五木寛之のレビュー一覧
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越後でのゆるめの生活、施療院をはじめるが為政者の交代とともに親鸞は脇へ、さらに鉄杖の自殺、法然の訃報。関東からの勧誘をうけて移動。関東での生活の終盤は恵信の帰越後、そして浄寛の死。京に戻る決意をするところまで。
激動篇と名がついているものの、あまり激動ではないように感じる。布教的な活動はほとんど描かれず、親鸞の内面と政治的な動きや敵味方分かれてのスパイというかニンジャ合戦的なアクションが面白い。とはいえ、楽しく物語りを追うだけでそれなりに親鸞の考えが的確に理解できるしくみになっている。理解する、というのと信心するというのは全くの別モンだということも実感できるのが面白い。そんなんでええんか?親鸞 -
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五木寛之氏の親鸞についての講義録。
氏の親鸞についての著作は、多々目にすることが
ありますが、この本も、他に劣らず面白い本であったと
思います。
氏が以前の書籍等で語っていることも含めて
親鸞の人となりというか、歴史というか、などが
うまく伝わってくるような内容だったと思います。
特に、最後の質疑応答の部分がなかなか面白いと思います。
例えば、親鸞の言っていることも、年齢によって、
内容が変わっていて、それぞれが厳密にいうと
矛盾するところがあるようで、そこに完全なる整合性を
求めることは無意味であるととらえているところとか。
浄土真宗とキリスト教の一神教的な考え方の同一性や違い
についてな -
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古代インドは人生を4区分する。学びの学習期、働きの家住期、そのあとに林住期と遊行期を迎える。定年後は林住期の時期にいる。気持ちが落ち込み生気を失いがちだ。五木氏はそうではなく、新しいスタートだという。それまでの、学校、家庭、会社、社会にしばられてきた生き方をリセットして、本当に自分がやりたいことを始める時期だ。趣味、社会奉仕、大学再入学等々いろいろあるはずだ。▼わたしも、その考え方に同意する。会社や社会や家族にしばられた考え方でなく、本来の自分自身の考え方で生きる。そんな時期だと思う。言葉通り林の中で静かに生きるのもよい。▼本の最後に解説者の立松和平氏が、林住期に重要なのは、「放下」であると説
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生きているだけで価値がある、というのは、実は人は生まれた時から何らかの関係を持っていて、そこで繋がりがあるから価値があるのだと思います。
僕は、純粋に『生きているだけで価値がある』とは思いません。やっぱり、何か自分にしかできない事やアイデンティが持てないと価値が見出だせないと思います。で、生きていれば誰かと某かの関係を築き、刺激し合ったり、心地よくなったり、深く関わり合ったり、その関係の連続性が、現代では見えづらくなっているのではないでしょうか。その事に気付き、他力を信じる事が、著者の言いたい事なのだと思います。
熊木杏里の『一千一秒』という曲の歌詞に、
いつまでもあなたの傍らで
冬の後の春 -
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友だちに借りた五木寛之の「親鸞」を読んでいますと、
親鸞が説法の中で、当時、庶民の間で流行った歌、
つまり今様(いまよう)を詠い出すシーンがあります。
調べてみますと、これは梁塵秘抄の中に収められている歌なんですね。
その梁塵秘抄は後白河法皇が巷で歌われている歌が
このまま廃れてしまうのをおそれ、書き留めたものだとされています。
また、万葉集は詠み人知らずや防人の歌なども文字を知らない人たちが歌ったものを
大伴家持などが書き留めたものだとされています。
詩人、安東次男は
『この時代の歌は、現代のように目で読むために作られた歌ではない』
何度も口に出し繰り返しているうちに
このような歌が出来上 -
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ネタバレ小学校だったかの時に、教科書で読んで「人は皆泣きながら生まれる」っていうのに視点が変わって面白かったのでそのまま買って、なんとなく手離せなくて持っていた。エントロピーの法則とかもなんか引っかかって。けど、あれ、今なんか手離せるとすんなり思ったので。さらっと捲ったけどお喋りの上手な人の雑談を目の前で聞いてる感じがした。すごい聞きやすく話すなあ…と吃驚しておもしろいかんじ。でもこういうのは考えすぎちゃってなんか当時動きづらかったような気がする…今思うことだけども。
『道教というのは、海のような思想なんですね。きれいな水も濁った水も、流れてくるものすべて受け入れて、その中でもう一遍新しい水を水蒸気