Posted by ブクログ
2015年12月28日
著者の「大江戸歌舞伎はこんなもの」は以前読んで、随分感心した。
期待大で、手に取る。
本書の最初は仮名手本忠臣蔵。こんな面白い本って暫く無かったと思う。官能的と云っていいほど脳味噌に刺激を受ける。昔の日本語は、ともかくつながっていれば良い、とか忠臣蔵の主題は仇討ではなく、お軽勘平のように自ら悲劇を...続きを読む呼んでしまう傍系の人々だとか、驚かされる記述満載。こういう文章が書きたいという著者は、天守物語を薩摩琵琶の語りのための台本(?)を書いていたりもする。この人でなきゃ、これほど浄瑠璃を語れないだろう。
しかし、義経千本桜、菅原伝授手習鑑と進んで、当方の頭の回路がショートして、しんどくなった。
たぶん、浄瑠璃を実際見てもこの本を読む以上の感激が無いと確信する。むしろ、話の不自然さやどんでん返しにウンザリしてしまうだろう。
浅野の遺臣達の仇討なんて江戸の小さな事件だし、義経は源氏の一族殺し合い一人の犠牲者に過ぎないのに、我々はまだ浄瑠璃、歌舞伎に捕われてまともな歴史認識が出来てないという。成程と深く納得。
それにしても、婿の為に実の娘を売るとか、主のため自分の子供を殺すとか納得しがたいよなあ。僕などはドラマをややこしくするため道理が必要になるのかと思ってしまうが、浄瑠璃を読むことが江戸の人々の意識を規定して、それが我々の深層心理に生きていると云う。
そう云えば、司馬遼太郎は「菜の花の沖」の高田屋嘉兵衛の人となりを作ったのは諳んじた浄瑠璃で、ロシア人達からもキャプテンとして尊敬されたのは、その道理に基づいた規範ゆえとしていた。
道理について思いを致し、ついつい、息子に懲役忌避させた金子光春、小説「永遠のゼロ」、迫りくる津波の警報を続けながら死んでいった役場の人のことなどを考えてしまった。正直、誰が正しいなんて判らないよ。
冥土の飛脚は他と違って、べリズモ・オペラ風というか、3面記事風というか、実際の事件に則した内容。その分、救われ無さが極まった印象。
浄瑠璃の美は悲劇を受容するマゾヒズム的心情にあるという。確かに美しく滅びたいと云う心情は我々にあるかもしれない。
暫く置いてから再読しようと思う。
追記。
10月14日のFM、小川洋子さんのメロディアスライブラリーで冥土の飛脚を取り上げていた。人形浄瑠璃。やっぱり見るべきかな。