谷川俊太郎のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
1975年のこと、創刊第一号の対話(対談)誌に掲載された、同い年の詩人・大岡信さんと谷川俊太郎さんによる、詩の誕生とはなにかから始まり、詩や言葉を探っていく話し合いです。
詩は、言葉が先にあってそこから想像が広がっていく形でできていくものなのか、それとも、言葉以前に精神面で感じていることがあり、それを言語化するという過程でできていくものなのか。この大きく二つのとらえ方から対話は始まっていきます。ちょっと興ざめなネタバレになってしまいますが、詩ができていくほんとうのものとしては、後者の、感性が先にあり言語化していくというものというとらえ方のほうにが対話の中で落ち着いていきます。ですが、言葉が言葉を呼ぶというテクニカルな方法のほうを否定しはしません。言葉先導の詩作は、それはそれでおもしろいものができあがり、一つの遊戯的な側面を持つものです。そういった詩作には、辞典を引いたり図鑑をめくったりしながら目に飛び込んだ言葉を組み合わせる、なんてやり方もあるようです。
そして、詩の誕生と対になるような連想で、詩の死についてもお二人は考えていきました。これも、大きく二つのとらえ方がなされています。ひとつは、「詩の社会的な死」で、もうひとつは「詩の個人的な死」。
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一篇の詩は、個人のなかで生きたり死んだりするけれども、その同じ詩が社会的性格を持っている。(p15・大岡氏による)
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「詩の社会的な死」、についてのところは、今の言葉でいえば「コモディティ化」と言っていいと思うんです。詩が社会的に響かなくなるのは、そのインパクトであった、詩が表現して外界へ放っているものが、社会の文脈の中に組み込まれてしまったからかもしれません。つまり、詩が放っていたものがある意味で社会をつくる構成因子のひとつになったから、詩として驚かなくなりその強さは感じられなくなった。そうとらえられるのではないか。
かたや、「詩の個人的な死」は、その個人の中に組み込まれて消費されたのではないか。消費とはなんだろう、と考えると、この場合イメージの消費ですから、「飽きた」というのはあるでしょう。また、この場合も社会的な場合に近い感覚で、個人の内に「組み込まれた」というのもあると思います。たとえば、ハニーデューメロンを知らなかった人がそれを知って手に入れ、眺めて匂いを嗅いで食べて、「こういう果物があるんだなあ!」と鮮烈な印象を覚えたとします。で、それを何度か繰り返せば、ハニーデューメロンの見た目や匂いや味を覚えてしまい、驚かなくなります。これは、その感覚を身体と頭で覚えたからであり、つまりハニーデューメロンをかなり消費したからだ、と言えるのではないでしょうか。
それでは、以下からは引用を。
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だから少なくとも自分にとって詩とは、人間に喜びを与えるものだということだけは、わりあいはっきりしている。その喜びというのは、単純にうれしいとかなんとかじゃなくて、もちろん非常に官能的なものまでくるみ込んだものなんだけれども。(p40・谷川氏)
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→まず、詩の読み方を自分なりにわかることが必要なのだけれど、高尚だとされるような西欧の詩集のものじゃなければ、わりかし素人読者であっても自分なりに読めて喜べるものって、一冊の詩集を手に取ればひとつふたつ以上は見つかるものなんじゃないかな、というのが僕の意見です。
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詩人というのは特別な存在で、家庭なんてものは捨てるべきであるといった考え方が主流だったけれども、家庭という日常性の中からでも十分に詩は汲みとれると僕は思っているんだ。日常生活をバカにすれば、それは無限にバカなものになるけれども、逆に日常生活のなかに詩のモメントを探れば、日常生活は無限に深化していく奥深さをもっているという感じなんだ。(p72・谷川氏)
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→これは詩や詩人に限らず、小説や小説家にも言えることでしょうね。もっというと、音楽や絵画などの表現、創作の分野でも大切に見つめられるべき部分ではないか。
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自分の中から言葉を生み出すのが詩の才能であると昔は思っていたけれども、このごろぜんぜんそうは思えない。詩の才能てのは、有限の語彙から何を選択するかという才能なんだ。自分が生む必要はない。選んでいけばいいんだ。選ぶということに、人間の経験とか成熟とかが実はかかわっていて、自分の詩と他人の詩の違いがあるとすれば、それは選択の違いだけだろう、という感じがとても強い。そのときの選択の基準というのは、僕にはカンとしか言いようがない。当っているか当っていないかという判断は、分析のしようがないようなものなんだな。(p98-99・谷川氏)
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→感性がまずあって、感じたものを言語化するというやり方からいえばそうだろうと思います。でもここでは才能ではないとされていますが、言葉から言葉を生むという方法で作られた詩には、おもしろい造語があって、やっぱりセンスや知性がその裏に潜んでいる感じがするものです。あと、選ぶことが創作のカギのように語られていますけれども、これ、経験からいうと、DTM(デスクトップミュージック)で曲作りををするときなんて特にそうでした。音色を「選び」、音の配置や長さを「選び」、ハーモニーをやっぱり「選んで」いくようにして作っていった自覚が、DTMをやっていた学生当時からありました。同時代に宇多田ヒカルさんも、やってることは選択なんだよ、みたいなことをご自分のSITEで書かれていたような覚えがあります。
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詩を待つ待ちかたを考えてみると、視覚的な待ちかたと聴覚的な待ちかたが、詩の必然としてあるのじゃないかな。イメージが言葉以前のものとして頭に浮かんでくる状態で言葉を待つ場合と、音楽的なリズムが言葉以前に自分のなかにある状態で言葉を待つ場合の、二つがあると思う。(p108・谷川氏)
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→続けて、聴覚的な待ちかたが現代においては貧しくなってしまった、とありました。なぜなら、現代詩は七五調を避けてきたからです。このあたりには、戦中の標語で使われたりしたことの反省や忌避、カウンターの感覚があったのではないでしょうか。また、この「視覚的」と「聴覚的」の二種類の待ちかたを自覚できると、表現の技術としての幅が広がるなあと思います。
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(「コップの詩」は)コップを正確に記述しようというのが出発点だけれども、最終的には、通常われわれがコップと呼び慣れているものを、コップじゃないものにしたいという欲求があるんだな。コップを正確に記述していく過程で、コップがコップ以外のものに変容してい欲しいという気持ち。(p116・谷川氏)
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→このコップの詩は本書に転載されています。読んでみると、いくつもの独特な切り口と、そのぐうっと肉薄した描写力によって、「よく見てるもんだわ!」と感嘆の息が漏れるほどのすごさがあって、さらにそうやって描写する作者の粘り強さも感じられる上に、詩自体とてもおもしろい。とくに描写力は、小説を書く人ならば負けたくないところですが、大勢の書き手が負けてしまうだろうほどです。
さて。コップがコップ以外のものに変容して欲しい、というところですが、これは解体とそれによる異化作用について言ってます。僕も僕なりの素人フィクション書きの技術として、解体とそれによる異化作用の技術は主要な武器として持っているので、この箇所を読んだら「あっ」と気づきます。
というところでした。ここではこれより先には進みませんが、後半部分もおもしろいのです。中世の歌合(うたあわせ)がかなりの丁々発止な会合だったことや、松尾芭蕉の群を抜いた才能とその厳しさと悲哀についてなどがあります。そこから知るのは、古来から磨かれた詩歌の技術とその作品って、そうとうの緊張感のなかでの厳しい競い合いのなかから生まれてきたっぽいということです。僕なんかはやっぱり現代人で、甘やかされた空気のなかで生きてきたようなところがあって、競争が嫌いですからね。まあ、競争が、他人の足を引っ張る、だとか、出し抜く、だとか、他者と協力しない、だとかいった性質のものばかりに成人するまで触れてきたからかもしれません。今一度、そういったところも見直したいな、と思いました。 -
Posted by ブクログ
ネタバレところどころに刺さる言葉が。そしてそこはかとないユーモアが。二人のお人柄なのでしょうか。
p93プレイデイさんの「幽霊って元気ですよね」に吹き出しました。しかしその理由(?)言われてみると確かに。
生きてる人間は日々起きてくるアレヤコレヤに対処するだけでだんだん一杯になって行き、余程のことでなければそんなにねちねちじっとりと恨んだり妬んだりを持続できなくなってくるように思います。特に年取ってきたら(笑)
何事にも体力がいるというのは本当に実感しかない今日この頃で。それどころじゃない、からそんなことどうでもいいになってくるというか。
p132谷川さん「生きる上で意味のない笑いがもしかすると訳ありの涙より強力である証」という言葉もこの一遍の中では流れるように読めてしまう一節ですが、なかなか大事な真理のような気がしてならない箇所です。
奥村門土さんという絵描きさんを知りませんでしたが本書で知ることができたのも良かった。上手い下手より感性で描いていると感じます。お若い人なのですね。
谷川さんの最後の詩に絶対的な個というようなものを感じます。孤独ともちょっと違う。孤独には感情が入る余地を感じますがこの詩には乾いたものを感じます。(ビールとか妻とかウェットを感じさせる言葉は出てきますが)
他人ではないのは自分だけ、というのは言葉にすれば当たり前なのだけど誰とも取替えのきかない、どんなに親しくても愛していても信頼していても成り代わることは不可能な絶対の一つと考えたらなかなか壮絶なものがあります。(かけがえのないという言葉はありますが、その言葉はここではウェットに感じられます)
アタマで意識することはあっても、実感としてそう感じることは日常ではなかなか稀なのではないでしょうか。日々そんなふうに感じていたら生きるのがしんどくなってしまいます。
この詩を読んで、谷川さんはまさに本書でいう「その世」へ向かいつつあるのかもと感じました。
トランスヒューマンなどという考え方が若い人の中に生まれているんですね。
驚きました。肉体が存在することの苦しみ、身に沁みるというよりは体に沈むと表すほうが馴染むと感じること、幽霊は足がないけどおばけは足があることなどの本書の考察(?)を通じて体がなくなって心と思考だけの存在になるというトランスヒューマンについて考えてみたけれども、自分にはとりとめなさすぎて想像できませんでした。
逆に死なないことの苦しみもあるのではと思いましたがどうしたっていつか死ぬ生身の私では想像できなかった。
自分の生きてる間には多分実現しないだろうなと安心して思考停止しようと思いました。
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Posted by ブクログ
本書は、「図書」連載「言葉のほとり」(2022年3月号~2023年8月号、岩波書店)に、奥村門土さん描きおろしの挿画を加えて書籍化した、谷川俊太郎さんとブレイディみかこさん、お二人の往復書簡を収録したものになります。
とは書いたものの、私、ブレイディみかこさんの著書を読むのは初めてで、タイトルはよくお見かけするから知っているのですが、中々、読んでみようという気にまでならなくて、本書については、猫丸さんのおすすめがあったことと、谷川さんと往復書簡するのだから、さぞ凄い方なのだろうなと思っていたら、その通りでした(笑)。
ということで、まずはブレイディさんについて、書いていこうと思いますが、何度も実感させられたのは、27年間英国生活をされている、ご自身の実体験に基づいた多種多様な知識や視野の広さで、それは『ブリティッシュ・ユーモア』から端を発した、世界に於ける、様々な表と裏が存在することの正常性であり、中でも私の心にいちばん刺さったのは、『正邪の双方あってこそ人間』のフレーズで、それは、お母さんを亡くされた彼女が、気分を変えるためのウィーン旅行で初めて知った、若かりし頃のヒトラーの面影からも感じられて、ヒトラーも生まれた瞬間からヒトラーでは無かったことを、何となく予想出来たのではなく、史実で知ることによって(ウィーン美術アカデミーでの、エゴン・シーレとは対照的な顛末)、初めて腑に落ちた、この説得力も伴ったスッキリ感が、なんかいいなと思わせる感覚に、改めて彼女が保育士をされていたことを実感いたしました。
また、それとは別に、今度は表と裏のような対照的ではあるけれども、それを問題視した彼女ならではの独自の考察も印象的で、それは、ドバイの実情から地球温暖化の未来へと思考を広げた結果、社会の貧富の差は『上と下』ではなく『内と外』に分かれるのかもといった点や、皮肉や風刺も感じさせる『忘れられない幽霊とすぐに忘れてしまう人間』、更には、『常軌と常机』といった言葉遊びの巧みさまで、そこには文筆業を生業としている彼女ならではの視点の面白さが、とても新鮮でした。
そして、谷川さんの詩が元となった、タイトルの『その世とこの世』について、この世は、まさに今生きている世界だけれども、その世に関して、谷川さんの詩の内容は勿論ですが、ブレイディさんの『音楽の「これだ」って感じる瞬間』や、『自分が本来いるべき場所っていうか、行ったこともないのになぜか知っている場所』に、特に共感を覚えて、音楽を聴いている時に、ふと感じる「これだ」感というのは不思議なもので、根拠も無いのに、なぜ「これだ」と思えるのか、おそらくそこには、この世ではない別の世界の入り口があって、一度入り込んでしまうと、そこから現実に帰りたくないと感じてしまう、なぜならば、そここそが自分が本来いるべき場所だからであり、しかも、なぜか知っている場所にもなり得る、そんな神秘的な要素が人間にはあるということが、不思議でありながらも魅力なんだと思わせた、それは谷川さんがよく仰られる、詩と音楽との密接な結びつきがあるからこそ、このタイトルなんだろうなとも感じられた、そこには、まるで世界の謎を一つ解いてくれたかのような、大きな歓びを感じました。
続きまして、谷川さんですが、ブレイディさんとはまた異なる広い視点の中にもあった、確固たる自己的存在感の印象が強く、それは、ディーリアスやビートルズを挙げながらの、『好き嫌いの判断を、知的な良し悪しの判断よりも信用している気配』での、その世への前触れとも思える感覚や、「漱石調」の詩の、『時に先立つものはと考えて そんなものは何であれ 言葉の上にしかないと思った』に於ける、言葉への多大な信用性を示しながら、未だ変わらず、それを拠り所にしているところに、彼の生涯現役の精神性が宿るのを感じながらも、後半の詩に見られた、日常のすぐ目の前にあるものをそのまま掬い取ったかのような、生々しくもあっさりとした臨場感には、老後の未知なる世界を垣間見たようでもあり、そこに却って、私は心強く感じられるものがありましたが、高橋源一郎さんの『ブレイディさんのお便りに、ちっとも応えていない』には、確かにと、私も思わず笑ってしまった親しみやすさも、さすがのお人柄だと感じました。
そんなお二人の対照性として、谷川さんが現場に擬えたものを掲載すると、谷川さんは『言葉にしかないような気がする』、ブレイディさんは『言葉の上だけでなく、具体的事実として存在している』がありますが、実は共通性も二つありまして、一つは『自分と他者を明確にされていること』、もう一つは『自然の成り行き任せ』といった、これまた対照的であるのが、人間の複雑さを表しているようで面白いですよね。
前者について、谷川さんは『自分以外は全て他人である』ことを、元奥さんにも感じ取ったことによって、一抹の寂しさも醸し出しているように思われたのが、私にとっては痛みとも思え、ブレイディさんは、母の介護で初めて、母であっても別の体をした人間に過ぎないことを実感させられたことから、『自分は他者じゃないという認識の基盤になると思う』へと辿り着いたことが印象的でした。
また後者について、谷川さんは、その年になって初めて体験することであっても、それが『自然の成り行き』に感じられた点に見られた、そこまでの長き人生の歩みを経ることで、ようやく訪れた人間の神々しさとも思え、ブレイディさんは、生きる為の原動力となっている言葉、『なんとかなる精神』で、一見、運任せのような言葉にも思えますが、彼女の場合、これまた実体験にとても説得力があり、その空港での二つのエピソードには、確かになんとかなるものだね、と驚かされた、実際にやろうとは中々思えない、逼迫感の伴った破天荒ぶりも魅力と感じ、このように対照的でありながら似通った共通点もある、お二人の往復書簡には、独自の視点による新たな世界の姿や、人生にとっての大切な一欠片を、そっと見せてくれた、まさにお手紙ならではのプライベート感がありながら、今の世界を生きていくために大切なこともたくさん教えてくれて、下手な自己啓発本よりも、きっと得るものが多いと思います。
それから、最後に奥村門土さんの絵については、本編の谷川さんの詩の世界を、独自のタッチで描いている点に惹き付けられて、「まどろみから」の、海とも宇宙とも見える魚たちの絵も印象的でしたが、「これ」の、老練さを感じさせるタッチには、この若さでこんな風に描けるんだなといった、ここにもあった、まるで『自然の成り行き』で、そうなりましたみたいな印象に驚いたと思ったら、もしかして、表紙のこれも・・・最初は写真だと思い込み、読んでいる間もそう思っていたのが、読み終えて、改めてよくよく見ると、なんと、これも絵だったことに仰天し、モンドくん凄いなーと、感嘆せずにはいられなかった、まさに三世代の異種表現コラボレーションでございました。 -
Posted by ブクログ
ネタバレページの余白や行間が多くとってあるため文量は少なく、かつ、非常に読みやすい日本語なので、サッと読める。
ブレイディさんが書いた手紙を谷川さんが受け取り、谷川さんは受け取った手紙の一部からとあるテーマへと話題が広がる返信&詩を送る。
それを受け取ってブレイディさんがまた別の話題へと展開する手紙を書く、といったやりとりで、往復書簡だけれども、明確に返事しあってないところが興味深い。
詩というものは私にはあいまいで、メッセージを伝えたいのか、情景を描いているのか、それとも気持ちの吐露なのか、よくわからない(谷川俊太郎さんは好き。PEANUTSの翻訳が最高)。
にも関わらず、この書籍を読んでいると、なぜだか心が落ち着く。
数ページ読むだけでも、心が落ち着く。
家事、双子育児、ささやかな仕事でバタバタしている私にとって、日々この数ページを読むことで、私の心を落ち着かせてくれたことに感謝。