【感想・ネタバレ】親鸞(しんらん) 完結篇(上) 【五木寛之ノベリスク】のレビュー

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Posted by ブクログ 2017年08月04日

だいぶ前に「親鸞」全三部作の第一部(青春編、上下)、第二部(激動編、上下)を読んでから、かなり時間をあけてようやく第三部(完結編、上)を読んだ。その間読みたい本が次から次へと出てきたためなのだか、今この完結編(上)を読んで、すぐに読まなかったことを後悔している。
青春編で親鸞の8歳から35歳までの京...続きを読むでの生い立ちと当時の社会風景、登場する色々な人物が親鸞と関わり影響することにわくわくした。そして激動編で越後から東国での36歳から61歳までの専修念仏説法の人生の物語に少しだれた。今回の完結編上巻は61歳にして再び京に戻り、新たな陰謀に巻き込まれる物語。青春編で登場した人物が90歳以上の高齢で登場し、大きな影響を及ぼすという物語で俄然面白くなる。
今でこそ浄土真宗は日本最多の門徒を有する仏教宗派だか、最初は異端の新興宗教で時代の例外なく弾圧されたことがわかる。そしていかにして闘い人々に支持されていったかという視点の物語ではないんだなとも思った。ミステリアスな謎から謎へと展開する歴史サスペンスであり、90年を経る因業の物語であるとわかった。
親鸞は好きな歴史的人物だが、何となく遠い存在の人物だったのが、どこか親しみを持った人物になったような気がする。
親鸞と長男善鸞との関係がどうなるのかも気がかりだが、覚蓮坊との闘いの行方、そして青春編から関わっているツブテの弥七や黒面法師も気になる。今回登場した竜夫人の存在感も気になる。完結編の下巻をこれからすぐに読もうと思う。そして青春編、激動編をもう一度読み直そうと思う。

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Posted by ブクログ 2016年06月02日

前回から3年近く?文庫になるのを待ってました(。。;)いやいや、懐かしいお名前が出てきて、親鸞が範宴と名乗っていたころのワクワク感が戻ってきました。
それにしてもみんな年をとりましたね。

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ネタバレ

Posted by ブクログ 2022年09月12日

やらかしたぁ〜(><)

シリーズ第2作となる激動篇を読み終え、そのまま本棚に手を伸ばしシリーズ最終となる完結篇の上巻にあたる本書を手にしたつもりでした...

何か少し話が飛んだなぁ...

なんて思いながら読み進め、ふと手を止めた時に...
!(◎_◎;)

上巻だと思い読み進めていたのはシリー...続きを読むズ最終巻となる完結篇の下巻‼︎

①本棚に収納する順番が間違えていた
②よく確認もせずに読み始めた
③なんとなく違和感を感じながらもすぐに物事の世界に没入していた

以上の理由から、大失態をやらかしてしまったのです...トホホ

気がついた後に慌てて本書を手にとり、先程読み終えました。

☆4つの理由にはそんな背景があり、決して本書の内容に不足がある訳ではありませんので(^人^)

さて、いよいよ完結篇です。

京に留まる親鸞もすでに80歳を過ぎました。

無知故に親鸞が何歳で浄土へ旅立たれたのかは存じませんが、医学が進歩した現代であっても80歳の男性といえば平均寿命よりも長生きで、まして西洋医学もなく、祈祷や薬草などに頼っていた時代に生きた人としては間違いなくその時は迫っているのでしょう。

親鸞の長男である善鸞をそそのかし、親鸞が人生を懸けて書き上げた「顕浄土真実教行証文類」を持ち出させた覚蓮坊。

東国より親鸞のもとへ戻った唯円、私財を投じ遵念寺を建立しようとする竜夫人、等々...

下巻を半分ほど先に読んでしまった私には、ようやく話が繋がってきましたが、複雑に絡み合った今生での縁。

絡まった糸をどう解し、その先に何が待ち受けているのか。

いよいよ完結です。



説明
内容紹介
東国から帰洛した親鸞に魔手が伸びる。専修念仏を憎悪する怪僧・覚蓮坊が、親鸞の長男・善鸞をそそのかし『教行信証』を奪おうとしたのだ。だが、その前に立ちはだかったのは、数奇な半生をたどり、宋の富商に身請けされたという謎の女借上、竜夫人だった。このふたりと、親鸞の因縁とは? 入魂の三部作、完結。
内容(「BOOK」データベースより)
東国から帰洛した親鸞に魔手が伸びる。専修念仏を憎悪する怪僧・覚蓮坊が、親鸞の長男・善鸞をそそのかし『教行信証』を奪おうとしたのだ。だが、その前に立ちはだかったのは、数奇な半生をたどり、宋の富商に身請けされたという謎の女借上、竜夫人だった。このふたりと、親鸞の因縁とは?入魂の三部作、完結。
著者について
五木 寛之
1932年福岡県生まれ。朝鮮半島より引き揚げたのち、早稲田大学露文科に学ぶ。PR誌編集者、作詞家、ルポライターなどを経て、66年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、67年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、76年『青春の門』(筑豊篇ほか)で吉川英治文学賞を受賞。81年より一時休筆して京都の龍谷大学に学んだが、のち文壇に復帰。2002年にはそれまでの執筆活動に対して菊池寛賞を、英語版『TARIKI』が2002年度ブック・オブ・ザ・イヤースピリチュアル部門を、04年には仏教伝道文化賞を、09年にはNHK放送文化賞を受賞する。2010年に刊行された本書は第64回毎日出版文化賞を受賞し、ベストセラーとなった。代表作に『戒厳令の夜』、『風の王国』、『風に吹かれて』、『百寺巡礼』(日本版 全十巻)など。小説のほか、音楽、美術、歴史、仏教など多岐にわたる活動が注目されている。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
五木/寛之
1932年福岡県生まれ。戦後朝鮮半島から引き揚げる。早稲田大学文学部ロシア文学科中退。’66年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、’67年『蒼ざめた馬を見よ』で第56回直木賞、’76年『青春の門』で吉川英治文学賞を受賞。’81年から龍谷大学の聴講生となり仏教史を学ぶ。ニューヨークで発売された『TARIKI』は2001年度「BOOK OF THE YEAR」(スピリチュアル部門銅賞)に選ばれた。また’02年度第50回菊池寛賞を、’09年にNHK放送文化賞を、’10年には長編小説『親鸞』で第64回毎日出版文化賞特別賞をそれぞれ受賞した(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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Posted by ブクログ 2020年07月30日

京都に行った親鸞は動かない。周りは因縁の相手も含めて動きはあるが、親鸞はじっとしている。そうこうしていると80歳になる。それでもまだ迷う。迷いは尽きないし、即答が出来ない質問も多い。単純な教えゆえ、満足行く整理が難しいのだろうか。生に執着する事もおかしいという整理もあるようだし。宗教は難しい。善鸞の...続きを読む嫁の涼は恐ろしい。

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ネタバレ

Posted by ブクログ 2016年07月18日

親鸞の最晩年。親鸞を取り巻く人々が主役でもある。
親鸞を中心に据えているものの、いろいろな怪しい人物も現れるエンターテイメント作品である。

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Posted by ブクログ 2016年06月03日

60越えて京に戻って来たところからスタート、かなり伝奇的になってきて面白くなって来た。実は親鸞=イーサン・ハントでもよかったんでは、と思うが親鸞=チャールズ・エグゼビアな感じです。親鸞自身は親鸞なままなんですが、回りが普通の人でなさすぎるのでミラクルな事に(あははは)。ものすごくおもろいです。

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Posted by ブクログ 2016年05月29日

他力本願とは何か?
非常に分かりづらく、法然、親鸞が生きていた当時から、誤解・曲解があり、京を中心とした西日本では布教が制限され、やむを得ず北関東を中心に東日本で布教活動をしていたことが描かれる。
特に「他力」についての、理解は難しく、悪行をなしても念仏すれば浄土にいけると理解されたりするが、作者は...続きを読む親鸞と唯円との会話で「他力本願とは何か?」「他力の本質」を表わそうとしている。

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Posted by ブクログ 2016年05月28日

親鸞のことを快く思わない者がいて、そこからの嫌がらせを受けるっていう、この物語に通底する流れは相変わらず。でも本巻は、身内の揉め事とかも絡ませてきたり、親子の葛藤が描かれたりもして、ちょっとバラエティ豊かな感じ。次でいよいよ完結だけど、どんな高みにたどり着くのか、結論が楽しみです。

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Posted by ブクログ 2018年10月10日

何となく今の感覚で読んでしまうけど、実は住む地が離れるというのは今生の別れを意味する時があるのか……。そして親鸞は遂に歎異抄へ!下巻が気になる!

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ネタバレ

Posted by ブクログ 2018年05月29日

 常陸の国から京へ戻った親鸞。そこでは、幼い頃に京へ出した長男の善鸞との関わりから、親鸞も様々なことに気づかされ、悟りを深めていく。

 他の本では、善鸞が悪者に描かれる事もあるが、本書では、善鸞をそこまで悪者に描かれてない。どちらかというと、善鸞の妻、涼を悪く描いているように思う。ただ、そこも、陰...続きを読むと陽を描いて、読者にどう感じさせるか、著者の思惑があるのかもしれない。自分の思ったことをずけずけ言うことが悪いのであれば、涼はまぎれもなく悪者だが、逆に、思いをストレートに告げれず、yesもnoも言わない、言えない、いえる強い考えを持たない善鸞が悪者と捉えられる節がないわけではない。

 親鸞が常陸の国を去って時間がたつと、常陸にも親鸞の教えを無理解であったり曲解したりと、色々と問題が出て、混乱してきた。造悪無碍という思想だ。何をしてもかまわない、悪事すら一向に気にするなという考えであり、更に、大胆不敵に悪をなせ、そのような悪人こそが往生できるのだ、とすら主張する者たちも出た。なぜそのような思想が生まれたのか。法然上人の教えは、だれにでもやさしく理解できるところに特長があった。世間から悪人扱いされている者たちも、罪多き賎民と卑しまれている人々も、男も女も、みな平等に往生できる。そう説いた。それまでは、浄土に迎えられる資格のある者は限られていた。善行に励み、徳を積み、信心に励む者たちである。その考えを法然上人はいっきに打ち砕いた。仏は哀れなものを救うために仏となったのだ。と説いた。だから、その呼びかけに念仏 南無阿弥陀仏で応えよ、というのだ。この世で弱き者、貧しき者、悪しき者とされている人々に対してこそ仏の手はさしのべられるのだと。

 ただ、悪人もまた救われる、とは言っても、悪人こそが救われると強調しているわけではない。悪人という言葉も、何を悪人とするのか。殺生をするものを悪人とみなすというのは分かりやすいが、そもそも仏法では、動物の生命は考えても、草木に生命があるとはしなかった。親鸞は、野菜や稲、果物などにも生命があると思うのだった。生命が生命によって支えられている。それを悪とするなら、生きとし生ける者はすべて悪人であり、罪人である。

 「なぜならば」というのが親鸞の口癖だった。その疑問を口にせず、わけもなく念仏に身を任せることが出来たのは、それが法然上人という類まれな人格の肉声だったからだ。法然上人に「ただ信じて念仏なされ」と言われるとき、人は赤子のように素直になる。それは法然上人が偉い人だからではない。上人自身が生ける仏そのものだったからではないか。しかし親鸞は自分はただの人間だと思うのだった。ただの人間が他の人間に何かを信じさせるためには、「なぜならば」とくどいほど説かなければならないのだ。親鸞が心血を注いで『教行信証』を書いたのも、そのためだった。

 浄土に生まれるとは、死んで極楽へいくという意味ではない。それは、闇の中にいた自分が、光の中に出てくるということだ。これまでの自分とは違う、あたらしい自分に生まれ変わるのだ。死んだ後のことなど誰も分からない。浄土とは光の国ということだ。絶望の中にいた人間が、希望の光に出会う。浄土に生まれるとはそういうことだ。しかし人は迷う。心細くなることもある。だから念仏に励まされる。それを信という。信じるということは迷信ではない。人に勇気と悦びを与えるものが信なのだ。迷信は、人を恐れさせ、迷わせ、心細くさせる。あれをしてはいけない、これをしてはいけない、とうるさく言う。しかし信にはそれがない。信とは、勇気が生まれ、心が明るくなるものだ。死後の不安を抱えている限り、人は幸せになれない。死んだ後、自分は光の国に行くのだ、と固く信じたとき、生きている喜びとなる。

 人を一人も殺せぬ、というのは、自分が善き心の持ち主だからではない。人は自分の思うままに振舞うことが出来ないのだ。人は自らの計らいを超えた大きな力によって左右されることがある。こうしようと願って出来るとか、ああはしまいと決め手避けられるとかいうものではない。絶対にこれだけはやめておこうと誓いつつも、そこへ入り込むこともある。だから、善人、悪人、などと人を簡単に分けて考えてはいけない。人を殺すなど決してしまいと思っていても、本当は分からないのだ。いつ人殺しをするかもしれない。それを業のせいである、という。しかし、業とは、世間で言う宿命ではない。結果には必ず原因がある、ということだ。人は決してわが計らうままに生きられない。その願うとおりにならないことを、業を背負っているという。みな大きな業を背負って生きている。その恐れと、不安の中にさしてくる光を他力という。救われる、というのは、そういうことではないか。

 念仏一筋、ということは、つまりは数々の神、仏の中から、阿弥陀仏という仏さまをひたすら頼むことだと教えられました。弥陀一仏などというが、この国の多くの人々は、大昔は阿弥陀様のことなどよく知ることもなく暮らしていた。先祖代々その中で生きてきた風俗、習慣などは、いまの私たちの体と心の中に伝わってきている。空で雷が鳴れば雷神様が怒っていると思い、田には田の神様が、海には海神様がおられると感じる。道端でお地蔵様を見れば手を合わせる。人はそのように自然に感じるものだ。その中で、法然、親鸞の説く、弥陀一仏、選択(せんちゃく)とは、多くの神々や諸仏の中から、阿弥陀仏という仏を選択したのではないということだった。かわらのつぶてのごとき我らに、阿弥陀仏の方からてを差し伸べてくださったのだ。ほかにどこにも行きようがない我らに手を差し伸べてくださった仏が阿弥陀様。ああ、ありがたい、という声が念仏になった。そして、ただ一筋にその仏に帰命する。念仏者がたのむのは弥陀一仏。そんな念仏者を健気と思って陰ながらに見守って下さる神々や諸仏がいる。だからこそ、世の神々や諸仏を軽んじてはならない。これを冥衆護持(みょうしゅうごじ)という。

 信じて念仏すればいかなる悪人でも浄土に往生できる、と教えられれば、小躍りして喜ぶ人もいるはずだ。悪を恐れるべからず、と思い、阿弥陀仏という仏は罪人を救うためにこそおわすと考えれば、造悪無碍という穴に陥る者もいよう。逆に、おのれの悪を自覚せよと教えられれば、清く正しく未を謹んで生きてこその念仏者と思い込む罠にはまりやすい。賢善精進(けんぜんしょうじん)とよばれるその姿勢は、とかく世間の受けも良く、無難な道であるが、そこには他力よりも自力を恃むおごりがある。念仏を唱えれば生きながらに仏になる、ということではなく、信心が定まれば、その地で仏となる未来が確かに約束されるということだ。それを即得往生(そくとくおうじょう)という。しかし、そのことを即身成仏の秘儀のように誤って受け取るものもいないわけではないのだ。

 親鸞は90で没した。本小説は、事実を元にして創作されたフィクションだが、小説の中で親鸞が話す内容、根本にある親鸞の教え、考えは、親鸞の本当の教えをいささかも踏み外していない、と宗門からも高く評価されているという。法然は生きながらにして、仏のような存在であったというが、親鸞は人間親鸞だったし、親鸞自身も、自分は罪深く、欲深い人間だ、といつも言い、思っていた。だから、民衆にとって、親鸞の教えは胸にす~~っと入っていったであろうし、この人は本当のことを言っている、この人の言うことは信じれる、と思ったのだと思う。

全2巻。

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