五木寛之のレビュー一覧
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ネタバレ五木寛之氏(1932年生まれ)の「養生の実技」(2004.12)を読みました。治療より養生、もっともですね(^-^)内容は、すっと納得できるものと、えっ?と疑問に思うことと半々ぐらいでしょうか・・・w。「父の享年より長く生きたい」、その気持ちはよくわかります!
五木寛之 著「養生の実技」(2004.12)、再読です。「話題の健康法には常に正反対の意見があり、自分の身体からの声をよく聞き、自らの養生スタイルを持つ」、著者のこの考え方に同感です。体によいこと、健康によいことは、「適度の運動をし、多くの食品をよく噛んで食べ、楽しく過ごして、ぐっすり眠る」といった万人に共通なことと個別なことがあると思います。運動の内容、食事の内容、何が楽しいのか、そして眠り方・・・、みんな人それぞれですね(^-^)
五木寛之「養生の実技」、2004.12発行、再読です。私なりに要約しますと、次の5点になります。①治療より養生 ②自分なりの養生スタイルを持つ ③体に楽をさせ過ぎない ④手、足、指など末端が大事 ⑤自分の足で歩ける幸せ。
五木寛之さん、72歳の時の作品です。「養生の実技」、2004.12発行、再読。真似したいことは、体の声を聴く。長呼気・短吸気。自分だけの養生スタイルを持つこと。真似してることは、できるだけ病院に行かないこと。体を冷やさない。手、足、指、末端を大事にすること。
①中心は辺境に支えられる。心臓や脳を気遣うなら、手足の末端を大切に。指先、掌、足裏など。②食べるときと、しゃべるとき以外は口を閉じる。息は鼻でする。口は呼吸の道具ではない。③薬にはすべて副作用(毒性)がある。副作用のない薬は効かない。④近代医学は目に見える世界、民間療法は目に見えない世界。⑤自分の体調を感じられないようでは、健康も養生もない。⑥体に良い、といわれることは、なんでもやってみる。本当にいいこと以外は、どうせ続かないのだから。⑦自分だけの養生法を工夫する。五木寛之「養生の実技」2004.12発行
①人を生かしているものは:呼吸、食事、水、睡眠 ②体を冷やさない(薄着は自慢にならない) ③手、足、指など末端が大事 ④自分の足で歩ける幸せ(体に楽をさせない)⑤明日死ぬと分かっていてもするのが養生。五木寛之「養生の実技 つよいカラダでなく」、2004.12発行、再読。 -
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越後でのゆるめの生活、施療院をはじめるが為政者の交代とともに親鸞は脇へ、さらに鉄杖の自殺、法然の訃報。関東からの勧誘をうけて移動。関東での生活の終盤は恵信の帰越後、そして浄寛の死。京に戻る決意をするところまで。
激動篇と名がついているものの、あまり激動ではないように感じる。布教的な活動はほとんど描かれず、親鸞の内面と政治的な動きや敵味方分かれてのスパイというかニンジャ合戦的なアクションが面白い。とはいえ、楽しく物語りを追うだけでそれなりに親鸞の考えが的確に理解できるしくみになっている。理解する、というのと信心するというのは全くの別モンだということも実感できるのが面白い。そんなんでええんか?親鸞っ!!とツッコミたくなるほどかなり良いキャラです。完結編が楽しみ。 -
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五木寛之氏の親鸞についての講義録。
氏の親鸞についての著作は、多々目にすることが
ありますが、この本も、他に劣らず面白い本であったと
思います。
氏が以前の書籍等で語っていることも含めて
親鸞の人となりというか、歴史というか、などが
うまく伝わってくるような内容だったと思います。
特に、最後の質疑応答の部分がなかなか面白いと思います。
例えば、親鸞の言っていることも、年齢によって、
内容が変わっていて、それぞれが厳密にいうと
矛盾するところがあるようで、そこに完全なる整合性を
求めることは無意味であるととらえているところとか。
浄土真宗とキリスト教の一神教的な考え方の同一性や違い
についてなど。 -
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古代インドは人生を4区分する。学びの学習期、働きの家住期、そのあとに林住期と遊行期を迎える。定年後は林住期の時期にいる。気持ちが落ち込み生気を失いがちだ。五木氏はそうではなく、新しいスタートだという。それまでの、学校、家庭、会社、社会にしばられてきた生き方をリセットして、本当に自分がやりたいことを始める時期だ。趣味、社会奉仕、大学再入学等々いろいろあるはずだ。▼わたしも、その考え方に同意する。会社や社会や家族にしばられた考え方でなく、本来の自分自身の考え方で生きる。そんな時期だと思う。言葉通り林の中で静かに生きるのもよい。▼本の最後に解説者の立松和平氏が、林住期に重要なのは、「放下」であると説いているのが印象的だった。▼追記;本文に紹介のあった、釈尊の呼吸法(大安般守意経に学ぶ)村木弘昌著を読んでいるが、面白い。
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生きているだけで価値がある、というのは、実は人は生まれた時から何らかの関係を持っていて、そこで繋がりがあるから価値があるのだと思います。
僕は、純粋に『生きているだけで価値がある』とは思いません。やっぱり、何か自分にしかできない事やアイデンティが持てないと価値が見出だせないと思います。で、生きていれば誰かと某かの関係を築き、刺激し合ったり、心地よくなったり、深く関わり合ったり、その関係の連続性が、現代では見えづらくなっているのではないでしょうか。その事に気付き、他力を信じる事が、著者の言いたい事なのだと思います。
熊木杏里の『一千一秒』という曲の歌詞に、
いつまでもあなたの傍らで
冬の後の春のように
独りというこの運命も
ありのまま辿れるように
というものがあって、これなんかも、人間は結局独りだという孤独と、けれども愛する人の傍に居たいという繋がりを持つ事の矛盾の葛藤が、短い詞に込められています。
『あきらめる』が『明らかに究める』、諦念ではなく達観するという意味であると著者は言いますが、これなんかも、『人間一人』を『明らか』にし、それでも『繋がりを求める』という『究め』が人間なのだと思い知らされます。そして、そのバランスが崩れると、太宰治のような道化師になったり、あるいは逆に秋葉原殺傷事件の犯人のように逆恨みしてしまうのではと思います。
関係を築き、それを続けていく行為の最上は、結婚して子どもを育てていく事だと思います。現代ではこの営々が崩れてきているから危ないのです。それは、『覚悟がないから結婚できない』のか、『結婚できないから覚悟がない』のか、どちらかは分かりませんが、最近特に思うのは、彼女作ってエッチしたいという事です(笑)。どうにも性欲が止まらないです……。
欲と言えば、引用にもあったように、香山リカの理性主義は反対です。先に感情があって、それを理性が律するのであって、情を排して理性だけにするというのは、人間そのものを否定しているように思います。「理性がなければケダモノと同じだ!人間だけが理性を持っている!」と言われそうですが、理性一辺倒では駄目だと言いたいのであって、それは科学者でもそうだと思います。パッションが無ければ研究はできません。
要がなければ扇は開かない。ここでの要は情で、扇は理性。両方なければ意味がありません。これもバランスの問題ですが、き要は情なので、それを大事にしないといけないと思います。
僕の評価はA-にします。