ウィリアム・シェイクスピアのレビュー一覧
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Posted by ブクログ
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1623年に発刊された『ジュリアス・シーザー』
ウィリアム・シェイクスピア
イングランドの劇作家・詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、もっとも優れているとされる英文学の作家。また彼の残した膨大な著作は、初期近代英語の実態を知るうえでの貴重な言語学的資料ともなっている。
ジュリアス・シーザー
by シェイクスピア、大山敏子
この劇がちょうど十六世紀から十七世紀へ移り変わる時に書かれたということにわれわれは注目しなければならない。ロンドンに出て来たばかりの若いシェイクスピアが書き上げた『タイタス・アンドロニカス』や『リチャード三世』などと比較してみると、われわれはシェイクスピアが人間としても劇作家としても成長して来た あと をたどることができる。エリザベス朝の 華やかな英国から、世紀末、さらに十七世紀の英国へと、時代は移り変わり、 旧い世界観、自然観、人間観から新しい考えへの転換、新旧思想の対立、 相剋 などがみとめられ、『ジュリアス・シーザー』には、初期の劇にはみとめられなかったような懐疑や幻滅の気配もうかがわれる。『ハムレット』と共通な思考の形式や論理の展開の中にも、われわれはこの偉大な劇作家シェイクスピアが生きて来た時代を感じとることができる。
「彼がもう少し肥っていたら! だがわしは彼を恐れはしないぞ。しかし、かりにシーザーというわしの名前が何者か恐れることがあるなら、わしはあのやせこけたキャシアスほど、避けたい人間はほかにはないと思うのだ。彼は本を読みすぎる。それに彼はするどい観察者でもある。彼の目は人々の行為の底まで見通してしまう。彼は君とはちがって芝居などは好まんのだ、アントニー。彼は音楽など聞こうともしない。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「彼がもう少し肥っていたら! だがわしは彼を恐れはしないぞ。しかし、かりにシーザーというわしの名前が何者か恐れることがあるなら、わしはあのやせこけたキャシアスほど、避けたい人間はほかにはないと思うのだ。彼は本を読みすぎる。それに彼はするどい観察者でもある。彼の目は人々の行為の底まで見通してしまう。彼は君とはちがって芝居などは好まんのだ、アントニー。彼は音楽など聞こうともしない。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「わたしにだってできる。奴隷になっても、人間というものは、自分自身の手に自ら束縛をときはなつ力はもっているものなのだ。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「そうすることにしよう。われわれは杭につながれたも同然、多くの敵にとり囲まれ、ねらわれているのだ。ほほえんでいる者どもも、心の中には限りない悪意を持っていないとは限らないのだ。〔退場〕」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「いつもおぼえていてくれ、ルーシリアス、愛情が病気になり、くずれそうになる時には、わざとらしく、形式的な儀礼をよそおうものなのだ。率直で単純な信頼にはとりつくろうところはないのだが、不誠実な人間に限って、威勢よく駆けだす馬のように、見かけだけは勇敢な様子をし、さも勇気ありげに思われるが、しかし血なまぐさい戦いで、十分に働かなければならない時に、たて髪を垂れ、見かけだおしのやくざ馬のように、すぐに参ってしまうのだ。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「シェイクスピアはいかなる種類の劇を書く時にも、人間への強い興味と関心を示している。彼の初期の喜劇の技巧の中にも、いわゆるロマンティック・コメデイの中にもみられる彼の深い人間理解の態度は、『ジュリアス・シーザー』を契機として、新しい悲劇観に連なって行った。そしてプルタークの『英雄伝』は彼にとってまさに適切な素材であったし、主題や表現の面でも、シェイクスピアに多くのものを与えてくれたのである。シェイクスピアはこのような素材を用いて、彼の劇を創り上げたのであるが、彼は『ジュリアス・シーザー』の劇の中で何を描こうとしたのであろうか? その主題はシーザーの暗殺であり、ローマの内乱である。当時の人々がよく知っていた物語である。しかし、この劇は、このような史実や物語を単に劇化したものではない。シェイクスピア批評家のウィルソン・ナイトは言う、「この劇の単純さはただ表面だけの単純さである。厳密に分析してゆくと、この劇はその繊細さと複雑さを示すようになり、これがこの劇の解釈を困難にしてゆくのである」と。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「ところがこの悲劇の主人公シーザーは、この劇の前半において、ローマの指導者としてはおよそふさわしくないほど、欠点だらけ、弱点だらけの人間に描かれている。肉体的にも精神的にも欠陥だらけの人間であり、虚勢をはっても現実の伴わない人間、迷信に左右される弱い人間に描かれているシーザーは、高潔の士ブルータスとまことに対照的である。このようなシーザーに対するキャシアスの不満も、われわれには容易に納得できる。理想君主のイメージからはあまりにも遠いシーザーの姿がまずわれわれに強く印象づけられる。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「シェイクスピアは大学教育も受けなかったし、古典修辞学を学問として学んだこともなかった。しかし彼も時代の子であり、その豊かな想像力と言葉に対する大きな関心は、彼の作品の中で見事に示されている。ストラットフォードのグラマスクールで学んだであろう基礎的な修辞学の知識は、彼の才能とするどい感受性と、豊かな表現愛によって、彼の作品の中で、劇的効果を十分に発揮し、喜劇においても悲劇においても、劇の生命をになうものとなった。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「『ジュリアス・シーザー』を正しく理解するためには、われわれはその言葉に注目しなければならない。そして同時に、われわれは作者シェイクスピアの興味が、言葉にとどまってはいないことも知るのである。 この劇に対して単一的な解釈を与えることは無意味である。もちろん読者であり、観客であるわれわれはそれぞれ異なった解釈の態度や方向を持っている。しかしどのような角度からこの劇に近づいても、必ずわれわれは簡単に解決できない問題点に遭遇する。そしてそのような時、われわれはもう一度テクストに帰ることが必要である。そして、シェイクスピアの言葉の豊かさ、複雑な使い方を理解するようにしたい。そのような努力をした時、『ジュリアス・シーザー』のもつさまざまの問題点の意味は前より明らかになるであろう。そしてこの劇を契機として、さらに四大悲劇へと円熟して行った劇作家シェイクスピアの姿をそこに認めることができるであろう。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「『リチャード三世』はシェイクスピアの悲劇の中でもっともセネカ的のものであると言えよう。醜く生まれついた自分自身を呪い、「おれは悪党になってやる」と大見得を切ったグロスターは次々と悪事を重ねてゆく。自分の殺したエドワードの妻アンに巧みに求婚して成功し、甥たちを殺害して王位につく。自分の野心の達成と、自己の地位の安泰のためには手段を選ばないリチャードはやがてアンをも殺し、終始彼に忠実であったバッキンガムをも殺してしまう。彼はまさにマキァベリ的悪党である。野望は達したが彼は孤独、ついに追われる身となり、ボズワースの戦場に傷つき、「われに一頭の馬を持て、この王国を与えよう」と叫んで倒れる。セネカ風の悲劇の主題や技巧を鋭い感覚と表現の意識でとらえ、リチャードの人間性への配慮と関心も示しながらシェイクスピアはこの劇を書いている。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
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Posted by ブクログ
ここまで悲劇的な終幕が許されて良いものかと衝撃を覚えてしまった……
別に何もかもが運命の悪戯や悪魔的な采配による不幸ではない。それぞれに少しずつ罪が有ったり落ち度が有ったりする。しかし、だからといって罪を悔い改めて己を見つめ直せたかもしれない者や、心優しき者まで犠牲になる終幕は容赦が無さすぎて唖然とさせられる
歴史的には本作が上演される際にはハッピーエンドに改作されたものがお決まりだったらしいけど、それが頷けるくらいに本作からは救いや幸福感は容易には感じ取れない
では、何を本作は訴えてくるかといえば、人間は地獄と紙一重の世界で生きているのだと、それでもより良い人生を得る為に最良の未来へ手を伸ばす事を諦めてはならないのだという点かもしれない
まず、冒頭からして衝撃的
物語が始まってすぐにリア王が娘達へ領地の分割を行うのだけれど、その際におべっかを口にするゴネリルやリーガンに良い顔をして、偽りのない言葉を口下手ながら発したコーディリアを勘当してしまうという衝撃
道徳的な作品であれば、偽りを口にした長女・次女にいずれ天罰が下り、真実を口にしたコーディリアに幸福が訪れるものだろうけど、本作では三者等しく不遇の死を遂げる。それどころか、真実を見抜けなかったリア王とて長女・次女から放逐され非業の死へと突き進む事になるのだから理解を超えている
面白く映ったのはリア王や三姉妹に対する作中人物に対する評価かな
心にも無い偽りを口にしてリア王の好感を勝ち取ったゴネリルとリーガンだけれど、彼女らとて同様に心にも無い偽りを口にするエドマンドによって財力や権威を狙われている。そして、その果ては⋯
と、こちらについては判りやすい構図をしている。この者らに関する構成は最早道徳的と言ってすら良い。そのせいか、作中でも彼女らの死について冷淡な反応が取られているほど
対して、リア王に対する作中評価の変遷は本当に面白い
冒頭の引退宣言やコーディリアに纏わる言動はケントなどから猛批判され、娘達の館に逗留した際の横暴さなど真っ当に非難されている。これらの展開はリア王が道徳的に考えれば討ち果たされるべき悪と見る事が出来る
だというのに、娘に裏切られたリア王が荒野を彷徨う段になって評価は一変するね。実父に対してあのような非道を行うべきではないとか、忠臣としてお助けせねばとか
裏切れたショックにより狂気へと陥る老王の姿は確かに哀れに映る。此処まで来ると己の行いにより罰を受けていると感じ取る事すら難しい
そして、リア王への評価がそのように落ち着いてしまったからこそ、彼へ偽りのない愛情を向けていたコーディリアとの再会は希望溢れたものと感じられ、その分だけ二人に訪れた非業の死に対する衝撃が計り知れないものとなる
救われて欲しい者が救われず、報われて欲しい者が報われない。鑑賞者や読者の期待を裏切り残酷な結末へとひた走る本作の展開を納得できるものと感じる事は難しい
けれど、これによって本作を唾棄すべきもの、または認められるべきではない作品とも捉えられないのも事実。何故なら本作は真摯に絶望へと突き進んでいたのであって、読者の予想を裏切るべく衝撃的な結末を突如用意した訳では無いだろうから
本作は実社会に存在する地獄を真っ当に写し取ったのであって、作品そのものが誰かを裏切ってなど居ないとも言える。現実でも人が容易に陥る地獄を作中に用意し、罪の有る者も無い者も等しく地獄へと落ちてしまったというだけ
ただし、登場人物残らず地獄行きに成ったら、本作を見ても何の感慨も得られない。それ故に用意されているのが生き残った三人の共通項。忠心を持つ三人が生き残った者の責務として、また若い衆として何をなさねばならないのか
悲惨な物語であるからこそ、狂気とは全く異なる感情がラストに残された事に想いを馳せてしまう、そんな受け止め方の難しい名作でした -
Posted by ブクログ
『ハムレット』には、Q1、Q2、Fという3つのバージョンがある。通常『ハムレット』と言う時には、Q2かF、あるいはその折衷版。Q1は「海賊版」としてあつかわれてきた。
しかし、このQ1、登場人物や筋書きは通常版とほぼ同じなのに、驚くほど読みやすい。長さは通常版の半分強で、上演時間も2時間ほど。観劇するには最適な時間だ。すっきりしていてコンパクト、まさに着飾るまえの「素」の『ハムレット』ではないか。
Q1の出版は1603年。Q2は1604年か05年、Fは1623年。Q1は一番古いのだ。なのに、なぜ「海賊版」と言われてきたのか? オリジナルバージョンの可能性はないのか? 「解題」の担当は小林章夫先生。テンポのよい語り口でこのミステリーを解き明かしてくれる。
シェイクスピアは飾りが多くて難解と思っていた人(私がそうだが)には、目ウロコかも。 -
Posted by ブクログ
大学の原書購読の講義で読んださいは、この作品がローティーンの恋であることに注目するようにとの教授の言葉があったのを今でも覚えている。
現代から見ると説明的な台詞が多いように見受けられる理由は解説に詳しいが、解説に書かれていない点として、シェイクスピアの時代の演劇には女優が存在せず、変声期前の少年が女性役を演じていたことに触れておきたい。そうすると、ジュリエットの劇中年齢がわずか13歳であることは、同年くらいの少年が演じることを踏まえてのことであろうことは自然なものに見えてくる。
シェイクスピアの時代は英語の激変期であり、現代英語とは大きくなることに加えて、詩や洒落、地口を多用して多重化された意味世界を構築する作者の天才のおかげで、読者泣かせの文学ではある。逆に言えばそこが翻訳家の腕の見せどころでもあるわけで、この新訳も読みやすく、韻や言葉遊びを上手くこなした訳になっている。 -
Posted by ブクログ
ハムレット観劇のために。ハムレットはちゃんと読んだことがなかった。オフィーリアには憧れてきたけれど。
「いまの世のなかは関節がはずれている」
「ことば ことば ことば」
「このままでいいのか、いけないのか、それが問題だ」←生きるべきか死ぬべきかが有名ですが
これらのセリフもグッときますが、
ハムレットの魅力のすべてを表現したような…
「何を言う、俺は胡桃の殻に閉じ込められても、無限の宇宙を支配する王者だとおもっていられる」
とくに、母である王妃に対しての思いを独白する悩めるハムレットの何気ないひと言、
「すぐに(と言うだけなら簡単だ。)」
この短い台詞、舞台で確かめてまた胸にぐぐっと迫る。
「…言葉の刃は用いても、本物の剣は抜くまい。
舌と心があざむき合ってくれればいいのだが。
言葉でどんなに責め苛もうと、
それを行為に移すのは、この心が許しませんように。」
父が亡くなり2ヶ月足らずて、現王のクローディアスの妃となってしまった母をどうしても許せない息子の葛藤を言葉の中で苦悩するハムレットの姿につい、つい彼のことを庇護したくなってしまう。
オフィーリアにあんな酷いこと言った弱い男とわかっても…
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Posted by ブクログ
ネタバレ今年はシェイクスピア劇を観る機会に恵まれました。吉田鋼太郎さんや文学座の本格的なお芝居に。
そしてうん十年ぶりに読み返す楽しさ!
デズデモーナはムーア人の勇敢な将軍オセロと恋に落ち、元老院議員である父の反対を押し切って結婚する。
しかしオセロの忠実な部下イアーゴは、オセロへの嫉妬から、彼を欺き美しきデズデモーナと引き離そうと、彼女が不義(浮気)をはたらいていると思い込ませようと画策する。
このイアーゴの話術によって、愛する唯一の妻デズデモーナを信じられなくなってしまうオセロは
自ら破滅への道へ…
このオセロの破滅を 悲劇というのかしら?
は?!デズデモーナの悲劇じゃん!というのが私の感想。
しかし舞台を観ると、
女たちがとても美しくピュアに描かれていて、シェイクスピアってフェミニストだったのかしらと嬉しくなりました。逆に男たちは滑稽極まりない。
デズデモーナの身の回りの世話をしていた、裏切り者イアーゴの妻エミリアがとっても人間味があって素敵なのです。
シェイクスピアの人間観察眼、ほんとにすごいものがあったんだなぁ。
なんて鮮やかに可笑しく悲しく人の心を描くのか!
残りの人生、シェイクスピア観劇を趣味として生きていきたいと思うほどでした
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Posted by ブクログ
190P
初版発行: 1623年
ウィリアム・シェイクスピア
イングランドの劇作家・詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、もっとも優れているとされる英文学の作家。また彼の残した膨大な著作は、初期近代英語の実態を知るうえでの貴重な言語学的資料ともなっている。
マクベス
by シェイクスピア、大山俊一
【マクベス】 お前の顔は引っ込めろ。〔下僕退場〕 シートン! わしは気分が悪い。 あいつを見ていると……シートンはおらぬか? この一戦こそ 俺を永久に元気づけるか、それとも一挙に蹴落とすかだ。 俺はじゅうぶんに長生きをした。……俺の一生涯もすでに 凋落のとき、黄葉の時候に落ち込んでしまったのだ。 そして老年時代の伴侶として付き添うべきもの、 たとえば名誉、敬愛、服従、大勢の友人のごときは、 俺は持つことを期待してはならぬ。その代わりにあるものは、 数々の呪い……声にはなっていないが、根が深い、それに気の毒に、 家来どもの空世辞、追従……誰もがやめたくて、しかもやめられぬもの。 シートン!
〔若きシェイクスピアから巨匠へ〕 シェイクスピアが名作『マクベス』を書いたのはいつか、その的確な期日はわかっていない。しかし多くの最近のシェイクスピア学者たちが推測しているように、『マクベス』が最初に上演されたのはおそらくは一六〇六年八月と考えられるから、実際に書かれたのはその前年か、またはその年と考えてそう大きな誤りはないだろう。シェイクスピアが四十一か二歳のときである。十七世紀初頭の数年間、一六〇〇~六年はおそらくはシェイクスピアの劇作活動が最高潮に達した時期といえる。このあいだにシェイクスピアは『ハムレット』『オセロウ』『リア王』『マクベス』など、ふつう彼の四大悲劇と呼ばれている大作を次々に書いた。『マクベス』はこの中でも最後期の作品である。
マクベスはすでに何らかの形で王位を簒奪することを考えていたに相違ない。その悪の選択に対して魔女どもは誘惑の言葉、呪文を投げかけるのである。その点ではマクベスはすでに「汚ない」と言える。しかしそれだけで全部ではない。悪の選択をしたマクベスも、もし魔女どもの誘惑、マクベス夫人の誘惑がなかったら、彼の悪への芽ばえも萎えしぼんでしまっただろうとも言える。その点ではマクベスは「きれい」であるかもしれない。要するに初めて登場してくる主人公マクベスはリチャード三世の場合と違って、完全に「汚ない」悪党ではけっしてない。彼の性格はヒースの魔女どもを包んでいる「霧と汚れた空気」(一幕一場)同様、「きれいで汚ない」以外の何ものでもない。そしてそれから、この芝居全篇のドラマを通して、「汚ない」悪党の姿が徐々に形成され、展開されてゆくのである。『リチャード三世』ではわれわれ読者、観衆は主人公リチャードの悪党ぶりを外面からながめる。『マクベス』ではわれわれ自身も主人公マクベスの意識の世界に直接に入りこんで、その悲劇の苦悩をあいともに分かち合う。初期のシェイクスピアと悲劇時代の彼との違いが、ここにはっきりと浮き彫りにされている。
このことは後者の態度を精神分析学に置き換えれば、二つの態度はそっくりそのまま現在にも適用されるものであろう。現在では魔女は存在しない。しかし現在のわれわれにとって「魔がさす」という事態が依然として一つの事実であることが示しているように、マクベスの悲劇は常にわれわれの心の中に実在する一つの悲劇のパタンだと言える。同時代の哲学者ベイコンは魔女や亡霊の 跳梁 する「魅惑の鏡」を理性の光で払拭したかに見えたが、われわれは魔女から逃避することは永遠にできない。
魔女はこの「濃い」空気(霧、あらしなど)の中を箒などに乗って飛びまわり、自由に空中に「融けこむ」(身を隠す)ことができるが、これは彼女ら自身の力によるのではなく、いずれも悪魔の力によるものである。魔女は「使い魔」というものを従えている。「使い魔」はふつう猫、コウモリ、フクロウ、ヒキガエル、イモリなどの小動物で、主人たる魔女の命令を行なうものである。ジェイムズ一世などはこの「使い魔」が実は悪魔自身だと考えている。魔女は悪魔の奴隷であるが、その魔女の奴隷である「使い魔」となって魔女の行動を監視しているというのである。その場合には「使い魔」は実際には悪魔自身、魔女の主人である。