五木寛之のレビュー一覧
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古代インドは人生を4区分する。学びの学習期、働きの家住期、そのあとに林住期と遊行期を迎える。定年後は林住期の時期にいる。気持ちが落ち込み生気を失いがちだ。五木氏はそうではなく、新しいスタートだという。それまでの、学校、家庭、会社、社会にしばられてきた生き方をリセットして、本当に自分がやりたいことを始める時期だ。趣味、社会奉仕、大学再入学等々いろいろあるはずだ。▼わたしも、その考え方に同意する。会社や社会や家族にしばられた考え方でなく、本来の自分自身の考え方で生きる。そんな時期だと思う。言葉通り林の中で静かに生きるのもよい。▼本の最後に解説者の立松和平氏が、林住期に重要なのは、「放下」であると説いているのが印象的だった。▼追記;本文に紹介のあった、釈尊の呼吸法(大安般守意経に学ぶ)村木弘昌著を読んでいるが、面白い。
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生きているだけで価値がある、というのは、実は人は生まれた時から何らかの関係を持っていて、そこで繋がりがあるから価値があるのだと思います。
僕は、純粋に『生きているだけで価値がある』とは思いません。やっぱり、何か自分にしかできない事やアイデンティが持てないと価値が見出だせないと思います。で、生きていれば誰かと某かの関係を築き、刺激し合ったり、心地よくなったり、深く関わり合ったり、その関係の連続性が、現代では見えづらくなっているのではないでしょうか。その事に気付き、他力を信じる事が、著者の言いたい事なのだと思います。
熊木杏里の『一千一秒』という曲の歌詞に、
いつまでもあなたの傍らで
冬の後の春のように
独りというこの運命も
ありのまま辿れるように
というものがあって、これなんかも、人間は結局独りだという孤独と、けれども愛する人の傍に居たいという繋がりを持つ事の矛盾の葛藤が、短い詞に込められています。
『あきらめる』が『明らかに究める』、諦念ではなく達観するという意味であると著者は言いますが、これなんかも、『人間一人』を『明らか』にし、それでも『繋がりを求める』という『究め』が人間なのだと思い知らされます。そして、そのバランスが崩れると、太宰治のような道化師になったり、あるいは逆に秋葉原殺傷事件の犯人のように逆恨みしてしまうのではと思います。
関係を築き、それを続けていく行為の最上は、結婚して子どもを育てていく事だと思います。現代ではこの営々が崩れてきているから危ないのです。それは、『覚悟がないから結婚できない』のか、『結婚できないから覚悟がない』のか、どちらかは分かりませんが、最近特に思うのは、彼女作ってエッチしたいという事です(笑)。どうにも性欲が止まらないです……。
欲と言えば、引用にもあったように、香山リカの理性主義は反対です。先に感情があって、それを理性が律するのであって、情を排して理性だけにするというのは、人間そのものを否定しているように思います。「理性がなければケダモノと同じだ!人間だけが理性を持っている!」と言われそうですが、理性一辺倒では駄目だと言いたいのであって、それは科学者でもそうだと思います。パッションが無ければ研究はできません。
要がなければ扇は開かない。ここでの要は情で、扇は理性。両方なければ意味がありません。これもバランスの問題ですが、き要は情なので、それを大事にしないといけないと思います。
僕の評価はA-にします。 -
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友だちに借りた五木寛之の「親鸞」を読んでいますと、
親鸞が説法の中で、当時、庶民の間で流行った歌、
つまり今様(いまよう)を詠い出すシーンがあります。
調べてみますと、これは梁塵秘抄の中に収められている歌なんですね。
その梁塵秘抄は後白河法皇が巷で歌われている歌が
このまま廃れてしまうのをおそれ、書き留めたものだとされています。
また、万葉集は詠み人知らずや防人の歌なども文字を知らない人たちが歌ったものを
大伴家持などが書き留めたものだとされています。
詩人、安東次男は
『この時代の歌は、現代のように目で読むために作られた歌ではない』
何度も口に出し繰り返しているうちに
このような歌が出来上がったと述べておられます。(安東次男「百人一首」より)
口頭伝承という言葉がありますが、
文字をない世界では人から人へ言い伝えるしかありませんでした。
やがて、人が文字を使うようになり大変便利なりました。
でも、文字だけでは伝えきれないイントネーションや「間」などは
やはり人と人が直に接触し、口頭であれこれ伝えるのが一番でしょう。
さらに、ことばだけでなく、朝の挨拶仕方や茶碗や箸の上げ下げ、
着物の着方からたたみ方など礼儀作法や身の処し方まで口頭で伝承されてきたのです。
少し大げさに言えば、これが日本文化ではないと思っています。 -
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ネタバレ小学校だったかの時に、教科書で読んで「人は皆泣きながら生まれる」っていうのに視点が変わって面白かったのでそのまま買って、なんとなく手離せなくて持っていた。エントロピーの法則とかもなんか引っかかって。けど、あれ、今なんか手離せるとすんなり思ったので。さらっと捲ったけどお喋りの上手な人の雑談を目の前で聞いてる感じがした。すごい聞きやすく話すなあ…と吃驚しておもしろいかんじ。でもこういうのは考えすぎちゃってなんか当時動きづらかったような気がする…今思うことだけども。
『道教というのは、海のような思想なんですね。きれいな水も濁った水も、流れてくるものすべて受け入れて、その中でもう一遍新しい水を水蒸気として出したり、新しい生命をはぐくむ、そういう包容力のある世界が海だ。』
『「真のユーモアの源泉は哀愁である」と。~本当のよろこびというものを知る人間は、深く悲しむことを知っている人間なのではないか。』…『<暗愁>…心に重く深い悲しみや憂いを秘めているほど、逆に<楽しみ>をつよく求めるものではないか。』
「日本人の旅びとよ、あなたは急きすぎる。そんなに急ぐと大事な時間を見失いますよ」…イランの<売り買い>の文化…『ぼくらは物を買うことを心から楽しまなくては』
『その人の歳に応じて、ある作品に縁があるかないかが大事なのです。~一定の価値を持った作品が、一定の感動をすべての人に与えるというふうに考えるのはまちがっていると思います。』…相性ってあるよなあとなんとなく。
知…生きる歓びや方向、自信。また、より深い絶望、悲しみ。
『さらに、もっとも私たちが注意しなければならないことは、安易にマスコミから流れだす情報をうのみにして、なにかすべての真実を知ったつもりになってしまうことでしょう。~なにか変だな、と心の片隅でふっと感じた時には、その感覚を信じて、大きく自分の目をみひらき、世間で言われている一般的な知識というものに疑いの目をむけなければならない。<王様は裸だ!>というのは<知>というものにとらわれない子供のいきいきした視線をほめたたえる言葉ではないでしょうか。~言葉は矛盾しますが、バランスをとって生きていかなければなりません。』
梓巫女…名前がかわいい…。
『木を伐る前のお祈りをするといった、そういう習慣があったわけです。』
『生きている、ということは、とりもなおさず、他から生かされている、ということでもあります。』
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『忘れたくて忘れているのではないか。』
『<倶会一処>…死ぬということは、別れるだけでなく、あの世でふたたび出会うことでもある~そして物語の水脈は人間の歴史とともに常に絶えることがありません。』
『永遠に生き続けようとする遺伝子こそが生命の主人公で、人間というもはその乗り物にすぎない、というユニークな説も紹介されました。』
『世の中には人間よりも動物のほうをもっと愛している人も、いないわけではありません。~愛の姿はさまざまです。~いずれにせよ、<愛する>というのはこちら側の行為です。自分がそうせずにいられないから愛するのです。~こっちが勝手に愛するわけですから、見返りを要求するほうが変でしょう。愛する、というより、愛させてもらう、といったほうが正確な気がしないでもありません。~相手がそれに十分にこたえてくれない、また、誠意を示してくれない、裏切られた、などと私たちは勝手に傷つくのです。子供を産むのももともと自分たちの勝手からです。』
「鎌倉の自宅から駅まで歩くあいだが退屈なんで、なにかおもしろいことはないかと考えたんだ、そしたら、あるときふと、いいアイデアがうかんでね。花の種をいろいろ買ってきて、それをポケットに入れて家を出ることにしたんだよ。駅への行き帰りに、歩きながら道の脇の立派なお屋敷の庭に、パッ、パッとポケットの中の種をまく。人が見ていないときに垣根ごしにこっそりとね。そうしたら、やがて道の両側のりっぱなお屋敷の庭に、マツバボタンやらヒマワリやら、いろんな草がニョキニョキはえてきてさ。やがてとってもきれいな花が咲いた。あれは楽しかったねえ。まるで自分が花坂爺さんにでもなったようないい気分だったなあ」
「わが校の子供は、ひとりで天国に行ってはいけません。おおぜいのお友達を誘って行きましょう」
「なんでボランティアに参加したんですか」~「おもしろいから」…メディアにも相性ってあるよな、と思う。テレビも作られているものであるから。好みの問いがあるかどうかかなあ。
『たぶん人が丘にのぼりたがるのは、丘のむこうがわの世界を見たいからでしょう。』
『なぜかと言えば物を書く人間には先輩も後輩もないからです。~僕は基本的に解説はつけるべきではないと思っている。だけど、もしも解説が必要ならば、いわば食後のデザートのような、作品を読んだ後味をさらに充実させ、楽しさを倍加できる、そんな解説がついていれば素敵だと思うね。』
<ひらがなで考えたらええんよ>…田辺聖子さん…うわ、かっわい…とちょっと目を押さえた…。
「あきらめきれぬと あきらめた」
『違うから手をつなぐ。違わなければ手を繋ぐ必要もない。』
『もしいきなり殴りかかってきたとしたら、むしろそのほうがどれほどすっきりしたかもしれません。しかし、同じ表現の仕事にたずさわる相手が、自分の目の前に土下座している――、そういう状況はじつにいやなものです。そこではいやおうなしに、こちらが強者の立場にさせられてしまうのですから。』
「わたしは生活を馬鹿にするひとをいっさい信用しません」
「寝るより楽はなかりけり。寝るより楽はなかりけり。」~「浮世の馬鹿がおきて働く」…絵になるなあ、と思った。小説読んだみたいだなと…。
『南アジアのある先住民の社会では、一日のことを「ひとつの昼」と「ひとつの夜」と呼ぶところがあるそうです。私たちが一日と簡単に呼んでしまうものを二つのまったくちがった世界と考えるわけです。』
「がんばりなさい」~「ありがとう。でも、もう私はいいんです」…これはこれで素敵だと思うけれど。 -
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チェック項目5箇所。病気が治らない、完治しないのであれば、私たちにできることは、それが顔を出して暴れないように、なだめすかしておとなしくさせておくことだけです。人間が自分でできることなど、たかが知れている、「できるときはできる。できないときはできない。人事をつくしたあとは天命を待てばよい」。「加」は加えること、「減」は引くことです、ものごとを足したり引いたりして、ちょうど適当な「いい加減」が「良い加減」なのです。「清潔」という言葉には、何かしら不自然な感じがつきまといます、人間は本来、バイ菌と共生しているのです、皮膚には何十種類もの常在菌がすんでますし、体内にも無数の微生物が暮らしていて、それらと同居しながら、人は生きてきたのです。治療と称して生命を温存させようと、すでに死へと向かっている肉体に対し、いろいろな刺激をあたえるから葛藤が起き、苦しむのでしょう。