米原万里のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
内容は全く知らないが、勧められて読む本がたまにある。そんな本の一冊だが、佐藤優氏による米原万里氏の追悼本だったとは。
「ロシアは今日も荒れ模様」は昔何度か読んだ本。ロシアにはあまり興味はなかったが、良い文章だった事を覚えている。
佐藤優氏、嫌いでもないけど、書く本は良いものだと思うけど、それ以外の印象がどうも良くい印象。
佐藤優氏がチョイチョイ出てくるところが、必要か?と思ったり、私はあまり対談とか興味無いんだよなと思いながらペラペラ頁をめくる。
ロシアで体調を悪くした日本人に、梅干しのおにぎりを食べさせたら元気になった話等を読み、そうだよなこの方は骨があるよなと文章を読みながら思い出した。全体としてはそうでも無いけど、米原万里氏の本を読んでみよう思わせてくれたことには感謝。
・読みたい本
オリガ・モリソヴナ
旅行者の朝食
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Posted by ブクログ
ロシア語通訳の泰斗である著者が同時通訳の世界を面白エピソードで教えてくれる良書。
タイトル名は、「貞淑=原文に忠実」、「美女=訳文として整っているか」という比喩、つまりある言語から別の言語への完璧な通訳は可能なのかというテーマが本書の肝となっている。
通訳にとって必要な資質とは、「2つの言語にまたがる幅広い正確な知識や両語の柔軟な駆使能力もさることながら、話し手の最も言いたいことをつかみ、それをどんな手段を講じても聞き手に通じさせようとする情熱ではないだろうか」(P304)。
面白話も満載。例えば、
英語のできない商社の社長が、日本語で挨拶したのを逐次通訳者が英語に訳していくが、サービスのつもりで現地で一言くらい英語をしゃべろうと発した言葉が「One please」。スピーチの後で、通訳者が社長に「最後のアレは何でしょうか」と聞くと「うん、ひとつよろしくだよ」というエピソードも秀逸(P156)。
本書の話ではありませんが、以下の有名な話もうまく出来すぎの様な…。
2000年7月―。森喜朗首相はビル・クリントン大統領(ともに当時)と首脳会談を行った。会談に先立ち日本関係者が首相に入れ知恵をした。
「会ったらまず ”How are you?” と言って握手をしてください。クリントン大統領は ”I’m fine, and you ?” と答えますから、”Me too.” と続けて下さい。あとはすべて通訳が対応いたします」。
ところが森首相、こともあろうに ”Who are you?”(あなた、誰?) とやってしまった。ジョークとでも判断したか、そこは大統領、”Oh, I’m Hillary’s husband.”(ヒラリーの夫です) と切り返したが、首相は筋書き通り、”Me too.”(わたしも)―。
本書に出てくる様々な裏話や失敗談も抱腹絶倒ですが、実は文庫最後の編集部注の、読者からの間違い指摘に対する著者が返信した手紙の内容の誠実さにこそ著者の真骨頂があります。そして、その手紙の日付は彼女が癌で亡くなる15日前でした。合掌。 -
Posted by ブクログ
【感想】
Youtubeで、英語音声の日本語字幕もしくは日本語音声の英語字幕を見たことはあるだろうか。発言を翻訳したものが文字として表示されているわけだが、両者を比べてみると、発言に比べて字幕の量が驚くほど少ない。なかには発言の半分も字幕化されていないケースがある。これは話者が口にしている「冗語」をばっさりカットしているからである。
また、テレビの同時通訳で時おり、語数は非常に多いけれども、何を言っているのかサッパリ分からない通訳者がいないだろうか。筆者はそれを「情報の核をつかみ、余分な情報を切り捨てる勇気と労力を惜しんだ結果である」と断じ、筆者の知人は「お役所の庶務課係長の訳ですな」、つまり判断を下すことによって責任が生じることを極力避けようとしているような訳だ、と辛辣に皮肉っている。
通訳者は話者のトレースではない。何を訳し、何を訳さずに捨てるべきか。聞こえてくるものをとにかく訳してしまうと、話の筋道や論旨を追えなくなり、言葉は流れてくるが要領を得ない庶務係長タイプの訳ができあがってしまう。そうした判断を猶予数秒で行うのが「同時通訳」という仕事なのだ。
本書『不実な美女か貞淑な醜女か』は、ロシア語通訳の第一人者である米原万里氏が、「同時通訳」という職業の難しさとそれにまつわる苦労を、実体験を交えながら解説するエッセイである。米原氏は何十年もの間、国際会議や商談に同時通訳として携わってきたプロ中のプロである。彼女が経験した失敗談や笑い話を、お得意の下ネタを交えながらユーモアたっぷりに披露していく。
通訳の職務内容は、想像を絶するほどハードで多様だ。
例えば、万国家禽会議で、「卵のコレステロールのほうが豚のコレステロールに比べてどれだけ優れものであるか」とか「鶏をあまりにも非人道的に扱っている。もう少し鶏の福祉を考えるべきだ。居住環境をよくすべきだ」という話を通訳していたかと思うと、その日の夜はボリショイ・バレエのプリマのインタビューがあるので、「パ・ドゥ・トゥ」と「パ・ドゥ・トロワ」はどう違うのかなどを予習し、翌日からは2日間のセミナーで、「日本の天皇制とロシア帝政の比較」とか「日本における中国研究とロシアにおける中国研究の比較」とかいうテーマの歴史学者たちの報告の通訳をし、次の日は、日本から輸出する養魚施設に関する商談の通訳がある。それが終わると、裏千家の家元に同行して「モスクワ大茶会」で「わび」「さび」「一期一会」などという、自分でもよく分かっていない概念をロシア人に伝えるのに四苦八苦する……。
以上は筆者が本文中で語った職務のうちの一部だが、こうした話を聞くだけで、通訳という仕事が単なるコンバーターではないのが分かるだろう。話者が所属する業界のことを広く勉強しながら、その専門知識を自分の頭で理解できるまで咀嚼し、数秒のうちに取り出さなければならない。米原氏いわく「参加者より通訳者のほうが詳しいこともある」というぐらいだから、いかに同時通釈者が普段から勉強づくめであるかが伺えるはずだ。
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本書のタイトルである『不実な美女か貞淑な醜女か』だが、これは「訳の正確さを取るか訳の美しさを取るか」ということを意味している。つまり、原文に忠実かどうか、原発言を正確に伝えているかどうかという座標軸を、貞淑度をはかるものとし、原文を誤って伝えている、あるいは原文を裏切っているというような場合には不実というふうに考える。そして訳文のよさ、訳文がどれほど整っているか、響きがいいかということを、女性の容貌にたとえて、整っている場合は「美女」、いかにも翻訳的なぎこちない訳文である場合には「醜女」、というふうに分類すると、この組み合わせは4通りある。「貞淑な美女」「不実な美女」「貞淑な醜女」「不実な醜女」だ。
最高なのは「貞淑な美女」だが、そう完璧な訳ばかりできるわけではない。世の中の通訳者の大多数は「不実な美女」か「貞淑な醜女」である。
筆者は本書内で「不実な美女」か「貞淑な醜女」のどちらがよいか、ということについて語っている。一般人の我々からしてみれば、「そもそも相手の言葉を正確に訳さなければ、発言内容が変わってしまい不味いことになるのでは?」と思えてしまう。意訳も意訳として大切だが、原文が捻じ曲がるほど強度が強いと、それは翻訳者の発言になってしまうのではないか。であるなら、まだ「貞淑な醜女」のほうが責任問題にならなそうだ。
だが実は、貞淑すぎる(字面に正確すぎる)訳も考えもので、これが大きな国際的物議をかもしたケースも存在するのだ。
繊維製品の対米輸出が急激に増えて、日米経済摩擦の第一弾となろうとしていたとき、ニクソン大統領が佐藤首相とサシで話し合った。通訳者だけが同席していたという。ここで大統領は、国内の繊維業者、組合から何か手を打つよう圧力をかけられている窮状を訴える。首相は「善処する」とか「前向きに検討する」などの答えをしたとされている。共同声明にはこの点が出なかったので、密約があるのではないか、と取り沙汰されもした。
実は大統領は首相が何らかの処置をとることを約束したと思い、首相のほうは何も約束をした覚えはないので何もしなかった。このため大統領は、首相のことを嘘つきだと思うようになる――米国では嘘つきというのは重大な人格的欠陥だとされる。この結果、2度にわたるニクソン・ショックの時には、新聞発表のほんの数時間前まで日本側に知らされなかったという。
なぜこんなことになったか。「前向き」ないし「善処」が英語になったとき、大統領はそれを聞いて、首相が約束をしたと受け取ったのだとされている。これをいわゆる「正確」に訳すとすると、例えば、
• I will examine the matter in a forward looking manner.
• I will cope with the situation properly.
などとなる。一説では、このときは、
• I will take care of it.
という英語になったともされる。
ところが問題は、これらの英訳には本当にちゃんと何かの対応策をとるというニュアンスがあるのに対して、元の日本語で「善処する」「前向きに検討する」という表現を使った当の本人には、何もするつもりはないことであった。
いわば「遺憾の意」である。「遺憾の意」とは形だけの言葉であり、中身は無く、言ったところで何か行動するわけではない。こうした美辞麗句は、訳さずにバッサリ切るほうが後々誤解を生まない。その類の取捨選択が通訳にはつきもので、話者の母国の文化を理解しつつ、立場や真意さえも汲み取りながら言葉を選ばないといけないのだ。
筆者は、師から「通訳は言葉にではなく、情報に忠実たれ」「まず意味の中心をつかんで、それを伝えよ」と戒めを貰い、以後それをモットーに仕事に臨んでいるとのことだ。こうした話を聞くと、通訳の現場がいかに一筋縄でいかないか、そして「AI翻訳」に取って代わることができない「感情労働・頭脳労働」であることが、ありありと実感できるだろう。
――そして通訳の使命は究極のところ、異なる文化圏の人たちを仲介し、意思疎通を成立させることに尽きる以上、両方がいかなる文脈を背景にしているかを事前に、そして通訳の最中も可能な限り把握し、必要ならば字句の上では表現されていない、その目に見えない文脈を補ってあげねばならない。
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【まとめ】
1 通訳とは売春婦だ
私ども通訳者も、同じ言語圏内のコミュニケーションである限り、その中に入り込む余地などまったくない。異なる言語間のメッセージや情報の伝達、意思疎通の必要性が生じた時に初めて、その存在価値が認められるという、思えばはかない、はかない商売なのだ。
師の徳永晴美氏は、こんなことを言っている。
「いいかね、通訳者というものは、売春婦みたいなものなんだ。要る時は、どうしても要る。下手でも、顔がまずくても、とにかく欲しい、必要なんだ。どんなに金を積んでも惜しくないと思えるほど、必要とされる。ところが、用が済んだら、顔も見たくない、消えてほしい、金なんか払えるか、てな気持ちになるものなんだよ」
サービスをご提供申し上げるお客さんが次々とクルクルと替わる。それが売春婦に似ているのだ。
通訳・翻訳という職業の魅力でもあり、難しさでもあると言えるのが、「多様性」だ。それも、いろいろな面で多様であるといえる。多様に多様なのだ。
翻訳にあたって訳されるテーマそのもの、訳の環境は実にさまざまである。小説や詩などの文学作品や学術論文の翻訳もあれば、敵国のビラ、政府の公式発表、法文書、契約書、特許申請書、機械の説明書、嘆願書や恋文を翻訳する場合もある。通訳ともなると、ありとあらゆるテーマの国際会議や契約交渉、学術会議に呼ばれる。
この稼業は役得で、人間のありとあらゆる活動分野の現場を経験する機会に恵まれる。単にのぞくというよりも、言葉という媒体を通して、ほとんど当事者になりきって実にさまざまな職業、さまざまな人々の立場を追体験できるのだ。そして同時にいろいろな立場の人、各分野の人々の頭の中を垣間見ることが出来る。言葉というのは、表現の手段であるだけでなく、思考の手段でもあり、いわば人間の考え方の型を如実に反映するものである。通訳するとき、あるいは翻訳するとき、訳者はスピーカーや原文作者の思考の型をも他言語に移し替えるのである。だから、さまざまな他人のものの考え方の構造と筋道を、受動的にだけでなく、能動的に実体験できる。まさにこの点が、通訳・翻訳稼業の苦行と魅力の源である。
2 不実な美女か貞淑な醜女か
非の打ちどころのない理想的な訳というのは、まず原文が伝えようとすることがらを余すところなく正確に伝えている、という項目に当てはまる。そのうえで翻訳ならば、もともと訳文で書かれたかのような自然な整ったものに仕上がっている。通訳ならば、もともと訳語で述べられたような自然な無理のない発言になっていて耳障りではない、それを私たちは「いい訳」というふうに判断している。
さて、この原文に忠実かどうか、原発言を正確に伝えているかどうかという座標軸を、貞淑度をはかるものとし、原文を誤って伝えている、あるいは原文を裏切っているというような場合には不実というふうに考える。そして訳文のよさ、訳文がどれほど整っているか、響きがいいかということを、女性の容貌にたとえて、整っている場合は「美女」、いかにも翻訳的なぎこちない訳文である場合には「醜女」、というふうに分類すると、この組み合わせは4通りある。「貞淑な美女」「不実な美女」「貞淑な醜女」「不実な醜女」だ。
最高なのは「貞淑な美女」だが、そう完璧な訳ばかりできるわけではない。世の中の通訳者の大多数は「不実な美女」か「貞淑な醜女」である。
時と場合によって、2つのうち求められるほうが変わってくる。例えばパーティーのような席では、どちらかというとムードのほうが大切ということがある。誰に情報を伝えるよりも、そのときの雰囲気を損ねないような、あるいは盛り上げるような通訳が必要とされる場合が多い。だから、言われた単語を正確に訳すために何度も言い直したり詰まったりするよりも、美しくきれいに仕上げたほうがムードを壊さなくていい。しかし、何億という金の損得がかかっているような重要な商談の最中には、美しい訳よりも、日本語として響きがいいよりも、相手が何を欲しているのか、何で怒っているのかということが正確に伝わるほうが、遥かに大切だ。というわけで、ケース・バイ・ケースで「不実な美女」がよかったり、「貞淑な醜女」がよかったりするわけだ。
といっても、貞淑すぎて(字面にとらわれすぎて)、相手が一体何を言いたいのか伝わってこない訳がしばしばある。その筆頭が挨拶だ。「お疲れ様でした」を「You are tired」などと訳したら煙たがられるし、「Good morning」は「よい朝」ではない。挨拶には型通りで中身のない美辞麗句が多いため、適宜相手の言語の挨拶に合わせた意訳が必要になる。
通訳や翻訳を介する以上、どんな単語で、どんな語順で相手が語ったかということは、受け手には分からないのだ。分かっているのなら、通訳も翻訳も不要。お互い知りたいのは、相手が一体何をいいたいのか、相手が自分に一体何を要求しているのか、なのである。そのメッセージの中核を必ず伝えることが、訳者の使命、至上命題。つまりどんな字句を使って表現したということよりも、情報まるごと全体をとらえて、その本質を伝えることが訳者に何よりも求められているということになる。一見浮気に見えて、その実、心底相手を愛しているタイプがいいのである。
3 はじめに文脈ありき
次に述べるのは、ジュネーブ会談後のゴルバチョフのスピーチを通訳したときの一コマだ。
原発言のスピーカーであるスイス大統領が、同じ舞台に立つ米レーガン大統領とソ連ゴルバチョフ書記長に対して呼びかけているにもかかわらず、フランス語の通訳者が「議長閣下ならびに事務局長閣下……」と言ってしまったのだ。
辞書を引けば、Présidentというフランス語の単語は、英語と同様、議長とも、社長とも、大統領とも、総裁とも、頭取とも、学長とも、裁判長とも訳され得ることが了解できる。しかし、レーガンとゴルバチョフがいる場においての組み合わせは「大統領と書記長」しかあり得ない。
単語のおかれた状況、要するに前後関係のことを、言外の状況をも含めて、脈絡とか文脈、あるいはコンテキストなどと呼んでいる。そして言葉の意味というのは、ずいぶんと文脈に支配されている。つまり前後関係に左右されるものなのである。だから、この例のように、訳語が文脈に裏切られてしまうケースは、実はしばしばあるのだ。
考えてみれば、母国語を駆使する際に誰でもみな、無意識にそういう操作を行っている。とくに同音異義語が驚くほど多い日本語においては、耳から入ってきたその語の意味を同音の他意の言葉と取り違えないで、意思疎通が成立するのは、まさに文脈のおかげなのである。母国語においても、本や新聞、雑誌を読んでいて、あるいはテレビ、ラジオを聞いていて、分からない単語があるとき、われわれは必ずしも辞書を引かない。前後関係でほぼ意味が確定できるからである。生まれてこのかた現在に至るまで、われわれが蓄えた日本語のボキャブラリーの圧倒的大多数を、辞書や百科事典を引いたり、親や先生に教わるのではなく、まさに文脈に頼って身につけてきたはずである。
言葉を駆使することを商売とする通訳者は、宿命的にこの敵とも味方ともなり得る文脈に対する感度を研ぎすましていかねばならない。仕事を依頼された通訳者がうるさいほどしつこく関連資料を請求するのは、会議なら会議の、交渉なら交渉の当事者と同じ文脈を共有しなくてはならないからである。
日本人及び日本語のコミュニケーションにおける「非論理性」は、こうした文脈に「過度に依存しすぎる」ことが原因で起こっている。
第1の原因は、「ツー」といえば「カー」と通じる日本人同士のコミュニケーションに浸り続けてきた習性で、あまりにもあまりにもあまりにも省略し過ぎてしまって、文脈を共有しない仲で通じないものまで省いてしまうせいである。
第2の原因は、「至近距離の」人間関係を損なうことを恐れるあまり、白黒をはっきりさせることを嫌い、因果関係をあからさまにせず、なるべくぼかして表現し、論理性をできるだけ目立たないように隠すか、少なくとも前面に押し出さないように努める傾向が言語習慣の中に根づいているせいである。
第3の原因は、やはり身内コミュニケーション特有の、肝要なところは暗黙の了解ありという習性で、「至近距離のごく微妙なニュアンス」にこだわりすぎて、むやみに枝葉末節に分け入り、全体が見えない話し方をするせいである。
共通の文脈を持たないところで意思疎通を図るというのは、インフラが整備されていないところに工場を建設するようなもので、はなはだ面倒で手間のかかることなのである。そして通訳の使命は究極のところ、異なる文化圏の人たちを仲介し、意思疎通を成立させることに尽きる以上、両方がいかなる文脈を背景にしているかを事前に、そして通訳の最中も可能な限り把握し、必要ならば字句の上では表現されていない、その目に見えない文脈を補ってあげねばならない。
4 外国語を学ぶということ
外国語に接することによって、われわれは初めて母語を意識下にとらえ、突き放して見るようになる。日本語を世界に3,000ある言語のうちの一つにすぎないものとして見つめ直す。
もっとも「外国語を知って、人は初めて母国語を知る」という真理は、とうの昔にゲーテが言い当てていたが。
その点から考えても、ある程度基礎を固めた母国語を豊かにし、磨きをかける最良の手段は、外国語学習なのではないだろうか。例えば通訳や翻訳という作業を通して、両方の言語間を往復する。外国語でこの概念がよく分からない。文脈から推し量ったり、あるいはチンプンカンプンで辞書を引いたりする。対応する日本語が出てくる。結果的に日本語の語彙も外国語の語彙も増える。日本語を外国語にするときも、これは何だろうと懸命に考える。日本人はこれをどういう意味で遣っているのだろうと国語辞典や百科事典に当たり、それを移し換えるために外国語の辞典を引く。こうして語彙や文型の蓄えが、往復運動の強制力によって飛躍的に拡大していく。また両言語の恒常的な比較によって、双方の構造やその背後にある独特の発想法がよりしっかりと把握されていく。
結局、外国語を学ぶということは母国語を豊かにすることであり、母国語を学ぶということは外国語を豊かにすることなのである。
ロシア語通訳協会のシンポジウムで、各言語のトップレベルの通訳者を招いてお話を伺ったところ、とても不思議なことに気付かされた。通訳者一人一人が、それぞれの言語を母語にする本国の国民性を、もう驚くほど色濃く染み着かせていることだった。
中国語や朝鮮・韓国語の通訳者の話は律儀でクソ真面目、冗談など飛ばしたりせず、服装は地味目。英語は、羽目をはずさない程度のユーモアを備えた常識人タイプ。フランス語は服装もしゃべる内容もちょっとキザっぽく気取っており、真面目さを正面から押し出すのを極度に嫌う。英語圏のピューリタン的な発想でいうと、セクシャルハラスメントに該当するような物言いも結構する。それも、なかなかスマートに。カトリックはもっと鷹揚だというのが、さらに露骨に出てくるのが、スペイン語、それにイタリア語。おおらかで、明るくユーモア感覚が抜群になってくる。他の言語の通訳者たちの印象では、ロシア語の通訳者は物事に動じない肝っ玉の太さを共通して持っているとのこと。
言語と同時に人間は、その言語の背負っている文化を否応もなく吸収してしまうようなのだ。このことからも分かるように、言葉は、その国民性の反映であり、その国民性の一部なのである。
言葉は、民族性と文化の担い手なのである。その民族が、その民族であるところの、個性的基盤=アイデンティティの依り拠なのである。だからこそそれぞれの国民が等しく自分の母語で自由に発言をする機会を与えることが大切になってくるのだ。それを支えて可能にするのが通訳という仕事、通訳という職業の存在価値でもある。 -
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米原万里の文章を読んでいるとロシア語の前に日本語が巧いことに唸ってしまう。こんなに日本語の文章が巧くて、膨大な読書もできて、ロシア語の達人でもあるという才能の豊かさに嫉妬しまうのだ。
しかし、そんな才女も完全無欠ではない。共産主義に傾倒しているせいなのか、その思想に若干の歪みがある。理論的な解析は極めて鋭いが、理性では判定できない事柄を無理に解析しようとして歪みが生じている。例えば、政治や宗教に対する見方に歪みがある。
とはいえ、それを割り引いても本書は学ぶところが多い。彼女が「打ちのめされた本」を知ることができると同時に、彼女のものの見方を知ることもできるからだ。
米原万里は2006年にガンで亡くなった。56歳だった。あまりに早い。才能ある人はやはり短命なのか。本書の最大の価値は、その闘病が垣間見れることであろう。
彼女ほどの知性の持ち主がなぜ56歳という若さで死ななければならなかったのか。これは完全に私の主観であるが、彼女の理性が彼女の死期を早めてしまったように思えてならないのだ。 -
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米原万里のエッセイ集。その中でも、特に彼女の職業であった、「同時通訳」に関するもの(とても真面目なものから、ユーモアたっぷりのものまで)をテーマにしている。
本書は、書下ろしではなく、米原万里が色々な雑誌に書いたものを集め、再編集したもの。本書の単行本の発行は2000年12月であるが、雑誌に書かれたものの初出は、97年から00年まで、特に00年のものが多い。
米原万里は1950年生まれであるが、作家としてのデビューは遅く、1995年。亡くなられたのが2006年なので、作家としての活動期間は10年強と非常に短い。しかし、多作の人であり、Wikiによれば、この期間中の単独での著作を20冊以上、その他の共著や対談集等、作家として非常に多くの仕事を残されている。彼女の著作の愛読者であれば分かるが、著作は1冊1冊にボリュームがある、けっこう分厚さのあるものが多い。多作で饒舌。単行本以外にも週刊誌に連載を持たれていたり、テレビ出演をされていたり、とても活動的な方であったようだ。文庫本のあとがきにも記されているが、おそらく、エネルギーの固まりのような方だったのであろう。
私は彼女の著作を10冊以上読んでいるが、同時通訳をテーマとしたものは、実は苦手。同時通訳の苦労や、その難しさは著作を通じて伝わってくるのであるが、やはり自分の日常とほとんど関係のないテーマであり、あまり実感を感じることが出来ない。本書を読んで、米原万里さんを、更に尊敬するようにはなったが、面白い読書だったかと言われると、少し答えるのが難しい。 -
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ロシア語同時通訳者である米原万里さんが、日露文化に触れる中でピックアップされた日常のクスッとなる小噺を集めたエッセイ集です。
ただし、タイトルにガセネッタ、シモネッタとありますがガセネタもシモネタもあまり出てはきません。
◯女人禁制の聖域にも
米原さんの知人である田丸公美子さんが通訳者として掘削現場に同行した時のこと。日本側JR幹部が恐縮しきり、『女の方が立ち入るのは、どうかご勘弁を。工事現場の人間が騒ぎますので。』というと、田丸さんがこう返したそうです。『ええ、どうせわたくしはフジョー(不浄)の身でございますから。まあ、でもこのトンネルはリニアモーターカー用でございましたよねえ。かえって、フジョー(浮上)しめよろしいんじゃございませんこと。』
冒頭に、同時通訳者は常に時間との勝負であるためニュアンスを伝えにくい駄洒落を嫌うはずだが、意外と駄洒落好きが多いという話題があります。こんな頭の切れる会話を人生で一度でもしてみたいなぁと思ってしまいました。
◯浮気のすすめ
『外国語や外国文化に接したとときの病的反応には、それに夢中になって絶対化するか、逆に自国語と自国文化を絶対化するかの二通りある。』
とっても心当たりがあり、それを文章にされていたのでどきっとしました。外国語学習はどうしても長い時間と努力を費やさねばならないためについ忘れてしまいがちな部分ですが外国語や外国文化に触れて初めて知ることに驚いたり新鮮味を感じたり、面白く感じたりする純粋な気持ちをもっと積極的に感受していきたいと思いました。 -
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米原万里の4つの講演での講演録。高校生向けの講演が2つと、愛知県主催の講演、神奈川新聞社主催の講演。後者2つが米原さんが職業としていた通訳に関してのもの。後者2つの講演の方が前者2つの高校生向けの講演よりもずっと面白い。それは、同時通訳という、普通の人間があまり知ることのない世界の職業的専門性について、ご自身の経験をもとに話をされているから。前者2つに比べて、経験に裏付けられた、圧倒的に地に足のついた内容だからだと思う。
私の妻はタイ人で、かつ、日本語がほとんど出来ない。会話はタイ語で行うが、困るのは、私の知り合いの日本人と会話をするとき。妻はタイ料理をつくってふるまうのが好きなので、これまで多くの知り合いに私の家に来てもらって一緒に食事をした。その時の会話の通訳は私の仕事になる。私のタイ語はとても流暢とは言えないレベルではあるが、辞書を使いながらではあるが、一応、何とか会話がつながる程度の通訳の役割は果たせている。それは逐語訳を諦めているから出来ているのではないかと思う。双方の言いたいことが何で、タイ語に訳す場合には、それを出来るだけ簡単な単語に(簡単な単語しか知らないから)する必要がある。それが何とかうまく機能しているのだと思う。
本書の中で米原さんがプロの通訳も限られた時間の中で、時には話を端折りながら「意味を通じさせる」「コミュニケーションを成立させる」ことに集中するのだという意味のことを書かれていて、私の方法も、あながち間違っているわけでもなかったな、と心強く感じた。 -
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ものの10分で読み終わる、非常に薄い文庫本。
まだ知らない米原さんの本だったので、ハテナと思って購入。
かなり昔、椎名誠とテレビスタッフとともに、シベリア滞在したときの記録を子供用の新聞に載せたものを本にしたらしい。
内容は面白いけど、大人としてはやはりもっと細かく書いて欲しいので、消化不良の感。
しかし寒さが具体的で凄い。
石油製品はビニールやプラスチックなど、のきなみパラパラと崩れ落ちるという、、、怖い。
これほどの寒さでも、子供は学校に行くし、大人は仕事に行く、というフレーズが印象的。
人生で一番美味しかったのは、シベリアのお寿司(日本食に飢えてみんなで想像して食べたもの)という小話を他所で読んだけど、その話がなくて残念だった。 -
Posted by ブクログ
同時通訳、作家、エッセイストとして活躍していたが、がんで惜しくも死去した米原万里氏の唯一の講演録集。
転移がんの苦痛に耐えながらの公演は、サービス精神に溢れている。
第1章「愛の法則」と題された高校生相手の講演では、もてる男と全然もてない男をフランス革命やロシア革命になぞらえて「フル」ジョアジーと「フラレ」タリアートと洒落ている。
彼女の説によると、社会が安定し栄養がいいと女の子が生まれ、逆に栄養が行き届かないと男が生まれるらしい。
第2章「国際化とグローバリゼーションのあいだ」も、高校生相手の講演。
国際化という時、自動的にグローバリゼーションと訳しているが、大きな違いがあると。
日本人が言っている国際化は、国際的な基準に自分たちが合わせてゆくという意味だが、アメリカ人の言うグローバリゼーションは自分たちの基準を世界に普遍させるということ、自分たちが正当で自分たちは変わらないということだそうだ。
日本人はこのことをちゃんと自覚すべきだと警告する。
第3章「理解と誤解のあいだ」第4章「通訳と翻訳の違い」と、同時通訳を担当した時の苦労話などが面白く語られている。