◾️record memo
脳、という観点から見れば確かに、人間は、誰とも理解し合うことができない。残酷かもしれないが、これは事実だ。私が見ている赤という色が、相手が見ている赤という色と同じなのかどうか、そんなことさえ、誰にも証明することができない。
誰からも切り離された状態で、絶望的な孤独を感じているとき、その孤独な存在ごと、孤独なまま共有できるような人が目の前に現れたとしたら。多分、その人の手を振り払うことができる人はいないのではないか。
自分の愛している相手の生殺与奪権を握っているという感覚の中毒性は、相手が死んでもなお自らの異常性に気づくことができなくなるほどおそろしい、ということになるだろうか。
その人の「そういうところ」が許容し難いなら、最初からそういうところのない人を探すべきであって、その人を選んで付き合った自分の見込み違いを反省してさっさと損切りするか、または受容するという選択肢しかない。その人を変えるのはその人であって、自分ではない。
恐ろしいのは、こうしたリスクを検出する不安感情の機能が、自分自身の存在意義や内面に対して発動してしまうときだ。人間の脳は自動的に、自身の周りにネガティブな状況を構築してしまう性質を備えている。
第三者から見れば、自分は人が羨むほどではなくとも、特に不自由のない生活を送っているかもしれない。しかし実情は、満たされない。孤独だ。何かが足りない。何のために生きているのかわからない。私の内面は、空洞だ。生そのものが、ゆるやかだが完全な自殺のプロセスであるかのように思える。
不安感情は、本当は存在しないこの地獄を、脳の中に構築してしまう。私はいまもずっと、それに悩まされている。生きることそのものが、消化試合のように感じられてしまう。
この空洞は自力で埋められるようなものではなく、それを利用しようと近づいてくる人に対する防御法もない。救いようがないと思われるかもしれないが、解決される性質の問題ではない、ということを知っておくのは、悪くないだろう。これは生理的に存在する、進化的な意味のある不安で、生物として、なくてはならない空洞と孤独なのだということを。
気づいてしまったら、それを抱えて生きるしかなく、誰もそれを助けることもできない。人間は最後は一人で死ぬ。地獄を抱えて生き延びろ、と言うしか、私にはアドバイスができない。
ただ、不安と戦わない、という方法もある。目を逸らしておく、という戦略はとても有効なものだ。忘れるとか、勘違いするとか、幻想を抱く、ということができるのは、人間にとっての福音なのかもしれない。論理的に考えれば共有できるはずもない感覚を、誰かと共有していると一瞬でも思えることがあったら、それが幸せというべきものだろう。おいしいものを食べて、別々の味をきっと感じているのに違いないけれど、おいしいね、と言い合えること。それは、とても幸せな刹那ではないだろうか。
存在論的な不安は根本的には死によって解消される。しかし、生きていることで感じられる、ちょっとした刹那の幸福の連鎖を味わい続けることが、もしかしたら、生きるということの意味なのかもしれない。
選択する、ということは、選択した以外の選択肢をすべて捨て去る、ということだ。つまり、選択肢が多ければ多いほど、後悔も大きくなるという帰結が待っているのである。
しかし、選択肢を誰かに選んでもらえば、この後悔を自ら負わずに済む。選択した誰かのせいにすることができる。すべての選択肢が正解、といわれると、この先、結果として現れてくる事象のすべてが私の選択と行動の責任である、といわれているような気がしてしまう人も多いだろう。
一般に、騙されやすくなっているとき、その人の「メタ認知」能力は下がっている。
メタ認知とは、簡単にいうと「自分自身を俯瞰で見る」脳の機能である。この機能が十分に働いていれば、中立だろうが偏っていようが、自分にとって不都合な情報も適切に取り入れることができるはずである。これは、自分を客観視して、「人間とは、そもそも騙されやすい生き物だ」ということを理解する能力、と言い換えてもよい。
弱り目に祟り目、という言葉がある。気弱になっている時の脳は自分自身の計算よりも、他者からの不確かな情報を優先しやすい。つまり、騙されやすい状態にある。自分は弱っている、という自覚のある人は、特に気をつけてほしいところだ。
高学歴の人についてもう少し言及すると、その中には、受験という限定的な場面でプレゼンスを発揮しただけのことを、なぜか「他のことにも才能を発揮できる」と無意識に拡大解釈しており、自己評価の過剰な高さが目立つ人も少なくない。
人は、「大きな体の人」が「大きな声」で「自信たっぷりに話す」ことで、いとも簡単にその人の話を信用してしまうことがわかっている。
人間は、かくもあいまいで騙されやすい存在なのだ。
アメリカの心理学者、フリッツ•ハイダーは、バランス理論という有名な心理学の理論を提唱している。これは、認知的均衡理論とも呼ばれる。人は他者との関係が不均衡になることを避けるように認知し、行動するという理論である。彼はこの理論の中で「人の確信というものは、その対象を考えるときに、常に独特の印象が必ず起こり、しかも他者も自分と同じ考えであるという、その信念の強さによって形成される」と主張している。
これだけではわかりにくいかもしれないので、例を挙げて解説を試みることにすると、例えば、何かを心の中で映像化するとき、たいていはいつも同じイメージを思い浮かべるだろう。リンゴならリンゴのイメージ、美人なら美人のイメージ、正義なら正義のイメージといった具合である。自分の持ったイメージと同じイメージを、別の人も持っているはずだと、人間は勝手に錯覚しているのである。
そのイメージがいったん確信となってしまえば、変容することは考えにくく、覆すことは難しい。そのイメージ群が持つ微妙な差異によって、人は衝突したり、逆にその近接の中に深い共感を得たなどと錯覚して、快感を得たりもする。
こうして、人間は実際にはかなり限定的な情報をもとに、その小さな情報圏内で、確信的文脈を形成してしまう。なんとも残念な脳であるとも見える。
自分がすでに保持しているような心的イメージに類似したものが見出せさえすれば、それによって相手に対する好意的な評価をいとも簡単に下していってしまう。こうして、簡易的な処理が何層にも重なって一人歩きしたものが、社会通念であったり、ステレオタイプであったり、認知バイアスであったりする。これらが中立であるなどと果たしていえるだろうか?
簡便な処理を介して集合した特定的なイメージが、少しずつ固有の輝きと自律性をもって動き出してしまうのだ。そしていつのまにか、人はあらゆる対象に対して、それぞれに偏った確信を強めていくことになる。確信を持つことが、脳が使うリソースを節約し、自我を安心させるからだ。
シンプルな言葉でわかりやすく仕上がっているだけの、内容をよく読めば論理的には破綻しているでたらめな理屈を、「これこそが私たちの待ち望んでいたものだ」と、しばしば性急に、諸手を挙げて受け入れてしまう。思考停止させてくれる何者かを常に求め、それを「わかったこと」にしたがる。
各個体はその個体に適した(あるいは、都合の良い)ものの見方をするように自然に方向づけられている。そもそも中立とはいったいなんなのか、定義してみろと言われて正確かつクリアに定義できる人はどのくらいいるだろうか、とも思う。
条件付きで、社会性を獲得して以降ならば、各個体にできるだけ効用関数的に均等になるような分配の必要が生じ、これを巧みに裁定できる個体が好意的に見なされることから、中立(に見えること)の価値が上がる。その価値に乗ずる形で、リーダーシップという虚構が生まれ、さして根拠があるわけでもないがなぜかその個体は支持を集め、幻のような、けれども抗いがたい縦方向の社会構造の形成の一隅を成す重要な要因となる。
政治家やこれから政治家になろうとする誰かを見たとき、「この人を応援したい」と論理的な根拠無く思わされてしまうことがあるだろう。理由無く味方したい、この人についていきたい、という感じ。その気持ちを感じたら、これは、脳に仕掛けられた罠かもしれない、と一瞬立ち止まるくせをつけて欲しい。その人が正しいわけでもなんでもなく、ただ脳内麻薬を分泌させられているだけなのだから。
現代社会における一定数の国々では一夫一婦制が原則とされ、そのルールを守ることが倫理的に正しいとみなされている。しかし、人間の脳は一夫一婦制に完全対応してはいない。多夫多妻、一夫多妻、一妻多夫などの形態をとり得るし、離別、死別すれば再び別のパートナーを持つことが可能である。
厳格な一夫一婦制をとる動物ではそれが行われないので、比較するとヒトはかなり幅広い形態の性的関係を形成することができる種であるといえるだろう。
また「日本の女性は若く見える」というのは極めて頻回に指摘されるが、これは喜ぶべきこととは必ずしも言い切れず、憂慮すべき現象の裏返しではないかとさえ思うことがある。日本では女性が「若くて非力であること」≒「正しいあり方」とみなされる社会であることと無縁ではないように思われるからだ。
我々は誰しも、つい今しがたまで仲間であった誰かに対し、きっかけさえあれば皆で寄ってたかって私刑を加えずにはいられなくなるという、このような状態にいとも簡単に陥ってしまう性質を持っている、世にも恐ろしい生物種なのである。
正義中毒によって攻撃を加える行動を取ろうとする際の仮想的な対象は他人である。誰かに対して自分の正義を主張したり、他人に自分の正義を強要したりすることは、結局のところ誰かを縛る行為に他ならない。
そもそも他者、そして自分自身にも一貫性を求めること自体、不可能なことだ。人間である以上、言動に矛盾があるのは当たり前、過去の発言や振る舞いを覆してしまうことはむしろ自然なことと言える。今は絶対的な真実と信じていることであっても、いつかそれが間違いであったと考え直す日が来るかもしれない。
自分が気になったとしてもそれは所詮、他人の行動である。「よそ様の人生」にあえて踏み込むメリットはどこにもないのではないか。自分に直接的な被害が及ばない限り、たとえ何をしようとも、他人が指図したり、糾弾したりできるような権利は本来は誰にもないはずであろう。
この「どうでもいい」という感覚は、投げやりなように見えるかもしれない。けれど、他人に一貫性を求めず、社会を健全に保つためには、良い距離感を示唆する絶妙な指標となるのではないか。
タイプCの特徴は、自分のネガティブ感情に気づかない、という点にある。自分の痛みに、昔は気づくことができなかったけれども、大人になった今は気づくことができる。あのときは悲しかった、自分の感情を殺さなければならなくてつらかった、怒りをあらわにしてはいけなくてやるせなかった、何も知らず、何もできなかった。
自己犠牲的であることを課され、まじめに機械のようにそのとおり過ごさなければならなかった自分を、本当にかわいそうだったね、と今、あのときの分まで泣くことができるのは、とても幸せなことなのかもしれない。
時々は昔のことを思い出して、殺してしまってきた自分の感情を甦らせて、一人で頭を真っ白にして泣いてみるのもいいかもしれない。
クリアカットに問題解決することが本当に重要であるのなら、一般化された方程式があれば十分だ。ネットで知識を得てもいいし、問題をPCなりスマートフォンのアプリなりで整理し、対応にあたるだけで相当の部分は解決できる。誰かに相談するという行為のほうがむしろ、移動と説明に要する時間とコストを考えれば、無駄だという場合さえあるだろう。
念のため、こんな誤解をする人は読者の中にはいないとは思うが、別に「私なら一人で解決できる」とか「私は誰かに頼らなくてもほとんどの問題を解決できるほど頭がいい」だとか、そんなくだらないことを主張したいわけでも考えているわけでもない。
私が言いたいのは、多くの人が抱えている悩みとして重荷に感じているのは「解決できない問題」ではなく、「解決できない感情」だ、ということだ。
自信のない人は、世間の基準に合わせて自分を変え、その合致するところに称賛を得ようと躍起になってしまう。けれど、自信に溢れた人はその真逆かもしれない。自分の業を肯定している。己の醜さと闇を知って、それを愛する方法を知っているから、輝くことができるのではないか。
私に帰りたい日があるかどうか、その手紙をもらってから、しばしば思い返して考えてみることがある。記憶を保ったままもう一度やり直せるなら、やり直してみたい気持ちがないではない。けれど、その時はその時で必死であったことも確かで、もう一度同じように戦ってみろと言われたら、それはそれでしんどいなという気もする。
誰にでも、歩いていれば、躓いたり、真っ直ぐに歩けなかったりする時があるに違いない。そんな時に、大切な人に、私は何もすることが出来なかった。もし帰ることが許されるなら、彼女がその決断をする前の日に戻って、もう一度、あなたをそのままの姿で敬愛している者はたくさんいますよと説得し、どうか生きていてもらえないでしょうかと懇願してみたいと思うのだ。
また、ポジティブになるべきだと周囲に思われているという環境下では、却って人間はネガティブな感情を抱きやすくなってしまうことも明らかにされている。しかし、前向きでいられないのはその人の心の問題などではなく、苦しい時には前向きになれることの方がむしろおかしい。苦しい時には苦しくて当たり前だ。
表では清く正しく明るくあれと、言外のメッセージを受け取ってしまう分だけ、裏ではその澱を、どこにも零すことができなくなってしまう。そして、一人で抱え込んで、気づかないうちに溺れていくのだ。そうやって死んでいった人が過去にどれほどいたことだろう。私が助けられなかった、親しくしていたはずの大学時代の先輩にも、後輩にも、そんな人がいた。
本当に溺れている人は溺れているようには見えない。溺れる人は、静かに沈んでいく。これは比喩ではなくて、本当にそうなのだ。
溺れている人の本能的な反応は静かなもので、誰もが気づかないうちに、一人でいつの間にか沈んでいく。答えが返ってこなかったときに、命綱を投げてやることができれば、その人は助かったかもしれない。手の届かないところへ行ってしまった後で、こんなことをいくら嘆いても、仕方のないことではあるのだけれど。
友だちを作って無邪気に遊ぶ姿を見せることでもすれば大人たちは安心したのだろうが、労力をかけてまでそんなことをする気にもならず、あまり「良い子」ではなかった。自然に友だちができるとか、好きなものを好きと言うとかは、みんなにはできること。けれど、私には難しい。
子どもの頃は、いちごを食べるのが苦手だった。当時のいちごがすっぱくて、練乳をかけて食べなければ子どものおやつとしてはちょっと、というくらい糖度が高くなかったということもあるけれど、そもそもいちごの持つイメージが苦手だった。
赤い色、女の子らしいイメージ。「かわいい」の象徴とされるようなフォルムや色彩の持つ、王道を行く感じも苦手で、どこかで敬遠するような気持ちが抑えきれなかったことをよく覚えている。いちごのイメージと、自分のセルフイメージとがあまりにかけ離れていたからだろう。極端な言い方だけれど、私が食べてはいけない食べ物なのではないか、とさえ思っていた。
女の子扱いされることが嫌いだった。幼稚園の頃、大人になったらなりたいものに「およめさん」と書いた子を心底、軽蔑していた。子どもの思うことであるし、今はそういう風に考えることはないのでご容赦いただきたい。けれど当時の私にとっても、なぜ、そんな感情が自分に湧くのか、不思議で仕方なかったのだ。
問題に目を瞑って過ごすことができるほど器用でもなく、頭が悪くもなく、なぜ生きているだけで息苦しいのか、毎日毎日そんな閉塞感に襲われて、そこから抜け出すことができるのは本を読む時くらいだった。
そんな自分が後年、結婚することになったというのは驚きだが、結婚して12年が過ぎたいま思うことは、いかに血のつながりがあったとしても折り合いの悪い人とは距離を取り、自分の領域を尊重してくれる人と過ごすことがどれほど大事か、ということだ。
今はいちごも食べられるようになったし、いちごジャムも、アイスクリームのストロベリー味も食べられる。ただ、私はときどき、昔の感覚がフラッシュバック的に戻ってくることがあって、いちごの食べ放題といったところにはあまり行くことができない。
そういう、難しい自分の扱い方を教えてくれる人がいたというのは大きかった。自分にとって王道の何かを選んでよいのだ。自分は、自分のことをもっと大事にしてもいい。もう少し時間はかかるかもしれないが、これを何も考えず、自然にできるようになりたいものだと思う。
なんでも好きなものを選んでいいよ、と言われたときに何を選ぶかで、その子がどういう扱いを受けてきたかわかるよね、と友人が言った。この人も、親との折り合いが悪かった。まだ子どもの時分、あまりに理不尽な扱いに耐えかねて、母親を背中から刺したという。その後しばらくして、母親は自殺したそうだ。
私の話もしばしば聞いてもらうのだが、以前、母親に対する激しい憤りを露わにしてしまったとき、できるだけ距離を置くのがいいよ、自分が言えることはそれくらい……と俯いてしばらく黙り込んでしまったことが印象に残っている。
結婚相手から、メニュー表の一番安いほうから選ぶよね、って言われたんだよね、と友人は続けて言っていた。これって、その人がどういう扱いを子どものころに受けていたかに由来するんだと思う、親に迷惑をかけてはいけない、自分が負担だと思われてはいけない、と無意識に気を遣ってそういう風にするんだよね、と。
この振る舞いには、いわゆるアダルトチルドレン的な傾向が強く表れている。機能不全家庭において、子どもが犠牲を払わされ、健全な発達が阻害されて、ある類型をもった人格を身に着けてしまうという現象がしばしばみられる。大人になってからであっても、自分がそれに当てはまるものだと気づいて、何らかの形で癒すことができる状況にあるのならいいが、そうでない場合は苦しい。
周囲の人に恵まれているときはいいのだが、他人を操作するタイプの人に出会ったときにその標的とされて被害を受けやすい。自分の苦しさや痛みに目を瞑ることに慣れ過ぎているためにそれに鈍感で、搾取の構造を固められ、気づいた時にはもう遅いのだ。
自分を粗末に扱うことに慣らされ、搾取されることがあなたの存在意義だと教えられて、そこから逸脱することを許されてこなかった。私にも若いころはそんな部分があったかもしれない。誰がお金を出すのかとは関係なく、誰の顔色もうかがわず、メニューの一番安いほうから、ではなくて、自分の好きなものを自分に適切な量だけ選ぶ。たったこれだけのことが、できる人とできない人がいるのだ。
そして、その二者の間には大きな隔たりがある。自分を粗末に扱わない、という態度を身に着けることは難しい。けれど、それをひとたび身に着ければ、自分をリスクから遠ざけ、自分は大きな価値を持つものだと、自信をもって言うことができる。
どちらかといえば、というかむしろ明らかに、自分はかなり気難しい部類に属する人間であると思う。うっすらと馬鹿にされ続けながら維持しなければならないような、ベタベタと近過ぎる、毎日が同じ繰り返しを前提としているような閉塞的な関係は、自分に向いていない。その気難しさを許容してくれるような相手はめったに見つからないし、見つかったところで、それ以前の相性の問題もある。
気難しくしようと思ってしているのではなく、相手に合わせるためのやる気を出すことが不可能なのである。「この相手に合わせることによるメリットはコストに見合わない」と、勝手に脳が判断するわけだが、そう脳に判断されたらもう、それ以上のことはできなくなってしまう。私は無駄なことに労力を割くのが難しい。脳の体力がないのだ。そうしようとしてそうするわけではなく、そうする筋肉がもともと存在しない、というようなものだ。それほど、無理なのだ。
世の中には、一人でいるとストレスが溜まっていく人と、一人でいられないとストレスが溜まっていく人と、2種類の人がいるようだ。ちなみに私はどう考えても後者に分類されてしまうはずだ。
日本は空気を読むことを求められる国であり、誰かといると常に圧力を掛けられてストレスが掛かってくる環境でもある。それゆえに、意外に私と同じように感じて、一人でいることの方を好んでそうしている人は多いのではないかと、心ひそかに思っている。一人でいることは最高のリラクゼーションであり、極上の孤独は蜜の味がする。
ところで、孤独願望を強化する働きをもつホルモンは、男性ホルモンのテストステロンである。この値が高いと、他人から干渉されずに一人で過ごすことを好むようになると考えられている。女性でも、現代社会では、さまざまなストレスによりホルモンバランスが変化してオス化していく傾向が認められている。テストステロンは興奮状態になったり、集中力が高まったり、またイライラしている時など、感情が激しく変化する時に多く分泌されるともいわれる。コロナ禍が拍車をかけているとはいえ、現代はすでに、まさにおひとりさまの時代なのかもしれない。
多くの女性たちが仕事を持って自立し、さまざまな選択の自由を持つようになった。そういう時代ですら、あるいは、だからこそ、自分に対して呪いをかけるような声に悩まされるという現象がクローズアップされるようになったのかもしれない。
そして、その内なる声によって、命を絶ってしまう人がいる。誰に殺されるわけでもなく、自分の中の声によって、もう生きていけなくなってしまう人がいるのだ。
「毒親」という言葉は、ここ10年ほどで大きな注目を集めるようになってきた。「なぜ自分はこんな人間なのか」という疑問は、昔から誰もが抱えてきた問いだろう。
科学の時代が到来し、遺伝や、脳の発達過程における教育など、親の影響が大きいと皆、どこかで聞きかじりながら育ってきてもいる。そこで「自分の生きづらさは、親のせいではないのか」というマインドに誘導されやすくもなり、親子関係を見つめ直す人も増えている。だからこそ毒親問題がクローズアップされているという現状ももちろんあるだろう。
毒親問題というのは、端的に言って、答えが出ない問題なのだ。親がいくら変わったところで自分の内的体験としての深い傷が消え去るわけでもなく、逆に傷の痛みをどうにか処理する方法を覚えて暮らしていっても、些細なきっかけで「変わらない親」の姿を目の当たりにし、フラッシュバックのように悪夢の底に突き落とされてしまうこともある。こんな問題がずっと膠着したまま、時間が過ぎていくように感じてイヤになってしまう人もいるだろう。冷静かつ客観的に見てみれば、考えてもムダだし、非合理的極まりない。親の影響というけれど、たとえ親が死んでしまったとしても、自分の中に厳然と残っていくのだ。
「まともな人生」という呪縛をかけ続けてくる「内なる声」。そこから自分を解放するにはどうしていけばいいのだろう。とらわれてしまう時は、健全な自己肯定感を持てていない場合が多いだろう。まずは形からでも、自分を大事に扱う練習をすることだ。本当にそうしている人は、自分を大切に扱うくせがついていく。例えば、お茶を飲む時にお客さま用のカップを使うとか、誰にも会う予定がなくても「よそ行き」の服やジュエリーをつけるとか。自分はそれに見合う人間だと、自分に教えていくということを一番初めにやらなくてはならない。親がそうしてこなかった分だけ、自分が自分のことを掌中の珠のように大事にする習慣を身に着けることが必要だ。
自己卑下する思考回路は、あまり良い結果を生まない。親から刷り込まれてきただけでなく、社会からの刷り込みもある。毒親になってしまう親自身も、自尊感情は低かっただろう。やはりこれも社会によって傷つけられてきたからなのだろう。
時折目にする表現で、私もその感覚に近いものを感じることがあるが、まるで「女のコスプレ」をしているようなものだ。
家族になるというのは、その人の記号的価値だけをピックアップして選べばうまくいくかといえば、そんな単純なものではない。
互いの嫌なところ、弱いところ、それぞれの困った事情を、双方が引き受けられるだけの余裕と実力がなくては立ちゆかない。余裕と実力というのは、心理的余裕であったり、経済的な実力であったりする。これらがなければ、相手の弱さを助けるどころか、自分の弱さですら扱えずに互いに自滅して、結局、二人は相手に依存的に攻撃を繰り返し、傷つけ合う関係に疲れ果ててしまうことになるだろう。
互いの良いところを素敵だと認め合った瞬間が一度はあったのだろうに、それぞれの未熟さゆえに、互いを傷つけ合って終わるのだ。私はそんな関係をごく子どもの時代から身近にこれでもかというほど観察してきて、結婚というものは苦しい修行のようなものだと思ってすらいた。
結婚に向いている人がいる以上、向かない人もいる。それを多様性というのであって、どちらかが優れているというものではない。
けれど、論理的でも頭がよいでもない一部の人たちは、社会通念に頭を乗っ取られ、こうあるべきだと他人を追い詰める快楽にいつの間にか中毒してしまう。そんなジャンキーたちに奪われるほど、自分の人生は軽くないはずだと、多くの人が開き直ることができるといいと思うけれど。
しかし相手がある問題はそうはいかない。自分一人をかなりの精度でコントロールできる、思考の腕力とでも言うべき力の強い人なら、よりその「ままならなさ」に疲弊させられてしまうだろう。家族や恋人と言っても他人であり、どれほど愛して信頼していても、別の意思決定機構を持った個人なのだ。
現代の「急急如律令」に相当する呪いを払う方法はあるのだろうか。
呪いをかけようとしている人の悪意を感じ取った瞬間に影響がでる、というのはなぜなのか、という点にヒントがある。つまり、感じ取らなければいい。もしくは、感じ取っても受け流す術をマスターすればいい、ということになる。
例えばこんなやり方を提唱している人がいる。
自分の前に、強力な防弾ガラスがある、とイメージしてみる。その防弾ガラスはどんな悪意も跳ね返すことができる。あなたは、それによって完全に守られている。外で何が起こっているのか、外の人が何をしようとしているのかを、知ることはできる。しかし、その人たちがあなたに向かって発する感情や気分はあなたにぶつかってくることはない。防弾ガラスに当たって跳ね返ってしまう。その防弾ガラスのこちら側で、あなたの繊細な部分は傷つくことなく大事に守られている。
この発想で行くなら、筋の通った批判ですら特に受け入れる必要はない。よく人は、事実無根の中傷は回避できるという。しかし、歪んだ正義を盾にした「建設的な批判」こそが毒なのだ。あなたの心という城の主人はあなただけれど、その主導権を奪おうとして相手は躍起になっている。主導権を奪うためのギミックとしては、主人を不安がらせることが最も効果的である。筋の通った批判を特に受け入れたところであなたの在り方はさほど変わらない。むしろ、受け入れて動揺してしまうことによって、アウトプットの質が下がる可能性も大いにあるのなら、最初から受け入れずに、なかったものとして処理するほうがよほどシンプルで、無駄がない。
世界に数十億いる人々は互いに異なる思いを持ち、別々の世界を見ている。世界は誤解に満ちていて、その思いを完全に共有することは困難だ。残酷かもしれないが、それが現実だ。