あらすじ
“おれはシーザーを愛さぬのではく、ローマを愛したのだ” 高潔な勇将ブルータスは、自らの政治の理想に忠実であろうとして、ローマの専制君主シーザーを元老院大広間で刺殺する。民衆はブルータスに拍手を送ったが、アントニーの民衆を巧みに誘導するブルータス大弾劾演説により形勢は逆転し、ブルータスはローマを追放される……。脈々と現代に生きる政治劇。
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Posted by ブクログ
227P
1623年に発刊された『ジュリアス・シーザー』
ウィリアム・シェイクスピア
イングランドの劇作家・詩人であり、イギリス・ルネサンス演劇を代表する人物でもある。卓越した人間観察眼からなる内面の心理描写により、もっとも優れているとされる英文学の作家。また彼の残した膨大な著作は、初期近代英語の実態を知るうえでの貴重な言語学的資料ともなっている。
ジュリアス・シーザー
by シェイクスピア、大山敏子
この劇がちょうど十六世紀から十七世紀へ移り変わる時に書かれたということにわれわれは注目しなければならない。ロンドンに出て来たばかりの若いシェイクスピアが書き上げた『タイタス・アンドロニカス』や『リチャード三世』などと比較してみると、われわれはシェイクスピアが人間としても劇作家としても成長して来た あと をたどることができる。エリザベス朝の 華やかな英国から、世紀末、さらに十七世紀の英国へと、時代は移り変わり、 旧い世界観、自然観、人間観から新しい考えへの転換、新旧思想の対立、 相剋 などがみとめられ、『ジュリアス・シーザー』には、初期の劇にはみとめられなかったような懐疑や幻滅の気配もうかがわれる。『ハムレット』と共通な思考の形式や論理の展開の中にも、われわれはこの偉大な劇作家シェイクスピアが生きて来た時代を感じとることができる。
「彼がもう少し肥っていたら! だがわしは彼を恐れはしないぞ。しかし、かりにシーザーというわしの名前が何者か恐れることがあるなら、わしはあのやせこけたキャシアスほど、避けたい人間はほかにはないと思うのだ。彼は本を読みすぎる。それに彼はするどい観察者でもある。彼の目は人々の行為の底まで見通してしまう。彼は君とはちがって芝居などは好まんのだ、アントニー。彼は音楽など聞こうともしない。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「彼がもう少し肥っていたら! だがわしは彼を恐れはしないぞ。しかし、かりにシーザーというわしの名前が何者か恐れることがあるなら、わしはあのやせこけたキャシアスほど、避けたい人間はほかにはないと思うのだ。彼は本を読みすぎる。それに彼はするどい観察者でもある。彼の目は人々の行為の底まで見通してしまう。彼は君とはちがって芝居などは好まんのだ、アントニー。彼は音楽など聞こうともしない。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「わたしにだってできる。奴隷になっても、人間というものは、自分自身の手に自ら束縛をときはなつ力はもっているものなのだ。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「そうすることにしよう。われわれは杭につながれたも同然、多くの敵にとり囲まれ、ねらわれているのだ。ほほえんでいる者どもも、心の中には限りない悪意を持っていないとは限らないのだ。〔退場〕」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「いつもおぼえていてくれ、ルーシリアス、愛情が病気になり、くずれそうになる時には、わざとらしく、形式的な儀礼をよそおうものなのだ。率直で単純な信頼にはとりつくろうところはないのだが、不誠実な人間に限って、威勢よく駆けだす馬のように、見かけだけは勇敢な様子をし、さも勇気ありげに思われるが、しかし血なまぐさい戦いで、十分に働かなければならない時に、たて髪を垂れ、見かけだおしのやくざ馬のように、すぐに参ってしまうのだ。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「シェイクスピアはいかなる種類の劇を書く時にも、人間への強い興味と関心を示している。彼の初期の喜劇の技巧の中にも、いわゆるロマンティック・コメデイの中にもみられる彼の深い人間理解の態度は、『ジュリアス・シーザー』を契機として、新しい悲劇観に連なって行った。そしてプルタークの『英雄伝』は彼にとってまさに適切な素材であったし、主題や表現の面でも、シェイクスピアに多くのものを与えてくれたのである。シェイクスピアはこのような素材を用いて、彼の劇を創り上げたのであるが、彼は『ジュリアス・シーザー』の劇の中で何を描こうとしたのであろうか? その主題はシーザーの暗殺であり、ローマの内乱である。当時の人々がよく知っていた物語である。しかし、この劇は、このような史実や物語を単に劇化したものではない。シェイクスピア批評家のウィルソン・ナイトは言う、「この劇の単純さはただ表面だけの単純さである。厳密に分析してゆくと、この劇はその繊細さと複雑さを示すようになり、これがこの劇の解釈を困難にしてゆくのである」と。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「ところがこの悲劇の主人公シーザーは、この劇の前半において、ローマの指導者としてはおよそふさわしくないほど、欠点だらけ、弱点だらけの人間に描かれている。肉体的にも精神的にも欠陥だらけの人間であり、虚勢をはっても現実の伴わない人間、迷信に左右される弱い人間に描かれているシーザーは、高潔の士ブルータスとまことに対照的である。このようなシーザーに対するキャシアスの不満も、われわれには容易に納得できる。理想君主のイメージからはあまりにも遠いシーザーの姿がまずわれわれに強く印象づけられる。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「シェイクスピアは大学教育も受けなかったし、古典修辞学を学問として学んだこともなかった。しかし彼も時代の子であり、その豊かな想像力と言葉に対する大きな関心は、彼の作品の中で見事に示されている。ストラットフォードのグラマスクールで学んだであろう基礎的な修辞学の知識は、彼の才能とするどい感受性と、豊かな表現愛によって、彼の作品の中で、劇的効果を十分に発揮し、喜劇においても悲劇においても、劇の生命をになうものとなった。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「『ジュリアス・シーザー』を正しく理解するためには、われわれはその言葉に注目しなければならない。そして同時に、われわれは作者シェイクスピアの興味が、言葉にとどまってはいないことも知るのである。 この劇に対して単一的な解釈を与えることは無意味である。もちろん読者であり、観客であるわれわれはそれぞれ異なった解釈の態度や方向を持っている。しかしどのような角度からこの劇に近づいても、必ずわれわれは簡単に解決できない問題点に遭遇する。そしてそのような時、われわれはもう一度テクストに帰ることが必要である。そして、シェイクスピアの言葉の豊かさ、複雑な使い方を理解するようにしたい。そのような努力をした時、『ジュリアス・シーザー』のもつさまざまの問題点の意味は前より明らかになるであろう。そしてこの劇を契機として、さらに四大悲劇へと円熟して行った劇作家シェイクスピアの姿をそこに認めることができるであろう。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
「『リチャード三世』はシェイクスピアの悲劇の中でもっともセネカ的のものであると言えよう。醜く生まれついた自分自身を呪い、「おれは悪党になってやる」と大見得を切ったグロスターは次々と悪事を重ねてゆく。自分の殺したエドワードの妻アンに巧みに求婚して成功し、甥たちを殺害して王位につく。自分の野心の達成と、自己の地位の安泰のためには手段を選ばないリチャードはやがてアンをも殺し、終始彼に忠実であったバッキンガムをも殺してしまう。彼はまさにマキァベリ的悪党である。野望は達したが彼は孤独、ついに追われる身となり、ボズワースの戦場に傷つき、「われに一頭の馬を持て、この王国を与えよう」と叫んで倒れる。セネカ風の悲劇の主題や技巧を鋭い感覚と表現の意識でとらえ、リチャードの人間性への配慮と関心も示しながらシェイクスピアはこの劇を書いている。」
—『ジュリアス・シーザー』シェイクスピア著
Posted by ブクログ
「賽は投げられた」、「ルビコン川を渡る」、「来た、見た、勝った」、「ブルータス、お前もか」 これらを見てピンとくる方もおられると思います。 私自身、ジュリアス・シーザーという名ではピンと来なかったのですが、この人物のローマ式の本名はと言いますと、ガイウス・ユリウス・カエサルとなります。 『ジュリアス・シーザー』は私の中でも強烈な印象を残した作品でした。あらすじや背景を知ってから読むと最高に面白い作品でした。非常におすすめです。
Posted by ブクログ
「ブルータス、お前もか」
「賽は投げられた」
セリフが独り歩きしてしまっている作品。私もそのセリフしか知らなかったのだが、その背景をようやく知れた。
シェイクスピア四大悲劇前に執筆された政治悲劇で、大雑把に史実をなぞる展開になっているのでローマ史の勉強にもなるかも。
Posted by ブクログ
ローマの専制君主シーザーを殺害するブルータスたち。
しかし、アントニーが演説によって民衆の心をつかみ、ブルータスを追い詰めてゆく…
解説でも触れられていた、登場人物たちの交わす「愛情」や「友情」を楽しんで読んだ。
政治の話だし、権力争いの話だし、普通はもっとドロドロすると思うんだけど、びっくりするくらいに爽やか。
「ブルータス、お前もか!」は有名なセリフだけど、その直後のセリフが面白い。
みんな潔く死ぬから爽やかなのか、でも現実ではあんなに潔く死ねないよな…と思った。
Posted by ブクログ
「ブルータス、お前もか」で有名なカエサル暗殺。
タイトルはジュリアス・シーザーとなっているが、シーザーによる、ブルータスのための劇のように感じる。
『ハムレット』『マクベス』『オセロ―』『ロミオとジュリエット』など、シェイクスピアの悲劇はたくさんあるが、このジュリアス・シーザーはそれらとは一線を画する。
たしかに、役一人あたりの発言量は多い。それはどの悲劇でも大抵そうだ。だが、他の悲劇とは違って、ジュリアス・シーザーでは、すべての発言が重みをもって迫ってくる。歯切れのいい洒落や猥談は全くない。
そして、振る舞いによる対比が見られない。多くの悲劇では、身分が低い場合には、とことん猥雑な振る舞いで、悲劇に関わる人物の流麗さを際立たせていた。ところがそれがない。どの役も勇ましく、美しく、哀しい。
さらに、悲劇さも、偶然や神妙なものによってもたらされるのではなく、かなり人に密着して起こる。
シンプルなのに、でも他の作品にも劣らない、あふれるほどの悲劇。そんな感じ。
それにしても、ブルータスは、人間としてのシーザーを愛していたのではなく、ローマとしてのシーザーを愛していたのだと知る。キャスカをはじめとする、他の共謀者が人間シーザーを殺したのだとすれば、彼が殺したのは野心や独裁。
作戦からすれば、確かにブルータスのものは下等だ。だが、憎しみに駆られて殺したり、人民を盾に戦争をしたりということは、徳や正義を汚すことに他ならない。目先の生に囚われず、最も深遠なものを見つめていたのだから、彼の作戦は何よりも上等だ。
役割をすべて終えたからこそ、彼はその胸に剣を突き刺せた。見事なまでの幕引き。正義の人にもっともふさわしい最期であった。
Posted by ブクログ
悪人らしい悪人が誰もいないのに、国を守るという大義のために高潔の士が次々と死んでいく。現代に生きる者にはどうしてそうなってしまうのか分かりにくい。
シーザーが暗殺されたのは暴君だったからではなく、“暴君になるかもしれないから”。予防としての暗殺。どんな立派な人間をも変貌させうる権力の魔力。一人の人間へ権力が集中することへの恐怖。
その恐怖プラス、嫉妬も少なからずあったはず。一人の英雄が称賛されることへの不満は必ず出てくる。真面目なブルータスの心に芽生えたそのモヤモヤに、言葉巧みなキャシアスがつけこんだようにも見えた。
Posted by ブクログ
結局、善人などいないのだ。シーザー、ブルータス、アントニー、それぞれの信念は理屈が通っているのに、どこかに決定的な弱さがある。もし、シーザーが決然と王冠を退けていたら、ブルータスはキャシアスの唆しには乗らなかったろうし、また身内と政治を決然と分けていたら、ブルータスは暗殺に乗り出さなかっただろう。アントニーは弁舌の巧みさを押し隠して、民衆を煽動する。いずれ、勝者たる彼も敗者に転じる。強さの中の一点の弱さが人間の破滅を呼ぶ。
Posted by ブクログ
セリフが有名なシーザーの最期をはじめ、死を予期していないあっけない別れ、友情を確かめ合ったあとの爽やかな別れ、部下との信頼にあふれる別れなど、人と人とが別れるシーンが印象的な作品。
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「…いくらでも怒れ、その傲慢な心臓が裂けるまで。まあ、自分の奴隷どもでも相手に、その癇癪に猛り狂った姿を見せてやり、精々奴らを震え上がらせてやるのだな。この俺まで尻尾を巻かねばならぬと言うのか?…よしてくれ、貴様の腹の虫が吐いた毒汁ではないか、またその胃の腑に押しもどしてやるだけだ、それで貴様の腹が爛れて裂けようと、おれの知ったことか。…」
どは〜ブルータス。
Posted by ブクログ
イギリスの教科書で採用されるほど有名な悲劇作品。ローマ皇帝ジュリアス・シーザー(カエサル)を主人公とした作品で、多数の登場人物が現れる。物語は一貫して政治闘争が繰り広げられており、ゆえに多くの人物が死んでいくが、本作は四大悲劇とは性質が異なった悲劇作品である。解題で言及されているが、本作『ジュリアス・シーザー』は、上記四作品のような息抜きや笑いの場面が一切ない。その代わり、物語が終始生真面目で緊張感が続いてる。また中村保男による解説も秀逸。主人公とその敵であるブルータスいずれかの立場の視点から本作を読んでいくと、見方が180度変わる。ブルータスの悲劇的な描写は、理想主義の敗北を象徴しているらしい。
Posted by ブクログ
タイトルからの想像を裏切る構成が面白い!
読んでいて思ったこと。
シーザーは織田信長
ブルータスは明智光秀
アントニーは豊臣秀吉
オクタビアヌスは徳川家康
と設定かぶりがあるような気がした。
シーザーは暗殺されたから偉大な存在になったとも言えるのかもしれない!そんな史劇のカタルシスがなんともたまらない作品でした。
Posted by ブクログ
シーザーの勉強していたついでに初のシェイクスピア作品
どのセリフも格言チックで面白い
個人的に好きなのは
シーザーの「勇者にとって、死の経験は一度しかない」
ブルータスの「おおよそ人のなすことには潮時というものがある」
ブルータスとアントニーの演説を比べて、
具体的な事実で感情的に訴えることが民衆を扇動するうえで重要なのだなと。
Posted by ブクログ
四大悲劇(ハムレット、オセロ―、リア王、マクベス)執筆の直前に書かれた政治劇で、そのほぼ全てをプルタークの『伝記』から取っている。
英国では、知識人・エリートと呼ばれる人々はみなシェイクスピアを読んでいると言われるが、中でも、現在最も読まれているものは本作品であろうと言われ、教科書にも取り上げられているのだという。
本作品では、シーザーが絶命寸前に言った「お前もか、ブルータス?」の台詞があまりにも有名だが、クライマックスはむしろ、ブルータスがシーザーを暗殺した後、市民の前で、「おれはシーザーを愛さぬのではなく、ローマを愛したのである」と演説して市民を納得させた直後に、シーザーの腹心であったアントニーが壇上に上がり、巧みな弁舌で、「ブルータスは公明正大の士である」とくり返しながら、徐々に市民を味方につけ、遂に市民たちに暴動を起こさせる過程である。
欧米人は討論や演説が得意だというが、本作品のような良質な政治劇に親しむ習慣があることを考えれば、当然と言えよう。
四大悲劇とは趣の異なる、テンポのよいシェイクスピアの傑作である。
Posted by ブクログ
ドラマティックであることを求めるなら、シーザーがルビコン河を渡った瞬間か、あるいはブルータス等の一団に暗殺される場面を劇のクライマックスに選ぶだろう。タイトルからは、そうした劇を想像していたのだが、シェイクスピアはそんなに単純ではなかった。そもそも本編にはシーザーはほとんど登場することがない。その代わりにシェイクスピアは、これを見事な心理劇に仕上げて見せた。しかも、暗殺の3月15日を境に、それまではブルータスらの集団的な高揚を描き、それ以降は運命に対する戸惑いと、後悔とを実に鮮やかに描いて見せたのだ。
Posted by ブクログ
ずっとシーザーが主人公と思っていたが、ブルータスが主人公だった。
ブルータスは悪者と思っていたが、そそのかされたこともあって、仲間とシーザーを暗殺した。
など、読まなきゃ知らないことばかりだった。
シェイクスピアの本は、冗長だと思っていたが、読むにつれて、人物の心の動きが精緻に描かれているとおもうようになった。
古代ローマ人は、ローマ人であることに誇りを持っていた様子。
演劇もいつか見てみたい。
Posted by ブクログ
ブルータス そうなのだ、キャシアス、もちろん、おれはシーザーを深く愛してはいる……しかし、何か用があるのか、こうしてさっきからおれを放そうとせぬが? 何が言いたいのだ? もしそれが公のためになることなら、右の目には名誉を、左の目には死をさしだすがいい、おれはそれを二つながら平然と眺めよう。神々もお守りくださろう、このおれには名誉を愛する気もちの方が強いのだ、死にたいする恐怖よりも。
シーザー もっと肥っていてもらいたいものだな! いや、気にかけはせぬ。ただ、もしこのシーザーの名にとって気にかかる何者かがあるとすれば、まず誰よりも先に遠ざけねばならぬ人物が、あの痩せたキャシアスだ。あの男は本を読みすぎる。なんでもよく見える。人のすることが底の底まで見とおしだ。やつは芝居が嫌いだ、お前とは違うな、アントニー。音楽も聴こうとしない。めったに笑わぬ。たまに笑えば、それはまるでおのれを嘲るような、そしてうっかり笑いを洩らしたおのれの心をさげすむような、そんな笑いだ。ああいう男は自分より強大な人物を見ると、もうそれだけでおもしろくなくなる。だから、非常に危険だというのだ。いや、おれが言いたいのは、ただどういう人物が恐るべきかということだけだ、それをおれが恐れているということではない。いかなるときにも、おれはシーザーだからな。
キャスカ おれにも出来る。同様、どんな奴隷でも、おのれの手で囚れの境遇を打ち切る力はもっているはずだ。
キャシアス それなら、なぜシーザーを暴君にさせるのだ? かわいそうに! あの男だとて、すき好んで狼になりはしまい、ローマ人を挙げて羊の群と思いさえしなければな。獅子にもなるまい。ローマ人が牝鹿でなければな。人、もし大いなる火を急ぎ起こさんと欲せば、小なる藁しべをもって始めようという。ふん、ローマは炊きつけか、ただのがらくた、ぼろ屑か、シーザーのごときやくざな代物を照らしだすため、喜んで塵芥の役を演じようとは! 待て、悲しみが、ああ、貴様はおれをどこへ連れて行こうというのか? 今、おれがこうして話をしている男は、おそらく奴隷の境涯にいつまでも甘んじていよう気かもしれぬ。それなら、おれは自分の言葉に責任をとらなければなるまい。だが、覚悟は出来ている、わが身の危険など、もとより意に介しはしない。
ブルータス 正直に言って、シーザーという男、今日までおれは、奴が私情のために理性をしりぞけるのを見たことがない。それにしても、ありがちなことだ、身を低きに置くもの、所詮は若き野心が足を掛ける梯子のたぐい、高みに昇ろうとするものは、かならずそれに目をつける。が、この梯子、一度天辺を極めてしまえば、もう用はない、そしらぬ顔で背を向けて、目ははるか雲のかなたに預け、それまで登ってきた脚下の一段一段に蔑みの足蹴を食わせるのだ。その手をシーザーも使いかねない。それなら、その手を食わぬよう、機先を制するのだ。
キャシアス そして、われわれの決意を誓いあおう。
ブルータス いいや、誓いは要らぬ。民の心の動き、われらの心の痛み、時代の弊風、それでもまだ―それだけでは動機がたりぬと言うなら、今すぐやめてしまうがいい、みんな家へ帰って、いぎたなく眠りこけていたほうが、よほどましだ。
アントニー この私には才智もなければ、言葉もない、名も通ってはおらず、身ぶりよろしく人を惹きつける術も知らない、喋り方も不器用なら、説得力にも欠けている、聴き手の血を湧かせることなど思いもよらぬ。私はただありのままに話すだけだ。諸君自身が知っていることを告げ、諸君に向かって愛するシーザーの傷を、あの痛ましげに物言わぬ口を差し示し、かれらみずから私の代りに語りかけることを求めるのみ。もし私がブルータスであったら、そしてブルータスがアントニーだったら、おそらく諸君の心を奮いたたせ、このシーザーの無数の傷口に一つ一つ舌を与え、ローマの石すら立って乱を起こすほど、興奮の渦を巻き起こしたに相違ない。
ブルータス その言葉のとおりだ、熱い友情がさめてゆく過程というものは。よく覚えておくがいい、ルーシリアス、愛情というやつは、消え衰えかけると決ってわざとらしい儀礼を用いはじめるのだ。むきだしの素直な実意は細工を必要としない。が、不実な人間は、まあ、馬にたとえてみれば、駆けだしだけが調子よく、いかにも派手で、溢れんばかりの気力を見せるが、いざ決戦の場に臨み、厳しい血まみれの拍車に耐えねばならぬとなると、たわいなく頭を垂れて、いや、まったく見かけだおしの駄馬同然、肝腎のとき、つぶれてしまうのだ。
Posted by ブクログ
反逆者の中でブルータスだけが正義感のみで行動していた、という悲劇。ブルータスほどの人物なら、そんな事もすべて受け入れた上での行動だったのだろう。
Posted by ブクログ
ブルータスの生き方、考え方は私は好きです。
あまりに清潔すぎて他から反感を抱かれたりする事もあるでしょう。
ただ、結局、シーザーを殺してしまうのですね。
そこらへんを客観的に見れてとても良かったです。
Posted by ブクログ
「賽は投げられた」
「来た、見た、勝った」
「ブルータス、お前もか!」
さまざまな名セリフとともに歴史に散ったシーザーを暗殺したブルータスの話です。
Posted by ブクログ
演劇の台本調で書かれているため非常に読みづらかったが、中田敦彦のYouTube大学の世界史で「お前もか、ブルータス」の台詞を聞いてたから何とか読み切れた。
Posted by ブクログ
「ブルータス、お前もか」の背景をようやく知った。題名にかかわらず、シーザーは前半で殺害され、話はブルータスを中心に展開される。自由を求める革命家か、単なる謀反者と評されるのか。妻の死も絡んで翻弄される純粋なブルータスである。2020.8.16
Posted by ブクログ
ついあのフレーズを日常冗談で使う事が多々ありますが、原作を読んだことがなかったので読んでみました。意外にもシーザーさんが倒れるのが早く、フレーズも前半で出てきてしまったので、え、これからどうなるのという思いで読みました。てっきり、最後の最後にその台詞を呟き終わるものだと思っていたので。英雄になるはずが、言葉をひっくり返され追われる身となり、最後はシーザーのもとへ行ってしまうブルータスもちょっと利用された感で可哀想になりました。
Posted by ブクログ
悪政を働く権力者に、正義感あふれるもの達が反逆を起こすも、元権力者の身内に民衆を煽動され、正義感から行動したもの達が追いつめられてしまうというシンプルなストーリーで分かりやすい内容である。
正しいことを貫いたはずが、報われないという結末が悲しいが、潔く自決を選ぶ姿は日本の武士道を思わせる。
Posted by ブクログ
ローマ人はシーザーを神の如くあがめているが、見る目のある人々は、その先に見え始めた独裁者による圧政に脅威を感じ始めている。
キャシアス リアリスト 冷静 黒幕的政治家 潔い
ブルータス 慎重 高潔の士 それほど明晰ではない 心が広い どういう人なのかよく分からない 単純
シーザーの代わりにブルータスをあがめる シーザーに重用されないからブルータスの下につく シーザーへの嫉妬
トレボーニアス メテラス ケイアス・リゲーリアス キャスカ
政治の重要な決定を高潔の士、偉大な人物が下す事はほとんど無い。
アントニー シーザー側のキャシアス
ボナパルトを愛するが、ナポレオンは愛さない、ってことかな。
一般市民にはシーザーもブルータスも変わらない。崇拝できりゃなんでもいい。
暴君にはクーデターを。そして暴力にはそれ以上の暴力をもって報いられる。
愛情という奴は、消え衰えかけると決まってわざとらしい儀礼を用いはじめるのだ。」
ここで、マクベス夫妻を思い出した。
革命は、それを始めた人間のものではなく、終わらせた人間のものなのだ。
罪を犯す怖れがある、という理由で断罪してはいけなかったのだ。