橋本治のレビュー一覧
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ネタバレ・世の中が複雑になって、部下に指示を出す場合にも、押さえなければならない情報も膨大になっているので、上司も思いつきでものを言えない状況になっているのでは?勉強している部下もいますからね。
会社には、通常、平社員の上に、マネージャー、チーフマネージャー、執行役員、経営陣がいるわけですが、マネージャー、チーフマネージャー、執行役員は、経営陣の「思いつき?」を想定して「もの」を言わなければならないので、決して「自分の思いつき」で「もの」を言ったりできないのです。トップは、よく「エンパワーメント」をしている。などと強調していますが、管理職のミーティングに出席していない平社員からは、目的や戦略を明確に示さず、売上や利益などの数値的な目標だけを示し、逆に手段や戦術に干渉している見えます。
よく、ビズネスの成否はトップ次第と言いますが、その核心は、目的意識にあると思います。ビジネスの目的は、利益であり、利益を生む組織の存続なのですが、利益を生み組織を存続させるためには、社会や顧客に評価される組織でなければなりません。社会や顧客に評価されるためには、組織が、その時代の地域の社会や顧客にとって、存在価値がある必要があり、そのためには、しっかりした理念が必要なのです。 -
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女芸人不毛の時代から、女芸人ブームがやってくるまで。
その時代を生き延びていった女芸人たちの物語。
帯に、椿鬼奴さんが
「主人公の女性芸人に、あの芸人に似てるな、
あの後輩こういうとこあるな、わかる!と
フンフン共感しました。」
とコメントを寄せています。
で、読んでいると、最後の方に
「阿蘭陀おかね」という女芸人が登場するんですけれども、
これは椿鬼奴さんをベースにして書いているんじゃないのかな、
というキャラクターでした。
主人公コンビのモンスーンパレスにしても、
なんとなくですが、オアシズの二人が連想されて、
まあ、もっと過剰にキャラクターを作り込んでいる感じですが、
現実のお笑い業界事情をちゃんと見ていて
書いたのかなあと思うところ。
物語の語り方、構成については、
結末がもうほんと、最後の最後のところでオチがついて、
そこに収束するものはあるんだけれど、
小説の面白さとしては、ただ雑多(ではないかもしれないけれど)な
あれこれの記述・描写にあると思いました。
くだけた感じで構成されていますかね。
自己完結がいけない、っていうのがよく出てきたんですけど、
今の時代って、自己完結するのが楽っていう方向に
たとえば40代以上の世代にとっては進んでいっていないかなあと思いました。
僕自身も、自己完結で何が悪いんだろう、って思いますから。
とはいえ、僕が考えている自己完結は完全に完結していないでしょうけども。
ときたま、著者の、世のあれこれに対する造詣の深さが
キラリと光るところがあるんですが、
小説というものにとって、そういうのって本当に必要かな?
という疑問も抱きました。
チラっと光のがそういう経済だとか社会だとかに対する答えめいたものだと、
なんか、それは違うようにも思えてしまう。
頭の良し悪しもあって、僕はそうでもないからなのかもしれないけれど。
橋本治さんの小説は二つ目の読書でした。
また、そのうち違うものを手に取ろうと思います。 -
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シリーズ最終巻。今回の主人公は醒井凉子で、彼女の人生を逆にたどることによって、「自由」を求めて格闘する彼女の「青春」がえがかれています。
第2章は、26歳の凉子がお見合いで高階悠吉という男性に出会い、一目見たときから彼に強く魅かれながらも、母親の縫子によってセッティングされたお見合いという様式のもとで人生の一大事である結婚相手をきめてしまうことへの葛藤をおぼえる凉子の姿がえがかれます。
第3章は、23歳の凉子がイギリスのオックスフォードに留学し、デビッド・ブラウニングという男性に出会うとともに、大学で学ぶことが自分にとってどのような意味をもつのかという問いに直面する凉子の苦闘が示されています。
第5章は、20歳の凉子がかつて滝上くんをめぐって恋敵となった木川田くんに出会い、二人で横浜のデートをする話です。滝上くんのことを好きになってしまった二人が、その呪縛から自由になっていくプロセスがたどられています。
本書の大きなテーマは、凉子が自分自身の「自由」にめざめていくことにあると言えるように思われます。ところが、第1章では三歳になる娘の聡子が誘拐事件に巻き込まれる事件があつかわれており、そこでは凉子自身が母親の縫子が娘に対しておこなった教育を反復しているかのように見える叙述もあって、三代にわたる女性たちが陥ってしまった問題を放擲することが、とほうもなくむずかしいものであることが示されています。著者は「あとがき」で、登場人物たちに対して愛着をいだいていることを告白していますが、それにもかかわらず著者は、彼らを見舞うことになる困難な運命をえがくことに容赦しません。同時に、それだけいっそう、彼女たちの歩んできた「青春」は、読者に強い印象をのこすものになっているようにも感じられます。 -
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シリーズ第三弾。
一年の浪人生活を経て、みごと早稲田大学に入学した玲奈が、ふたたびメイン・キャラクターを務めることになります。
短い交際期間を経て破局となった松村唯史や、滝上圭介との恋によって高校時代とはまったくちがう女になった醒井凉子に対する玲奈の容赦のない啖呵は、著者のそれを思わせます。そんな彼女も、源一と磯村の関係を知ってショックを受け、その余波も収まらないあいだに大学で出会った「野草の会」というサークルの美少年・田中優の心の闇をのぞき込むような出来事に巻き込まれてしまいます。
はじめはすこし読みづらいと感じた文体でしたが、さすがに三巻にもなるとすっかり慣れて、スピーディでアクロバティックなストーリー展開をすなおにたのしむことができました。 -
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シリーズ第一弾。
橋本治のデビュー作で、女子高生の「桃尻娘」こと榊原玲奈をはじめ、「無花果少年」磯村薫、「瓜売小僧」木川田源一、「温州蜜柑姫」醒井凉子といった登場人物たちのリアルな語りと思考をトレースした文章でつづられており、著者の奇才っぷりがいかんなく発揮されている作品です。
同時代の風俗をあつかった作品は賞味期限が短いのがつねで、本書も「だってサァ」「ほんとにィ」といった表記と登場人物のキャラクター造形に、ややつらいものを感じてしまうのも事実です。ただし、著者のエッセイでもしばしば語られる発想がゲイの源ちゃんの口から語られたり、高校三年生の文化祭での出来事に著者の実現できなかった夢を見たりといったたのしみかたが可能だと思います。橋本治のファンとしては、やはりおもしろく読むことができました。
なお、続編ではよりいっそうストーリーは過激なものになり、著者独特の思考が随所に示されるようになっていきます。語り口や表記についていけないと感じた若い読者の気持ちは理解できなくもないですが、できれば続編にも手を伸ばしてほしいと、個人的には願っています。 -
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小学校に入学したケンタくんという少年が、学校での勉強や体育の授業になじむことができず、悩み苦しみながらも、自分で考えて自分の居場所を見つけていく物語です。
著者の自伝的小説であり、著者の本をある程度読んでいる読者にとってはなじみのあるエピソードを多く見つけられるのではないかと思います。もちろん本書は小説であり創作ではあるものの、「橋本治」という知性がどのようにしてつくられたのかということに関心のある読者にとっても、おもしろい本です。元来は「ちくまプリマ―新書」で刊行された本なので、学校にどこかなじめないでいる中学生や高校生の読者にとってもたのしんで読める作品だと思います。 -
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「あとがき」には、「この本は、すでにちくま文庫から出ている『これで古典がよくわかる』という私の本の続篇というか、別ヴァージョンのようなものです」と書かれています。
『これで古典がよくわかる』のほうは、古典文学を読むさいに留意しておくべき基本知識を、著者らしい軽妙な語り口で解説している本で、おもしろく読んだのですが、本書はそこまで親切ではありません。「まえがき」には、「私は、ただ「読んでみましょう」と言っているだけです」と述べられています。さらに次のような文章もみられます。「読んでみたら、意外とおもしろいかもしれません。なにかの形で、役に立つかもしれませんし、心を癒してくれるものと出会うかもしれません。「そうだったのか―」という発見をするかもしれませんし、しないかもしれません。でもそれは、読んでみなければわからないことです」。
こうした、投げやりにも見えてしまうようなスタンスではじまる本書は、古文のリズムをじっさいにあじわうことで、その読みにくさ、めんどうくささを読者に体験させることを眼目としているように感じます。『これで古典がよくわかる』ほど親切ではありませんが、ともあれ古典文学の世界にじっさいに読者をみちびこうとする著者の態度には一定の共感をおぼえました。 -
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橋本治流の「反知性主義」についての考察です。ただし「あとがき」に「反知性主義を対象とする一本道のようではありながら、結局そうではありません。そうであるのかもしれませんが、書き手である私は素直な一本線を用意していません」と書かれているように、著者独自の視点からさまざまな議論が縦横無尽に繰り出されており、『「わからない」という方法』(集英社新書)以来比較的リーダビリティの高い書き方にシフトしていたように見える近年の著者の作品のなかでは、その意とするところをつかみにくいものに含まれるように感じました。
本書がむずかしいと感じてしまう理由のひとつに、本書における「反知性主義」ということばが一般的な意味とはやや異なるかたちで使われている点にあります。本書の冒頭で著者は、オタクとヤンキーに挟撃されて自分自身の関心をもちたいものがどんどん減っているという現状認識を語っています。このことが本書の議論の中核であり、オタクとヤンキーという文化トライブの差異をめぐる議論に接続したほうが、本書の内容はクリアに理解できるのではないかと思います。
著者自身がみずからの来歴について語っているところも、興味深く読みました。東京の山の手に生まれ、「大学解体」の声がかまびすしいなかで「学ぶということ」についてたった一人で独創的な思索を編み上げていた著者は、現代において「知」の偏在化が成し遂げられたことを認めつつ、かつて存在した「知の中央集権体制」が崩れ去り、同時にかつては「知」と結びついていた「モラル」も崩壊してしまったと論じています。
ヤンキーの反省的回路の欠如した言説と、オタクのパロディ的な自己言及的言説の双方を批判しつつ、「近代的自我の確立」とは異なる知性の可能性について考えようとしているということになるのでしょうが、養老孟司や内田樹であればあっさり「身体」ということばでそうした知性の座を指し示すところを、あくまで歴史的叙述のうちからオルタナティヴな道筋をあぶりだそうとするところに、著者らしい「知性」のきらめきが感じられます。 -
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橋本治と内田樹の対談を収録しています。
もっぱら橋本を深く敬愛する内田が、橋本のすごさを引き出そうとしていますが、話をまとめようとする内田を振り切って、橋本が思いもかけない方向へと議論を拡散させていくために、けっきょくまとまりのつかないかたちで話がどんどん進んでいってしまうという印象があります。それをおもしろいと思うか、それとも散漫だと思うかで、評価が分かれそうです。
橋本治を批評するひとがいないことを問題視する内田の主張は、おなじことを強く感じていた読者としては、あの内田ですら橋本治をつかまえることができずにいる本書の対談を読んで、いささか絶望的な気分にもなってしまいます。それでも、橋本治における「公共性」のありかたなど、いくつか興味深い着眼点が示されていて、感心させられることもけっしてすくなくありませんでした。そのうえでなお、隔靴掻痒の感がのこります。