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ユーザーレビュー 結局、人生の最後にほしいもの 曽野綾子 1188 曽野綾子さんの本読むたびにほんと大好きでファンになる。ほんと会いたいからファンイベやらないかな。書籍サイン会とか。 曽野綾子 東京生れ。1954(昭和29)年聖心女子大学英文科卒業。同年発表の「遠来の客たち」が芥川賞候補となる。『木枯しの庭』『天上の青』『哀歌』『アバノの再会』『二月三...続きを読む十日』などの小説の他、確固たる人間観察に基づく、シリーズ「夜明けの新聞の匂い」などのエッセイも定評を得ている。他に新書『アラブの格言』などがある。1979年ローマ法王よりヴァチカン有功十字勲章を受ける。1993(平成5)年日本藝術院賞・恩賜賞受賞。1995年12月から2005年6月まで日本財団会長。 だから私は昔から、フェミニズムというものにほとんど関心がなかった。もともと違うのだから、補い合えばいいのだ。競い合い同等になる、という発想の方がおかしい。フェミニズムという言葉は女性解放、男女同権主義などと訳されている。しかし、すべての女性が、解放されなければならなかった存在だとは私は思わない。いわゆる形ばかりの解放など全く望んでいなかった人もいるし、封建的家族の中で暮らしていても、男性より偉かった女性の存在は昔からあったのだ。 確かに、農業や漁業に携わる人々の社会では、夫婦に子供が生まれると、男の子は高校にやらないでもないが、女の子にはその必要がないという空気がなくもなかった時代がある。私の父は、東京の下町に生まれたが、次男であった。家業は長男が継ぎ、次男の父が家を出ていく決まりになっていた。それで面白いことに、長男は旧制の中学を出ただけで充分とされたが、次男である父は大学にやってもらえたのである。しかし、兄弟平等などという思想は全くなかったらしく、私から見ると本家の伯父にあたる人はいつもおっとりと床の間の前に座っていたが、次男だった父は、中学生の時から毎日家中のランプのホヤの掃除をするという任務があったという。私は後年、アフリカの田舎の修道院でランプの生活をさせられた時、性懲りもなく、触れてはいけないランプの熱いホヤの部分に手を触れて火傷が絶えなかった。その時、父のこのランプ掃除の話を思い出したものである。 地方の家庭には、そういうわけで高等教育を受けなかった女性がたくさんいた。確かにその人々の一部は、結婚した後も男性と同等の生活をしていたとは思われない。お父ちゃん達は農閑期にバスを連ねて熱海の温泉へ行くが、お母ちゃん達は置いてけぼりだったという時代が長くあったという事を私は知っている。 しかし、そのような不平等を彼女達は賢く楽しんでいた。つまり、煩わしいお父ちゃん達のご飯の支度をしなくていい数日の留守の間は、お母ちゃん達にとってけっこうな休日だったのである。 もっともこの当時聞いた話で私が許せなかったのは、お父ちゃん達は少し体が悪いとすぐに医者に行くくせに、お母ちゃん達が歯が痛いと言っても歯医者にかからせてもらえないというものだった。そんな風にして大切な家族を冷遇して、どういう良い事があるのだろうと私は腹を立てたのである。 一方女性の場合、何が力かというと、育むということだと私は思っている。直接子供を産むという行為もあるが、自分の子供だけでなく、あらゆる生命に対して慈母のような行動を取れることを私は女性の力だと感じている。 何度か書いた事があるのだが、或る時私は、南米のボリビアという国の田舎町で、日本人の神父が手助けしている結核患者の収容施設に行ったことがある。患者達の九割は、本来はアンデスの山地で暮らしていたのだが、働く場所のない山にいてはどうにもならないので、お金欲しさに町へ下りて来た人達である。ところがそこにも、半端な仕事しかなく、それも恒久的に働いて収入があるというものでもない。やがて彼らは安い酒を飲んで、荒れた生活をするようになる。酒を買うので、食べものもまともに買えない。怪し気な街の女と深い関係になり、国元に残してきた家族とは連絡も取れない。もしかしたら字も書けない人たちなのである。無論、ケータイなどというものを持てるはずもない。 五十歳を過ぎてから、私は度々アフリカへ行くようになったが、気楽に知人を誘うこともあった。私は、六十四歳から七十三歳まで会長を務めていた日本財団(当時の日本船舶振興会)の企画で、そうした途上国に行くことも多かったが、外部から自費で参加したいという人を同行させることは拒否しなかった。新聞社やテレビ局だけでなく、私の知人の出版社の編集者を誘うこともあった。 すると主に女性からだが、質問を受けることもあった。「怖くないですか?」「危険はありませんか?」「暑くないですか?」「マラリアはないんですか?」「テロはないんでしょうね?」 答えはほぼ同じようなものであった。「まあ、怖くはないでしょうね」「危険はありますよ」「暑いですよ」「絶対にないとは言えませんね」「テロはねぇ……まあね……」 それらの災害にあまり遭うことはないと思うから、私はこういう旅の企画を立てていたのだ。しかし、全くないとは誰も保証できない。それらの僅かな危険を覚悟し、それに備えるような必要性のある旅だからこそ、私にとっては学ぶことが多かったのである。マスコミ風に言えば、それだからこそ、彼らも他社の記者には書けない記事が書けるはずである。 しかし私の誘った女性たちの多くは、危険を冒すことを嫌がった。 男性でもほとんどのイスラム圏の国ではお酒が飲めない、ということだけで断った人もいた。いや、本音は私と行くのが嫌だったのかもしれないが……。 しかし多くの男性たちは、仕事のためには仕方なく、暑さも食事のまずさも、生活上の不便も耐えしのぶ。それらの代償を払わなければ、何一つ手に入らないことを知っているのである。 私は根っからの男女同権好きである。だから女性にも、この原則を覚悟してほしいのである。 二〇一七年二月、夫が亡くなった。一人暮らしを始めて、まだ一年半ほどしか経っていない。もっとも、私の場合、一人暮らしと言っても、昼は秘書が雑用をしに来てくれ、夕方からはお手伝いの女性とお喋りする時間もある。それから、並べて書くのはいけないのだが、今うちには「直助」と「雪」という牡と牝の猫がいる。私は時々「雪」を抱いて寝ている。「雪」が真夜中近く、私のベッドに勝手に飛び込んで来ると、そのまま眠っているからだ。 私の生涯の道楽は、旅行だった。行った土地について首尾よく作品に書くことになれば「取材旅行」、行ってはみたけれどどうも……ということになれば、遊びだったと思えばいいし、事実私はこの二種類の言い訳を、けっこう上手に、狡く使い分けていた。 私が最も贅沢をしたのはサハラ砂漠の縦断だった。来る日も来る日も何一つ景色に変化がない。そして人家一軒見当たらない。全く水がないから、住んでいる人は一人もいないのだ。そうした文字通りの砂漠を含む三千キロあまりを、四輪駆動の機能を持った車二台で走ったのである。ガソリンスタンドもないから燃料はすべて自分で持っている。燃料が切れれば、最悪の場合、死ぬ他はない。 その話をすると多くの人が、「そんな退屈で危険なドライブをするくらいなら、ヨーロッパ一周をした方がいいじゃない」と言うのである。全くその通りだし、砂漠の縦断は、車輛まで特殊仕様にしなければならなかったから、レンタカーでかなり贅沢にヨーロッパ一周をするより、お金がかかった。 しかし、数百キロの彼方まで、一人として人の住まない空間というものを、我々はなかなか体験できない。人のいない空間の主は、当然人間ではなくなり、昼は風と砂の、夜は星と暗い砂丘の支配する世界になる。これは、それまで私が見たこともないような夢幻的な空間であった。満月の夜、あまりの月の眩しさに、野営をしている私は、航空会社がくれたアイマスクをしなければ眠れなかった。そしてこういう月光を受けて眠る夜を過ごしただけで、私は「生きるに値した人生を生きた」と言えるし、納得して死ねるだろう、と思ったのである。 現世の物質的な贅沢が好きな人は、こんなもののために私が、当時なけなしの貯金をはたいたということが信じられないだろう。 しかし私は、砂漠の夜の途方もない空漠なる地表と、あまりにも壮麗な夜空を見られたことを、この上ない贅沢だと感じたのだ。その手つかずの地球の素顔のために、私は自分の時間と、いささかの危険とお金を捧げても悔いない、と思ったのだ。 私は、大手の種苗屋さんが集めたガーデニング愛好家グループの会員になっているので、年に数回カタログも送られて来るのだが、そこには今年の「新製品」のような頁もある。「今年の新しい種と苗」である。新製品の創出の仕方を私は知らないが、望ましい特性を持った果物や野菜の種をかけ合わせて、新果物や新野菜を創るのだろう。小説を書くのもいいが、新しい野菜を創るのも楽しかっただろうなあ、と私は最近心が揺れている。 つまり大学で英文学などは学ばずに、農学部に行けばよかった、と少し後悔しているのである。学問は、実生活で役に立たないものほどいい、という人もいる。だから小説家になると決めていた私は逆に文学とは関係ないはずの法科に行ってもよかったのだ。小説を書くのにすぐ役に立つと思われる文学部ほど、実は小説の役に立たないものはなかった。皮肉なことに法学部出身者くらいしか読む必要のない特殊な月刊誌には、必ず短篇の種が二つや三つは判例として掲載されているのだ。それで私はその雑誌を取るのをやめた。その雑誌に頼っていると、あまりにも安易に小説を書けそうに思えたからだ。 「犬と飼い主は似ますね。うちの犬は水をひっくり返す。妻もよくバケツをひっくり返すんです。防火用のバケツは一年中同じ所に置いてあるんですけどね」 会ったばかりの人に、こういう他愛のない妻の悪口を言う人ほど、多くの場合、夫婦仲は円満だ。 会話力は、その人が過去どれだけ本を読んだか、いい友人を持っているか、普段の何気ない時でもしっかりと眼を開けて周囲を見ているか、というような姿勢にかかってくる。会話力は、全人生の結果なのだ。だから「付け焼き刃」ではできない。入試と違うのだから、別にそのための努力などしなくていいのだが、普段の生き方は大きく物を言う。 会話力を持つ人は、それだけで自分の他の特徴を消してしまう。その人が善人かどうかも、親戚に実力者がいるかどうかも、問題でなくなる。荒野で堂々と咲くアザミの花がみごとなようなものである。 荒野には風も吹き抜ける。家の中や温室とは違う。足許を野獣や野猫が踏んで通る。冬には雪も積もる土地である。しかしその中でアザミはのびのびと咲くのである。 会話力は、耐える力であり、観察力のたまものでもあろう。その二つの力さえ持っていれば、そしてさらに三つ目のものとして慎ましい気持ちを持って、絶えず周囲から学ぼうとする姿勢を崩さなければ、誰にでも必ず備わる才能のようにも思う。そしてその人の魅力を示す指数は、九割方、会話力にかかっているのである。 私はもう年をとっているし、世間でいう社交のような付き合いをする必要がなくなっているのだが、若い時からかなり人付き合いが悪い人間だった。ほうれん草が嫌いという人がいるように、大した理由もなく、社交というものが好きではなかったのである。 ところで、私の友達は幼稚園時代からの知り合いばかりである。私は幼稚園から大学まで一貫校に通った。受験してみても他所の学校には受からないのは明白だったので、そんな努力もしなかったのである。おかげで青春時代は受験地獄も知らずにのびのびと過ごした。幼稚園時代からの友達というのは、つまり、十七年を共に過ごした人達である。或る時知人の男性に、財界の某有名人の奥さんと私は十七年間同じ学校でしたと言ったら、煩悶したような表情を浮かべて、「とすると、お二人はどこかで留年なさったとか、大学受験に失敗なさったとかそういうことですか?」と言われた。私はその人の計算の素早さに感嘆した。私は単純な足し算でもこんなに早くはできないのである。私が「私達は幼稚園からの同級生なので十七年間です」と言ったら、その人はなるほどと納得してくれた。 私がこの世でかなり嫌いなものの一つが、噂話である。それは九十パーセント以上の確率で、間違った話を伝えているからである。 私は作家になった後、度々インタビューを受けた。初めは有名雑誌の編集者や全国紙の新聞記者が来るのだから、話したことを正しく書いてくれるのだろうと思っていた。ところが、でき上がった記事は実に滅茶苦茶なのである。私は早々にその事実を知ったので「インタビューは、私が喋った部分だけは手を入れる事をご承認くださるならお受けいたします」と言うようになった。予め頼んでおけば、大体の新聞社や雑誌社は今ではこのルールを受け入れてくれる。頭から拒否しているのは日本経済新聞だけだから、私は日経のインタビューは受けない。 私はだいぶ前からアラブ諸国へ出入りしていたので、その時に格言の本を買ってきていて、あまりに面白いので気に入ったところに赤線を引いてあった。改めて読み直さなくても、アラブの人達はつくづく賢いと思う言葉を既に選んであったのである。それを集めて一つ一つの言葉に私が解説を付け加え、感想を述べ、夜になると私がさっさと寝てしまった後で、編集者の女性達が東京の本社とメールでやりとりをして編集をしたのだ。 その格言集の中に、「賢い人は見た事を喋り、愚かな者は聞いた事を喋る」 というのがあって、別にアメリカがサダム・フセインをやっつけるために侵攻した事実とは何の関係もないのだけれど、私はこの格言が面白くてたまらなかった。 学歴もあり賢くて常識のある多くの人達が、この愚か者のやり方で暮らしているのである。「何とかだそうだ」というようなニュースの捉え方は、時間の無駄遣いそのものと言っていい。そしてまた、そのような会話しかしない人達を私達は陰で密かに「放送局」と呼び、用心してその人達には何一つ語らないようにしている。『アラブの格言』に出てくる賢い人達の多くは遊牧民で、大学に行ったわけでもないし、哲学を学んだわけでもないだろう。しかし、彼らは羊を追って、オアシスからオアシスへ荒れ野を移動するうちに、人生の真実というものはいかにして手に入れるべきかという事を知ったに違いない。 私が運転免許を取ったのは、一九五五年(24歳の時)で、当時はもう女性で車を運転するのはごく当たり前になっていた、と私は思っているのだが、夫の美人の従妹などは、ポンティアックなどという大きな外車を運転し、多分嫌がらせだったのだろう、トラックの運転手さんに「おい、ねえちゃん」などと高い窓越しにからかわれて随分不愉快な思いをしたというような話をしていた。その程度に女性ドライバーというものが珍しい時代だったのである。 いつの時代から、女性が結婚しても、子供ができても、世間の中で働く人が増えたということになったか考えてみると、恐らく、戦争が終わって十年ぐらい後のことであろう。 少しキザな言い方になるが、私たちは仕事を通して人生を語り合ったのだ。もちろん大げさな話ではなく、現場に立つことの現実を話し合う時、その方の仕事と私の仕事との接点が、自然な形で結びついたのである。 私の実感ではそういう意味で、男女の差別も職業の貴賤もない。世の中になくていい仕事はないのである。総理大臣は、パン屋さんより通俗的・社会的地位や収入は上かもしれないが、パン屋さんやお米屋さん、さらにお米や小麦を作る人がいなかったら、総理大臣がいないより困る。 私が相手について知りたいのは履歴であって肩書きではなかった。その人自身が、生涯を通して主に関わって来た仕事を通じて身につけた技術や、体験して来た「物語」であった。本職のかたわらお料理もするとか、ピアノを教えているとか、山登りの趣味がある、というような日常的なこともあれば、銀行の業務の実態、土木技術の苦労話、大学の先生の学生に対する見方、などというような人生の断片を、部外者の私にも聞かせてくれるのは、実にありがたいことだった。そういう生活を続けていると、私は自分の人生以外の分野の「物知り」になれた。もちろん本物の体験者ではない。私はたくさんのニュースの背後に関して、少しだけ多く知っていたので、本質を深く味わう事ができるようになっていた。 マリー・アントワネットが権力の最盛期にあった時、小さな幸せを求めて、ヴェルサイユ宮殿の庭に「プチ・トリアノン」と呼ばれる離宮を好んだことは、その表れである。広い王宮は、権力欲に取りつかれた人たちの抗争の場で、温かくこぢんまりとした家族の幸福を支える場ではないのだろう。 スペインのマドリッドの王宮にも、最後に王室一家が立ち去っていく前に、別れを告げたという部屋があった。ガイドが教えてくれたのである。それは決して、大広間ではなかった。この広大な王宮の、どこにこんな小さな部屋が残されていたのかと思うくらいの、小部屋だった。そこで王家の人々は、何を語り合ったのだろう。 世の中には、その人の特性と全く関係ない状態を示すものがいくつかあって、附属的な部分に興味を示す人も多い。相手が、独身か、子持ちか、家族持ちかはまだ興味の対象として許せるとしても、その人の配偶者がどこの学校の出であるか、どういう家庭に育ったかは、その人の資質とは全く関係がない。 それより私にとって興味深いのは、その人が茶の湯が好きか、登山の愛好者か、音楽好きか、というような事である。それらがむしろその人の本質だからである。「お宅は立派なうちにお住みですから」「お宅のお嬢様は秀才だから〇〇大学にいるんですよ」「お宅だからあんな外車に乗れるんですよ。うちは国産車を買うのがやっとのことです」 というような言葉は女性の表現だ。しかし、それほど空虚で嫌らしい言葉はないかもしれない。人を褒めるつもりなら、もっとその人の本質を評価する言葉を使わねばならない。 私には生涯を通して付き合った女性の友達が沢山いる。 学校が小中高大学の一貫校で、しかも一学年一クラスに五十人ぐらいで、満六歳から二十二歳まで同じ友達と学校に通ったのである。 カトリックの信仰をもとに、修道女たちによって作られた学校だったので、当時は「修身」と呼ばれていた道徳の時間とは別に、信仰を教える時間もきっちりと確立されていた。噓をついてはいけません、とか、自分のことは自分でしなさい、とか、いつも神さまの視線の中で生かされています、とかいう程度だったが、幼いうちから人間の自然な本性に対して理想とすべき形があるということを知らされたのはありがたいことだった。そうでなければ、私たちは、無限に「日々と時代に流される生活」をすることになったであろう。 「日本は男女同権です」という日本語が、かなり前から、全く成り立たない社会ではなかったのだ。お父さんが絶対の権限を持っているように見えながら、実はお母さんが家政全体を取り仕切っていたりする例はいくらでもあった。ことに日本の家庭では、主婦が財布の実権を握っている例がほとんどだ。稼いで来るのはお父さんなのに、お父さんはお母さんの顔色を見ながら、小遣いをもらう。不満がないわけでもないだろうが、「致し方ない、まあそんなものか」と納得しているのである。 フェミニズム運動の下に、女性が自分から差別しようとしていることも実に多かった。私は時々、シンポジウムとか講演会に呼び出されることもあったが、その場合にも「女性のための」とか「女性だけの」とかいう制約を自ら作っているグループがちょくちょくあった。そして、「聴衆も女性に限っています」などと思いつきのようなことを言う。その度に、私は頑固に、「そんな差別をするところの講演は引き受けません」と言い張った。今考えると幼稚な抵抗だが、私は当時は本気だった。 最近は、SNSで使われる用語には通じていても、母国語に「達者」ではない人が多いという。手紙一本、日本語で書けない人もいるという。優れた言語の使い手になるには、まずはたくさんの本を読み、日本語でたくさん書くことしかない。 第一は日本には、働くことが義務ではなく、趣味のように楽しいと思っている人が結構いるということである。 たとえば私はごく最近、ハワイにある米軍の中央鑑識所で、一片の骨からこれが誰のものかを科学的に割り出していく特殊な方法を開発された古江忠雄先生のラボラトリーにいたのだが、先生はアメリカ人の職員が帰ってしまったあとでも残って、遺骨を相手に調べものをしていられる。朝鮮戦争、ベトナム戦争だけでなく、また第二次大戦中の戦死者の遺骨もニューギニアなどから蒐集してきて、その骨が誰のものかはっきりと鑑別し、たとえそれがお骨一本でもきちんとお棺に納めて、陸海空三軍の栄誉礼をもって送り返す。死者にたいする愛がなければできない仕事である。 ところが或る日、二世の運転手さんが「残業」を済ませた先生を迎えにきた。「こんなにたくさん働くと、お金ようけもらえるでしょう」 と言う。「いくら働いても同じよ。僕はただ気になっている問題を、なんとかして解決してやろうというのが楽しくて、勝手に残業してるんですよ」 二世さんはどうしてもわからない様子であった。 もちろん、世の中には、決まりだけ働くという人もたくさんいる。教師たちの中にも「人の為に働くということは、つまり資本主義に貢献するだけだ」という考えがあった。 しかし仕事というものは、それがいやいやの任務である場合と、楽しくてやっている場合とでは、その当人の幸福の度合いが全く違う。 仕事は、一部の日本人にとって生きる目的であり、生の実感なのである。 テニスや盆栽作りだけが趣味だなどと決めることはない。とにかく日本人の中には、仕事を楽しみに変え得る才能のある人が至るところにいる。これはよその国にあまり見られない特徴である。 日本人には常に人の立場を思うという習慣が色濃くある。世界中を歩いてみてこの点がないことに、私はいつも新鮮な驚きを覚える。地球上のほとんどの人々は自分を主張するだけだ。自分のことしか考えない人間というのは、つまり幼児性を残している。勿論この手の人は日本にも学歴のあるなしにかかわらずいるが、ほかの国はもっともっとひどい。 Posted by ブクログ ただ一人の個性を創るために 曽野綾子 570 色んな国に旅したいと思ったきっかけが高校生の時に曽野綾子さんが新疆ウイグル自治区とか中国大陸を20日間旅したり、アラブ世界をたくさん旅したりしてるのを読んだことがきっかけだったの思い出した。曽野綾子さんのサイン会とか行きたい。 曽野綾子 東京生れ。1954(昭和29)年聖心女子大学英文科...続きを読む卒業。同年発表の「遠来の客たち」が芥川賞候補となる。『木枯しの庭』『天上の青』『哀歌』『アバノの再会』『二月三十日』などの小説の他、確固たる人間観察に基づく、シリーズ「夜明けの新聞の匂い」などのエッセイも定評を得ている。他に新書『アラブの格言』などがある。1979年ローマ法王よりヴァチカン有功十字勲章を受ける。1993(平成5)年日本藝術院賞・恩賜賞受賞。1995年12月から2005年6月まで日本財団会長。 そのような成長期に、特に勉強が好きでもなく、怠けるのもかなり好きだった私にとっては、好きでもない教科を学ぶことは苦痛だった。しかし私は、好きなことにはのめり込んだ。私の場合、小説家になろうと思ったのが小学校六年生の時だから、それ以来、私は学校の勉強など最低限に 留めてお茶を濁し、暇さえあればいつも何か書いていたのである。 しかしそれだから、武道を習おうとしたことが全く無駄だったのではない。自分にはこんな方法では解決にならない、と思った時、その子は敢然と 苛められ続ける境地に甘んじるようになったりする。しかしそれは、以前と同じ心理で苛められ続けていることではない。すでにその子は別な方途で対処の道を発見したのだ。自分にはどうしてもできないこと、どうしても嫌いなことがある、ということを発見するのは、偉大な幸運なのである。 人はあらゆる場所と状況から学ぶ。積極的に選んで学ぶこともしばしばあるが、いやいややったり、逃げ出したりしたいほど辛い状況の中からも学ぶ。その度に自分の道はこれしかない、という選択が見えてくる。 人は教会からも女郎屋からも学ぶ。激しいスポーツからも怠惰な昼寝の時間からも何かを感じ取る。学校が知識のみを教える場所であり続けたら、むしろ異常なのだ。 私は今「ディスカバリーチャンネル」(一七〇カ国以上で放送されている世界最大のドキュメンタリーチャンネル) というテレビの番組に 淫している。本でだったらわざわざ木星とはいかなる星か、などという知識を得ようと思わないが、「ディスカバリーチャンネル」の番組でやっていると、つい最後まで見て、木星についての知識を得たような気分になってしまう。 しかし人間は、知識だけでは決して人間にならない。学校は学力や知識を身につけると同時に、徳育をするところなのだ。そこが塾と明らかに違う点だろう。 私は、人間の強欲と利己主義を、かなりはっきりと容認している。それが人間の本性だからだ。ものをもらえば百人のうち九十五人くらいが嬉しがることになっているから、贈り物をするという制度が生まれ、 贈賄 とか、汚職とかいう行為にまで発展する。それで当たり前なのだ。 そんな心理的な余裕などあるはずがない、という人のために、少し解説を加えれば、私たち夫婦は共にカトリックであった。人生は「仮の旅路」で間もなく終わる。 位 人臣 を極めても、生涯はぐれもので終わっても、神の眼から見てその生き方に必然さえあれば、それはそれなりに完結した人生であった。よい人にもどこかにおかしなところがあり、悪い人にもどこかにいい香りのする点があるであろう。そういう思いがどこかにあるから、何でも笑えるところがあった。この一瞬が大事なのである。 第一が中国報道の偏向である。中国に関しては少しでも批判的な記事を書いてはいけない、という姿勢がまず前提にあった。毎日だけではない。いわゆる「朝毎読」の三紙に東京新聞などのブロック紙までが同調して、戦争中の大本営発表のような完璧な思想統制記事網が長い年月張りめぐらされたのが実態であった。 中国にはハエがいない、ということになると、中国にだってハエはいる、という文章も拒否されるか、少なくとも敬遠された。「毛沢東の中国は、たくさんの人を粛清し、厳しい思想弾圧をし続けた」ということは、日本のマスコミ人が生命をかけて報道しなければならなかったことではないのか。しかし「朝毎読」の三紙は、決してそのことに触れようともせず、中国礼賛記事を書き続け、中国に 尻尾 を振った。そしてそのことに関して、新聞がその大きな責任を謝罪した記事を私は読んだ覚えもない。 そのような日本人の根性を見据えて、中国は、日本は「押せば引く国」と見るようになったのだろう、と私ならずとも多くの人が思っている。私が中国人でも押せば引く相手なら押すだろう、と思うからだ。だから現在も続いている中国との関係の不愉快な部分を許した「大きな功績」の一部は、新聞社にもあったのである。 第二次世界大戦が帝国主義戦争だということはほんとうだが、戦後教育は、ベルリンの壁崩壊で社会主義がいかに非人間的であったかを有無を言わさず見せつけられるまで、明らかに左翼偏向だった。あれだけの社会主義の悪を新聞はその時点で報道しなかったし、それを反省しないのも、「過去に学ぶことなく、反省もしない傲慢なこの史観が、社会科学として成り立たないことは明らかだ」と、今松氏の言葉をそっくり繰り返すことで説明しなければならない状態である。 私は東京に生まれ、東京に育ち、東京で仕事をし続けた 生粋 の東京人である。戦争中に疎開した十ヵ月を除いて、他の地で暮らしたこともない。その体験から、と限定して、私は東京で生まれた子供たちは、被差別部落の存在というものを知らないし、それ以後も日常の意識にない、と書いた。 その署名原稿を掲載できないと拒否したのは『サンデー毎日』であったのだ。はっきり言っておくが、私は「差別をしよう」とか「差別をして楽しかった」と書いたのではない。私の育った東京という土地には「差別意識が全くと言っていいほどなかった」という意味のことを書いただけなのに、それがいけない、と言うのである。私は原稿の書き直しを命じられたが、私の実体験を毎日新聞の言う通りに直すことはできないので、この連載は打ち切りになった。 すべてとは決して言わないが、私と同じように被差別部落のことに関して体験も知識もなく育った東京人は、私の周囲にいくらでもいる。つまり一年中、ごく自然に部落問題は私たちの日常会話や意識に全くゼロと言っていいほど登場しないのだ。 とにかく東京の日常生活では(他の地方と違って)、そんなことを意識している暇がないのである。東京はまず出稼ぎ人の町だし、徹底した能力主義社会を採用している土地で、出身地や家柄や先祖やそうしたものが意識に上らない個人主義の土地なのである。それにもまた弊害はあるが……。 英国の女王も歴代首相も、イギリスやヨーロッパは大きな貢献をしたと暗に歴史を自負するようなことは言ったが、過去の植民地化を謝罪したことなどない。 毎日新聞社だけではない。誰もが皆謝れない理由があるのだろう。私自身は日本の帝国主義化を謝るような立派な立場にいないが、しいて謝らない理由を考えてみれば、二つある。 第一は、他人の犯した罪は、私のキリスト教解釈では、代わって謝ることはできない、ということである。もしそれができるなら、自分の犯した罪を他人に謝らせることもできることになる。 第二は、完全なる悪も、完全なる善もこの世にはありえない、と考えているからである。植民地化は、今やいかなる角度から考えても望ましいものではない。しかし植民地時代の中にも立派に意味のあるよきことは、部分的に存在したし、植民地を脱した現在のアフリカで、植民地時代にはありえないような残虐が発生していることも事実である。つまりこうなったらすべてがよくて、ああなったらすべてがよくないのだ、という言い方はしてはならないものだ、と思う。 プラス面しか教えないことが人間を幼稚にさせる 「皆いい子」とは何事だろう。最近のDNAの発見は、さまざまな要素を持つ人間がいることを解明した。恐らく今に、殺人を楽しむDNA、残虐さに快感を覚えるDNA、癌のDNA、自閉症のDNA、 詐欺 をするDNA、不妊のDNA、集団を恐れるDNA、高い山に登りたがるDNA、賭け事に夢中になるDNAなどが、続々と解明されるかもしれない。もっと想像すると、だんだんマンガチックになるから 止めるけれど、それらが、「皆いい子」などという言葉の持つノーテンキな 似非 ヒューマニズムとはいかに縁遠い重々しい人間性と結びついているかを感じるだろう。 二〇〇一年の夏、私は 新疆ウイグル自治区というところまで長い気楽な旅をした。何しろ上海空港までは飛行機で着いたのだが、それから二十二日間、一万六千キロに及ぶ中国大陸の旅はすべて列車かバスで移動したのである。二十二日間もの旅と聞いて、まず皆は 呆れ、「そんな長い旅はヒマ人じゃなきゃできないよ」とアイソを尽かし、そのくせ、費用が二十六万円と聞くと、「それならボクも行けばよかったな」と浅ましいものであった。 この旅行の企画者は私の息子で、当時、関西の尼崎にある英知大学という私大で教えていた。彼はこれまでにも研修の目的で、あまり人の行かない土地へ学生を連れて出かけていたそうで、離れて暮らしている私はおぼろげにそういう旅行をしているとは聞いていたのだが、今まであまり実感がなかった。今度誘ってくれたのは、私たち夫婦がもう 僻地 に行ける限度の年齢と思ったのかもしれないし、安いツアーを成立させるための 員数 合わせに使ったのかもしれない。いずれにせよ、私たちにすれば、学生さんたちといっしょの旅行をさせてもらえて、大変楽しかったのである。 息子はそれから少しずつ学生たちの訓練の目的を話した。旅の第一の目的は、当然のことながらその土地を知ることにある。その土地のものを食べるのもその一つの手段だ。だから、学生には自由に 嗜好品 を持ってくることを許していない。 それでも私は息子の言いつけに背いて、少量の違反食品を荷物の中に隠し持った。レトルトのご飯、梅干、インスタント味噌汁、 海苔、 佃煮、などである。私にも言い訳はある。私は別にこれらのものを自分が食べたかったのではない。しかし今まで旅行の途中、 食中りをしたり、肝臓が悪くなったりした人は、現地の食事を全く受けつけなくなるのである。そういう時、少量の日本食で危機が救われることもあり得るかと考えたのである。 しかし旅をしていると、次第に私は息子の意図も、のびやかな学生さんたちの反応も、過不足なく感じられるようになってきた。 オサマのような最高指導者や幹部の暮らしは特別だろう。彼らの潜む 洞窟 や隠れ家には、もちろん発電機によって電気もある。オサマ・ビン・ラディンという人物はけっこうな見栄っぱりだから、革の背表紙をつけた文学書か哲学書の並んだ書棚の前で写真に写るのだ。しかしその本は、全く読まれた形跡がない。私の持っている全集は、巻によっては背表紙の字も消えかかるほど読まれているが、全く開いたことがない巻もある。つまり背表紙の手ずれ方には差異があるのが自然だ。しかしオサマの背後の書架の本はどれもきれいに揃っている。その程度の暮らしが荒野の中でもできるのだ、と彼は示したいのだろう。 今回の研修旅行で、私たちは時々ガソリン・スタンドでトイレを使った。日本では見たこともない凄まじいトイレであった。深い穴が掘ってあって、その上に板が並べてあるだけのものである。だから穴の深さに恐れを抱く人もいるだろうし、中に落とされているものを眼にしなければならないことにたじろぐ人もいるだろう。 昔の中国のトイレは仕切りなし、ドアなしだったのである。それが今では、隣の人との間に腰までの高さの壁が作られているところが多くなった。トイレ専用の手洗いというものは今でもないが、ガソリン・スタンドにはどこかに洗車用の水があるので、私たちはぜいたくにも手を洗えたのである。 私がタリバンの「たった二つ」のぜいたくと思うのは、野外のトイレと、恐らく夏だけに許される満天の星空の下で眠ることである。日本で戸外に寝ようとすれば、夜露が多いから、服も掛物もしとどに濡れて、とても寒くて寝られない。 しかし少なくとも私はまだその手の「自由」を楽しむ境地に達していない。モンゴルの冬は、生のバラの花がそのまま凍るという。そうでなくても、雨が降ったり、風が吹いたりする中で、必ずゲルの外へ出て行ってトイレをしなければならない、ということは、私にとっては自由どころか、一つの大きな心理的負担だ。仮に、携帯便器を使うとしても、それはそれなりに衛生面で抵抗がある。こうした心理的負担を私たちは「不便」というのである。 実にこうした教養人が驚くほど少なくなったのは、皆が本を読まなくなったからなのだ。大人たちが若者と時代に迎合して、今はテレビで充分な知識を得る時代だ、コンピュータゲームをいけないと言うのはものわかりが悪い証拠だ、インターネットとEメールは全く便利でこれを使わなければ人間ではないというのもほんとうだ、などと調子よく 相槌 を打った結果である。つまり大人は子供にそういう形で 迎合 し 媚 を売ったのだ。 インターネットが便利なのはわかる。しかしその知識はまことに 浅薄 な範囲だ。一年経ったら古くなる知識も多い。そうでなければ、せいぜいで百科大事典に書いてある程度の知識だ。誰でもが簡単に手に入れられ、使える程度の知識は、何の特徴にも専門にもならない。もっと下品な言い方をすれば、それに対して世間は特別な対価を払おうとはしないのである。ハッカーの行為は悪いものだが、コンピュータでもハッカーになれるくらいの才能がなければ、専門家ではない。そしてコンピュータに関してそんな特異な才能を持つ人は、世間にほとんどいないのである。 だから私たちは本を読まなければならない。テレビだけではダメなのだぞ、テレビとコンピュータだけで生きていたら、その人は決して指導者にも専門家にもなれないのだぞ、と親も教師も言わなかった責任は大きい。 言わなくてもいいのだ。模範を示す、というやり方がある。しかし今の教師は教師自身が本を読んでいない。忙し過ぎるからだろうと同情はしてはいるが、教師が毎日一言でも、自分が読んだおもしろい本の話をしてやれれば、生徒たちは読書の魅力を察するのである。 その点、科学も、哲学も、文学も、間違いない。どんな本を読んだらいいのでしょう、と聞く人がいるが、本屋でページを 捲ってみて「おや」とか「ふうん」と思う本だったら買えばいいのである。こういう小さな感動を覚えることを「(心の) 琴線 に触れる」と言い、間違いなく人間の心の 所業 である。 今、教師と親ははっきりと「テレビゲームとマンガ本だけじゃバカになる。本を読みなさい。本も読まないようなのは人間じゃない」と言うべき時にきている。読書の時間を作っている学校は、学級が荒れなくなり、子供たちも静寂と沈黙に耐えられるようになっているという。彼らは初めて考え、話す種を持ち、その結果として猿ではなくなるのである。 最近、家庭というものがなくなった。子供は家へ帰っても、アルバイトに出ているお母さんはまだ帰っていなくて、鍵っ子になる。お父さんの帰りも遅い。ご飯の時には、母も子もテレビを見ているから、お互いの会話はない。朝も、子供が一人で起き、何も食べずに出て行く家も多いという。食事にしても、昔は一家が同じものを食べた。朝はご飯に味噌汁、梅干に佃煮。他にチョイスがなかったのである。しかし今の子供たちは、食べたいものがバラバラな上、他の人に合わせる、ということもしない。 お互いに相手の存在を意識して暮らすことは幸福か不幸かと言えば、そのどちらでもある。中国にも、マレーシアにも、インドネシアにも、大家族が一つ屋根の下に暮らす生活がある。私が会ったエジプト人のガイドは自分の家に連れて行ってくれたが(それが噓でなければ) ちょっとしたマンションほどもある集合住宅であった。そこには一族八十人ほどがいっしょに住んでいるという。庭は荒れた公園のようで、子供たちが二十人近く遊んでいた。皆、彼の 甥 や 姪 や 従兄弟 の子供たちである。 イスラム教徒は四人まで妻を持つことができるから、こんな大家族システムでなくても、二十人くらいの家族になることは珍しくない。四人まで妻がいることは社会的にも納得しているはずだが、やはり妻たちは夫がもう一人妻を 娶るとなると決して心中穏やかではないという。イスラムの婦人が不定愁訴で診察を受けにきたので、よくよく聞いてみると「今日は夫の結婚式です」というケースがあった、と日本人の医師が話してくれた。 大勢で暮らせば寂しくない。その代わりに妬み、不満、反感などがいつも家の中に渦巻いている。しかしそういう中で、人は究極の人間学を学ぶだろう。 勉強などというものは、資質を育てるほんの一つの手段でしかないのに、親はそれが全部であるかのように思って、勉強させることにだけ精力を注ぐ。お勉強のためなら、いい部屋を作り、家事の手伝いは一切させず、勉強をしてもらう代わりに子供が欲しいものは見返りに買ってやることになる。子供は親のために勉強してやっている、ということをちゃんと知っているのである。 しかし本来、勉強などというものは恩にきせてやるものではない。望んでさせていただくものである。世界には勉強したくても貧しいので、畑を手伝ったり、羊の番をしなければならない子供たちもたくさんいることを、親も実感しないし、子供に話してもやらないから、子供は自分の置かれているぜいたくな境遇を理解できないのである。 ほんとうは義務どころではない。私は大人の食卓に加えてもらったことで、どれだけ人生を学んだか知れない。耳学問は得になった。ただで、大学の講義以上におもしろい知恵を身につけさせてもらえたのである。 話してくれる人は別に知識人でなくてもいいのだ。いわゆる知的な職場にいる人ではなくても、それゆえにこそ、むしろ重厚な人生を語ってくれることも多い。熊に遭遇したり、 雪崩 に巻き込まれたり、漁に出ていて 時化 に遭ったり、炭焼きの小屋で手伝いをしたりする話は、多くの子供にとって未知の世界だから、胸を 轟かせて聞くはずだ。そしてどこにもおもしろい生活はあるんだなあ、と思う。将来、大学の試験に失敗した時、こういう世界を知っているかどうかだけで、心に受ける圧迫の強さは違ってくるはずだ、と私は思う。世界は広いのだ、と私たちは早くから子供に知らせる義務がある。 今はまだ制約が多くてアパートやマンションで犬や猫を飼えるところが少ないのはかわいそうだが、動物を飼うということは、子供にとっていい刺激である。比べるのもおかしいことだが、昔は子供からみたら弟や妹を飼っていたのである。今は動物にその代役をさせねばならないほど、弟妹の数が少ない。 しかし犬にも猫にもそれなりに三百六十五日、雨が降っても、風が吹いても、してやらねばならないことがある。餌を与えることと、排泄物の掃除と、運動である。それは結構な仕事になる。子供が飼いたいと言い出したペットなら、親は子供に熱があるような日以外、その世話を代わってやってはいけない。生命に対する義務というものは、それほど有無を言わさぬものだ、ということを、身をもって感じさせるためである。 ロボット犬は、百パーセント人間のご都合に合わせられる。電池を切れば、 死骸 のようになる。ほんものの死骸ならほっておけば腐敗するから困るが、電池切れのロボット犬は、押し入れの隅に放り込んでおいても、別に不都合はない。気が向いた時だけかわいがり、面倒になったり飽きたりすれば捨てておけるというご都合主義の産物だから、子供の精神を荒廃させるのである。 最近、同級生の女性を引きずりこんで 同棲 し、面倒になると食事も与えず餓死させて平気だった男とその両親が逮捕された。こうした意識はロボット犬に対する精神の姿勢とそっくりである。 「金を儲けたかったら、本を読め!」 テレビゲームの悪をどうして人々はもっとはっきり言わないのだろう。あれは読書の時間を奪う。何より悪いのは、あそこでは、戦場で弾を撃たれても、生身の自分は決して傷つく心配がないことだ。崖からすべり落ちても、決して死なないことだ。 それともう一つ、私はテレビゲームに使う時間を読書に使った。今では、あまりにも人は精神や魂の肥料である読書をしなくなって、知識も精神もやせ細っているから、私はあえて次のように言いたいのだ。 「金を儲けたかったら、本を読め!」 「出世をしたかったら、本を読め!」 と。 もっともこんな言い方をしたら「下品な言い方ですなあ。しかしそれくらい 直截 に言わないと、世間はわからないかもしれませんなあ」と笑った人はいた。 今日からでも遅くない。自分を伸ばすために読書を始めて、そしていつかそのおかげで人生で「出世」できたと思った人は、私に手紙を書いてほしい。もっともその時、私が生きていたらの話だが……。 今は自分自身が何より大切で、社会も他人もそのことを認めて自分の希望を叶えるべきだ、と信じている子供や大人が珍しくない。こういう利己主義者は、個性が強いように見えるが、実は精神もひ弱で、個性も稀薄な、内容のない人物なのである。たった一人、その人らしい強烈な個性を育てたかったら、逆説めくが、他人の存在の真っ只中に常に自分をさらさなければならない。そしてある程度傷つかなければならない。 満身創痍 の人が強く、味わい深くなるのである。 これは教育がどこの国でも強制的であることを物語っている。モスク(イスラム寺院) で神に礼拝する時以外、イスラム教徒は床に座って頭を下げるということをしないようにしつけられて育つ。だから人間である夫の友達に、唯一神に対するのと同じ型の礼拝をすることなどとんでもないことだ。しかし日本人は誰にでも気安く頭を下げる。隣の人と道で会っても、他人の家で座敷に通されても、とにかく頭を下げて挨拶をする。どちらも強制された教育の結果だ。 私の母が私を道連れに自殺しようとしたのは、私が小学校高学年の時である。私は今でも母が死のうとした理由を正確には言えない。母といえども他人である。しかし母が死ぬほど結婚生活がいやだったということだけは確かであった。 今の私は態度が悪いから、死ななくても、さっさと離婚すればよかったのに、などと思う。父が意地悪をして、離婚すると言えば母に一円のお金もくれない。母は食べられないからガマンして結婚生活を続けていたのだ、といくら説明しても、今の人は「スーパーでバイトしたら?」「生活保護があるじゃないの」と言う。スーパーも生活保護も当時はなかったのである。もっとも当時はあって今はないものに乞食という生き方があった。橋の上や駅の構内に座って、 罐 詰 の空き缶に小銭を恵んでもらう人たちである。 私のほうが明らかに母より強いと思うのは、私は母と違って乞食ができる。母はそんなことをするより死んだほうがましだと思ったのに対して、私はそれを途方もない異常なこととか、みじめなこととか考えないだろう、と思える。 母が自殺を思い留まったのは、私が泣いて「生きていたい」と言ったからである。母は本気で死ぬつもりだったのかどうかもわからない。本気なら、その時までに、刃物で私を刺していたろうとも思うからだ。 犯罪はまだ犯していなくても、根性は確実に曲がっていると思っている。学校の先生でなくてよかった。教会の女性牧師さんでなくてよかった。由緒ある宿屋の 女将 さんでなくてよかった、と思うと、私は運命に感謝せずにいられない。こうした職種は、正しく、穏やかに、円満に、優雅に、何事にも耐えて、心のほころびなど見せてはならない立場である。 その証拠に、私は人を見るとすぐ悪く考える習性が残っていた。穏やかそうな顔をしているけれど、家では厳しい人なのではないだろうか。お金持ちらしいことを言ってはいるけれど、こういう人こそ借金だらけかもしれない。犬を可愛がっていて、犬の話をすると目尻が下がるけれど、世の中には犬には優しくても人には全く優しくない人というのもけっこういるものだ、などと思うのだ。 私は善意に溢れた人を、嫌うと言うより、やがて恐怖を抱くようになった。 結論を先に言わねばならないのだが、私は人の善意や厚意を元にした世間の美談に素直に喜べない性格になっていた。そしてそういう自分の性格に反射的に嫌悪を抱いてもいた。どうして私は偉い人や、心根のいい話にすぐ感心できないのだろう。いや感心しないことはないのだが、反射的にその出来事に含まれる裏の事情や、口には出されなかった部分を考えてしまうと、どうしても 一途 に話に酔うことができないのである。それが子供の時に家庭内で受けた心の傷の後遺症だろう、と自覚しているのである。 つまり私はもの心ついて以来、物事には裏があり、人には陰があると信じ、疑い深く見て、生きてきたのである。しかしその結果は信じがたいことだったが、私は人に裏切られたことがないのである。 仮に私が人からあらぬ疑いを掛けられたとする。釈明の機会を与えられれば、私は一生懸命弁解するだろうが、その機会も与えられないまま、先方が私を悪い奴だと信じたとする。すると私は「ああ、そういうこともあるだろうな」と諦めるのである。諦めることは私の得意中の得意であった。 もっともそんなことを言える大きな理由は、私が神を信じているからである。人にはわかってもらえなくても、神は「隠れたところにあって隠れたものを見ている」のだから、神にさえ知られていれば、それでいいような気もするのである。 私は二十三歳の時から、外国に旅行するようになった。最初の旅の時、東南アジアの某国に行こうとして、最初のつまずきを体験した。東京のその国の大使館は、作家としての私にヴィザを出せるかどうか身上調査をするためだと称して一万二千円を出させた。当時大学卒の初任給は一万円くらいだったから、今のお金の感覚に直せば、二十四万円くらいに当たるかもしれない。 それにもかかわらず、その国の駐日大使館は、その業務を全くやっていなかったことが後で判明したのである。シンガポールのその国の大使館に行けばヴィザを出せるようにしておくと言ったのに、シンガポールでは東京の大使館からは何の書類も廻ってきていない、とけんもほろろであった。つまり東京の大使館の領事部の男が一万二千円を着服したのである。 私はアラブの世界からも人間の生きる厳しい現実世界を教わった。少しくらい噓も裏切りも 詭弁 も 弄しなくては、生きていけない土地なのだ。 相手が、いい人でも正直な人でもないだろう、と反射的に思うことは、日本以外の土地では実に有効な身を守る手段であり、柔軟性でもあった。商売の上でも彼らは、吹っ掛けるだけ吹っ掛ける。それで騙されるほうが悪いのである。相手が騙されたら、吹っ掛けたほうの勝利だからだ。私はまず用心し、初めから相手を部分的にしか信ぜず、したがって裏切られても騙されても怒ることはなくなった。 私は中産階級の、両親が不仲な家庭に生まれた。だから私自身の性格も歪み、愛情がうまく育たない恐れもあった。しかしそうだとしても、それはそれで仕方がないだろう。愛情がうまく育たないのだったら、後から強引に見習って、いささか人為的にでもいいから、一見自然に見える程度に、愛情というものだって無理やりに育てればいいのである。 経済的中産階級というものは、すばらしいものである。それは絶対多数の心情を理解できるという点に偉大な凡庸さを見ているからである。もちろん世の中には、不運な人もいるが、私の感覚では、怠け者と見栄っ張りな人が、やはり貧乏していることが多かったように思う。 ある時、出発前に、自ら希望して加わった人の一人が正直に「僕には貧乏というものがどうしてもわかりません」と言ったことがあった。私はその言葉に好意を抱いたが、正直なところショックも受けた。「王族や、貴族や、富豪の生活はわかりません」というのなら、「そうですね。私も」と素直に同調できるのだが、貧乏がわからないというのは、どういうことだろう。このことについて、私は一つの答えらしいものを持ってはいる。つまりそういう人は、読書の絶対量が足りないのである。自分の専門に関係のある書物は読んでいても、明治以来の内外の文学は読んでいないのである。 小説は 無頼 な作家たちがいい気になって、ただ自分にこういうことがあったらどんなにいいだろうという甘い空想を書いたものだろう、などとバカにしているから、文学によって私たちが知り得た凄まじい現実を知らないのである。こういう人がけっこう東京大学法学部卒だということもある。 その上にあぐらをかくと、作家なら小説だけ書いていればいい、ということになりがちだ。実は小説というものは、けっこうきちんと調べて書くために手間暇をかけているのである。一つの小説を書くと、作家はその主人公の職業についてセミプロくらいの知識は持つほど勉強する。思いつきで書くようなものでは、プロの小説として通用しない。 信仰の領域を離れても、私がこういう 罵倒 を気にしないのは、仮に相手が失礼なことを言ったとしても、それは言われた私の問題というより(それに該当する要素を持ち合わせていることは多いが)、多くの場合、言ったほうの醜さを示すことになるからだ。 気の毒なことに、最近の日本の社会状況では、こんな簡単なことさえできない。テレビのタレントたちの日本語はめちゃくちゃ。代表的な新聞は、天皇皇后両陛下に対してさえ敬語を使用しないことが、あたかも人権と平等の精神を標榜しているかのようなことを言う。そして母親たちは、ほとんど本というものを読まないから、外見はブランドずくめのしゃれたみなりをしていても、喋る言葉は教養のないものになる。とても子供に敬語や謙譲語をしつける能力などない。 私は貧しいがゆえに信じられないほどの破壊的な行為を平気で行なうことができる人のことを、アフリカで散々見聞きした。スラムではレイプがひどく、殺す時にはタイヤを巻きつけるか、 喉 にガソリンを流し込んだ後で火をつける。殺すという行為の残酷さは同じだが、こういう残虐は、娯楽のない貧しさの中で、一つの楽しみとして生まれたのではないかと思うほどだ。 清貧という名のように、すんなりと欲のないままに生きていられるのは、とにかくその日どうやら食べられるものがあり(たとえご飯にメザシだけでも)、雨露を 凌ぐことのできる家に住んでいられるからである。そしてそのような状況を国民に与えられるのは、日本のように恵まれた豊かで自由な国家しかない。貧しい国では、決して清貧などという状態は出現しないものなのだ。 客観性を無視した人々は、しばしば政治や社会について歯切れのいい「反対運動」を展開する。新幹線、高速道路、原発、ダム、空港、老人ホーム、知恵遅れの子供たちの授産所、焼き場、感染症研究所、ゴミ廃棄所、汚水処理場、墓地、食肉処理場、刑務所。こうした施設を嫌い、その建設に絶対反対の運動をする人々は、こうした施設を差別したのである。それらは、学校、銀行、郵便局、警察署、議事堂、総理官邸、裁判所、卸売市場、などと同じ程度に大切なものであろうに。 第一、彼らは民主主義がいいなどとは思っていない。今まで一度も民主主義的な暮らしなどしたことがないのだから、アメリカが民主主義を押しつけようとしたら、拒否するに決まっている。アメリカ人というのは、どこまで自己中心的で、人の心のわからない人々なのか。 イラクに住む人々が理解し、信頼しているのは、族長支配体系だけである。理由は簡単だ。歴史が始まって以来、彼らは族長支配でやってきたからなのだ。確かに時代によって、族長にはいい族長も残忍な族長もいた。しかし族長支配の体系の中で、彼らは守られてきたのだ。解放だの、民主だのと言われるのはありがた迷惑だ。なぜなら、強力な族長の支配の力を奪われれば、彼らはミノムシが、ミノから押し出されて裸になったような状態になるのを知っているからなのだ。 私たちは「人は皆善人」と教えられた幼稚で危険な教育を受けている。「人は皆悪人」と教えられてもやはり片寄った貧しい教育を受けている。「人はさまざま」という教育を受けた時だけ安心していられる、と私は思っている。 私の家は東京の東横線という私鉄の沿線にあるが、 若い時には、まず 寸暇 を惜しんで、自分を複雑な人間に教育する必要があるだろう。充分に読書をして専門的な知識を身につけ、できるだけ多くの人に出会って、現世にはどれだけ変わったものの見方があるかを体験しなければならない。 ニクマレグチを叩けば、電車の中でメールばかりしていて、少しも活字を読まないような男女にろくな未来はないであろう。単純な理由だ。読む人はそれだけ勉強しており、ケータイにしか興味がない人は、それだけ怠けているからである。平等という観念は、誰にでも同じ状態が与えられることではない。努力した人にはそれだけの報いをすることであり、怠けていた人はそれだけ報われないことが平等なのである。 つまりこういうお化け姫は「恥知らず」なのだ。恥知らずは怖い存在だ。人間に恥の感覚がなければ、どんなことでも平気でやることができるからだ。実はたいていの人は電車の中で化粧する女の子の変身の経過を見るのは、むしろ好きで、おもしろいなあ、と思って見ている。車中や人前で化粧するな、と一言も教えられなかった親と学校が本来なら恥じなければならなかったのかもしれない。 料理も一つの人生讚歌の方法だ。神が創り人間が広めた野菜や肉という物質を使って、精神の活動をする人間の肉体を作る。私は世間の人が「噓話を書く仕事だろう」と思っている小説家という職業に就いた。しかし小説は思いつきや妄想で書くのではない。そういう書き方をしていたらすぐにネタは尽きる。小説はおこがましくも、人生を捉えようとするのだ。もちろん分を知っているから、小さな範囲で捉えた人生を描く。だから「大説」とは言わず「小説」なのである。 本を読まず、おかしな記号つきの短文で通信を楽しむケータイで人とつき合ったと思い、テレビゲームの架空世界で冒険をしたような気になる日本人は、どんどん精神の衰弱で病的になり、今にそのか弱い精神のゆえに死ぬだろう。彼らは人生の中に歩みだし、それと格闘する実感も知らず、自分を鍛えることもしなかったからだ。 進歩的な人々が目の敵にする「愛国心」は、私に言わせればそんな深刻な思想ではなく、生きるための鍋釜並みの必需品に過ぎない。 Posted by ブクログ 少し嫌われるくらいがちょうどいい 曽野綾子 / 今野志保 沢山の人の生き方から学べるのが、本の良いところの一つ。 自分の無知を知り、好奇心を持って、感謝を口にして生きていこう。 そうなれないとしても、この人生の最後まで足掻いて全力で生きていきたい。 Posted by ブクログ 死という最後の未来 石原慎太郎 / 曽野綾子 私と50歳ぐらい違う両名の対談。このような話が聞けるのが読書のいいところ。死も言うことに対して、感謝の考え方を踏まえたものの捉え方、日常の誰にでもある物事の捉え方、両者違うが、その中での会話が面白い Posted by ブクログ 人生は、日々の当たり前の積み重ね 曽野綾子 曽野さんの本は数冊読んだけど、どれも隣にいそうでありながらも前向きで頑張りすぎない…素敵な心持ちを説いていらっしゃる。 この本の中で特に前向きな曽野さんの生活は、二匹の猫との暮らしぶりであろう。 ご主人のいなくなった家で幸せに生活されながらも、たくさんの想い出と共に将来も見据えている。 改めて曽野さ...続きを読むんの芯の通った心の中を見習いたいと思いました。 Posted by ブクログ 曽野綾子のレビューをもっと見る