五木寛之のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
以下、2008年12月に読み終えて、当時別サイトに寄せていたレビューです。
文庫になったのを見つけ、本日購入した。
先ほどまでCAFEで読みふけり、たまらずレビューを寄せている。
まず、冒頭の「百寺巡礼の旅のはじめに」から、私は強く引き込まれた。
人生を4つの時期に分けるという古いインドの考えに触れているのだが、
読んでいて心休まり、その冒頭部分は、
まるで寺院へ向かう参道のような役割を果たしているかのように思われた。
本書は決して本格的な仏教本ではなく、
純粋に寺や仏像を好きである私達のような普通の人間に、手にとりやすいものとなっている。
読むほどに寺の美しさが伝わり、仏像との出会いに憧れを持たせてくれる。
仏像の拝観にあたり、作者は、
「ただその前に立ち、ああ、ありがたいな、という気持ちで拝むことが一番だろう。
いま、この仏様に会えてよかった、・・・・・と素直に思えることのほうが大事なのではないだろうか。」と書いている。
それを読んで私も、「あぁ、私のような拝観の仕方でもいいんだ」と安心した。
私は寺という空間そのものが好きであり、仏像を前に感動するが、
仏学には疎いし、美術的な批判も全くの個人的好みでしてきたからだ。
長くなったが、兎に角、
本書は寺院を身近なものにさせ、私達の目線でその建築の美しさを教えてくれる。
そして、すぐにでもその寺を訪れたくなる一冊である。
そうそう。
個人的には第5章にもある、秋篠寺がお薦めの寺だ。
ここの伎芸天は女性らしい肢体と、優しい表情が実に美しい。 -
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北海道での短い織江との暮らしの後、信介と織江は北海道を後に上京する。織江はプロダクションに所属し、歌手を目指すことになる。信介は大学に戻る。大学に戻った信介は政治運動の団体に入り、筑豊を後にして以来、初めての充実感を感じるが、それも長くは続かず、盛り場のチンピラや水商売の女たちとの関りを深めていく。
主人公の伊吹信介は、「直情径行」型の人間という紹介のされ方を、物語の中でされている。その直情径行型人間像を強調するために、出身を九州、それも気性の激しい筑豊とされている。が、実際に物語で描かれている伊吹信介は、どちらかと言えば煮え切らない男だ。行動力はあるが、あれこれ悩み、なかなか腰が据わらない。また、物語とは言え、かなりなドジをしてしまう男でもあり、悩みは、実際の暮らし面での困難に変わっていく。
ただ、この巻の終わりあたりから、信介はやや破滅型の行動をし始めており、物語は少し違う展開を見せ始めるのではないか、という期待がある。 -
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今年になって、「青春の門」の文庫版を再読し始めた。2月に第1巻を読み、5月に第2巻。そして、今月になって、この第3巻を読んだ。
東京の大学に進学した主人公の伊吹信介は、誘われて、学生の劇団に加わり、北海道の函館に渡る。当時の多くの学生がそうだったのかは分からないが、劇団のメンバー達の多くは社会主義・共産主義の社会の実現を願っている。自分達の芝居の興行を行い、観に来てくれる人たちの反応を見ながら、大衆の、民衆の演劇を作り上げることを目指している。大学に通うエリートとしてではなく。
こういうことを書いても時代背景が異なるので分かりにくいと思う。昭和30年頃、大学進学率がまだ高くなく、大学生が社会のリーダー予備軍として見られていた時代の話である。おそらく作者の五木寛之は、そういった時代背景の中で実際に大学に通い、伊吹信介と同じように、自分が何者なのかということに悩んでいた経験があるのだろう。伊吹信介の煮え切らなさは、五木寛之の煮え切らなさなのだろう。 -
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寺を巡ってゆくエッセイとなれば、和辻哲郎「古寺巡礼」が有名だが、鬱々としたそれと比べて本シリーズはあっけらかんとかなり明るい。前書きを見れば、編集者と一緒に「モノローグをつづけ、語り、文章を書いた。そのすべてを記録し、肉声も、メモも、原稿も、まるごと集録して一冊の本が生まれた」とある。2年間で百寺を巡る企画なので、そういう形になったのだろう(あとで知ったが、もともとはテレビ番組で、これはその書籍化らしい)。旅ガイドにもなっているし、時々自分の人生も振り返っている。当然、京都で修行した仏教知識は全開である。旅の前後のお供本としては丁度良いものだろう。
私は全く別の感想を持った。
潤沢な資金を持たない一般人の我々ならば、こういう本を作るならば何年必要だろうか。例えば、「百の古墳巡礼」という企画ならば、昨今のブームを受けて成立するのではないか?(全国の古墳数は16万基なので、それでもほんの一部になる)マイナーな古墳にスポットを当てて、古墳の新たな面を照射する企画である。
書く人ならば、いないことはない。
もう30年以上、おそらく万は越していると思われる古墳巡りをしている方を知っている。平家蟹さんという方で「古墳のお部屋」というページを開設していて、道なき山の、痕跡しかないような古墳の全てを、一人で歩き通して写真を撮り、経度、緯度の座標を記入してきた人である。2度ほど古墳巡りを一緒にさせて貰ったことがあるが、これがどれほど凄く、全国の古墳ファンの役に立っているかは計り知れない(約99%の古墳はweb地図に記載など無いから)。平家蟹さんは一度訪れた古墳はほぼ真っ直ぐ迷いなく行くことができる。行って何をしているかというと、石室に入れるところは入ってしばらく恍惚に浸るのだそうだ。五木寛之のような「蘊蓄」は一つも語らないが、当然古墳に対する知識は半端ない。
何度か、本にしたらどうですか?と勧めたことはあるけれども、全然その気はなかった。
私が書くならば「百弥生遺跡巡礼」か‥‥。
全然売れそうもないな‥‥。 -
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今年の2月に第1巻を読んだのに続き、第2巻を読んだ。
主人公の伊吹信介は、大学入学のために、筑豊から東京に出て来る。初めての東京で、筑豊にはいないタイプの人たちと出会い、戸惑いながら大学生活を始める信介の姿を描いている。
この小説の年代は小説には書かれてはいない。ネットで調べると、信介が大学に入学したのは、昭和29年(1954年)であるという記述がいくつか見つかった。正確に昭和29年かどうかは別にして、おおよそ、それくらいの年代の話であろう。
信介が大学に入学したのは、私が生まれる前の話であるが、それでもモデルになっている大学は、私の母校であり、親しみを感じる。私自身も九州出身であり、大学に入学するために上京したのは信介と同じであり、信介の戸惑いが理解できる部分も多い。
「青春の門」を初めて読んだのは高校生の頃だと思う。記憶が曖昧であるが、読んだのは、この第2巻までだったと思う。第3巻以降は初読となり楽しみだ。 -
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1章「歓ぶ」では、『歓び上手』って素敵だな、思いましたし、3章「悲しむ」で『悲しいではないか』と明治のころの文学青年や政治青年らが挨拶を交わし議論する話では、日本が成熟していく過渡期の良き時代に思いを馳せ、アサガオ研究家の話で『アサガオの蕾は朝の光によって開くのではないらしいのです。逆に、それに先立つ夜の時間の冷たさと闇の深さが不可欠である』という報告に、詩的な感動を覚えたと言う著者の感性にこそ感銘を受けました。
7章「知る」では、柳宗悦の言葉『見テ 知リソ 知リテ ナ見ソ』ー見てから知るべきである、知ったのちに見ようとしない方がいい、は同感です。アートを見るとき、人と接するとき、先入観によらず自身がどう思うかを大切にしたいと常々思っているから。
最後の著者からのメッセージでこれは「人生論」ではなく生活していく上でのちょっとした「ヒント」ですと仰っておりましたが、生きて暮らしているだけですごい、とちっぽけな自分でも認めてもらえたような気持ちになれるいい本でした。 -
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「青春の門」は物語自体も長いが、非常に長い期間をかけて書かれている小説である。1969年、というから今から50年以上前に「週刊現代」で連載が始まっている。1970年に「第1部筑豊編」の単行本が発行された後、1980年の「第6部再起編」までは定期的に単行本の形で発行がなされている。その後、発行のペースがゆっくりとなり、1993年に「第7部挑戦編」、2016年に「第8部風雲編」、そして、2017年からは第9部に相当する「新・青春の門」の連載が書かれ、2019年に「新青春の門第9部漂流編」の単行本が刊行された。ネットで見ると、作者の五木寛之は、第10部の構想をインタビューで話しており、少なくとももう少し話は続くようである。
私は高校生の頃に読んだ記憶がある。何部まで読んだかは忘れたが、少なくとも、この第1部の筑豊編、および、大学生活を始めた第2部自立編は読んだ記憶がある。今回、私の方も40年以上ぶりに読んでみた。
私は筑豊ではないが九州出身である。私の故郷の方言と筑豊方言は異なる部分も多いが、そんなには遠くなく、懐かしく読んだ。本筑豊編では、主人公の伊吹信介の父親や母親の世代の登場人物には劇的なことが起こるが、信介自体には特に劇的なことは起こらない。思い切りの良い性格をしている反面、普通の若者の限界を超えるような経験はしていないし、それが物語として語られるわけでもない。しかし、それはそれで、「普通の」若者である大部分の人間にとって、ある種の共感を感じる部分もある。
劇的な、手に汗握るようなストーリーではないので、すぐにでも続くを読みたい、という類の本ではないが、第2巻以降も、ゆっくりと読み続けていきたいな、と思わせる物語だ。