【感想・ネタバレ】親鸞(しんらん) 激動篇(上) 【五木寛之ノベリスク】のレビュー

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ネタバレ

Posted by ブクログ 2022年09月07日

本シリーズの始まりとなる青春篇を読み終えたのが2020.3.22、続編となる本作を手にするまでに約2年と半年。

先日、著者の別作品を読み終えた時に何かに吸い寄せられるように自然と本書に手が伸びました。

今が本書を読む時ということなのでしょう。

と言うことで久々の再会となった親鸞ですが、いやはや...続きを読む面白い。

無知故にどこまでが史実なのか、全くわかりませんが、仮に全てがフィクションであったとしても純粋に読み物として読み応えがあります。

京を追放され、妻である恵信の故郷である越後に流された親鸞。

1年の労役を務め上げながらも法然の教えを守ろうと人々に念仏の心を伝えようとする。

そんな中で出会った外道院と名乗る謎の僧と彼と行動を共にする多くの世間から見放された人々。

果たして外道院は敵なのか、それとも味方なのか。

そんな中で親鸞が命を懸けて始まった雨乞いの祈祷。

7日間飲まず食わずでただ念仏を唱える親鸞の祈りは、祈祷の終了を知らせる太鼓の音と共に終わることに。

守護代の戸倉はその場で親鸞をニセ坊主と呼び、部下に捕らえよと命ずる。

集まった聴衆に親鸞を石でうつように叫ぶも誰も石を手にすることなく立ち去ろうとしたまさにその時、天から鳴り響いた雷鳴と共に2ヶ月ぶりの大雨が降り出した。

戸倉の怒りをかった親鸞とその仲間達は外道院により助けられ、命をつなぐ。

同じく戸倉に命を狙われる外道院はなんと戸倉の息子からの密告により、すんでのところで危機を脱する。

外道院と離れ家に戻った親鸞、下巻ではどのような展開が待ち受けるのか。

楽しみに読み進めていきます。



説明
内容紹介
京を追放された親鸞は、妻・恵信の故郷である越後に流されていた。一年の労役の後、出会ったのは外道院と称する異相の僧の行列。貧者、病者、弱者が連なる衝撃的な光景を見た親鸞の脳裡に法然の言葉が去来する。「文字を知らぬ田舎の人々に念仏の心を伝えよ」。それを胸に親鸞は彼らとの対面を決意する。


親鸞の冒険、未知の異界へ!
波乱を乗り越える勇気とはなにか。

京を追放された親鸞(しんらん)は、妻・恵信(えしん)の故郷である越後に流されていた。一年の労役の後、出会ったのは外道院(げどういん)と称する異相の僧の行列。貧者、病者、弱者が連なる衝撃的な光景を見た親鸞の脳裡に法然の言葉が去来する。「文字を知らぬ田舎の人びとに念仏の心を伝えよ」。それを胸に親鸞は彼らとの対面を決意する。
内容(「BOOK」データベースより)
京を追放された親鸞は、妻・恵信の故郷である越後に流されていた。一年の労役の後、出会ったのは外道院と称する異相の僧の行列。貧者、病者、弱者が連なる衝撃的な光景を見た親鸞の脳裡に法然の言葉が去来する。「文字を知らぬ田舎の人びとに念仏の心を伝えよ」。それを胸に親鸞は彼らとの対面を決意する。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
五木/寛之
1932年福岡県生まれ。朝鮮半島より引き揚げたのち、早稲田大学露文科に学ぶ。PR誌編集者、作詞家、ルポライターなどを経て、’66年『さらばモスクワ愚連隊』で小説現代新人賞、’67年『蒼ざめた馬を見よ』で直木賞、’76年『青春の門』(筑豊篇ほか)で吉川英治文学賞を受賞。’81年より一時休筆して京都の龍谷大学に学んだが、のち文壇に復帰。2002年にはそれまでの執筆活動に対して菊池寛賞を、英語版『TARIKI』が2002年度ブック・オブ・ザ・イヤースピリチュアル部門を、’04年には仏教伝道文化賞を、’09年にはNHK放送文化賞を受賞する。10年に刊行された『親鸞』は第64回毎日出版文化賞を受賞しベストセラーとなった(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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Posted by ブクログ 2017年05月22日

親鸞の教えは、ただ念仏をするだけ。自分に特別な力がないことを悟り、ひたすら念仏を唱える親鸞。民衆が心を打たれる。

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Posted by ブクログ 2016年05月05日

親鸞続編。そうそう、受刑して北陸送りになったところなのでした。新たな宗教家が出てきて、心から迎合することは出来ないながらも、その世界観を通じて新たな境地へ、って流れ。政治との絡みとか、祈祷とかを通じ、俗世間との距離感みたいなものが浮き彫りになってきている印象。直属の弟子とか、養子とか、親鸞ファミリー...続きを読む的なものも次第に形成されつつあって、このあたりの人脈とか、上記の経験とかが浄土真宗へと繋がっていくのでしょうか。

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Posted by ブクログ 2013年10月31日

念仏に求められるものが、地方に流されたことで違ったものになった。

人は生きるためには殺生せずにはいられない悪人であるという前提で、底辺に暮らす人々がその業を背負う仏であるという解釈は、悲惨な境遇の人を、本人の、前世の、先祖のせいにしがちな人民にとって、どこか救いのある考えに思えた。自らを生き仏とし...続きを読むたあたり、権力を欲した外道院の限界であるように思う。

念仏は仏にご利益を依頼するものではない。しかし、「世のならい」という法然の教えと、目の前で違うことを人々に納得させるため、親鸞は雨乞いを決意する。一番の動機が「捨身」であることに気づき、念仏にふける親鸞は、これまでとはまた考え方が滲んでいて、やはり修行者であると気づかされる。

念仏の意味が民衆に伝わったかはわからないが、結果だけを見て民衆が激怒しなかったあたり、小さな問いかけは成功したと思う。

『雨を乞うための念仏ではない。仏の姿を観るためでもない。わが身の極楽浄土を願う念仏でもない。自然に体の奥からあふれでてくる念仏である。』

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Posted by ブクログ 2013年06月19日

面白くてあっという間に読んでしまった。

前回罪人として越後の国に流されたところで終わり、今回はその続きから。

相変わらず親鸞の周りに集まってくる面々の個性的で魅力的なこと。
前回ではツブテの弥七、河原坊浄寛、法螺房弁才との交流、そして黒面法師なんて悪人もいたっけ。

今回はなんだか不気味なゲドイ...続きを読むン一行。
外道院金剛、薄気味悪い彦三房玄海、名香房、早耳の長次・・・
テンポが良くて、思わず笑ってしまったり、とても小気味いい。

下巻が楽しみ~

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Posted by ブクログ 2020年07月19日

この巻もダイナミックな物語の展開でエンターテインメントとして面白い。新潟に移り住んでそこの地で地盤を築いていくが、まだ親鸞としての布教は始められていないし、その素地も中々作れていない。ただ、これまでと同じ様に自分の弱さを自覚しながらどう自分の目指す自分に近づけるのか、苦悩しながら真摯に生きる姿が印象...続きを読む的。また癖のある素晴らしい仲間を得られる事も成功者の所以か。次巻も楽しみ。

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Posted by ブクログ 2019年05月20日

激動篇でようやく親鸞という名前が登場した。
恵信の故郷である越後での親鸞は悩みながらも、多くの人々と生きていく。サトの存在や今後の展開が楽しみだ。

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Posted by ブクログ 2018年08月06日

前半は越後編。
京の都から、恵信の故郷であり、且つ、叔父の統括する越後に流人として送られた親鸞。物語は新潟の浜での外道院との遭遇から始まる。ここから外道院と親鸞との不思議な親交が始まる。親鸞を警戒し、味方にならぬのなら除こうとする外道院、外道院から河川の権利を収奪せんとする役人側という展開。色々な権...続きを読む謀術数の中、不思議なことが多々起こり、物語は進む。その中で徐々に念仏者を増やしていく。その途中から流人としての罪を許される。
後半は関東編。
一方で鴨の河原で親しくした河原房浄寛改め香原崎浄寛に招かれ関東へ赴く。関東でも領主の政治的計らいから、布教に勤め、その輪を拡大していく。その間にも自己の存在や念仏のあり方に悩み続ける親鸞。その信念の揺らぎに合わせてそれを試すように現れる黒法師。そしてその危機を助ける礫の弥七。そんな構図が出来上がっていく。
最後は恵信が越後に一時的に去り、親鸞は風雲急を告げる京都に上る覚悟を決める。

外道院と浄寛との親交のあり方が面白い。それぞれに親鸞という人物を信じ、影日向に親鸞を助ける姿がとてもいい。
また、親鸞の進行を試すように現れる黒法師と危機一髪の時に必ず現れる弥七はセットで物語を盛り上げてくれる。
読んでいくうちに念仏のあり方とは?という点も勉強になる。

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Posted by ブクログ 2018年05月31日

親鸞……浄土真宗の開祖であり、鎌倉仏教を代表する方ですが……
何ていうんだろう。アクション、アドベンチャー?そんな感じです。親鸞が仲間と共に新しく越後の地で大活躍!下巻はどうなるんだろう。

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Posted by ブクログ 2018年05月18日

 親鸞が越後で流人として過ごし、そこを出て常陸の国で教えを広めるまでの話である。

 人々は生きるために戦い、殺生を重ね、だましあい、争いあってその日を生きなければならなかった。世間で悪とされる行為を、だれが避けることが出来ただろう。そして、人々は死後の地獄を恐れた。無間地獄の恐ろしさを世に広めたの...続きを読むは仏門の僧たちである。生きて地獄、死んで地獄。救いを求めて仏にすがろうとすると、よろずの仏はみな、差し出された人々の手を振り払って去っていく。お前達のような悪人を救うことは出来ないと。去っていく仏達を見送り、呆然と立ちすくむ人々に向って、法然上人は力強く語りかけたのだ。あれをみよ、すべての仏達が去っていく中に、ただ一人、こちらへむかって歩いてこられる仏がいる。あれが阿弥陀仏という仏だ。よろずの仏に見放された人々をこそ救う、と誓って仏となられた方なのだ。

 釈尊が入滅された後、その教えは歌として人々に記憶され、伝えられたという。それを偈という。仏の教えは、はじめは文字に書かれた経典としてではなく、歌としてくちずさまれ、暗記され、人々に手渡されていった。たしかに、ながい文章は覚えにくいが、それを音や韻を踏んで、歌としてなら覚えやすい。

 法然上人が山を降りて念仏を説かれた頃、人々の中からこんな歌が生まれた。今様というものだ。「はかなきこのよをすぐすとて、うみやまかせぐとせしほどに、よろずのほとけに うとまれて、ごしょう わがみをいかにせん」

 はかなきこのよをすぐすとて、とは、人と争い、人をもだまし、その日その日を必死で何とか生きていくために、ということだ。うみやまかせぐとせしほどに、とは、世間もろもろの生業だ。田畑を耕すもの、商いするもの、戦いに日をおくることもみな海山稼ぎの仕事。なにもかも、はかなきこの世を生きんがため。百姓も虫を殺さずに田を耕すことは出来ない。また、稲や野菜には人に食べられようとして実をつけるわけでもない。山川草木すべてに命があると思えば、人間というのは他の命をいただくことでしか生きられない悲しい存在だ。よろずのほとけにうとまれて、とは、業の深い暮らしの中で、人々は仏にすがろうとするが、どの仏も海山稼ぎの者たちには首を振って相手にしてくれない。お前達のような業の深い者達は救うことが出来ないと。普段から殺生を重ね、善い行いもせず、きびしい修行もしない者たちが何を今更、とすがる手を振り払って去っていってしまう。そして取り残された人々は、われらは神や仏にすら嫌われているのだと、どうしようもない気持ちでため息をついている。そういう切ない歌だ。

 そこへ法然上人という方が現れたのだ。山を下りられた上人は、人々に語りかけた。よろずの仏に疎まれた人々よ。絶望することは無い。聞きなさい、ここに阿弥陀仏、という特別な仏がいる。その仏は、よろずの仏に疎まれし人々をこそ救う、と誓って仏になられた唯一の仏なのだ。他の仏に見放された人々を救うのが、自分の役割だと固く誓って仏になったのが阿弥陀仏。苦しみ、おびえ、悲しんでいる人々に、われに答えよ、と呼びかけられる。そして、自分のほうから人々のところへ歩み寄って、手を差し伸べて言われる。さあ、この手につかまれ、そして、共に光の中に歩み入ろうと。ただ念仏せよ、と、法然上人は言ったが、念仏をしても決して背負った荷の重さが軽くなるわけではない。行き先までの道のりが縮まるわけでもない。だが、自分がこの場所にいる、この道を行けばよい、そして向こうに行き先の明かりが見える、その心強さで再び歩き出すことが出来る。念仏とはそういうものだ。阿弥陀仏という仏様は、この世につらく生きている切ない心に向けて照らす光なのだ。

 念仏とは、依頼祈願の念仏ではない。阿弥陀様、お救いください、と念仏するのではないのだ。後生に浄土へいけますように、お願いします、阿弥陀様、という念仏ではないのだ。お救いください阿弥陀様ではないのだ。念仏とは、自分が既にして救われた身だと気づいたとき、思わず知らず口からこぼれ出る念仏なのだ。ああ、このような我が身が確かに光に包まれて浄土へ迎えられる。なんとうれしいことだ。疑いなく、そう信じられたとき、人は、ああ、ありがたい、とつぶやく。そして、全ての人々と共に浄土へ行くことを口々に喜び合う。その声こそ、真の念仏なのだ。あなたも、わたしも、身分も、修行も、学問も、戒律も、すべて関係なく、人はみな浄土に迎えられるのだ。地獄へ落ちたりはしない。そのことを確信できたとき、念仏が生まれる。ただ念仏せよ、とは、それをはっきりと感じ取り、ああ、ありがたい、とよろこぶべし、ということだ。だが、信が先、念仏が後、ということではなく、時には、念仏する中で生まれてくる信がある。

 易行念仏の教えはやさしいが、真実の信なくしては意味がない。阿弥陀仏を信じ、浄土を信じ、悪人である自分が必ず救われる、と固く信じることが大事なのだ。この世界に見えないものをみる。それは幻かもしれない。夢かもしれない。しかし、信じたときにそれは真実となる。死ぬまで念仏に出会うこともなく、おのれの悪を悔やむこともなく、阿弥陀様さえあざ笑いながら一生を終えるものこそ、この世でもっとも哀れで惨めな者だ。おのれの悪を自覚できるとか、深く懺悔するとか、念仏を信じるとか、そんなことを最後まで拒む悪人こそ真の悪人。その悪人を悪人のまま救うというのが大悲であり、阿弥陀仏だ。念仏する者も、それを信じない者も、等しく人は浄土に往生するということだ。だが、それは信心する者も、しない者も同じどいうことではない。見えない阿弥陀仏を心から信じ、念仏する者は、いま、そのとき新しい人間に生まれ変わるのだ。無間の闇におびえて生きていた自分が、じつは無限の光に照らされている、阿弥陀仏という仏に抱きしめられて浄土へ往生する身なのだ、と確信できたとき、人は臨終を待つことなく救われる。しかし、念仏と出会わなかった哀れな人は、死んで後に救われる。だが、信を得たとき、その人は生きたまま、直ちに救われる。ひとしく往生するとしても、そこが違うのだ。

 そして、親鸞は、ついに10数年いた常陸の国も去ることになる。都では、法然上人亡き後、上人の遺体を掘り出して鴨川に流そうとする者や、念仏の弾圧に奔る人、法然門下の派閥を争う人、など、見るに耐えない有様だという。親鸞は60歳を過ぎていた。妻は越後に行くことにし、親鸞は京へ向う。

全2巻。

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Posted by ブクログ 2016年05月29日

越後に到着してから雨乞法要が終了するまで。越後出身の恵信尼が親鸞の唯一の妻女という設定。外道院や長治、鉄杖など魅力的な登場人物が出てくるがかなり駆け足気味で激動というよりも激流、あれよあれよというまに流されてしまっていて、親鸞なにやっとんねん、と突っ込みたくなる。地方に根付いた原始信仰の中に新しい宗...続きを読む教がはいっていく難しさを感じさせてくれてとても興味深い。

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Posted by ブクログ 2013年07月23日

越後に流されてから外道院との決着まで。親鸞とは違う正義をもつ外道院に反感と共感の混じりを覚えながらも、自分の道を貫く。念仏で人を救う。この「救う」という漠然とした言葉の捉え方、誤解と曲解により、親鸞は雨乞い祈祷の台上に赴くこととなる。念仏は法力ではないと体現しようと決死の覚悟で望むが、結局は雨が降り...続きを読むまたしても思わぬ形で名声が上がる。命は繋いだが、まだ親鸞の理想には遠い。これからどうやってこの葛藤を埋めていくのだろうか。

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Posted by ブクログ 2013年06月23日

配流された直江津で見た、貧者、病者、弱者が連なって行進する行列が、親鸞を動かす。
新しい仲間を得、法然の新しい念仏を広めようと苦闘する。
堅苦しい性格の親鸞に立ちはだかる世間。

すっと読んでしまいました。

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Posted by ブクログ 2013年06月21日

純粋は人の心を動かす。自分を放埓と言って戒めるところが原点。自分を知っているものは強い。修行とは自分の弱点を知り尽くすことなのかも。自戒の念を込めて。

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Posted by ブクログ 2013年06月19日

読みやすい文体であっという間に読み終わった。
親鸞という堅苦しい題材ながら、娯楽性を重視した内容で、面白かった。おそらく史実とはかけ離れていると思うが。

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Posted by ブクログ 2021年02月28日

(上下巻の感想)親鸞聖人が島流しにされて越後で過ごす日々から、縁あって関東で布教をした頃を描いた作品。

青春編を読まずに読んでしまいましたが、十分楽しめました。難破船を使ったライバル役のアジト、大捕物のようなハラハラするシーンなど、読んでいてわくわく、ドキドキするような演出も多く、とても読みやすか...続きを読むったです。

作中では、越後でも関東でも、地縁がほぼないところから布教を始めるなか、一癖も二癖もある土地の人たちと出会い、交わることで、だんどんとその地に根を下ろし、念仏を伝えるということに苦心しながらも努めている親鸞の様子が丁寧に描かれています。

目指す方向は似ていても、信仰のあり方の違うライバル、地方の様々な有力者、不遜な武士、詐欺師のような男や、かつて人を殺めたことのある男…。親鸞のまわりに現れるキャラクターたちは、誰もが印象的で、人間味にあふれています。
仲間を増やし、ライバルと張り合い、別れてはまた新たな土地を尋ねる親鸞は、まるで少年漫画の主人公のよう。お坊さんの静かな生涯ではなく、まさに激動の活劇を見ているような気分になりました。

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Posted by ブクログ 2020年05月27日

平安末期。念仏を広めていく親鸞の姿を描く。激動編は女房と、越後(上巻)・常陸(下巻)と移り住む。2部とあって、途中からの読み始めだが、十分面白い。河原に住み込む荒くれ部隊を仲間に取り入れたり、雨ごいの念仏を1週間したり。全国44誌に掲載された小説の単行本化。どうりで物語がスピーデイだ。

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Posted by ブクログ 2018年01月30日

流罪で越後に移った親鸞と妻、恵心。異様な祈祷師外道院との出会い。親鸞の心の迷い、変遷。2018.1.30

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Posted by ブクログ 2017年03月28日

本巻では、越後に流刑となった親鸞の姿を、ドラマティックに描いています。

著者は、外道院金剛という法力の持ち主を登場させて、専修念仏を説く親鸞の姿が対比的に描かれています。エンターテインメント性の強い作風なのはもとより承知していたのでいっこうに気になりませんでしたが、鎌倉時代の信仰を近代的なヒューマ...続きを読むニズムに切り縮めてしまうことには、多少の違和感を覚えてしまいます。

とはいえ、親鸞が7日間に渡るぶっ続けの雨乞いをおこない、そうした彼の信仰の姿勢が庶民の心を打ったという展開は、エンターテインメント性を重視する小説家としての努力も理解できるので、どのように評価すればよいのか迷うところです。蓮如が主人公であれば、こうした多少とも「あざとい」ストーリー展開でもまったく平気だったのでしょうが、親鸞には、その思想のみならずその人物にも、私たちのヒューマニズムに基づく理解を峻絶するような何かがあるような気がするので、こうした分かりやすい親鸞像には不満を感じてしまうことも否定できないように思います。

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Posted by ブクログ 2015年06月07日

友達から借りた本
初親鸞で初五木寛之作品。
ずっと気になっててようやく読めた。思ってたより読みやすく面白かった。どこまでが史実でどこまでが小説なんだろう。結構エンタメ小説っぽかった。あ、だから読みやすいのか。

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Posted by ブクログ 2013年11月14日

先に著者が上梓した「親鸞」は親鸞の生い立ちが分かって勉強になった。本激動篇は親鸞の生き方考え方を知ることを期待したが、上巻を読んだ限りではまだ良く分からない。また小説の物語としては少し面白みに欠ける。下巻の結末に期待したい。

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Posted by ブクログ 2013年07月24日

越後に流されたあとの話。
やや話のテンポがおそくなったように感じるが、都で法然のもとで学んだ念仏を自分のものに昇華させようとしている様がえがかれる。
下巻でどうなるのだろうか、気になる展開。

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Posted by ブクログ 2013年07月24日

相変わらず浄土真宗開祖の話とは思えない冒険活劇。どったんばったん。

前作は子供から大人への成長譚だったのですが、本作「激動編」の親鸞は初めから結構いい大人。
さすがに貫禄も出たろうと思ってたんだけど、どっこい持ち前の草食男子っぷりは健在で。
もう、なにしろ全然自分で決められない。いろんな事を。
...続きを読むた感じお坊さんなもんだからまわりにいろいろ聞かれるんだけど、
んー、え、ちょっと、分かんないです。逆にどう思います?という相変わらずの調子。
しっかり親鸞!ちゃんとして!
それでも実直な言動で次第にまわりに味方が集まってきます。
というか、誰かが守ってあげないと、このひとまるで生きて行けないもんだから。
迷いに迷い、流されに流された先に何が待つのか。
いい加減ちゃんと自分で立てるのか。
結局下巻を楽しみにしてしまう。

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