとなる。しかし、『嫉み』を敵として、これをかわす術を持つだけの成熟が、清盛とその一門には持ち合わされていなかった。」


「参議として朝廷にあるのは、いまだ年若い三男の宗盛と、成親に心を通わせる異母弟の教盛ばかりなのだ。」
(権大納言重盛は病で辞職、時忠は山門の問題で謹慎中)


「重盛に実を授け、宗盛に名を授けようと、清盛は思っていた。…清盛は、重盛に自身の分身を見ていた。それは、『力ある男』である。一方、宗盛には、『望みようのなかった夢』を見ていた。『女院の猶子』で『女院の婿』…自身の血を分けた息子が、輝ける女院の栄華を受け継ぐことを、恍惚と夢見ていた。…宗盛と重盛と、二人の息子は、清盛にとって優劣のつけがたい『二つの分身』であったのだから。」


「邦綱は、単純明快な男である。単純明快であることを通すのが難しい人の世で、邦綱はこれを通すための複雑怪奇を駆使した。」


「なにも変わらない。重盛はただ、頑固なのだ。父に対して、余分な表情を見せない。源氏の敵軍を逐った、あの平治の乱のその時から。重盛が何を考えているのかは分からない。乱の平定された後、決然たる面つきで、朝敵となった成親の命乞いをした――その時のことを思い出そうとして、清盛は何も思い出せなかった。」


「その嫡男の頑固さが憎く、また頼もしくもあった。しかし、その頑固者の息子は、父の意向も聞かず、独断で成親を救ったのである。清盛には、それが許せなかった。」


「五十を越えた入道と、五十を間近にする権中納言との間には、まだまだ取り組んでしかるべき問題が、山積していたのである。」
(入道:清盛、権中納言:邦綱)


「清盛はなんというお人好しだろう。自身の踏み込んだところが、いかなる状況へ通じるものかを、一向に理解していなかった。」
(基実が死亡し、盛子が財産を継いで基通の養母となったことから)


「平治の乱の功によって重盛が左馬頭となったのは、二十三歳の年だった。敗死した清和源氏の嫡宗義朝の得ていた官を、年若い伊勢平氏の嫡男が得る――重盛の左馬頭任官は、それだけの意義があった。…やがて左馬頭は、時子腹の弟宗盛へと譲られた。その時、宗盛は十六歳だった。十六歳の左馬頭は若い。しかし、…重盛は、『一門の要となる官を年若い弟に贈り、その自覚を促す』と解釈した。それから…左馬頭の官は、十歳の弟重衡へ、宗盛から贈られた。正三位の権中納言にまで上りつめていた重盛は、複雑なものを感じた。平治の乱の記憶は、重盛の中にまだ生きていた。戦いを勝ち抜いて敵将の官を得た重盛である。それが、わずか十歳の弟の身を飾るだけの官となった。同じ日、六歳の我が子は、越前守となっていた。国守の官は重いものであるはずである。左馬頭の官もまた――。六歳の我が子の国司就任を慶び迎えながら、それが『十歳の左馬頭』と同等の意味しか持たぬ人事であることを知って、一抹の不安を感じた。『これでよいのか』と。」


「重盛は、生真面目な男だった。栄華の階梯を登る清盛が臆病なまでに慎重であったその気質は、重盛にも受け継がれていた。」


「いつの頃からか、重盛は変わった。院にお仕えするのはよい。院のご寵を受けるのはよい。しかし重盛は、伊勢平氏の嫡男なのだ。…なにゆえ多氏のためび汲々としなければならないのか。無用の言辞を弄し、父の命令をかわそうとするのか。武に長けた一門の棟梁でありながら、一門を率いるその以前に、多氏のためを論じ立てる。」


「『義平の軍勢を追い払った重盛はどこへ行った?あの、誇り高い武門の嫡男はどこへ行った!』と、清盛は思った。」


(殿下乗合を経て、重盛による報復ののち)
「院の御所で、延期になった高倉帝御元服のお定めが催されたのは、その三日後の十月二十五日だった。その席に、重盛は出仕しなかった。『大事のお定めを延引させた咎である』と、人は囁いた。その通りだった。重盛は、『大事の咎』を身に引き受けるため、参内の基房を襲撃させたのである。それこそが、重盛の『報復』だった。摂関家へ対してではなく、我意を通そうとする福原の父入道へ対しての――。」


「重盛の『咎』を負った辞任によって、高倉帝のご元服と時を隔てずに行われることになっていた徳子の入内は、延引された。それが、『御自身のなされようをよくお考え遊ばされませ』と言う、父清盛に対する重盛の『報復』だった。父の威勢と院のご寵によって正二位の権大納言にまで上った平重盛は、摂関家を頂とする王朝社会の秩序の保持を、『一門の栄え』のその上に置く男だった。」


「重盛は、『多氏との調和』を第一に考えた。『平氏の専横』を、決して口にさせまいとした。そのために、慎重に事を構えて、最小限の勢力拡大を図った。…自身の勢力拡大のための敵となる最大のものは、世を退いた父の、その場限りの横車なのである。」


「配所の風さらされた師長に、栄達への野心などはなかった。…悲運の貴公子の胸には、世俗の欲とは違うものが芽生えていた。楽の音に対する、細やかで磨ぎ澄まされた感性である。人の世の賑わいから遠く離れたところで生きざるをえなかった師長は、己が心を楽の調べに溶け込ませて、長い孤独の歳月を過ごした。師長には、楽の音以外に心を傾けたいと思うものがなかった。」


「重盛は、大臣になりたかったのである。大臣になって、父清盛の干渉を撥ねつけたいと思ったのである。既に世を捨てた入道の身でありながら、清盛はさまざまの口出しをする。…清盛の後に太政大臣となってその官を退いた藤原忠雅は、在俗の身でありながらも、朝政からは正しく距離を置いている。それこそが、『前の太政大臣』にふさわしいあり方であろうと、重盛は思う。父の要らざる口出しは、『平氏の専横』として、都にあって一門を率いる重盛の上に降りかかって来る。」


「兼実は、重盛を悪まない。憎悪よりも深い心で、重盛を見ていた。すなわちそれは、『嫌悪』である。成り上がりの伊勢平氏を嫌悪する兼実は、嫌悪を表立てぬよう、重盛を見ていた。まるで、人ではない『獣』を見るような心で。…重盛は、『清盛の傀儡』から脱しようとしている。…武者の一族と争って、摂関家の兼実に勝ち目はない。しかし、人事という醜悪の泥沼の仲に引き込めば、新参の平氏に勝ち目はない。人事の世界で『摂関家』という家筋は、最大の武器となるものだからである。…王朝人事の世界は、魔性の森にも等しい。兼実は、『そこへ来い』と重盛を誘った。『物知らずの相国入道ならばいざ知らず、謹厳な重盛はそこで野垂れ死ね』…時の右大臣は、そのように平氏の嫡男をもてなしたのである。」


「思えば、保元の乱は、六条流をはじめとする新興勢力の前に、摂関家がその力を衰えさせていく落日の時の始まりだったのだ。」


「成親の存在は、父清盛との間で、諍いの種となっていた。それは、『伊勢平氏の父のありように従うか、王朝人士のありように従うか』の、二筋道だった。」


「院は、清盛をお悪みにはならない、しかし院は、御自身のご優越に障る者をもまた、決してお宥しにはなられない。院のご庇護の下、新たなる権勢を得た清盛は、この禁忌に触れたのである。」


「周到な重盛は、ただ一つのことを除いて、すべてを手に入れていた。重盛がただ一つ手に入れられなかったもの――それは、父清盛からの自立だった。」


(神輿振りで山門入洛)
「神に従い仕える者達を傷めればどのようなことになるのか――それを重盛は知っていた。…『やめい!』の声を上げさせながら、内大臣重盛の中で、事態の収拾を図らんとする公家の血と、戦いに燃え上がろうとする武家の血が、一瞬交差した。」


「大将とは、既に儀礼の官である。いかなる事態にあっても、近衛の大将が陣頭直々に立って指揮をするなどという事態は、絶えてなかった。御世の大臣たるものが、左大将の官を兼帯するだけの理由で内裏警衛に立ち働こうなどという事態もまた、なかった。しかし、重盛はそれをする。それをする内大臣重盛は、王朝に繋がれた走狗であることから脱することが出来ない、哀れな武家――伊勢平氏の嫡男でしかないのである。」

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