五木寛之のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
ネタバレ常陸の国から京へ戻った親鸞。そこでは、幼い頃に京へ出した長男の善鸞との関わりから、親鸞も様々なことに気づかされ、悟りを深めていく。
他の本では、善鸞が悪者に描かれる事もあるが、本書では、善鸞をそこまで悪者に描かれてない。どちらかというと、善鸞の妻、涼を悪く描いているように思う。ただ、そこも、陰と陽を描いて、読者にどう感じさせるか、著者の思惑があるのかもしれない。自分の思ったことをずけずけ言うことが悪いのであれば、涼はまぎれもなく悪者だが、逆に、思いをストレートに告げれず、yesもnoも言わない、言えない、いえる強い考えを持たない善鸞が悪者と捉えられる節がないわけではない。
親鸞が常陸の国を去って時間がたつと、常陸にも親鸞の教えを無理解であったり曲解したりと、色々と問題が出て、混乱してきた。造悪無碍という思想だ。何をしてもかまわない、悪事すら一向に気にするなという考えであり、更に、大胆不敵に悪をなせ、そのような悪人こそが往生できるのだ、とすら主張する者たちも出た。なぜそのような思想が生まれたのか。法然上人の教えは、だれにでもやさしく理解できるところに特長があった。世間から悪人扱いされている者たちも、罪多き賎民と卑しまれている人々も、男も女も、みな平等に往生できる。そう説いた。それまでは、浄土に迎えられる資格のある者は限られていた。善行に励み、徳を積み、信心に励む者たちである。その考えを法然上人はいっきに打ち砕いた。仏は哀れなものを救うために仏となったのだ。と説いた。だから、その呼びかけに念仏 南無阿弥陀仏で応えよ、というのだ。この世で弱き者、貧しき者、悪しき者とされている人々に対してこそ仏の手はさしのべられるのだと。
ただ、悪人もまた救われる、とは言っても、悪人こそが救われると強調しているわけではない。悪人という言葉も、何を悪人とするのか。殺生をするものを悪人とみなすというのは分かりやすいが、そもそも仏法では、動物の生命は考えても、草木に生命があるとはしなかった。親鸞は、野菜や稲、果物などにも生命があると思うのだった。生命が生命によって支えられている。それを悪とするなら、生きとし生ける者はすべて悪人であり、罪人である。
「なぜならば」というのが親鸞の口癖だった。その疑問を口にせず、わけもなく念仏に身を任せることが出来たのは、それが法然上人という類まれな人格の肉声だったからだ。法然上人に「ただ信じて念仏なされ」と言われるとき、人は赤子のように素直になる。それは法然上人が偉い人だからではない。上人自身が生ける仏そのものだったからではないか。しかし親鸞は自分はただの人間だと思うのだった。ただの人間が他の人間に何かを信じさせるためには、「なぜならば」とくどいほど説かなければならないのだ。親鸞が心血を注いで『教行信証』を書いたのも、そのためだった。
浄土に生まれるとは、死んで極楽へいくという意味ではない。それは、闇の中にいた自分が、光の中に出てくるということだ。これまでの自分とは違う、あたらしい自分に生まれ変わるのだ。死んだ後のことなど誰も分からない。浄土とは光の国ということだ。絶望の中にいた人間が、希望の光に出会う。浄土に生まれるとはそういうことだ。しかし人は迷う。心細くなることもある。だから念仏に励まされる。それを信という。信じるということは迷信ではない。人に勇気と悦びを与えるものが信なのだ。迷信は、人を恐れさせ、迷わせ、心細くさせる。あれをしてはいけない、これをしてはいけない、とうるさく言う。しかし信にはそれがない。信とは、勇気が生まれ、心が明るくなるものだ。死後の不安を抱えている限り、人は幸せになれない。死んだ後、自分は光の国に行くのだ、と固く信じたとき、生きている喜びとなる。
人を一人も殺せぬ、というのは、自分が善き心の持ち主だからではない。人は自分の思うままに振舞うことが出来ないのだ。人は自らの計らいを超えた大きな力によって左右されることがある。こうしようと願って出来るとか、ああはしまいと決め手避けられるとかいうものではない。絶対にこれだけはやめておこうと誓いつつも、そこへ入り込むこともある。だから、善人、悪人、などと人を簡単に分けて考えてはいけない。人を殺すなど決してしまいと思っていても、本当は分からないのだ。いつ人殺しをするかもしれない。それを業のせいである、という。しかし、業とは、世間で言う宿命ではない。結果には必ず原因がある、ということだ。人は決してわが計らうままに生きられない。その願うとおりにならないことを、業を背負っているという。みな大きな業を背負って生きている。その恐れと、不安の中にさしてくる光を他力という。救われる、というのは、そういうことではないか。
念仏一筋、ということは、つまりは数々の神、仏の中から、阿弥陀仏という仏さまをひたすら頼むことだと教えられました。弥陀一仏などというが、この国の多くの人々は、大昔は阿弥陀様のことなどよく知ることもなく暮らしていた。先祖代々その中で生きてきた風俗、習慣などは、いまの私たちの体と心の中に伝わってきている。空で雷が鳴れば雷神様が怒っていると思い、田には田の神様が、海には海神様がおられると感じる。道端でお地蔵様を見れば手を合わせる。人はそのように自然に感じるものだ。その中で、法然、親鸞の説く、弥陀一仏、選択(せんちゃく)とは、多くの神々や諸仏の中から、阿弥陀仏という仏を選択したのではないということだった。かわらのつぶてのごとき我らに、阿弥陀仏の方からてを差し伸べてくださったのだ。ほかにどこにも行きようがない我らに手を差し伸べてくださった仏が阿弥陀様。ああ、ありがたい、という声が念仏になった。そして、ただ一筋にその仏に帰命する。念仏者がたのむのは弥陀一仏。そんな念仏者を健気と思って陰ながらに見守って下さる神々や諸仏がいる。だからこそ、世の神々や諸仏を軽んじてはならない。これを冥衆護持(みょうしゅうごじ)という。
信じて念仏すればいかなる悪人でも浄土に往生できる、と教えられれば、小躍りして喜ぶ人もいるはずだ。悪を恐れるべからず、と思い、阿弥陀仏という仏は罪人を救うためにこそおわすと考えれば、造悪無碍という穴に陥る者もいよう。逆に、おのれの悪を自覚せよと教えられれば、清く正しく未を謹んで生きてこその念仏者と思い込む罠にはまりやすい。賢善精進(けんぜんしょうじん)とよばれるその姿勢は、とかく世間の受けも良く、無難な道であるが、そこには他力よりも自力を恃むおごりがある。念仏を唱えれば生きながらに仏になる、ということではなく、信心が定まれば、その地で仏となる未来が確かに約束されるということだ。それを即得往生(そくとくおうじょう)という。しかし、そのことを即身成仏の秘儀のように誤って受け取るものもいないわけではないのだ。
親鸞は90で没した。本小説は、事実を元にして創作されたフィクションだが、小説の中で親鸞が話す内容、根本にある親鸞の教え、考えは、親鸞の本当の教えをいささかも踏み外していない、と宗門からも高く評価されているという。法然は生きながらにして、仏のような存在であったというが、親鸞は人間親鸞だったし、親鸞自身も、自分は罪深く、欲深い人間だ、といつも言い、思っていた。だから、民衆にとって、親鸞の教えは胸にす~~っと入っていったであろうし、この人は本当のことを言っている、この人の言うことは信じれる、と思ったのだと思う。
全2巻。 -
購入済み
75歳にして思うこと
私も、本年、75歳に突入して、どんな本かな?と、興味半分読み始めた。
何年かすると、私も、いつかは、老いて死んでいかねばならないのかなと少し寂しくなった
他の、五木寛之さんの本を読んで、五木寛之さんの人生観が、私たちに近いものがあり共感を持っていたが、この本は、釈さんの意見に添った感じの内容が多く、私には、理解できないことがあり、ちょっと、がっかりした。もう少し、五木寛之さんにどうしたら悔いなく死ねるのかどういう風に生きれば、悔いなく死ねるのかズバリ教えてほしいという感じがした。