五木寛之のレビュー一覧
-
Posted by ブクログ
自分が幼少時代のお話で、織江まわりのお話(演歌とかレコード会社)はある程度自分の記憶と照らし合わせながら読めていたが、信介まわりのお話(シベリア出兵やロマノフ王朝の金塊)は、ほとんど話題にもならなっかったという記憶。これまで日本では封印されていたお話を、五木さんが書かねば・・・となったんだろうかと勝手な憶測です。
それにしてもロシアのウクライナ侵攻の前に書かれた本なので、現在執筆中であるという噂の最終予定の第十部(もう結末も決まっているらしい)はさぞ書きにくいだろうと、これも勝手な憶測しています。
果たして、第十部の文庫版を読むことはできるのだろうか? -
Posted by ブクログ
2007年06月20日 19:16
五木さんの本は、あまり読んだことがありませんが、
22歳で読むのには早いかな。と思いつつ、読んでみました。
文字も大きく、行間も広く、大変読みやすい本です。
別に、林住期の人が読まなくてもいいそうです。若者でも。
ところどころ出てくる偉人たちの言葉の引用が、良いです。
この本に書かれていることを実践するのには、
著者の五木さん自身も、現実的にはなかなか難しいとか、お叱りをうけるだろうと書かれていますが、
この本の通りに林住期を過ごせたら、かなり幸せではないでしょうか。
生き方の一つの提案みたいな感じな本だと思いました。 -
Posted by ブクログ
親鸞の言葉が、心の中に抱えていた罪の意識と孤独から、私を救ってくれた。五木寛之氏が、過酷な引き揚げの記憶と、親鸞と歩んだ半生を語る書籍。
敗戦後、北朝鮮から引き揚げる際、言葉にできないような体験をし、「自分は許されざる者」との思いを抱いていた氏は、30歳を過ぎて、親鸞の教えに触れる。どんなに深い罪を抱いていても救われるという教えは、自分にも生きる資格があると思わせてくれた。だがその後、親鸞について勉強すればするほど、親鸞という人、その思想がわからなくなっている。
浄土真宗の門徒の親鸞像は、親鸞に関する物語などを「聞」くこと(聞法)で形作られてきた。
一種のフォークロア(民間伝承)のようなものである。近代の真宗教学はそうした迷信の類いを拒絶してきたが、伝承や物語の中の親鸞は、くっきりとした形で、その温顔まで見えてくるような感じがする。
親鸞の思想では、信じることが大切だとされる。
真宗では、一筋に親鸞の教えを守り続ける「妙好人」が大事にされてきた。だが、妙好人には、なかなかなれない。人は時に迷い、時に1つの信心に己を託して生涯を終える。だから、親鸞の思想も拝跪すべき思想として捉えるのではなく、自分の傍らに寄り添ってくれるという慈悲の感覚を大事にすべきである。
仏教には、励ましを意味する「マイトリー(慈)」と、慰めを意味する「カルナー(悲)」というものがある。この2つを重ねて、「慈悲」という表現が生まれた。
親鸞は、日本人ばなれした「理」詰めの人だった。だが、理をきわめた「慈の親鸞」の陰に、身内を亡くし悲嘆する人に寄り添い、「ほおえみ」を宿して慰める「悲の親鸞」の姿がある。 -
Posted by ブクログ
「青春の門」の、「第八部 風雲篇」および「第九部 漂流篇」を続けて読んだ。
第九部の「解説」によれば、この物語の来歴は下記のようなものだ。
もともと、「青春の門」は「週刊現代」の1969年6月19日号から連載が始まったものらしい。連載開始から既に半世紀以上が経過している。また、第八部の連載がスタートしたのは1993年で、本にまとまったのが2016年であるらしく、連載開始から本にまとまるまでに20年以上を必要としている。また、第九部の連載開始は2017年からであり、2018年には完結している。単行本になったのは、2019年9月、文庫になったのが2021年9月のことだ。現在も「週刊現代」では、この物語は、「新 青春の門 第十部 疾走篇」として連載中であるらしい。それが完結篇だとも、「解説」には書かれている。筆者の五木寛之は1932年9月の生まれなので、現在、90歳になる。年齢を考えると、そろそろ完結を筆者が考えていても自然なタイミングかとも思う。
「青春の門」は、もともとは、福岡県の筑豊地方を舞台とした物語として始まり、その後、主人公の伊吹信介が早稲田大学に入学するのに合わせて東京が舞台となり、また、信介が所属する劇団の公演旅行計画に合わせて函館を中心とした北海道が舞台となっていた。いずれも国内が舞台であったが、第八部・第九部の舞台は、旧ソ連、その中でもシベリア地方である。第九部では、シベリアでの信介の生活と、日本でのオリエの物語が半々程度の分量で語られる。それは、いずれ、日本で一つに交わるだどうという伏線を持ちながら。
伊吹信介がシベリアに渡った際の、信介の意図は、いったんソ連・シベリアには渡るが、ソ連から東欧に抜けて、更に世界中を旅するというものだった。物語はそのように進んでいくのだろうと思っていたし、世界中を旅する伊吹信介の「青春の門」物語は面白そうで楽しみにしていたのだが、実際には、第九部で一転、信介は帰国することになる。そして第十部の舞台は日本ということになりそうだ。第八部でシベリアに渡った信介には実質的な変化は何も起きていない。おそらく、第八部の最初には、信介に世界中を旅させようと、五木寛之は考えていたのではないだろうか?それが、物語上、うまく展開できないか、あるいは、途中で気が変わって、このような展開になったのではないか。
そのように思わせる、やや中途半端なストーリー展開である。 -
購入済み
親鸞周辺の登場人物が
主人公は浄土真宗の開祖ということで大変に有名な親鸞であるが、高名な宗教家を扱っているのしては、あまり抹香臭くない作品である。創作であるとは思うが、親鸞周辺の登場人物が大変に生き生きと魅力的に描き出されている。
しかし、現代と比べて人の命が門灯に軽かった時代だったんだなと感じた。 -
Posted by ブクログ
シリーズ最終巻。四国および九州の寺がとりあげられています。
九州では、ヤマト政権の中心地から離れた太宰府をたずね、それよりもさらに長い歴史をもつ観世音寺に、古代からの九州と朝鮮半島の関係の跡を見ようとしています。さらに長崎では、鎖国状態にあった江戸時代において、中国との交流の窓口であり、異国情緒をふんだんにただよわせる街のようすに著者の連想はおよんでいきます。
四国では、「お遍路さん」の隆盛に触れつつ、現在の日本人の心のなかにも受け継がれている信仰のありかたについての考察が展開されています。また人吉別院では、一向宗の禁制が敷かれるなかで、「隠れ念仏」と呼ばれる、信仰を守ってきた人びとのことが紹介されています。
最終巻となり終わりが近づいてくるにつれて、著者がこの二年間の旅でのさまざまな出会いや、著者をここまでみちびいてきた宿縁について振り返って語っているところもあり、一読者としてもどこか感慨深い思いになります。 -
Posted by ブクログ
第九巻は、第三巻につづいて、京都の寺がとりあげられています。
著者は、三千院では「大和坐り」と呼ばれる、正座のような姿勢の観音菩薩と勢至菩薩に出会い、二尊院では双子のように並んで立つ釈迦如来と阿弥陀如来のすがたを目にしますが、それ以上にめずらしいのは永観堂の「みかえり阿弥陀」で、この仏像をめぐるエピソードを紹介しながら、阿弥陀信仰について考えを深めています。
高台寺では、豊臣秀吉の死後の北政所の晩年が紹介されています。著者は「豊臣秀吉という人物には、これまであまり興味がなかった」と述べつつ、秀吉の死後に彼の思い出をいだきながら豊臣家の滅亡を目撃し、二十数年間を高台寺で過ごした「ねね」という女性の物語を、共感を込めて語っています。