五木寛之のレビュー一覧
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ネタバレ多くの人には自分の容姿に対する何かしらのコンプレックスがあるはずだ。本書はその極端な例を題材にしたもの。
ヒロインは、化け物並みに醜い容姿から世界中の誰もが認める美しい姿に整形した。
それで幸せになれたのか?
これに関してはそれほど深掘りしていないが、彼女は常に「容姿が他人に与える影響」を観察している。つまり、化け物の視点を忘れていない。それは周りの人間の本質を知る手段の一つになると思う。
「差別とは何か」「容姿によって差別される理由」を深く考えさせられ共感できた。
ただし、最後に知り合いが生きていたことと、彼が目の前で自殺したことは意味が分からない。 -
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ネタバレ前半は越後編。
京の都から、恵信の故郷であり、且つ、叔父の統括する越後に流人として送られた親鸞。物語は新潟の浜での外道院との遭遇から始まる。ここから外道院と親鸞との不思議な親交が始まる。親鸞を警戒し、味方にならぬのなら除こうとする外道院、外道院から河川の権利を収奪せんとする役人側という展開。色々な権謀術数の中、不思議なことが多々起こり、物語は進む。その中で徐々に念仏者を増やしていく。その途中から流人としての罪を許される。
後半は関東編。
一方で鴨の河原で親しくした河原房浄寛改め香原崎浄寛に招かれ関東へ赴く。関東でも領主の政治的計らいから、布教に勤め、その輪を拡大していく。その間にも自己の存在や念仏のあり方に悩み続ける親鸞。その信念の揺らぎに合わせてそれを試すように現れる黒法師。そしてその危機を助ける礫の弥七。そんな構図が出来上がっていく。
最後は恵信が越後に一時的に去り、親鸞は風雲急を告げる京都に上る覚悟を決める。
外道院と浄寛との親交のあり方が面白い。それぞれに親鸞という人物を信じ、影日向に親鸞を助ける姿がとてもいい。
また、親鸞の進行を試すように現れる黒法師と危機一髪の時に必ず現れる弥七はセットで物語を盛り上げてくれる。
読んでいくうちに念仏のあり方とは?という点も勉強になる。
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ネタバレ上下巻を通しての感想。
簡単にいうと幼い頃から、親鸞という名に至るまでの話。
後白河上皇、平清盛やら歴史上よく知られている人物が登場し、末法の世としてその頃の世情が描かれる。
そんな中、世俗の民と心安く語らい、ツブテの弥七や法螺房など無頼の徒と出会い、彼らと固く結ばれる。没落貴族の出である幼い親鸞が出家を決意し、比叡山に登り、座主に贔屓にされる中、仏教を極めようとするが、途中から聖徳太子に導かれ法然上人の念仏に帰依し、比叡山を去る。そこで法然からも格別の期待をかけられ念仏にを進化させて行く。途中、紆余曲折はあるものの、法然から受け継いだ信念を曲げずにひたすら突っ走って行く。
最終的に弾圧され、京都を去ることとなるが、その際の妻のありようと弥七の別れの挨拶は何ともカッコいい。
親鸞そのものに焦点が当たっているので仕方ないのだが、周囲の弥七や犬丸、敵役の良善や平四郎も魅力的なキャラクタとして物語を盛り上げている。
物語として面白く読めた。
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ネタバレ親鸞が越後で流人として過ごし、そこを出て常陸の国で教えを広めるまでの話である。
人々は生きるために戦い、殺生を重ね、だましあい、争いあってその日を生きなければならなかった。世間で悪とされる行為を、だれが避けることが出来ただろう。そして、人々は死後の地獄を恐れた。無間地獄の恐ろしさを世に広めたのは仏門の僧たちである。生きて地獄、死んで地獄。救いを求めて仏にすがろうとすると、よろずの仏はみな、差し出された人々の手を振り払って去っていく。お前達のような悪人を救うことは出来ないと。去っていく仏達を見送り、呆然と立ちすくむ人々に向って、法然上人は力強く語りかけたのだ。あれをみよ、すべての仏達が去っていく中に、ただ一人、こちらへむかって歩いてこられる仏がいる。あれが阿弥陀仏という仏だ。よろずの仏に見放された人々をこそ救う、と誓って仏となられた方なのだ。
釈尊が入滅された後、その教えは歌として人々に記憶され、伝えられたという。それを偈という。仏の教えは、はじめは文字に書かれた経典としてではなく、歌としてくちずさまれ、暗記され、人々に手渡されていった。たしかに、ながい文章は覚えにくいが、それを音や韻を踏んで、歌としてなら覚えやすい。
法然上人が山を降りて念仏を説かれた頃、人々の中からこんな歌が生まれた。今様というものだ。「はかなきこのよをすぐすとて、うみやまかせぐとせしほどに、よろずのほとけに うとまれて、ごしょう わがみをいかにせん」
はかなきこのよをすぐすとて、とは、人と争い、人をもだまし、その日その日を必死で何とか生きていくために、ということだ。うみやまかせぐとせしほどに、とは、世間もろもろの生業だ。田畑を耕すもの、商いするもの、戦いに日をおくることもみな海山稼ぎの仕事。なにもかも、はかなきこの世を生きんがため。百姓も虫を殺さずに田を耕すことは出来ない。また、稲や野菜には人に食べられようとして実をつけるわけでもない。山川草木すべてに命があると思えば、人間というのは他の命をいただくことでしか生きられない悲しい存在だ。よろずのほとけにうとまれて、とは、業の深い暮らしの中で、人々は仏にすがろうとするが、どの仏も海山稼ぎの者たちには首を振って相手にしてくれない。お前達のような業の深い者達は救うことが出来ないと。普段から殺生を重ね、善い行いもせず、きびしい修行もしない者たちが何を今更、とすがる手を振り払って去っていってしまう。そして取り残された人々は、われらは神や仏にすら嫌われているのだと、どうしようもない気持ちでため息をついている。そういう切ない歌だ。
そこへ法然上人という方が現れたのだ。山を下りられた上人は、人々に語りかけた。よろずの仏に疎まれた人々よ。絶望することは無い。聞きなさい、ここに阿弥陀仏、という特別な仏がいる。その仏は、よろずの仏に疎まれし人々をこそ救う、と誓って仏になられた唯一の仏なのだ。他の仏に見放された人々を救うのが、自分の役割だと固く誓って仏になったのが阿弥陀仏。苦しみ、おびえ、悲しんでいる人々に、われに答えよ、と呼びかけられる。そして、自分のほうから人々のところへ歩み寄って、手を差し伸べて言われる。さあ、この手につかまれ、そして、共に光の中に歩み入ろうと。ただ念仏せよ、と、法然上人は言ったが、念仏をしても決して背負った荷の重さが軽くなるわけではない。行き先までの道のりが縮まるわけでもない。だが、自分がこの場所にいる、この道を行けばよい、そして向こうに行き先の明かりが見える、その心強さで再び歩き出すことが出来る。念仏とはそういうものだ。阿弥陀仏という仏様は、この世につらく生きている切ない心に向けて照らす光なのだ。
念仏とは、依頼祈願の念仏ではない。阿弥陀様、お救いください、と念仏するのではないのだ。後生に浄土へいけますように、お願いします、阿弥陀様、という念仏ではないのだ。お救いください阿弥陀様ではないのだ。念仏とは、自分が既にして救われた身だと気づいたとき、思わず知らず口からこぼれ出る念仏なのだ。ああ、このような我が身が確かに光に包まれて浄土へ迎えられる。なんとうれしいことだ。疑いなく、そう信じられたとき、人は、ああ、ありがたい、とつぶやく。そして、全ての人々と共に浄土へ行くことを口々に喜び合う。その声こそ、真の念仏なのだ。あなたも、わたしも、身分も、修行も、学問も、戒律も、すべて関係なく、人はみな浄土に迎えられるのだ。地獄へ落ちたりはしない。そのことを確信できたとき、念仏が生まれる。ただ念仏せよ、とは、それをはっきりと感じ取り、ああ、ありがたい、とよろこぶべし、ということだ。だが、信が先、念仏が後、ということではなく、時には、念仏する中で生まれてくる信がある。
易行念仏の教えはやさしいが、真実の信なくしては意味がない。阿弥陀仏を信じ、浄土を信じ、悪人である自分が必ず救われる、と固く信じることが大事なのだ。この世界に見えないものをみる。それは幻かもしれない。夢かもしれない。しかし、信じたときにそれは真実となる。死ぬまで念仏に出会うこともなく、おのれの悪を悔やむこともなく、阿弥陀様さえあざ笑いながら一生を終えるものこそ、この世でもっとも哀れで惨めな者だ。おのれの悪を自覚できるとか、深く懺悔するとか、念仏を信じるとか、そんなことを最後まで拒む悪人こそ真の悪人。その悪人を悪人のまま救うというのが大悲であり、阿弥陀仏だ。念仏する者も、それを信じない者も、等しく人は浄土に往生するということだ。だが、それは信心する者も、しない者も同じどいうことではない。見えない阿弥陀仏を心から信じ、念仏する者は、いま、そのとき新しい人間に生まれ変わるのだ。無間の闇におびえて生きていた自分が、じつは無限の光に照らされている、阿弥陀仏という仏に抱きしめられて浄土へ往生する身なのだ、と確信できたとき、人は臨終を待つことなく救われる。しかし、念仏と出会わなかった哀れな人は、死んで後に救われる。だが、信を得たとき、その人は生きたまま、直ちに救われる。ひとしく往生するとしても、そこが違うのだ。
そして、親鸞は、ついに10数年いた常陸の国も去ることになる。都では、法然上人亡き後、上人の遺体を掘り出して鴨川に流そうとする者や、念仏の弾圧に奔る人、法然門下の派閥を争う人、など、見るに耐えない有様だという。親鸞は60歳を過ぎていた。妻は越後に行くことにし、親鸞は京へ向う。
全2巻。 -
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ネタバレ五木寛之 著「自分という奇蹟」、2015.9発行です。末期癌の患者さんに名医は3つのことしかしないそうです。①触る、絶えず触る ②痛みを聞く(自分の痛みのように感じる)どんな手段でも痛みはなくす ③褒める(その人の存在を認める) この本は「人間とは~」を語ったエッセイだと思います。冒頭、阪神淡路大震災、東日本大震災、アウシュビッツの話をされてます。そして生きていることの価値、今日生きている素晴らしさ、いかに生きるよりまず生きることと。確かに、生きている、それだけで奇蹟、そんな気がしてきました。
生きていることにまず価値があり、どのように生きたかなどは二番目、三番目に考えていいこと。生きてるというそれだけで、戦っているのであり、自然と融和しているのであり、たくさんのものに支えられて奇蹟的に生きている。五木寛之「自分という奇蹟」、2015.9発行。内容は次の通り:①深く悲しむ ②自分という軌蹟 ③風土と人間、歌 ④免疫 ⑤悲しみ上手の復権 ⑥滋の力・悲の力 ⑦布施と慈悲 ⑧泣くのは日本の文化 ⑨喜びの底にある哀愁 ⑩生きていることの価値 ⑪泣くことの浄化作用 ⑫感情表現 ⑬罪の文化・恥の文化 ⑭運命と宿命
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ネタバレ五木寛之 著「新老人の思想」、2013.12発行、著者81歳の時の作品です。読み応えがありました。時代を超えて、永遠に変わらないもの、人間の欲、男女の情、人生の期限、そして生病老死。右を向いても左を見ても年寄りばかりという時代。どう生きるかよりどう死ぬかが問題となる時代に入った。60歳~90歳は、死をどう迎えるかと体のケアを。古稀とは第三の人生の前半の出発点であるにすぎない。豊かさとは何か、何を捨て何を残すか、自分のライフスタイルを貫ければ嬉しいですね。
老人の自立と独立を説いた書。五木寛之「新老人の思想」、2013.12発行、再読。 ①養生は大人のたしなみ ②後期高齢者への3つの難関は、病気(健康)、介護、経済。 ③立って歩くことの重要性。生活とは、立つ、歩く、坐る、寝るの四つに尽きる。 -
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夫の本棚から選んだ一冊。
五木寛之さんの本は2冊目です。
たくさんの作品を書かれているのに、小説は読んだことがない。
1冊目も夫の本棚にあった【人間の覚悟】だったから。
五木さんの書かれるこの類の本がしっくりする年代に入ったのだと思う。
戦後の日本の発展は凄まじかった。
敗戦国でありながら、他国が驚くスピードでGDP世界第2位にまで登りつめた。
それが中国に抜かれ、じわじわと下降線をたどっているような実感がある。
登山と同じ、頂上を目指してただがむしゃらに登ってきた。
しかし、登ったからには当然、下らなければならない。
五木さんは、「戦後六十年の「登山の時代」が終わって、「下山」にかかる時代にはいった」と言われる。
「すごいことというのは、相当な無理をしなければできないことである。そして、当然のことながら、ずっとすごいことを続けることはできない」とも。
高度経済成長を経て、豊かな国になった日本
しかし、その過程で見て見ぬふりをしてきたこと多々あっただろう。
そのつけが、これからやってくる。
だからと言って、滑り落ちては元も子もない。
五木さんは言う。
「日は、いやいや沈むわけではない。堂々と西の空に沈んでいくのだ。それは意識的に「下山」を目指す立場と似ている」
私たちが目指さねばならないのは、「見事に下山する。安全に、そして優雅に」
自分自身もそうだと思った。
見事に下山したい。
安全に、そして優雅に。 -
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「孤独のすすめ」が面白かったので、こちらも読んでみました。50代は人生後半戦の準備期間。しっかりと気持ちと生活を切り替えて60代以降に備える。60代からいよいよ心身ともに思い通りにいかなくなるが、徐々に重荷を下し、70代は人生後半の黄金期、80代でいろいろと人生の精算をして、90代は体が動かなくても人生振り返りつつつ想念の中で過ごす。
100年ライフ時代では、惜しまれつつ去るという意識はなくなり、去ってあたりまえという認識になる。今よりも、孤独で去るという感覚が増すかもしれない。
まだまだ余生という感覚を持つには早いのだが、超高齢化社会を迎える日本の40代、50代はこのような意識を持ちつつ人生後半戦を一日一日、精いっぱい過ごすことが必要かもしれない。