五木寛之のレビュー一覧
-
購入済み
希望の光を求めて
作者が巻末に、過去の体験談を元に考え方の道筋を照らしてくださった気がした。心のどこかで読み手の私が求めていた言葉が見つかった気がして、少しだけ心が軽くなり、生きるヒント道筋に気付けたと思います。
-
Posted by ブクログ
●年をとると、どのように生きるべきか戸惑っている人が少なくないと言われます。
●本書はそうした人々に老いの現実を肯定的に受け止めて生きていく言葉を贈っています。孤独な生活の友となるのが、例えば本だと。読書とは、著者と一対一で対話する行為で、心強い友。人生の後半期は自分で登ってきた山を降りていく時期なので、景色を楽しんで下山することだと言う。
●確かに、リタイアした人の中には、仕事一筋でやってきた人ほど何かしていないと自分だけが取り残されたという不安に駆られる人が多いと言われます。私は、老いを気楽に受け止めて、現役より自由な時間が膨大に増えるメリットを活かして、好きな事をやれば良いと思います。社会への恩返しになるような事であれば、なお良いですが。
●一方、現役の人は自分の納得出きる生活を追求する事です。それには、時折は現状の棚卸しも必要と思います。 -
Posted by ブクログ
ネタバレさくっと読める長さ。生きていくうえで、うんうんそうだよね、確かに、と頷ける内容や、新しい知見もあり、こう思っていたのは私だけじゃなかったのか!や、そうかこういう捉え方もできるのか、と考えながら読めた。
以下読書メモ
>>>>>
・〈よろこばせ上手〉は、自分を喜ばせることから始めた方が良さそうです。その結果として、他人に対してもひらかれた暖かい視線で接することができるのではないかと思います。
・ 知恵の悲しみ=知的に充実すればするほど、大きな悲しみを味わうことになりかねません。
・ 偶数と奇数と比べてみると、偶数は、割り切れて合理的で儒教に近い。奇数は、2で割ると必ず一つ残る。その一つ余った存在に気づき、受け入れるのが道教だというのです。本来、人生や人間の存在など、公式で割り切れないものばかりです。割って割り切
れない存在を許容することが大切なのではないか。奇数に興味をもつことは、惑いの時代を楽しく生きていく上でのヒントになると思います。
・ 惑うというのは、実は、人間に与えられたすごい能力の一つなのではないかと思います。惑っている人間にしか見えない大事なものがあるにちがいない。惑って立ち止まった人間にしか、美も、真実も、見えないのではないか。
・ 真のユーモアの源泉は、哀愁である。 byマーク・トウェイン
→ この言葉は、私たちにさまざまなことを考えさせます。私たちが本当に明るく生きるためには、暗さを直視する勇気を持たなければならないのではないか。本当のよろこびというものを知る人間は、深く悲しむことを知っている人間なのではないか。
・アサガオの蕾は朝の光によって開くのでないらしいのです。逆に、それに先立つ夜の冷たさと、闇の深さが不可欠である、という報告でした。
・ ただ、私たちは、悲しむべきときに悲しまない人間にだけはなってはいけないと思うのです。暗いものを暗いと感じ、悲惨なものを悲惨と見、そして怒るときは怒り、その気持ちを率直に友人や家族たちにぶちまけて悲懺慷慨するような、そんな人間のありかたのほうが、魅力的に感じられるだけです。
・シャー・アッバス・ホテルというイランで最も古く最も美しいホテル
・農夫、漁民、山の民たちは、それまでは、物言わぬ砂のような大衆でありました。「物言えば唇寒し」で、ひとことでも危険なことを言ったり、お上の批判や悪口を言ったら、すぐに首が飛ぶ。ただ黙々と蟻のように働けばよいのだという長い習慣の中で、余計なことを一切言わない。実用的な用件以外に言葉を発することを忘れてしまった無数の人々に対して、蓮如は、まず、自分たちの念仏に関心のある人は集まれ、と呼び掛けます。村落の中の有力者や親切な人の家に、まず、みんなで集まりなさいと。朝は星がのこっているうちから働いて、日が暮れても働いて、家に帰ったうに倒れて寝るという生活をしている人たちに、それ以外の時間を持ちなさい、念仏をする時間を持ちなさい、法話、つまり信仰について語りあう場を持ちなさいと、しきりに言うわけです。その信仰を語りあう場というのが、「講」とよばれた組織なんですね。それによって牛馬のように働き、食べて、寝るだけだった人々が、田植えの時期をどうする、水の配分をどうするという実利的なこと以外の精神のありかたについて喋り合う場を持ちはじめるのです。集まり、そこで、宗教的、哲学的な、つまり、極楽とは何だ、本当に念仏の力はあるんだろうかとかいった、信仰について語り合うことをはじめたのです。
・ 私たち日本人は、〈喋る〉ということに関して十分になれていないし、まだまだ熱心ではありません。多く喋ることによって試行錯誤をくり返し、喋ったための失敗も重ねることが大切なのです。しかしその失敗の中から、やがて洗練された喋り手、深みのある喋り手として、私たちは成長していくことができるのではないか。そのためには、まず喋ること。人がなんといおうと喋ることによって人間は成長するのです。よきお喋りのできる女性こそ、魅力的な女性であると、ぼくは固く信じています。
・ 物を〈知る〉ということは逆にそれだけ悲しみが深くなったり、憂鬱さが色濃く感じられたりする、そういう感じも一面ではあるのです。〈知る〉ということは、じつは悲しいことではないか、つらいことではないか、ふっとそんなふうに思う。
・ 見てから知るべきである、知ったのちに見ようとしないほうがいい、という意味でしょうが、じつはもっと深い意味があるような気がする。つまり、われわれは〈知る>ということをとても大事なこととして考えています。しかし、ものごとを判断したり、それを味わったりするときには、その予備知識や固定観念がかえって邪魔になることがある。だから、まず見ること、それに触れること、体験すること、そしてそこから得る直感を大事にすること、それが大切なのだ、と言っているのではないでしょうか。
・実際にものを見たり接したりするときには、これまでの知識をいったん横へ置いておき、そして裸の心で自然に、また無心にそのものと接し、そこからうけた直感を大切にし、そのあとであらためて、横に置いていた知識をふたたび引きもどして、それと照らしあわせる、こんなことができれば素晴らしいことです。そうできれば、私たちのうる感動というものは、知識の光をうけてより深く、より遠近感を持った、豊かになることはまちがいありません。
・ 柳宗悦が戒めているのは、知識にがんじがらめにされてしまって自由で柔軟な感覚を失うな、ということでしょう。おのれの直感を信じて感動しよう、というのです。どんなに偉い人が、どんなに有名な評論家が、自分とまったく正反対の意見をのべていたり解説をしていたとしても、その言葉に惑わされるなということです。
・自分の感性を信じつつ、なお一般的な知識や、他の人びとの声に耳をかたむける余裕、このきわどいバランスの上に私たちの感受性というものは成り立たねばなりません。それは難しいことですが、少なくとも柳宗悦の言葉は、私たちに〈知〉の危険性というものを教えてくれます。
・しかし、できれば私たちはさまざまのことを多く知り、知る歓びの中に生きながら、しかもその知識によって惑わされないような、こういうと、言葉は矛盾しますが、そのふたつの難しさの中で、きわどいバランスをとって生きていかなければいなりません。勉強をすることは、大事なことです。本を読み、知識をうることは歓びです。もしかわりに、それが悪いことだとしても、人には何かを知らずにはいられない本能というものがあります。私たちは人間として、本来、知ることを喜ぶ気持ちを持っている。しかし、知ることの危うさ、知ることによって失うものの大きさというものにも気づかないわけにはいきません。このプラスとマイナスの、ふたつの極の間をさまよいながら私たちは生きているのです。つい、ため息が出てしまいそうですが。
・今でもチベットやインドのほうでは、山を聖なる山として崇拝し、その山の麓を、足で歩かずに、膝で尺取り虫のように進みながら何年間もかかって巡礼をしている人もいます。そんなふうに山を深く尊敬しているのを見て、何をやっているんだろうと笑う人もいるかもしれないけれども、ぼくはかえってそういう人びとに、ある崇高なものを感じたりすることがあるんです。
・空気や水はもちろんのこと、社会からうけるさまざまな精神的な養分、それに太陽の光や、あたたかさや、その他もろもろの資源を、目に見えない根を、この宇宙全体に張りめぐらしながら、人間は自分の命をささえ、そして生きつづけているのです。生きる
ということ自体がじつは労働の所産であり、目に見えない努力がそこに払われている。そのことを考えますと、どのように生きるかということよりも、ただ生きてこの世に存在しているということ自体が、すでに驚くべき価値ある行為であるように思えてくるのです。
・生存していること、この世の中に存在していること、このことで人間は尊敬されなければならないし、すべての人は自分を肯定できる。人は己れの人生をそのまま肯定しなければならない。余力があれば、世のため、人のためにも働けるにちがいない。いまはただ、こうして暮していることだけでも、自分を認めてやろうではないか、と。そこから、本当に希望のある、前向きな人生観が生まれてくるのではないでしょうか。そんなふうに今、ぼくは人生というものを受けとめているところです。 -
Posted by ブクログ
現代日本は識詞率が低いと書かれているのを読んで、はっと我に帰った。詩を詠むのは古臭い、分からない、難しいという意識が先行して詠まないが、五木さんの御本を読んで、詩の面白さがどこにあるのか、詩を通して異文化を知ることの魅力を感じることができた。
詩を詠んだから何かが起こるわけではない。しかし識詞率が低いことで知らない詞の世界を知ることはできない。知らないことを知ることの面白さ、そのことの大切さを実感した。
自分を異端児と捉えて日本人を見詰める五木さんの考え方から日本人はいかにのんびりしていて呑気なのか改めて気付かされた。難民の話が途中で出てくるが、情勢が目まぐるしく変わる今、難民の話を対岸の火事のように思っているようでは日本も世も末だなと感じてしまった、、、。
何事にも新たな視点で考えること、知ることが大事だと気がついた。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ趣味は養生wとの五木寛之さん、「生き抜くヒント」2020.10発行、35のヒントが紹介されています。私のお気に入りは次の3つです。①三種の神器の変遷: 鏡・剣・玉→テレビ・洗濯機・冷蔵庫→パソコン・携帯・カード→あくび・ためいき・貧乏ゆすり(健康のためw) ②3Kの変遷: キツい・汚い・危険→高学歴・高収入・高身長→健康・経済・孤独(高齢者に大切なこと) ③コロナの時代: うつらぬ用心&うつさぬ気くばり。
老いと病いを道連れに、ピンピンソロリに向かって、うつらぬ用心、うつさぬ気配り。石原慎太郎氏と同日生まれの五木寛之さん、今年90歳です。「生き抜くヒント」、2020.10発行、再読。①著者の養生は趣味、気やすめの遊びとか ②怖い転倒と誤嚥の予防は、すべての動作を(無意識でなく)意識して行うこと ③健康のための三種の神器は、あくび・ため息・貧乏ゆすり(理にかなってると思いますw) -
Posted by ブクログ
五木寛之 著「白秋期」、2019.1発行。百歳人生、50~75歳は白秋期。60代から始まる黄金時代。著者が振り返って、もっとも自分らしく生きることができたのが白秋期だそうです。健康、経済(お金)、孤独の3K(不安)を乗り越えて。著者が設定した道標は、コンパクトな生活、浪費しない、車の運転をやめる、粗食にする、自分本位の生き方をする など。健康、命、寿命に関しては、自分の体と仲良くいい関係をつくること。そのためには、いい加減に生きる、そしていい加減の手加減が重要と。また、深い呼吸を勧めていらっしゃいます。
座禅、ヨガ、気功、太極拳・・・、すべて「深い呼吸」。本川達雄氏の「ゾウの時間 ネズミの時間」によると、哺乳類は一生に5億回の呼吸を。その観点からも「深い呼吸」を。 -
Posted by ブクログ
講座の内容を書籍化しているもので、すべて「ですます」の話し言葉で書かれてある。とても分かりやすく読みやすい。
有名な「悪人正機」など、思想そのものの解説などは、本書においてはほとんどない。あくまで著者が考える親鸞像を語るものだ。
お題は「人間・親鸞をめぐる雑話」であり、著者は何度も、自分はこう思います、こうではないかと推測しています、という風に言っている。つまり、親鸞について本当のことなんて分からない、いくつかの書物をもとに想像するほかない、というスタンス。
そのスタンスに共通するものとして、諸行無常、がある。親鸞その人だって、どんどん変わっていったし、矛盾もあるのだと。変わらない根本の思想はあるが、それでも「親鸞ならこう答える」といった断定は不可能であり、それをすると生きた思想ではなくなってしまう、と。
まったくもってその通りで、論理的で、普通のことだと思う。
でも、宗教と聞くとついつい「正解」がある気がしてしまうので、こういう語りを聞く(読む)と、まぁたしかにそうだよなと納得してしまった。
肝心の親鸞についてだが、著者はできる限り多角的に観察しながら、なおかつ自分はこうだと思う、と言う。その態度自体が、親鸞的、あるいは法然的だと感じた。
親鸞も法然も、「他の神仏を軽んずるな。だが私には阿弥陀如来だけだ」というふうな、配慮された言い方をする。この感覚は現代の我々にとても馴染む気がする。
あと、仏教と音楽の関連がおもしろかった。念仏を聴く集まりの描写は、もうそのまんま音楽フェスとかレイブみたいな感じだ。
インドとか中国とか日本とかいろいろあれど、どこも音楽的な伝え方を大事にしていた。念仏は音楽そのものだ。
親鸞は晩年、和讃をたくさん書いた。五七調の歌だ。日本においてはそれが演歌にまで影響を与えているし、憲法も五七調あるいは七五調がある。その地域に住む人たちにとって、"馴染む"からだ。
ちなみにインドでは八、八、八、八、というリズムが馴染むそうだ。
-
Posted by ブクログ
ネタバレ大好きな姜尚中さんと五木寛之さんの対談集なんだから読むしかないでしょ。
5つの対談のうち,第1部は2008年~2011年。第2部は,東日本大震災後の2012年~2013年の『週刊朝日』に掲載されたモノ。第3部~第5部は「語り下ろし」です。
いずれの話も,お二人の深い思想の一端が現れていて,いろいろと考えさせられました。ま,どこかで読んだ話題もあるにはあるのですが,そんなことは気にならない。
特に相手の作品を挙げながら(あるいは第3者の話題で),話が進んでいくあたりがおもしろいです。ま,こっちはそれらの本の全部を読んでいるわけではありませんがね。
第5部は,入水自殺した西部邁についての話だった。保守論壇の有力な人物だったのに,なぜ…。中庸,鵺,というキーワードが心に残った。