橋本治のレビュー一覧
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◇目次
○まえがき
○一:「古典」て、なんでしょう
○二:古典を読んでみましょう
○三:ちょっと意地悪な樋口一葉
○四:和文脈の文章と漢文脈の文章
○五:日本語は不思議に続いている
○六:はっきりとした説明をしない小野小町
○七:春はどうして「曙」なのか?
○八:分からないものを読んでもよく分からない
○九:亀の恩返し
○十:古典を読んだ方がいい理由
○十一:今とは違うこと
○十二:意外に今と同じこと
○十三:歴史はくるくると変わる
○十四:日本語が変わる時
○十五:人の声が言葉を作る
○十六:漢文の役割
○十七:『日本書紀』の読み方
○十八:王朝の物語を読んでみましょう
○あとがき
一般に古典は取っつきにくく、そもそも読み方や調べ方が分からないため敬遠されているので、まず相手を知ることから始めようというのが本書である。
古典もいきなり難易度高めのものから読み始めるのではなく、まず比較的読みやすいものから始めていって、まず慣れていくことが大事ということが分かった。
樋口一葉『たけくらべ』とか以前読んだ時は、意味を厳密に調べてから読むというより、まず大まかな大意▪概略を読んでおいて、それから文章を味わったように思う。
これを機に、また色んな時代の古典に触れてみようと思った。 -
Posted by ブクログ
序章,第一章まで読んだ.面白い!(2007年)再度読み始める.第6章にまとめの部分があり、全体の把握に最適だ.この先、どうしたらいいのか? の解答として、"まずは日本人が天動説から地動説に戻って、「自分たちが社会の上に乗っかって動いている」という謙虚な意識を取り戻さないと「心のある論理」は生まれてこない.(p217)" がエッセンスだと感じた.ここでいう天動説は、80年代以降の現象を要約した概念だ."もう豊かな社会が出来上がってしまっている.それが当然の環境で育った若い人は、自分たちが汗水垂らして社会を作ろうなんて意識はなくなる.自分の幸せのために社会があるっていう、自己中心の「天動説」になったんです.(p137)" 橋本節が満喫できました.
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私達が瞬間的にたびたび考えることを言葉にしました、というような内容。これだけ巧みに言葉をつないで論理を形成していけるということに脱帽しました。
後ろの方にある、「個性を伸ばす教育」のあたりは自分とほとんど考えていることが同じでびっくりしました。
本当は「前から思っていたこと」なんじゃなくて、「「前から思っていた」と思っていたこと」なんでしょうね。優れた作家には「おれも同じこと考えていたよ」というような錯覚を促す力があります。
他のレビューにあるように、確かに回りくどくて、抽象的な表現も多いのですが、自分の場合は橋本治に対する信頼が強いので、無理なく楽しく読めました。 -
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これは、若い女性に向かって言った言葉ではなく、老いに向かっていく自分に対しての言葉。
体は確実に老いていくのに、そして体は何度もその信号を送っているのに、脳がそれを認めない。
人間というのは幼いころから成長曲線が右肩上がりで、いざ下り始めると、新しい出来事を記憶しにくくなってしまう。
だから、若かったころの、できたときの自分の感覚で考えるから、齟齬を生じるらしい。
子どもの運動会に参加して転ぶのは、若いころにスポーツをしていたお父さんが多いのもそのせいだと聞いたことがある。
頭は若い時の感覚で指令を出すけれど、体は全然追いつかないのだそうだ。
“「自分」とは、アクのようなものだ。
アクが溜まって大人になる。大人になるということは、そのように「自分」が蓄積していくことで、「自分」が溜まってしまうと、そう簡単に身動きが出来なくなる。体が重くなるし、思考もまた重くなる。”
“年寄りは意図的にならなければならない。一々脳の指示を仰がなければヘマを仕出かしがちになる。だから動きがノタノタと遅くなる。”
若いころは反射神経でいけたことが、年を取ると脳の判断を仰ぎながらじゃないとできない。
あれ?それって、なんかちょっとかっこよくない?
だって、脳が働いているってことだよ。
記憶力が衰えるっていうのは、付箋紙の接着力が劣化するのと同じことだと橋本治は言う。
劣化していることを意識して、きちんと貼ればいいのだと。
それを、今までどおりにテキトーにペタッと貼っつけるから、付箋紙はひら~っとはがれてどこかに落ちてしまうのだと。
「栄耀(えよう)に餅の皮を剥く」という言葉をこの本で知りました。
金持ちは表面が固くなった餅の皮を剥いて、中の柔らかいところだけを食べる。
だけど古くからの金持ちなら、餅の皮なんか剥かずに「新しく餅を搗け」と命令すればいい。
急に豊かになって働く必要がなくなり、暇を持て余した結果、「することもないから餅の皮でも剥いとくか」となったのでは?と橋本治は考察します。
そして、「古くなったお肌の角質を剥いて若返らせる」美容整形のピーリングは、まさに「栄耀に餅の皮を剥く」行為だと、毒を吐く。
格好いいなあ。
潤沢な知識をもって毒を吐く年寄り。うっとり。
橋本治の語る老いについて、思い当るところは多々あって。
だけど老いへの道は片道切符。
泣いても笑っても、誰もが老いていくのだから、できればまあ、笑いながら老いていければいいなあと思います。 -
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ネタバレ前著「知性の顛覆」で知性とモラルの関係について語り、今回も「暴力」と「意地悪」の違いから始まり、いつもの通りどんどん脱線しながら簡単に結論に行き着かない。この過程そのものが「巨大なる知性・思索」の結晶なのだけれど、自分にとっても、発達障害などの外来で子どもの行動分析にもとても役に立つ考察になっている。
「言葉がなくなるとキレて暴力に走る」はその通りで、学校で友達に手を出してしまう子の多くは、言語性のIQが低い。人を罵倒する言葉は得てして2文字で、短い言葉の方が衝撃度が高いからなんてのは独特の思考回路で面白い。だから、暴力を避けるための知恵は、なるべく言葉を長くすること、なるほど! 「死ね」→「死ねばいいのに!」ですか。つまり、暴力は単純で、意地悪はもっとずっと複雑な行為であると。知性の伴った表現で、相手に瞬時に意味がわからないようなものが「意地悪」である。
そして、意地悪は自分のしたことを隠そうとする方向性があり、社会の本流に属していない人が行う行為である。「社会の本流に属した人は暴力的になり、本流からズレたところにいるものは意地悪になる」
意地悪は、相手に考えさせる行為であるから、教育的な意味を含んでいる。生徒に「自分で考えろ」という導入だけして教えない意地悪な教師が教育的である。
そして、マスゾエ問題を通じて、知性とモラルが分離した現代の、モラルと離別した知性的な人間が下品になったことを説く。
勉強のできる優等生は、モラルより「勝ち負け」が大事で、不適切な状況に直面して「恥」だと思わない。
現代の知性人が捨てたモラルは、「自分の外にあって自分の利益を害するもの」で、そうするとエゴイズムをカッコつけて野放しにする方向にしか行かない。知性とモラルが同居していた頃は、内なるモラルが、外なるモラルの変質を修正する機能を持っていた。その発動形態の1つが「意地悪」であった。夏目漱石や樋口一葉。
現代は、意地悪の批評性が失われた時代なのである。
きっと落語家や漫才師、コラムニスト、一部の言論人も同様に感じているのではないかな?
知性を磨くだけでなく、知性を取り巻く「内なるモラル」に自覚的に、そしてつまるところ、他者への優しさとコミュニケーションにおけるユーモアを大事にしたいと思った。 -
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ネタバレとても大事なことが書かれている一冊である。
一読では消化できないので、メモとする。
日本の伝統芸能では自分を「消す」ものなのに対し、SNS時代の自分とはまず「出す」ものであるという変化。この変化が石原慎太郎の太陽の季節による「肉体=性欲の肯定」あたりにあるという話を見ると、今の後期高齢者の「マッチョな思想」が見えてくる。一方で、アプレゲール以前の近代日本文学は「自己主張できない」という現実を前にした苦悶を描いた。
みんなが自己主張する時代に、自分のあり方が揺らいでしまうと、人は不機嫌になる。上昇志向はないが、優越性が「崩される」と考える。中流こそが差別を生む。自己主張を肯定する共和制はエゴイズムでできていて、自分より偉い奴を認めない社会では知性は何の役も立たない。
福沢諭吉は、自由という名の自分勝手が他人に悪影響を及ぼすことを罪だと考えた。つまり、知性とモラルは同居していた。しかし、知性と共存していたモラルを捨ててしまった日本人は下品になった。
モラルとは、本来人の内側に湧き出るものであるはずなのに、上から押し付けられると解釈される。自己主張=自由が具体化するのは、欲望であり、欲望を包む皮がモラルである。
江戸時代は、「下品にならない自己主張」という表現方法を模索していた。つまりは、粋、イナセ、風刺である。落語、川柳、漫才だってそうだろう。知性がモラルと乖離してしまうと、自己主張は他者を失う。
「知性とはヘレンケラーに言葉の光を与えるアニーサリヴァンのようなものである」
「主義とは方向性を持ったベクトルのような力」で、中心に向かおうとする求心力である。しかし、その中心に神はなく、あるのは空洞である。中心に自分を据えようとする思考は自己完結して破綻する。この現代で、知性とは複数の問題の整合性を考えるもので、でも現代重要視されるのは、「決断力」や「行動力」という名の「思考停止」で、グダグダ考え続ける持久力は、せっかちなじれったさの前では「なにもしない」「行動しない」と言われるだけ。
反知性主義を生み出す土壌は、「均質なみんな」のことだけ考えて「個人の不幸」を考えず、他人を排除している自覚を持たない「幸福な知性」である。
そして、問題の元凶は、問題の当事者が「反省しないこと」である。 -
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国家とは、国民である。
国家とは、領土である。
国家について2つの考え方がある。
言われてみれば、確かに。
国家=国民とばかり思っていたが、過去の歴史を振り返れば、当時は領土という考えが当たり前であった。
そればかりか、国家という概念さえなかったのである。
国家とは何ぞやと著者の持論が展開される。
まどろっこしさも感じてしまったが、国家について考えるというのはそういうことなのだろう。
一種の哲学なのだ。
国家について考えた後は、憲法につながっていく。
紆余曲折を経てきた日本の歴史だが、現在は国家=国民である。しかし、現政権においてはむしろ国家=為政者というような状況が散見される。
そんなことを考えると政治において、国民が蔑ろにされており、憲法に関する政府の考えも頷ける(賛成という意味ではなく)。
為政者は国民の「代表者」であり、「指導者」ではない。
しかし、国民の側でも、国家=国民という認識を持ち、憲法は誰のためのものなのかということをしっかりと認識しなければいけない。
「みんな勉強して頭がよくなると、政府の方も政治がしやすくなって、一般の人間も”政治の支配で苦しむ”ということがなくなる。そういう日本人が増えれば日本は大丈夫だと思って、私はその一点で学問を勧めるのである」(P70)という福沢諭吉の「学問のすすめ」の訳が原文と共に紹介されているが、今こそこの言葉を肝に銘じるべきであろう。
憲法改正に関する国民投票が行われる可能性の出てきた今、誤った判断をしないためにも、国家、憲法について考え、自分の意見を明確にしなければと思った。
1つだけ、「日本は単一民族国家」(P95)というような記載があったことが気になった。
日本は単一民族国家ではないと思う。