ウィリアム・シェイクスピアのレビュー一覧
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ネタバレハムレットは三訳目なのですが、拗らせたものでわたしはハムレットとホレイショーの友情物語だと思って読みました。オフィーリアも確かに悲劇のヒロインなんですが、初っ端の「なぜデンマークに」「いつものサボり癖が」「お前に限ってそれは無い」的なくだりからして二人の信頼関係透けて見えすぎ。そんな二人ですが死に別れ、ホレイショーも後追いを考えたものの「正しく歴史を語り継ぐ」使命を与えられて一人生き残る。ヒロインムーヴが凄い。このテーマだけで読書感想文10枚かける。解釈違い上等ですがこの二人の信頼関係だけで翻訳者ローラーする価値あるよなーと思って今後も読み漁る所存です。
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ネタバレ「4大悲劇」にも分類される、シェイクスピアの有名な戯曲。わたしは過去にもシェイクスピア作品をいくつか読んでいるが、本作はバツグンにおもしろく、ひょっとしたらベストかもしれない。内容はイアゴーの謀略によってオセローの人生が狂ってゆく話で、現代の感覚からしてもぜんぜん古びていない。だからこそいまだに世界各地で上演され続けているのだろう。一般的に本作のキイワードとしては「嫉妬」が挙げられるが、しかし登場人物たちの心情は、単なる「嫉妬」のひとことでは片付けられないところがあり、それこそがキモではないかと思う。オセローは被害者とはいえ、キャシオーの言葉を単純に受け容れてしまい最愛の人を信じてやれなかったという点で同情しがたいし、キャシオーも大悪人かといえば、夫婦仲が悪化していることなど人間臭い部分もあって、ひとつの像には単純には当てはめられない。作品じたいはさほど長くないが、会話のひとつひとつごとにその何倍も厚い感情が込められていて、やっぱりシェイクスピアは世界一の戯曲家であると思った。
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シェイクスピアといえば、泣く子も黙る世界最高峰の文学者の一人だが、「リア王」はその中でも四大悲劇の一つとして名高い。残りの三つはいうまでもなく、「ハムレット」「オセロウ」「マクベス」だ。
「リア王」は4大悲劇の最後を飾る作品で、黒澤明監督の「乱」では、日本の戦国時代を舞台に映画化された。
ストーリーは単純といえば単純だけれども、実際読んでみるとかなり複雑。シェイクスピアの作品はいずれも有名だからあらすじはなんとなく知っているような気がするけれども、いざ読んでみるとかなり込み入っていて波瀾万丈で、それがまたおもしろい。
この光文社古典新訳文庫の目的は、古典を現代の言葉で翻訳し直そうというものだから、「リア王」の翻訳も、もちろん読みやすい。読みやすすぎて、せっかくの「リア王」なんだからもうすこし格調高く、凝った文章でもいいんじゃないだろうかと言いたくなるぐらい読みやすい。原作のシェイスピアがもともと面白いんだから、そんなに読みやすかったら読み始めた途端、途中で止まらなくなるのはいうまでもない。
だが正直なところ、個人的な趣味でいえば、この安西訳よりも、最初に読んだ福田恒存訳の方が好みだ。当時はまだ、文章が難しすぎて内容をよく理解できていなかったかもしれないが。
両者の訳がどれだけ違うかというと、
(安西訳)
必要? 必要だと? ええい、必要など持ち出すな! どんなに卑しい乞食であろうと、いかに下らぬ者であっても、必要以上の物は必ず身につけておる。人間から必要以外の物をことごとく奪ってみろ、人間の命は獣同然。
(二幕四場)
(福田訳)
おお、必要を言うな! 如何に賤しい乞食でも、その取るに足らぬ持物の中に、何か余計な物を持っている。
自然が必要とする以外の物を禁じてみるがよい、人間の暮しは畜生同然のみじめなものとなろう。
うむ。あまり違わないような、違っているような。
ついでに、岩波文庫に収められている斎籐勇訳。
(斎籐勇訳)
おい、要不要の議論はいらん。極度に窮している乞食ですら、
極端につまらない物ながら何か余計な物を有っている。
人間が本来必要とする以上は授けられないとすれば、
人の一生がつまらないことは鳥獣と同然だ。
三つを較べてみると、個人的な印象としては、スピード感があるけれどもやや平易に流れすぎる安西訳、格調があってスピード感もある福田訳(でも漢字が多すぎ)、真面目に訳している風だけどおもしろみのない斎籐訳、というところかな。これだけで判断するのは大胆すぎるが。
こう見てくると、シェイクピアの原文はどうなっているか知りたくなる。
原文は、
O, reason not the need! Our basest beggars
Are in the poorest thing superfluous.
Allow not nature more than nature needs -
Man's life is cheap as beast's.
うむ。これは歯が立たない。上の飜訳あるから、かろうじて意味がとれるけれども。
ただ、斎籐訳は、原作の行にあわせて訳そうとしたものであることがわかる。そういうことをしてはたして意味があるかどうかはわからないけれども。(原書を勉強する学生には便利かも)
なかなかおもしろいので、もう少し比較を続ける。
上はリア王のセリフだったが、次はケントの言葉。
(安西訳)
悲惨のうちにあらざれば、奇蹟にあうこともあらずという。
(二幕二場)
(福田訳)
奇蹟に出遭うは窮しし者のみ。
(斎籐訳)
禍いを蒙らずには
奇蹟を見ることがまあない。
(Shakespeare)
Nothing almost sees miracles
But misery.
(先生! シェイクス君の英語は意味分かんないんですけど! 校長先生はシェイクス君はスゴイっていってますけど、ホントですかあ)
最後はエドガーのセリフ。
(安西訳)
忍耐を忘れたのかい? この世に来るのも引っ込むのも、人間の勝手にゃならぬ。時の熟すのを待つしかないんだ。
(五幕二場)
(福田訳)
人間、忍耐が肝腎、己れの都合でこの世を去る訳には行かない、こいつは出て来た時と同じ理窟さ、万事、木の実の熟して落ちるが如し。
(斎籐訳)
人間はこの世に出て来るのと同様、
世を去る時を辛抱して待っていなければなりません。
機の熟することが何よりもです。
(Shakespeare)
Men must endure
Their going hence even as their coming hither;
Ripeness is all.
シェイクスピアの原作は、散文ではなくて、韻文だった。通常の文章とは違うので、われわれには分かりにくい。
ただ、普通の英米人にとっても、わかりにくいのは同じではないかと思うのだが、どうだろうか。
学校でわれわれは古文とか漢文とか習うけれども、彼らの場合も、そういう勉強を通じて、古典作品が読めるようになっているのではないだろうか。
ということは、ひょっとしたら、われわれが学校でいくら習っても枕草子や源氏物語を個人的に読もうという気になれないのと同じで、一部の愛好者を除いては、シェイクスピアを実際読んでいる人は少ないのかもしれない。いくら日本の代表的文化だといっても、歌舞伎を実際見た日本人が少ないのと同様、シェイクスピアの劇も、むこうの人にはあまりなじみのないものかもしれない。
ただし英語の場合は、日本語に較べると、年数の経過による単語の綴りや意味の変化が少ないようなので、日本人が自国の古典に接するときよりも、まだ近づきやすいのかもしれないが。
シェイクスピアの作品は、残酷なときは非常に残酷で、五六年前にアンソニー・ホプキンス主演で公開された「タイタス」は、現代のホラー映画も仰天というぐらい恐怖と暴力に満ちた作品だった。
そんな彼の悲劇だから、人が死ぬこと死ぬこと。
こんな人間まで死んでしまうのかというぐらい登場人物が死んでしまう。タランティーノ監督も真っ青だ。これほど人を殺してしまうんだから、作品が悲劇と呼ばれてしまうのも当然だろう。死に方の安易なところは、ほとんど喜劇としか思えないところもあるが。だから、昔の映画やドラマなんかでもよく、登場人物が最後にばたばた死んでしまって、そんな御都合主義はないだろうと思うことがあるが、あれは作り手の想像力の欠如とか、番組を時間内で終わらせるための手抜きとかではなく、シェイクスピア以来の伝統ある作劇方法らしいのだ。
ただ違うところは、シェイクスピアの場合は、そこに至るまでの内容が非常に濃すぎて、それぞれの登場人物が担っている重荷の重さで、最後には物語世界そのものが吹き飛んでしまう、それが登場人物達の死となって結末するというところで、それでこそようやく観客は、この濃密な世界から解放されて、劇場の席を立って家路につける。そうでもしない限りかれの作品世界は観客の精神を縛って閉じこめたままにしてしまう、それほど強力で魅力的な世界なのだということだろう。 -
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池袋にて、舞台リチャード三世を観ての記録。本は未読。
自分が王になるために、周囲の人間を次々と冷酷無比に殺していく悪人を演じるのは、佐々木蔵之介。彼の見事な演技に心底圧倒された。
鍛え上げられた肉体、それを駆使した演技と台詞まわし。つい先日までNHKの朝ドラで見ていたシェフと同一人物とは思えないほどで、ここまで魅了されるとは思わなかった。
また、登場人物に複数の女性がいるにもかかわらず、実際に演じているのはほとんど男性というのも興味深い。何度も出てくる濃厚なキスシーンも当然男同士で、ドキドキした。
脚本、演出、美術等がルーマニア人という舞台は初めてだったが、一貫して退廃的で淫靡な大人の雰囲気が漂うシェークスピア、期待以上の満足感があった。役者も芸達者な人たちばかり、こういう舞台をもっと観たい。 -
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とても有名な作品だけど「シェイクスピアの四大悲劇」「デンマークの復讐劇」「to be or not ti be」ぐらいしか知らなかった。ので読みました。
こんなにたくさんの人が死ぬんだねぇ。死ななくてもいい人まで死んで、それがそのあとの伏線かなぁ、と思ったら、やっぱりそうで。セリフは詩的で難解。でも、クライマックスは圧巻ですね。
それにしても、なぜハムレットはちゃっちゃっと復習しないのかねぇ。絶好の機会もあるのにやらないもんなぁ。それなのに最後は一気呵成にことが進んで、そのスピード時間の差が印象的。
それにしてもオフィーリアはなぜ死ななくちゃいけないのか、よくわからないね。あれは自殺かな。事故死かな。 -
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『お気に召すまま』の流れをくむ、誤解が誤解を呼ぶ喜劇。
膠着した人間関係の中に、遠い異国の国から突如として流れ着いた不思議なひと。その正体は虚構で作り上げられた、実在するも実在しない逆説的存在。そんなひとの登場によって、イリリアのふたりに新たな風が巻き起こる。
誤解が誤解を呼び、目まぐるしいまでのことばの渦が沸き起こる。もうこれ以上いったら何もかも壊れて悲劇が訪れる。その瞬間に快刀乱麻、虚構の魔法が解かれてすべて喜びの世界が訪れる。
たった一瞬で悲劇が回避され、喜劇となる。喜劇と悲劇は同じものの裏表で、その思考から生まれるものなのだと知る。まさにwhat you will ということ。
解説というよりかは感想では、この十二夜について、キャスティングの難しい劇だと述べていた。見ての通り、この劇を成り立たせているのは、よく似た双子の兄妹という存在だからだ。実際にシェイクスピアが書き上げた当初、この劇がこの通りに上演されたかはわからない。しかし、おそらく、劇団はキャスティングに悩むことなく、劇は行われたものと思われる。
劇とはそれ自体が虚構である。だから、役者が実際にその役通りの人物かどうかは二の次の話である。たしかに、虚構をより見抜けぬように本物に限り無く似せるということは、観客に夢を与え、それがとけた時の効果は一層強いものとなる。しかし、観客は劇場にわざわざ足を運ぶのである。はじめから、虚構と知って劇を見るのである。したがって、どんなに本物に似せようが、似まいが、役・筋書きが確固たるものとしてあるのなら、関係ないのである。年齢や性別がどうであれ、役が演じられるのであれば、理論上関係ないはずだ。それが、本来の演劇ではないのか。
役がよく似た双子の兄妹ものであり、筋書きがふたりを取り違えるのであれば、実際に少年のような双子でなくても、そうなってしまうのが演劇の力だ。だからこそ、道化のような存在が常に傍らにいて、警鐘を鳴らしている。映像化でこの劇が失敗するのは、ひとえに役者とそれを役として受け入れぬ、観客の問題であると言える。