谷川俊太郎のレビュー一覧
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先ごろお亡くなりになった
谷川俊太郎さんが
生前に見送った方々へと
捧げられた「悼む詩」の一集。
その中で、巻頭に掲げられた
詩「そのあと」の一節が心を離れません。
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そのあとがある
大切なひとを失ったあと
もうあとはないと思ったあと
すべてが終わったと知ったあとにも
終わらないそのあとがある
そのあとがある
世界に そして
ひとりひとりの心に
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そうか。そのあとがあるのか…。
俊太郎さんの「死」に対する
言葉の深みに思いを巡らせています。 -
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とんでもない2人のコラボ本だ!と驚かされ手に取りました。内容はさほど濃密ではなかったです。1980年10月23日と2022年7月5日の2人の対談内容と、お二人が相手についてのことを書いたエッセイ、中島みゆきが愛唱する谷川俊太郎の詩(なるほど!)4編、お互いに代表される詩を交互に24編。
ただ、こういう形なら詩を手にとって読むかなぁということと、中島みゆきの普段知り得ない性格が垣間見えて良かったです。詩人ってちょっと電波より(昔いうところの宇宙人)な方多いですけど、中島みゆきさんも面白いですよね。谷川俊太郎とならんでも遜色ない…。
対談にはルビないですけど、この本に興味引かれる高学年くらいなら大丈夫だと思います。 -
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朝日新聞に2021年月から2024年11月までに掲載された詩を集めた本です。谷川さんは2024年11月に亡くなったので、晩年の作品集になります。
本のタイトルは、最後の詩「感謝」の中のフレーズ「今日は昨日のつづき だけでいいと思う」から来ています。
詩集最初にある「おめでたいマンネリズム」には「先に逝った親しい友人たちの目からすれば 平々凡々のこの今日もかけがえのない一日のはずだ」と強さが感じられるのに対して、中ほどの詩「いい天気」では「終わらない繰り返しに退屈しない自分が不思議」となり、「感謝」では「今日は昨日のつづき だけでいいと思う 何かをする気はない」、とトーンダウンしていくかのようで、詩人が生の終焉に向かうのが感じられます。
また、意味をめぐっての語りを読むと、語り得ないことは沈黙しなければならない、といった哲学者の言葉を思い出します。哲学者に対して、詩人は、語り得ないことそのものでなく、その周りを語ることによって「それ」を浮かび上がらせようと試みているかのようです。
さようなら、谷川さん。
この本は、夏の連休に読むのにぴったりの詩集だと思いました。ただし、ゆっくり死んでいく詩人が遺してくれた詩ですから、シニア向けかもしれません。
合唱コンサートが2026年3月22日に東京で予定されているらしいです。つやつやとした声でこの詩を歌うのでしょうか。聞きたくはあるけど、ちょっと心配です。 -
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本書は、詩人の谷川俊太郎さんが朝日新聞に連載していた、「どこからか言葉が」(2021年1月6日~2024年11月17日)が初出となっており、世界について考えさせられるものや、人間、言葉について、そして谷川さん自身のその瞬間、瞬間の率直な思いも垣間見えたような気がした、その中で私が書いたテーマは本書のごく一部に過ぎない。
谷川さんは、私が持っていた詩人に対するイメージを覆してくれた人で、それは詩人の見えている世界に連れて行ってくれるだけではなく、今、私達が生きている世界の謎を何とかして解き明かそうとする、その姿勢に私は切なさと共に心を打たれるものがある。
谷川さんの詩では何回も取り上げられてきた、この世界自体の存在に対する心許ない思いへと駆られるような深遠な謎について、本書では「宇宙のマトリョーシカ」や「何事もなく」が印象深く、『何か』の中から宇宙が出てきてから、やがて人間が出てくることになったとき、生命体としてだけではなく、その心はいつどこから生まれてきたのかという疑問には、良くも悪くも人間だけが持ちうる可能性のようなものを与えられたのか、それとも何かの気まぐれなのか分からないが、その結果として、現在の世界を持て余してしまっているような状態を生み出してしまったことに対する、これは申し訳なさなのだろうか?
「何事もなく」
何事もなく一日一日を過ごすのが
なんでこんなに難しいんだ
手から滑って落ちたワイングラス
高いものでも大事なものでもないが
散らばったかけらが心に刺さる
体は自然から生まれたけれど
心はいつどこから生まれたんだろう
草木と同じ犬猫と同じ私の命は
深く柔らかな生命の流れから逸れて
固くぎごちないものになってしまった
目にするすべて手にするすべてに
いつかコトバがべったり貼りついて
近づいてくるはずだったのに
かえって世界は遠ざかった
世界とか言葉とかは
毎日の地味な暮らしにそぐわない
青空のもっと上は宇宙だが
いつかそこまで行ったとしても
まだまだ先は限りないと
子どもの頃からコトバに教えられた
夕焼けに言葉を失い星空に畏れを抱く
いのちはそれだけで十分なのに
心を持つが故に、却って人間だけが浮いた存在であるかのような孤独感に近いものを抱いてしまう私は、時折、人間同士の柵のみに囚われることに疑問を感じるだけではなく、毎日やりたいことを続けていることにも妙な侘しさを感じ、突然思い立っては自然や動物たちを何も考えずに、ひたすらぼうっと眺めたくなる衝動に駆られ、そこには人間だって自然から生まれてきた存在なんだという思いから、人間では無いものたちに対して抱く敬意を込めた仲間意識のようなものが、心の中ではなく本能的なものとして私の中には無条件に内在しているのだと感じると共に、心が無いからこそ真の平等性があるものたちへの憧れも、きっとあるのだと思う。
「わざわざ書く」
物でも人の生き方でも
美しいなと思うと
一呼吸おいてこれでいいのか
と思うのは何故だろう
どこにも悪が見えないと不安になる
ほんの少しでも醜いものが隠れていないと
本当でないような気がする
自然を目にする時は違う
不安も何故もない
雨が降っても風が吹いても
自分が今そこで生きているだけ
無限の自然が自分を受け入れている
と言うより自分が自然の生まれだと知って
そう思える自分が嬉しい
心は雲とともに星々とともに動く
でもなんでわざわざ書くのかと思う
言葉を自分の中に取って置けずに
「いまさら気には病むまい
これが詩かしらとか
どこが詩かしらとか──」
「どうして信頼する女友達に」で谷川さんは、『記憶することができない言葉』や『あっという間にいなくなる言葉』が詩ではないかと思うのは錯覚だろうか、と書いており、私個人の考えとしては、せっかく谷川さんから素敵なことを教えられても、人間としての日常の生活に忙殺されている間に、そのことを忘れてしまっているが、その中にこそ大切なものがあったのではないかということを思い出させてくれて、それこそがまさに谷川さんの書く詩なのではないかと痛感したのである。
「更地をみつめる」
昨日まで家が建っていた
今日は呆気なく更地になっている
狭い庭にあった数本の立木も伐られた
同年輩の何人かと焚き火をした
思い出というほどの記憶はないが
その時代を惜しむ気持ちは消えない
今日という結果をもたらした「時」
それを歴史という名で呼びたくない
もう決して帰って来ないことで
かけがえがないと思わせる平凡な時間
動き止まないその今に経験した生を
いつか忘れ去って私は生きている
昔と言ってしまうと昔になってしまう
物語からこぼれ落ちる今日を
素気ない叙事もほのかに甘い叙情も
引き留めることができないから
更地をみつめて佇む自分は
もう想像力の嬰児でしかない
ただ、「更地をみつめる」で吐露された谷川さんのセンチメンタルな思いのように、心があるからこそ他から与えられた『コトバ』だけではなく、その人自身が感じたものから紡ぎ出された、その人だけの『言葉』もあることの素晴らしさも実感できて、それは谷川さんが逝去される前に書いた「感謝」に於いて、誰に対してかは分からないものの、それでも感謝の念が生まれるのだという、そこにこそ人間に心が生まれた理由があるのかもしれないと思わせる視点は、つい忘れがちでありながらとても大切なことで、まさに詩の幽霊なのだと感じられた。
「どうして信頼する女友達に」
どうして信頼する女友達に話しかけるように詩が書けないんだ
言いたいことがあるわけではなくて でも話し始めると
その友達が一瞬でも私を真顔で見てくれるような
そんな何気ない言葉が始まりでそれがいつの間にか
詩になってゆくのにも気づかないまま書き続け
六行目くらいで本当は詩を書くつもりだとわかって
その途端に言葉がどこかへ行ってしまう
昨日読んだシンボルスカの詩に胸が詰まった
この人間世界の全体が何行かの言葉に変わる奇跡を
何度か経験してその度にその事実を忘れ果てているが
記憶することができない言葉 あっという間にいなくなる言葉
それが詩ではないかと思うのは錯覚だろうか
分厚い詩集のページの上の活字に存在するはずの詩は
本当は詩の幽霊かもしれない
立ち上がっていつものようにコーヒーを淹れる
頼りない手足を使うのは不安を伴う快楽だ
詩を気にするのをとっくにやめているせいか
新聞紙面を占めている散文が意味を失って瑞々しい
短い線が寄り添って作り上げた形が集まって
人を支配するのが滑稽に思えてきたら
鳥獣戯画の兎と蛙に会いに行こう -
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ふと読みたくなって再読しました。
自分というものを強く持って生きたいと思わせてくれる作品が多かったです。
「自分の感受性くらい」
「椅りかからず」
「通らなければ」
とても励まされます。
「言いたくない言葉」は、言語化するのが難しいときに、そっと支えになってくれるような詩でした。
無理に言語化する必要はない、声や文章に表すとその想いがかえって色褪せてしまう。
胸の内にそっとしまっておくことがあってもいいのだと思わせてくれます。
「みずうみ」は、すごく静謐さを感じ、人間の理想の心を示しているようでした。
特に好きなのは、
「ぎらりと光るダイヤのような日」
です。
この世を去る時、自分が〈本当に生きた日>があまりにも少ないことに驚くだろう。
危機感を抱くとともに、それ以上に本当に生きたーと思える日を少しでも作ろうと前向きな気持ちにさせてくれました。 -
Posted by ブクログ
谷川さんとみゆきさん?と意外でしたが、お二人とも言葉を紡ぐお仕事をされていて、考えたら不思議ではありませんでした。
みゆきさんは大学の卒論で谷川さんをテーマにするほど、当時から強い関心を寄せていて、谷川さんは・・・みゆきさんに対してどういうお気持ちだったかはわかりませんが、
とにかくおふた入りの対談からから始まります。
このやり取りがおかしくて・・・
先生と小学生のようで、また散歩の途中で出会ったおじさんと少女のやり取りのようで、主に谷川さんがあれこれみゆきさんに質問されるんですが、その質問をのらりくらりかわしたり、う~んてじらしたり、そしてびっくりすることに谷川さんに対してみゆきさんはため口なんですね、ずっとではないですが。
対して谷川さんは敬語、笑えます。
日付を見るとみゆきさん20代でした、デビューしたて?
構えないというか、自然体というかその時から大物感出てます。
そんなみゆきさんをさからう様な、ちょっぴりお茶目な谷川さんもかわいいです。
そして終盤には2022年に行われた対談が載ってます。
食生活、健康法、加齢、死後のことなど、みゆきさんも年を重ねられて、相応の受け答えをされている(当たり前か)
お二人の過ごされてきた人生観がにじみ出てしみじみします。 -
Posted by ブクログ
本屋でなんとなく手に取って、最初の幼少期の真夏に感じた孤独を回想する文章や「深い夜」「樹」の美しさや胸がきゅーっとなるような切なさに惹かれて呼んでみることにした。
詩集を読むのは初めてだったけど、章ごとにまど・みちおさんの体験や感じたところを綴った文章が置かれていて、後ろにその内容がよく現れている詩を置くという構成ですごく読みやすかった。
まどさんの周りのものに対する平等な目線、自分も含めたあらゆる生き物や無生物が今この瞬間ここにあること、その意味を考えるのではなく、ひたすらにただ感じて言葉にしていく、その姿勢がすごいと思った。
わたしたちはあらゆるものに囲まれて生きているけど、日常では決して目を向けられない日々の一点に向ける眼差しが、少し恐ろしくもあり、不思議な気持ちになる。
以下印象に残った文章や詩
p.16
聴覚の例を思い出してみますと、たとえばニイニイゼミの声です。私はあれを幾度聴いたでしょう。夏の真昼の町じゅうが寝入っている静けさの中で、あれはひとり覚めている私の耳のためだけのように響きつづけました。その静けさを計る時間の流れそのものとなって。しかもそれはただら平らにではなくて、休みなく昇り下りを繰り返しました。それが昇りに昇り、身も世もなく昇りつめて危うく躱し下降し始めるあたりでは、わたしは身も世もないように切なくなりました。
p.21
深い夜
あばらに手を置けば
深い夜である
生きて
年齢をもち形をもち血さえ流れている自分である
あばらの数は
ひとつひとつ深い夜である
生きて
しみじみと女でない自分である
あばらの中のかけそさは男の
深い夜であるのか
生きて
限りなく他の人でない自分である
p.23
樹は土に立っている
樹はそこから歩かない
樹は空へ向いている
土がにじんだのであろうか
その幹の色と匂い
空がしみたのであろうか
その新芽の色と匂い
きっとその根は土になってる
そして枝先は空に溶けてる
樹は土のように静かだ
樹は空のように明るい
樹は樹で生きている
p.80
他の生物たちのは、腹がすいた時にだけ食糧として他の生命を自分の中に取り入れるのであって、全生物共存共栄の原則にのっとっている。だが人間のは、腹がへろうがへるまいが、その尽きる所をしらない快楽の追求を目的に、ありとあらゆる生命を大量に殺戮しているのだ。そしてその長い殺戮の歴史が習い性となって、今やすべての人間がこれという理由もなしに「生きている物」を見れば殺してしまいたくなっているのだ。
そこで私たちは、私たちが持たされているこのどうしようもない性に対して、無意識に自責の念を抱いているのではないだろうか。つまり空をとぶ鳥を見送るとき、車窓を走りすぎる野の草の花々を見送るとき、むこうは知らないのに私たちだけが彼らをいとおしく思うという胸の痛みを堪えなくてはならないのは、結局私たちの無意識的なささやかな罪の償いなのではななかろうか。
p.84
カ
あるひとが
ふとあるひ
手にした ほんの
とある ページを ひるくと
ある ぎょうの
とある かつじを ひとつ
うえきばちに して
カよ
おまえは そこで
花に なって
さいている
そんなに かすかな ところで
しんだ じぶんを
じぶんで とむらって・・・
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ネタバレ貴重な、一冊。
1980年10月、谷川俊太郎氏の仕事部屋での対話と、42年後の2022年7月、の新たなる対話。このふたつを読み較べるだけでも価値がある。どこか噛みあわないところもあった40年前。時を経て、それが、どうなるか。
魂の存在について、信じられるとする中島みゆきに対し、当時、谷川は「非科学的な人」とばっさり。詩人にしては意外な印象を受けた。
が、40年経った対談では、「今は、ぼくも完全に魂があると思ってるわけ」と谷川は語る。「それが一番大きな変化でしたね」とも。
これは、その過ごした時間が、どの年代での40年間だったかの違いもあるか。最晩年の谷川の死生観でもあるだろう。
一方、中島みゆきのほうは、自分を曝け出さない、どこか相手をけむに巻くような会話が、相変わらずという印象も受けた。
「あたし、あんまり許容範囲が広くないんだろうな」と言っていた40年前と違って、なにか新たに受け容れた価値観はあったのだろうか。それはまた、彼女の最晩年に、作品の詞となって現れるのかもしれない。
そんな時をまたぐ対話の挟んで、互いが互いについて語った文章や、詩人としての両者の作品が交互に並ぶ章は読み甲斐もあって楽しめる。メロディに乗っている詞、というかメロディの制約を受けている詞より、純粋に詩のほうが、つまり、谷川の作品のほうが、やはり、いいと感じるのはやむ無しだろうな。
概して、谷川が中島みゆきを解析していく文章が読み応えがある。自分を隠そうとする中島の本性を見抜いてか、その表面的な人物像と、心の中の本性との差を、「うそとほんと」と題して、どちらにも、いや、どちらでもないという形で分析しているのが流石だ。
そんな言葉の巨人を、中島みゆきは、一方的に憧れの対象として語るしかないのも、これもやむ無しだろう。
“「何かを諦めることで世界がより正確に見える」っていうふうに、いまは思うようになってますね。”
と語る最晩年の谷川の言葉は、これから老境を迎える自分にも響く。歳をとることも、楽しみになってくる、励みとなる言葉だ。 -
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谷川俊太郎さんと内藤里永子の詩遊びの詩集ですね。
内藤里永子さんは、詩を書きはじめて一年ほどしての試みだそうですが、エミリー・ディキンソンやターシャ・デューダーの訳でお馴染みですね。
『詩遊びとは、声のことばを、たくさんの聴く耳に触れる、その触れ方の工夫なのでした。つどった聴く耳に声が喜びを伝えます。朗読詩と詩のあいまに、詩人の即興の、即妙のおしゃべりが
笑いさざめきの風の渦を生み出すのも、見えた
ひと夜でした。』と、ごあいさつで、内藤里永子が語られています。
お題は十一題です。
『芽生え』のお題で
「春に」 谷川俊太郎
この気もちはなんだろう
目に見えないエネルギーの流れが
大地からあしのうらを伝わって
ぼくの腹へ胸へそうしてのどへ
声にならないさけびとなってこみあげる
この気持ちはなんだろう
枝の先のふくらんだ新芽がこころをつつく
よろこびだ しかしかなしみでもある
いらだちだ しかもやすらぎがある
あこがれだ そしていかりがかくれている
心のダムにせきとめられ
よどみ渦まきせめぎあい
いまあふれようとする
この気持ちはなんだろう
あの空のあの青に手をひたしたい
まだ会ったことのないすべての人と
会ってみたい話してみたい
あしたとあさってが一度にくるといい
ぼくはもどかしい
地平線のかなたへと歩きつづけたい
そのくせこの草の上でじっとしていたい
大声でだれかを呼びたい
そのくせひとりで黙っていたい
この気持ちはなんだろう
「谷川俊太郎さんに」 内藤里永子
若者は遠くからやってきた、
一九五一年に。
(どのような遠くからという
携えたノートから星々がこぼれた)
星の詩の種子を持つものとしての
出現。
月日のまにまに
若者は
ノートを開いた。
はるかな星の詩の種子が
地表に舞う。
風に
種子は乗って、
地球の子らの
ひとりの
わたしの
心にも下りた。
心は嬉しく
受けた。
わたしは眺めるのです。
心に着床した種子を。
ある日、
芽生えはとてもみどり色。
よろこびに ふるえる
詩の葉っぱ。
『魂の記憶』のお題
「芝生」 谷川俊太郎
そして私はいつか
どこかから来て
不意にこの芝生の上に立っていた
なすべきことはすべて
私の細胞が記憶していた
だから私は人間の形をし
幸せについて語りさえしたのだ
「お日さま」 内藤里永子
空のお日さまはみんなの
お日さまなのに
不思議、
わたしに話かけるのです。
お日さまは話すときに
光の球体とは違う姿をして見せます。
空の、みんなのお日さまは
わたしに語りかけるのです。
あまりに旅立た話かけられて、
そのたびにわたしは若返って、
いまでは 古代の地球の上に立っています。
古代の土を踏んで、ひとりとひとり
身にまとうものもわずかに、
日の神さまにわたしは向き合っています。
とても楽しい『詩遊び』ですね。会場の雰囲気を内藤里永子さんが巻末に述べられています。
楽しい一夜の経験は、生涯の宝物になったことでしょうね。詩の朗読会と云うのを私は経験した事が無いので、内藤里永子さんの感想は、喜びと共感のシンフォニーでした(=^ェ^=)
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某所読書会課題図書: あまりにも多くの作品があるので、自分の人生の中での節目の年にどのような詩が作られていたかを辿ってみて次の作品を選んだ.小学1年生・1954年『生きる』1956年、中学1年生・1960年『悲しみは』1960年、高校1年生・1963年『除名』1964年、大学1年生・1966年『乞食』1968年、社会人1年生・1970年『平和』1971年、結婚・1977年、長男誕生1978年『帰郷』1979年、長女誕生・1981年『ほっとけ』1981年、次女誕生・1985年『たんぽぽのはなのさくたびに』1985年、退職・2010年『生まれたよぼく』2009年.特に『ほっとけ』の言葉の選択とリズムが面白かった.『ほっとけ」
いけはほっとけ こけははっとけ たけはきっとけ おけはおいとけ
つけはほっとけ ふけはとっとけ はけはほしとけ かけはまけとけ
ごけはほっとけ みけはかっとけ さけはさけとけ やけはやめとけ -
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谷川俊太郎さんと俵万智さんの対談を読んだので今度は谷川俊太郎さんの詩集から
「魂に触れる」
私も『アマデウス』という映画が好きで、何度も何度も繰り返し観た。サリエリの妬みもモーツァルトの音楽によって昇華される。モーツァルトの魂に触れて。クラリネット協奏曲のアダージョが死後の世界の平安へと誘う。
「音楽のように」
言葉で音楽を超えようとした作者が、音楽に限りなく憧れている。音楽には「心を空へ放す力」がある。哀しみを包み、洗い流す力もある。谷川俊太郎さんはそれをみごとに表現している。言葉の力で。
「なみだうた」
言葉で呼んでしまってはいけない感情を
「自分が隠れた大きな流れにひたされているような気持ち」と表現する谷川俊太郎さん。心の奥底にずっとずっとありつづけた哀しみや喜びの源泉。そこから湧きあがるものにひたされているような気持ちをかんたんな言葉で括ってはいけないのだ。そこからこぼれ落ちる気持ちを言葉にし続けていたのが谷川俊太郎さんなのだろう。
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購入済み
絵本詩集とあって購入して読んでみたらページも少なく丁度、値引きのタイミングで買えて良かった。昨年、谷川さんも亡くなられ彼の詩人としての詩集誌もこれから手にしたくて入門編として扉をたたいた。