五木寛之のレビュー一覧
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五木寛之のエッセイ集。五木さんは若い頃よく読んだ作家の一人です。
"青年は荒野をめざす"とか"蒼ざめた馬を見よ"などですが、そのせいか最近出すエッセイも"大河の一滴"を始め何となく惹かれるので読んでいます。
1932年生まれ、いわゆる戦中時代の人であす。ですから元々人生に対してあまりポジティブなイメージを持っていない。
しかし、その姿勢がこの時代にあってはしみじみとした良さを発揮しているような気がしています。
この本でも、日本人が昔から当たり前に持っていた神も仏も一緒に家の中に祀っていることとか、おてんと様に手を合わせるとかの自然信仰(アニミズム)を礼賛しています。
お陰様とかご縁と言う言葉に託された日本人の心を取り上げて、乾いた感情しか持てなくなったこの社会を憂えているのです。
印象深い話題は童話の青い鳥のお話の本当の結末です。
果たして、チルチルミチルが青い鳥を見つけたと思った途端に青い鳥は逃げて行きます。
その結末に込められた意味は何なのか‥その謎を彼は今も考えていると言います。
生きるとは‥幸せとは‥誰もがふと立ち止まる時に思う事だが答えは出せないのかもしれない。そんな時、手に取ってみるとと少し安らぐような一冊です。 -
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「山登り」にたとえての筆者の世界観を綴ったこのエッセイは、山好きな父から教わった登山者の心得そのままでした。
登山者にとって山の登りはきついもの。登っているときは早く楽になりたいと思って一生懸命に足を運びます。途中、歩きながら決して上を見てはいけません。バテてしまいます。これからの距離や、自分が登って来た道を見たいなら、一度立ち止まってから見ること。
これが父から教わった「登り」の極意です。
そして、待ちに待った頂上制覇の歓喜。苦しい道のりから解放され、山頂の風に吹かれて味わう達成感と爽快感は経験者にしかわかりません。
その後にあるのは「下山」。登り以上に気をつけて一歩一歩踏みしめるように下らねばなりません。長時間下ると、膝がわらうように、かくかくしてきます。あわてて歩くと、前のめりになり、そのまま落下してしまいます。「下り」はある意味、登り以上にキツいものなのです。
筆者は最初の方の章で現代を「下山の時代」と言い現わし、現代日本の行く末と今何をすべきかを述べていました。その他の章でも、煩悩や今様。法然の話、病人大国日本の話、長寿とブッタの話と、あまり上昇気分を感じさせないエッセイが続きました。
「考え方が暗いと昔から言われる」と筆者自ら述べていましたが、やはり全体的にはタイトルそのものの下流志向。「下山」の考えが満載でした。
でもそれをマイナスとしているのでなく、「下山思想」を自信をもってエンジョイしようと提言されているのは流石です。
山登り同様、下りは気を緩めてはいけない大事な通過点なのですから。そしてその先にはまた新たな目標という山があるのですから。
久し振りに読んだ筆者のエッセイですが、少し初期の頃と変わったかなと感じました。初期の頃のエッセイでとても印象深かったのがあります。
筆者が、奥さまのことを「配偶者」と書いていたことと、「メロンパンの皮の部分が大好きだ」と書いていたこと。筆者の日常をさりげなく書きつづってあったあのエッセイ。
はてさて、あのエッセイは何と言うエッセイだったのでしょう?。
私の記憶違いでなければ、あのエッセイからは「下山の思想」は伝わってこないのです。 -
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これはぼくの錯覚でしょうか。それとも時代とともに甘味がましたのでしょうか。
人々はむしろ心から人工甘味料を少なくした味を求めているのに。
映画もそうです。
音楽もそうです。
皆が本気で見たい、聴きたい、と思っているものを、創り手が無視して勝手に自分たちの好みを押し付けているのです。
じゃあ、小説はどうか、と、反論されると降参するしかないのですか。
しかし、いつもの思うことですが、大人のきくにたえる音楽がないのは、なぜでしょうか。
大人がレコード屋さんに行かないからだ、という意見が昔ありました。
しかし、いまは若者でもあんまりレコード屋に日参はしません。そして若者の集まるコンサートの何倍もの高い料金を払って、大人たちがオペラや演奏会に集まります。
(P.71)
「犀のごとく独りあゆめ」
「一角獣のごとく独り往け」
(P.156)
自分の常日頃、考えている思想を人々に語る、それは恐ろしいことです。それと同時に、文章とちがう肉声で人々に語りかけることは大変な作業です。
蓮如という人物は、自分の話を聞きたいという人が二人いれば、十里、二十里の山道をもいとわずに歩いて出かけたそうです。
「わしほどワラジをはきづぶした者はおるまい」
と、晩年、無邪気に自慢していたそうですから、本当の話でしょう。
(P172)
しかし、現代は人と人とが直接に接することが非常に少ないのが特徴です。
そんなときに、空海のいう「面授」というものが、どれほど大切かを思わないわけにはいきません。
面授とは、顔と顔を向けあい、膝をまじえて何かを伝えることです。空海は密教を文書によって会得しようとする最澄に対して、
「面授なくして密教の伝授なし」
という意味のメッセージを送りました。
(P.174)
有名店に旨い料理なし、とずばり断言されたのには、膝を叩いて共感しました。食は必ずしも文化ではない、というご意見もそうです。もっともこういうことを言うと、たぶんいまの時代には袋叩きになりかねません。食こそ文化なり、という文句が声高に叫ばれて、だれもがそう信じている時代だからです。
しかし、ぼくはなんでもかんでも文化の仲間入りをさせてしまう最近の風潮には、どこか違和感をおぼえます。食は料理であってどこがいけないのでしょうか?そもそも、文化というものは、それほど立派で正しいものなのでしょうか?
僕も先生と同じように、文化とは罪ぶかいしろものだ、と心ひそかに感じているひとりです。
古今東西、経済的な貧しさが文化を産み育てたという例を残念ながらぼくは知りません。西洋文明は、強国の経済的繁栄の結果として世界を照らすこととなった、と言えば、身もフタもないことになりますが、先生の熱中されているオペラやクラシック音楽にしてもそれは言えると思います。<中略>
文化とは罪ぶかいものです。ヨーロッパの文化は、ことにそうです。
歴史の記述には、「進出した」という言葉がしばしば出てきます。「版図を拡大した」という表現もありますね。「手中におさめた」という書き方もあります。
どれも、武力で制圧した、という事実を伝えているにすぎません。そして文化はその後につづくのです。
(P.189) -
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五木寛之さんの同名のテレビシリーズを書籍化したものです。
五木さんは知識が豊富で,感性がするどいので,とても楽しんで読み進めることができます。そして,そのお寺を是非訪れたくなるのです。
五木さんの文章を読んでいると,石段一つにも,参道のちょっとした風景にも,心を揺さぶられていることがわかります。私なんかが有名な寺院などを訪れたときには,はやくめあての本堂へ…としか思いません。でも本書を読んで,もっとじっくりと古寺を回ろうと思いました。
このシリーズの姉妹品に「写真ガイド」も出ています。こちらは,写真が豊富で,お寺の地図もあります。あわせて揃えられることをお薦めします。 -
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・この前読んだ「荒野」って小説に出て来た超然とした少年がいつも読んでいたので、気になって読んでみた。そしたら高度経済成長の日本にぼんやりとした不満を持った中流育ちの青年が海外に飛び出して魅力的な金髪女性とセックスするって内容だったから、正直に言ってあの少年にはがっかりした。中学の頃からこれ熱心に読むとかどんな設定だよと…
・それを抜きにして読むと、結構面白かった。ハタチ前後で読んだらきっともっと面白かっただろうな。真に受けて海外に飛び出したかもな。
・今現在これを読むと、なんか甘ったれた奴が海外に飛び出してって良くある話なんだけど、昭和40年代に書かれてるところを考えてみると、かなり挑戦的な内容だったのかなとも思う。40年前に、今読んで「よくある設定」の本ってのは刺激的だったのかも。ハタチの童貞が金髪のスチュワーデスと夜の公園で初体験するとか、当時の若者の心を鷲掴みにしたに違いない。
・それにしても五木寛之って適当だよな…細かい話だけどクリスチーヌとはセックスしてないよね?ラストの手紙と本編矛盾してるし。すっごい気になったわ。 -
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まさに人生を模索する不確かな思春期の物語。
炭鉱を舞台に一人の少年の成長が描かれています。もし思春期にこの本に出会っていたら、共感で揺さぶられまくって、主人公と同様、何かを見つけたくて、このシリーズの続編を読み漁る自分が想像できる・・・
読書は、内容はもとより、人生のどの時期に出会うか、そのタイミングも重要な要素。
そういうわけで、思春期の少年の頭の中の大きなテーマ、性への目覚めなど、小説では結構な比重を占めるけれどいまいち響かず、もし将来男の子を生んだとしたら、参考にしようとかぼんやり思う。
反対に舞台である炭鉱の荒々しさ、悲哀も秘めた力強さ、人間くさい部分には強く心惹かれるものがある。現代には失われたものが美しいと思えるのかもしれない。ちょっとヤクザっぽい(いや、ヤクザ)任侠に富んだ登場人物にも。
あと、一気に読書の時間が取れないのにすごく読みやすかったのは、当時連載小説だったからでしょうか。何か連載向けのテクニックがある(と感じる)
名前は知っていた作家だけど、読んだのは初めて。古本屋で出会えたら是非続編を読もう。(古本なんかい)