【感想・ネタバレ】不実な美女か貞淑な醜女かのレビュー

\ レビュー投稿でポイントプレゼント / ※購入済みの作品が対象となります
レビューを書く

感情タグBEST3

Posted by ブクログ

著者の絶筆に著者の魅力が詰まっている。

異文化摩擦の最前線である通訳として従事した著者の経験から、通訳翻訳の魅力が記された本。我々が日常的に享受している通訳業者の恩恵だが、その裏側には喜劇悲劇が隠されている。
本書は一度でも母国語以外の外国語を勉強した者にとって大変共感出来る場面が多く存在する。

また、あとがきの後に編集部注として本書出版後、編集部宛に届いた引用誤りの手紙に対する著者の返信が記されている。これが著者の絶筆だそうだが、ここに著者の魅力が詰まっていると感じた。

0
2021年03月19日

Posted by ブクログ

何度目かの再読。前日に読んだ本に引用されていたので。内容については語るまでもない、通訳から見える素晴らしい異文化間コミュニケーション論。この本は、2007年以降?の版の巻末に、編集部注として、読者から指摘された間違いに対して、筆者がそれを認め感謝する内容の返信にして絶筆が掲載されているのだが、必読。

0
2021年03月19日

Posted by ブクログ


1年くらい前に1回読んだが、再読した。この本は通訳に関する本だが、通訳に興味がない人こそ一読する価値があると思う。文章の書き方も決して飽きさせることのない、ある意味笑いを誘う表現で、スイスイ読むことができる。通訳者の楽しさや苦労など、通訳を経験したことがある人にしかわからない感情や考えは非常に興味深かった。また通訳以外でも著者は言語(学)についても言及しているが、これも非常に納得させられるものが多く、勉強させてもらった。著者米原万里自身ロシア語通訳者だったため、ロシア語を多少知っていると余計楽しめると思う

0
2021年01月21日

Posted by ブクログ

ネタバレ

英語ができないしもちろん他言語もできないわたしは、外国語を話せる、そして通訳ってだけで尊敬に値する。同時通訳さんなんて惚れ惚れする。そして通訳さんて、言語のコミュニケーションのプロ中のプロだけど、いかに相手に伝えることができるかなんだなと思った。そして雇われるっていう苦労もあり。あとやはり日本語のボキャブラリーが豊富で、そして美しい日本語を知っているからこそ、通訳ができるんだなと感動した。もっと勉強しよう。

0
2019年04月27日

Posted by ブクログ

尊敬する米原さんのエッセイ。米原さんの口調は軽やかだけれども、エッセイと呼ぶには奥深く、同時通訳という特殊な世界での数々の驚きのエピソードが非常に面白いです。私が翻訳の仕事を始めた頃にはすでに故人になられていて、生でその同時通訳の肉声を聞いてみたかったと思えてなりません。軽やかなパフォーマンスの裏に血の滲む努力があったこと、記憶に留めておきたいです。

0
2016年05月23日

Posted by ブクログ

言わずと知れたロシア語同時通訳の第一人者であった米原万里の通訳論。何度も読んだがやはり文句なしの名著。通訳を目指す人ではなくても、言語そのものに興味のある人は読んでおいて絶対に損はないだろう。

学校の英語の授業では基本的には字句通りの解釈を求められる。もちろん、それが外国語を学ぶ上で必要不可欠なことは言うまでもない。字句通りの解釈は基礎を学ぶ上では有効であるし、大量のインプットなしにアウトプットもありえないことは本書を読めばよく分かるだろう。しかし、ある程度のインプットが済めば次のステップとして求められるのは「ある外国語の発言や文章が何を言わんとしているのか、その核心をとらえること」だろう。言葉とは意味を伝える媒介であるということは、つまり言葉の根底にある意味を掴まなければ意味がないということだ。そしてそれこそが、つまり言葉によって伝達しようとしている発話者の生み出した概念をつかんで外国語に移し替えることこそが、通訳者の仕事なのだ。尚「通訳の全プロセス」におけるこの「言葉の前の概念」は本書で説明されているが、この考え方は外国語を扱う人にとって何かヒントになるものなのではないだろうか。

それにしても通訳という仕事をこれほどまでに魅力的に語った本が他にあるのだろうか?まぁ自分自身、通訳論について書かれた本を数多く読んだわけではないのだが、おそらく、いや絶対にこれほど面白く通訳について書かれた本はないだろうと言い切れるほどに本書は面白く興味深い。言葉を通して数々の考え方、思考方法を疑似体験できる通訳という仕事の魅力が本当によく理解できる一冊だ。

0
2020年11月18日

Posted by ブクログ

言語を学ぶ人間としては、筆者の「言語」に対する考え方・捉え方は新鮮で、読んでいて新しい世界の見方を得れる感覚があった。
その見方も突飛過ぎず、「言われてみればそうだね」という適度な距離感なのがさらに印象深いものにしている。
また、全体を通してユーモアが散りばめられており、思わず吹き出してしまうこともあった。
伝えたいメッセージは散発的に出てくる印象で、読後に一言でまとめようとするとまとめにくいが、全体を通して「言語」に対する新しい角度からの見方を教えてくれる、そんな気がする。

0
2016年01月16日

Posted by ブクログ

 鳥飼久美子著『歴史をかえた誤訳』を読んでこの本の存在を知った。鳥飼氏は私が中学生の頃から憧れた同時通訳者で、ほとんどアイドル的存在だった。本書の著者米原万里氏は今回初めて知った。ロシア語通訳で、エリツィンやゴルバチョフが大統領の頃から活躍しているという。

 ロシア語通訳としての豊富な経験から多くの実例を挙げ、通訳者あるいは翻訳者の使命を語る。また同業者や通訳としての先駆者たちの著書からの引用も的確で面白い。ロシア語通訳でありながらロシア語だけに偏らない書きぶりも好感が持てる。とにかく面白くて直ぐに読み終えた。素晴らしい通訳者はアウトプットに優れているのだろう。

 本書の『不実な美女か 貞淑な醜女か』というタイトルが目を引くが、これは訳文が原文に忠実かどうかを「不実」と「貞淑」で表し、訳文が美文かどうかを「美女」と「醜女」で表すという、今ならおよそやってはいけないようなことをしていた。あまりに面白い例えで、思わず唸ってしまった。

 先日読んだ吉村昭の『黒船』も幕末のペリー来航時に通詞を勤めた男の物語であった。この通訳という家業が如何に大変な仕事かわかる。

 この手の話になると、どうしても自らの失敗を思い出してしまう。地元の港湾と米国の港湾との協定の下訳を誤訳してしまった経験がある。後にきちんと訂正されたが、まだどこかに原稿が残っているかもしれないと思うと、いまだに顔から火が出るようだ。

0
2015年10月05日

Posted by ブクログ

刺激的なタイトルに惹かれて思わず購入。
ロシア語の同時通訳者として活躍する著者の『通訳』という仕事の妙を教えてくれる作品。

外国語もからきしだめ、日本語もおぼつかない私からすれば、バイリンガルな人の頭の中は奇々怪々にしか感じられないが、この本にはわかりやすくそれを解説してくれている。更には著者や他の通訳の方々の失敗談、体験談を通し、異なる文化異なる価値観での会話の中で、日本という国の文化の輪郭を確かめることもできる。
気軽なエッセイ、異国への紀行本のように、通訳を目指していない人でも楽しく読むことが出来るだろう。

この本では通訳という仕事は多様な表現を受けている。たったその場限りに重宝がられ、事が終わればおさらばされる売春婦、ふたりの主人に仕える従僕、絶対的な時に抗う存在でありながら、異なる宇宙を繋げる存在でもあり、コミュニケーションの神に仕える信徒だ。通訳という仕事の大変さと興味深さを広げてくれる。

元より人が何かを表現する、何かを伝えるにあたっては必ず齟齬が生じるのは必然。それは通訳ではなく、普通の日常会話の中でも勿論発生する事態だ。
伝言ゲームはもちろんのこと、一対一であっても伝えていたものが伝わっていない、意図していないものが伝わり相手が不愉快を呈することもしばしば。
人との対話の難しさと、それが通じたときの心の底から溢れ出る歓喜を思い出させてくれる本だった。

0
2015年08月16日

Posted by ブクログ

ネタバレ

 通訳から言語、国際関係まで自身の経験から面白くかつ、鋭く切り込んでいる。外国語を学んでいる人には是非読んでほしい。久しぶりに人に薦めたいと思う本に出会えた。
 通訳という職業について様々な苦労と失敗談が語られているが、エピソードの紹介に留まらず考察を深めているところが凄い。差別語から差別の実態についての意見には思わず納得。卑猥な会話が仲間の雰囲気を作り出すということが、国を超えてあることだということも面白かった。
 訳の仕事は大きく翻訳と通訳に分けられる。私のような素人は対象の言語を熟知していればどちらもできるのではないか、と思ってしまう。しかし両者の間には大きな隔絶がある。まず音声と文字では頭での認識の仕方が異なる。同音異義語などは音声から認識する場合、誤認識する可能性がある。また訳すまでの時間の違いも両者の決定的な違いだ。通訳は即時に変換しなければならないが、翻訳は納得のいく訳を考え吟味できる時間がある。
 なぜ通訳が機械にとって代わられないのか、という疑問にも説得力のある説明をされている。単語は言語間で一対一の関係ではないし、同じ言葉でも会話の流れ、前後の文脈でまったく異なる意味になる。さらに文化という大きな文脈が異なるために機械で自動的に翻訳しようとしてもうまくいかないのだ。
 通訳者が発言者の言葉を聞いて、正しく理解し、それを正確に表現する外国語の言葉を組み立てて、相手が正しく理解する。これは相当大変なことであることが分かった。通訳者は単に言語に堪能というだけでなく、集中力、知識、事前準備など様々な努力があって為し得ることなのだ。しかもどんなに通訳者がうまく訳そうにも、原発言がとんちんかんでは手の施しようがないという宿命を背負っている。
 最後に、外国語は母国語よりうまくならない、ということを肝に銘じておきたい。今盛んに英語力の向上が叫ばれているが、まず日本語が未熟では英語もそれ以上にはなりようがない。また自国のことを知らない人は尊敬の対象にはならず、国際力があるとは言えない。 

0
2015年04月26日

Posted by ブクログ

早世されたロシア語同時通訳者、米原万理さんの初めてのエッセイ。彼女の著作を読んだのはこれが4冊目だが、渾身の一冊といえよう。彼女の魂が入っている。
第一線で活躍した米原さんの、通訳業にまつわる苦労ややりがいや失敗の経験がつづられている。言語に関すること以上に文化人類学の視点からも考察があり、興味深い。通訳に求められるのは、外国語能力以上に母国語能力だという。
米原さんは少女時代を外国で過ごしたが、母国語の日本語がとても美しく、この本も十分なリサーチをしたうえで、理路整然と書かれている。通訳を目指す人もそうでない人も、一度は米原さんの本を手に取ってもらいたい。

0
2014年11月13日

Posted by ブクログ

この本を購入するとき、書名を一瞥した書店の女性店員の表情が険しくなりましたが、笑える本でありながら、内容はとても深い一冊です。

0
2014年05月31日

Posted by ブクログ

ロシア語通訳者の著者が,通訳というお仕事について,自分や先輩後輩の経験をもとに軽妙に語るエッセイ。

いろいろ面白いなーと思うところがありましたが,とくに印象に残ったのは,やはり言葉は文化に強く紐づいているんだなということ。ただ単純に逐語訳するだけではだめで,通訳する元の言語と通訳する先の言語,それぞれを使っている人たちの文化的背景をきちんと理解しないと,とんちんかんなやりとりになり,下手したら大きな誤解を生みかねないと。
そういった相手国の事情に深く通じていることに加えて,さらにお仕事毎に予習が必要という,とっても大変なお仕事なんだなと,改めて通訳者のみなさんを尊敬しました。著者も何度も記されてたように,大変だししんどいことも多いけど,とってもやりがいのある仕事なんだろうなぁと思いました。

0
2014年03月29日

Posted by ブクログ

台湾と中国で、通訳を通じて仕事をしている。
通訳の程度をいろいろ感じて、
おもしろく思っていた。

通訳という業務は実に難しい業務であると思う。
両者の間に立って通訳し、
利害をどのように反映するかである。
通訳は、
「コミュニケーションを成立させることを使命としている」

「不実な美女」と「貞淑な醜女」の
2つのカテゴリーは、多くの言葉を語ってくれる。
そのような通訳にあったからかもしれない。

通訳が、
日本語的日本語→中国語的日本語
→日本的中国語→中国語的中国語
というプロセスを通じてつたわっているということを、
本書ではじめて知った。
この指摘は、いろんなことを示唆している。

通訳とは、売春婦であるという指摘はなぜかおもしろい。
コンサルティングもそのような類でしょうね。
「要るときはどうしても要る。
ところが用が済んだら、顔も見たくない。
消えてほしい。金なんか払えるか、
ってな気持ちになるモノなんだよ。」徳永晴美

米原さんのたとえは、実に多彩で、おもしろい。
シモネタがおおいけどね。

恐竜絶滅の話
雄が、ウフンと縦に首をふったのに
メスが、ウフンと横に首を振った。

禁忌事項
アダムとイブが一緒にリンゴを食べた話。
鶴の恩返しを見てしまったダンナ。
浦島太郎の玉手箱を見てしまった。

禁忌事項があると、それに意識が集中し、
どうしても犯してみなくなってしまうのが人類の業。

トップレスバーの三角布の話。

外交官 yes=maybe maybe=no no=失格
女性  no=maybe maybe=yes yes=失格

古今東西の文学は、世の中の諸々の現象や
人間の営み、思索の過程や心の動きを言葉に
かえることによって余すところなく表現しよう、
つたえようという試みを何千年もの間追求してきた。」

sosiki sousiki

お疲れさま  Are you tired?

ののしる言葉をどううまく使うのか?
「雌犬の息子」
「お前の母ちゃんでべそ」
「私の息子だ。」

島国根性で仕事はできない。
「どうも」で通じる世界。

熊の親切 ;ウサギの頬に蚊がとまって、・・・

やはり 貞淑な醜女 が ビジネスをする上では
いいと思うのが 今日この頃である。

0
2013年06月26日

Posted by ブクログ

「いいかね、通訳者というものは、売春婦みたいなものなんだ。要る時は、どうしても要る。下手でも、顔がまずくても、とにかく欲しい、必要なんだ。どんなに金を積んでも惜しくないと思えるほど、必要とされる。ところが、用がすんだら、顔も見たくない、消えてほしい、金なんか払えるか、てな気持ちになるものなんだよ」(14p)
これが米原万里の師匠から授けられた「通訳者=売春婦」理論である。以降、米原万里は通訳料金の前払いを胸に刻み込んだという。

ずっとレビュアーの間から高い評価を勝ち得てきた米原万里さんのエッセイを初めて読んだ。通訳のあれこれだけで、1冊を書き通した。訳するということを全方位から解体しながら、面白いエピソードだけで繋いでゆくという荒技を、難なく成し遂げる真の知識人の魅力を満喫した。

本書の執筆は、1994年であるが、74pに、既にPC翻訳の進歩について言及している。
London has knocked some of corners off me.
という訳は、「機械翻訳で次のようにまでは処理できる」と、米原さんいう。
ロンドンは私から角の幾つかを叩き落とした。
しかし、それでは意味をなさない。どうしても次のように訳する必要があるという。
ロンドンに来たお陰で角が少し取れた。
これが「機械翻訳の限界」だと米原万里さんは胸を張る。それから30年、いくらなんでも機械翻訳は人間に近づいているんではないかと、iPhone所蔵のアプリで翻訳してみた。以下である。

ロンドンは私からいくつかのコーナーをノックしました。

良かった!全然進歩してない。米原万里さん、未だ大丈夫ですよ。

著者あとがきの後に、文庫本編集者の後書きが載っている。そこに彼女の「絶筆」が載っていた。エッセイでもなく、小説でもなく、本書の間違いを指摘した読者へのお礼の手紙だった。亡くなるたった15日前の誠実な文章だった。米原万里。かけがえの無い人だったのだと思う。

0
2024年02月20日

Posted by ブクログ

翻訳をしていることから、通訳の仕事に興味を持って読みました。
お話することに大変慣れているような書き振りで、さすが、と思わされる生き生きした文章がぎっしり詰まっています。
あとがき以降に添えられた、絶筆となる手紙の受け答えにも感銘を受けました。

0
2023年04月12日

Posted by ブクログ

【305冊目】著名な日露通訳者による通訳、ひいては言語に関するエッセイ。知人に薦められて読んだが、興味深いだけでなく、笑える!裏表紙に「通訳を徹底的に分析し、言語そのものの本質にも迫る、爆笑の大研究」との紹介は、この手の紹介文にしては正確!

タイトルは、通訳をめぐるジレンマをたとえたもの。原文に忠実か裏切っているかということを「貞淑or不実」と、文章として整っているか否かを「美女or醜女」としている。もちろん最高なのは貞淑な美女だか、現実の通訳では、不実な美女か、貞淑な醜女かの間で悩むことが多々あるとのこと。ちなみに、醜女はたいてい「しこめ」と読むが、本書ではわざわざ「ブス」とルビを振っているあたりから、著者のユーモアと思い切りの良さが伝わってくる。

主に、公共交通機関での移動中に読み進めたが、顔がにやけるのを止められず、マスクをしているためか更に大胆に声をあげて笑うことを禁じ得なかったことも幾度とあった。

しかし、一方で通訳という営みへの洞察は非常に深く、通訳と翻訳の違いから分け入った探求の道は、ときに言語学や哲学の領域まで足を踏み入れている。それでいて、通訳の現場での笑える小咄が最後まで頻回に散りばめられているから、飽きずに読み進められる。

特に印象に残ったのは2点。1つは、「どの国の言語であれ、話し言葉ではこの冗語性、すなわち余計な言葉の含有率が、60〜70%という数字がある。」というくだり。(143頁)そして、この冗語性を上手く利用して時間的余裕を作ることにより、同時通訳が逐語通訳が成立しているとのこと。通訳の中には、逐語的に訳す「貞淑さ」を大事にしている方もいるようだが、それは時に「貞淑な醜女」になってしまうとのこと。とはいえ、貞淑な醜女も必要な場面があると著者は語っている。
私自身は、話し言葉が冗語性にあふれていると知り、話すことへのプレッシャーが少し和らいだように思う。職場環境柄、書いた文章を読み上げているのかと思うような密な話し方をする人もおり、彼我の差に若干のコンプレックスを抱くときもあったが、私の無駄で冗長な話も話し言葉としては合格点なのかもしれないと思えた。

もう一つは、政治から商売から考古学から宇宙から、あらゆる話題を通訳しなければならない通訳者は、新たな現場に出向くたびに膨大な量の勉強を必要とするらしい。これにまつわり、「馴染みの概念から組み立てられた話は、記憶のキャパシティーが驚くほど大きい。ベテランの会議通訳者が、専門用語を一つでも多く覚えることよりも、その専門領域に関する本を少なくとも一冊読み切ることに力を注ぐのは、そのほうが結局その領域全般を理解することに、というこたは、用語を覚えることにも役立つからだ」と述べている。(151頁)これは、未知の分野について、まずは一冊通読するという自分の勉強法と共通するところがあり、「広く浅く」というか、「ものすごーーーーく広く、ちょい深め」に学ばなければならない通訳者の方々と共通することに少し安心。

0
2022年12月27日

Posted by ブクログ

通訳という知らない世界と職業の方々の仕事ぶりや頭の中を垣間見ることができる一冊。
原文に忠実かどうかを貞淑と不実、訳した文の整いぶりを美女と醜女にたとえていて、ああ確かに不実な美女と貞淑な醜女のどちらがよいかはケース・バイ・ケースなのだろうなと思った。

0
2022年09月04日

Posted by ブクログ

ロシア語の同時通訳の米原万里が、通訳にまつわるエピソードなどを紹介するとともに、同時通訳とは何か、ひいては、コミュニケーションとは何か等の深いテーマについても語った本。

題名が面白い。「不実な美女か 貞淑な醜女か」。同時通訳の現場には通訳のスタイルを決める2軸がある。ひとつは、原語、すなわち発話者の発言をどの程度忠実に訳すか。発話者の発言に忠実に訳すことを貞淑といい、忠実にではなく意訳をしたりしながら訳すことを不実と言う。もうひとつの軸は、訳す言葉の、例えば露日通訳であれば、日本語の表現文章がきれいなものかどうか。文章表現がきれいであれば美女、きれいでなければ醜女。
「不実な醜女」、すなわち、発話者の発言内容を正確に伝えず、かつ、ぎこちない文章で訳すというのは、論外である。「貞淑な美女」が一番良い訳であるが、文化的な背景や物事を表すときの言い回しの仕方が異なる2言語の間では、それはなかなか難しい。勢い、「不実な美女」か「貞淑な醜女」かの間で同時通訳者は迷うこととなる。ではどうするか。それはTPOによる、というのが米原万里の解説だ。例えば、パーティーの席でのスピーチには正確性はさほど求められないが、一方で、座を白けさせないような流暢な訳が、すなわち、不実な美女が求められるのである。一方で、例えば大きなお金がからむ契約交渉の通訳の場では、当然、通訳の正確性が何よりも求められる。文章の華麗さは二の次であり、すなわち、貞淑な醜女が求められる訳である。

米原万里は、本書をユーモアたっぷりに書いているが、本質的には、プロが自分がプロである分野のことについて、かなり分析的に語った、真面目な本である。例えば適当かどうか分からないが、イチローが野球について語り、あるいは、三浦カズがサッカーについて語るのと本質的には同じだ。専門性とは何か、プロとは何かを考えるきっかけになる本であるが、何より通訳者を目指す人が読むと、自分の専門性を培っていくための方法論に関しての大きなヒントを得られるのではないかと思いながら読んだ。

0
2021年12月23日

Posted by ブクログ

「美女」とはすばらしい訳文「貞淑」とは忠実な訳文のこと。

同時通訳者の米原万理がその職業から見えてくる、職人技と心意気とを冷徹な頭脳で看破したエッセイである。また、民族が発生する言葉の裏にある文化を意識させてくれる。

同時通訳ってこんな仕事だったのか!とユーモアがふんだんにあるこの文章からはじめて知ることばかり。もうこれからはテレビの同時通訳に「わけわからない」などとゆめゆめ思うまい。

専門的なことの裏話も失敗談もおもしろかったが、通訳の常として異なった言葉の架け橋となって異文化を理解しつつ、言葉に対する深い洞察を述べているのがすばらしい。うなずくことばかりである。

実に頭のいい人なのだろうことは、神業に近い同時通訳をしているだけでも尊敬してしまうのだが、時に言葉に論理を与え、時に人生訓のようでもあり、プロローグから「通訳=売春婦論顛末」などとくすくす笑いで読み進めさせる、そのうまい文章にさすがと思う。

その少々硬めな内容をユーモアにつつめる彼女の筆力、早世が惜しまれる。

0
2021年09月04日

Posted by ブクログ

 初めてこの書名を目にした時は、何の事であらうかと思ひましたが、著者がロシヤ語の同時通訳者と知り、「ああ、なるほど」と得心したのであります。元元通訳翻訳を女性に例へる格言(?)のやうなものは昔からあり、実践者は皆「貞淑な美女」といふ二律背反を目指しながら、現実には「不実な美女」と「貞淑な醜女」の狭間で呻吟してゐるのでせう。
 ところで、書名の中の「醜女」は「ブス」と読ませるやうですが、現在では(特に男は)中中口に出来ない単語となつてをります。

 わたくしなどは日本語で話す事さへ苦手なのに、同時通訳者といふのは本当に同じ種類の人間なのだらうかと訝る気分があります。本書ではそんな通訳者の苦労話がユウモラスに語られます。やはり失敗談が面白い。
 翻訳者は原書を前に、腕を組んで考へたり調べたり、人に訊いたりする余裕がありますが(無論翻訳なりの難しさはあるでせうが)、通訳者は孤独であります。沈黙は許されません。

 専門用語がポンポン飛び出す会議や商談などに呼ばれる場面が多いさうで、仮に日本語の訳語が分かつても、その概念を理解してゐなければ相手に伝へられません。故にその都度、事前に猛勉強せねばならぬといふことです。
 原発言を通訳者を通じて対話者に伝へるプロセスを記号化・視覚化すると、どうしても機械翻訳では対応できぬブラックボックスがあるとか。ここに人間の通訳が失業しない理由があるのですね。しかし最近はAIによる翻訳がその部分にもかなり切り込んでゐるさうです。

 苦労話や愉快な失敗談が多く披露されて親しみも湧きますが、やはりそれ以上に「ああ、自分のやうな凡人とは次元の違ふ世界だな」と驚嘆する舞台裏だなと感じた次第であります。単に読物としても痛快なる一冊と申せませう。

0
2020年07月04日

Posted by ブクログ

何ともショッキングなタイトルですが、これは通訳における「いい訳」がいかに成り立ちにくいかを表したもの。原発言を正確に伝えているかという座標軸を、貞淑度をはかるものとし、訳文がどれほど整っているか、響きがいいかを女性の容貌に喩え、その2つが両立しがたいことを指している。通訳と聞くと、原文を即座に流暢な外国語に訳出すると大雑把にとらえがちだけれど、通訳に携わる人たちが、いかに正確で、自然な訳を作るために心を砕いているかが、ユーモアたっぷりに描かれています。

翻訳と比較した中でも通訳の宿命といえば、圧倒的な時間の制約。「時の女神は通訳を容赦しない」「手持ちの駒しか使えない」と著者も語っているとおり、瞬時に訳出しなければならない苦労が開陳されています。
そして米原女史にかかれば、下ネタだってあけすけ。「空想」のつもりが「クソ」となり、「顧問」のはずが「肛門」、「少女」が「処女」に…。

楽しさ満載の本書ですが、はっとさせられることもしばしば。外国語に通暁する著者が、いかに母国語の習得が重要かを力説している点は注目です。どれだけ外国語を勉強しても、母国語以上には上達しませんからね。

知られざる通訳の内幕。難しそうな依頼があれば、米原女史でも怖じ気づいてしまうことがあったよう。そこで師匠の徳永晴美氏は「どんな通訳者も発展途上である」といって激励したという。「完璧な通訳者なんて、処女の売春婦みたいな二律背反の骨頂みたいなもんよ」。案ずるより産むが易し。とにかく飛び込め。通訳以外の場でも励みになる言葉ですね。

0
2018年12月24日

Posted by ブクログ

何をどこまでどう訳すか。
同時通訳中、未知の言葉に出くわしたら、ダジャレを連発されたら、ののしり・シモネタ・差別語には…。
いやはや、日々の努力である。機転である。そしてきっと度胸も。

ご本人及び同業者たちの実感のこもった体験談から小咄裏話まで、あふれそうなほどにびっしり!
どれをとってもそのままコントになりそうだし、実際寸劇仕立てのも。
時に殺意を覚えるともいうこれらの話に、絡めて語られているのが論理的に解析された彼女の通訳論。
バサバサときっぷのいい米原節炸裂である。

まだまだたくさんの引き出しをもっていそうな米原さんの話にもう触れることができないのかと思うと、つくづく残念である。
通訳さんって、もっと尊敬されてもいいんじゃないかしら。

0
2018年04月17日

Posted by ブクログ

ロシア語通訳の泰斗である著者が同時通訳の世界を面白エピソードで教えてくれる良書。
タイトル名は、「貞淑=原文に忠実」、「美女=訳文として整っているか」という比喩、つまりある言語から別の言語への完璧な通訳は可能なのかというテーマが本書の肝となっている。
通訳にとって必要な資質とは、「2つの言語にまたがる幅広い正確な知識や両語の柔軟な駆使能力もさることながら、話し手の最も言いたいことをつかみ、それをどんな手段を講じても聞き手に通じさせようとする情熱ではないだろうか」(P304)。
面白話も満載。例えば、
英語のできない商社の社長が、日本語で挨拶したのを逐次通訳者が英語に訳していくが、サービスのつもりで現地で一言くらい英語をしゃべろうと発した言葉が「One please」。スピーチの後で、通訳者が社長に「最後のアレは何でしょうか」と聞くと「うん、ひとつよろしくだよ」というエピソードも秀逸(P156)。
本書の話ではありませんが、以下の有名な話もうまく出来すぎの様な…。
2000年7月―。森喜朗首相はビル・クリントン大統領(ともに当時)と首脳会談を行った。会談に先立ち日本関係者が首相に入れ知恵をした。
 「会ったらまず ”How are you?” と言って握手をしてください。クリントン大統領は ”I’m fine, and you ?” と答えますから、”Me too.” と続けて下さい。あとはすべて通訳が対応いたします」。
 ところが森首相、こともあろうに ”Who are you?”(あなた、誰?) とやってしまった。ジョークとでも判断したか、そこは大統領、”Oh, I’m Hillary’s husband.”(ヒラリーの夫です) と切り返したが、首相は筋書き通り、”Me too.”(わたしも)―。

本書に出てくる様々な裏話や失敗談も抱腹絶倒ですが、実は文庫最後の編集部注の、読者からの間違い指摘に対する著者が返信した手紙の内容の誠実さにこそ著者の真骨頂があります。そして、その手紙の日付は彼女が癌で亡くなる15日前でした。合掌。

0
2024年03月09日

Posted by ブクログ

【感想】
Youtubeで、英語音声の日本語字幕もしくは日本語音声の英語字幕を見たことはあるだろうか。発言を翻訳したものが文字として表示されているわけだが、両者を比べてみると、発言に比べて字幕の量が驚くほど少ない。なかには発言の半分も字幕化されていないケースがある。これは話者が口にしている「冗語」をばっさりカットしているからである。
また、テレビの同時通訳で時おり、語数は非常に多いけれども、何を言っているのかサッパリ分からない通訳者がいないだろうか。筆者はそれを「情報の核をつかみ、余分な情報を切り捨てる勇気と労力を惜しんだ結果である」と断じ、筆者の知人は「お役所の庶務課係長の訳ですな」、つまり判断を下すことによって責任が生じることを極力避けようとしているような訳だ、と辛辣に皮肉っている。
通訳者は話者のトレースではない。何を訳し、何を訳さずに捨てるべきか。聞こえてくるものをとにかく訳してしまうと、話の筋道や論旨を追えなくなり、言葉は流れてくるが要領を得ない庶務係長タイプの訳ができあがってしまう。そうした判断を猶予数秒で行うのが「同時通訳」という仕事なのだ。

本書『不実な美女か貞淑な醜女か』は、ロシア語通訳の第一人者である米原万里氏が、「同時通訳」という職業の難しさとそれにまつわる苦労を、実体験を交えながら解説するエッセイである。米原氏は何十年もの間、国際会議や商談に同時通訳として携わってきたプロ中のプロである。彼女が経験した失敗談や笑い話を、お得意の下ネタを交えながらユーモアたっぷりに披露していく。

通訳の職務内容は、想像を絶するほどハードで多様だ。
例えば、万国家禽会議で、「卵のコレステロールのほうが豚のコレステロールに比べてどれだけ優れものであるか」とか「鶏をあまりにも非人道的に扱っている。もう少し鶏の福祉を考えるべきだ。居住環境をよくすべきだ」という話を通訳していたかと思うと、その日の夜はボリショイ・バレエのプリマのインタビューがあるので、「パ・ドゥ・トゥ」と「パ・ドゥ・トロワ」はどう違うのかなどを予習し、翌日からは2日間のセミナーで、「日本の天皇制とロシア帝政の比較」とか「日本における中国研究とロシアにおける中国研究の比較」とかいうテーマの歴史学者たちの報告の通訳をし、次の日は、日本から輸出する養魚施設に関する商談の通訳がある。それが終わると、裏千家の家元に同行して「モスクワ大茶会」で「わび」「さび」「一期一会」などという、自分でもよく分かっていない概念をロシア人に伝えるのに四苦八苦する……。
以上は筆者が本文中で語った職務のうちの一部だが、こうした話を聞くだけで、通訳という仕事が単なるコンバーターではないのが分かるだろう。話者が所属する業界のことを広く勉強しながら、その専門知識を自分の頭で理解できるまで咀嚼し、数秒のうちに取り出さなければならない。米原氏いわく「参加者より通訳者のほうが詳しいこともある」というぐらいだから、いかに同時通釈者が普段から勉強づくめであるかが伺えるはずだ。
―――――――――――――――――――――――――――――
本書のタイトルである『不実な美女か貞淑な醜女か』だが、これは「訳の正確さを取るか訳の美しさを取るか」ということを意味している。つまり、原文に忠実かどうか、原発言を正確に伝えているかどうかという座標軸を、貞淑度をはかるものとし、原文を誤って伝えている、あるいは原文を裏切っているというような場合には不実というふうに考える。そして訳文のよさ、訳文がどれほど整っているか、響きがいいかということを、女性の容貌にたとえて、整っている場合は「美女」、いかにも翻訳的なぎこちない訳文である場合には「醜女」、というふうに分類すると、この組み合わせは4通りある。「貞淑な美女」「不実な美女」「貞淑な醜女」「不実な醜女」だ。
最高なのは「貞淑な美女」だが、そう完璧な訳ばかりできるわけではない。世の中の通訳者の大多数は「不実な美女」か「貞淑な醜女」である。

筆者は本書内で「不実な美女」か「貞淑な醜女」のどちらがよいか、ということについて語っている。一般人の我々からしてみれば、「そもそも相手の言葉を正確に訳さなければ、発言内容が変わってしまい不味いことになるのでは?」と思えてしまう。意訳も意訳として大切だが、原文が捻じ曲がるほど強度が強いと、それは翻訳者の発言になってしまうのではないか。であるなら、まだ「貞淑な醜女」のほうが責任問題にならなそうだ。

だが実は、貞淑すぎる(字面に正確すぎる)訳も考えもので、これが大きな国際的物議をかもしたケースも存在するのだ。
繊維製品の対米輸出が急激に増えて、日米経済摩擦の第一弾となろうとしていたとき、ニクソン大統領が佐藤首相とサシで話し合った。通訳者だけが同席していたという。ここで大統領は、国内の繊維業者、組合から何か手を打つよう圧力をかけられている窮状を訴える。首相は「善処する」とか「前向きに検討する」などの答えをしたとされている。共同声明にはこの点が出なかったので、密約があるのではないか、と取り沙汰されもした。
実は大統領は首相が何らかの処置をとることを約束したと思い、首相のほうは何も約束をした覚えはないので何もしなかった。このため大統領は、首相のことを嘘つきだと思うようになる――米国では嘘つきというのは重大な人格的欠陥だとされる。この結果、2度にわたるニクソン・ショックの時には、新聞発表のほんの数時間前まで日本側に知らされなかったという。
なぜこんなことになったか。「前向き」ないし「善処」が英語になったとき、大統領はそれを聞いて、首相が約束をしたと受け取ったのだとされている。これをいわゆる「正確」に訳すとすると、例えば、
• I will examine the matter in a forward looking manner.
• I will cope with the situation properly.
などとなる。一説では、このときは、
• I will take care of it.
という英語になったともされる。
ところが問題は、これらの英訳には本当にちゃんと何かの対応策をとるというニュアンスがあるのに対して、元の日本語で「善処する」「前向きに検討する」という表現を使った当の本人には、何もするつもりはないことであった。
いわば「遺憾の意」である。「遺憾の意」とは形だけの言葉であり、中身は無く、言ったところで何か行動するわけではない。こうした美辞麗句は、訳さずにバッサリ切るほうが後々誤解を生まない。その類の取捨選択が通訳にはつきもので、話者の母国の文化を理解しつつ、立場や真意さえも汲み取りながら言葉を選ばないといけないのだ。

筆者は、師から「通訳は言葉にではなく、情報に忠実たれ」「まず意味の中心をつかんで、それを伝えよ」と戒めを貰い、以後それをモットーに仕事に臨んでいるとのことだ。こうした話を聞くと、通訳の現場がいかに一筋縄でいかないか、そして「AI翻訳」に取って代わることができない「感情労働・頭脳労働」であることが、ありありと実感できるだろう。

――そして通訳の使命は究極のところ、異なる文化圏の人たちを仲介し、意思疎通を成立させることに尽きる以上、両方がいかなる文脈を背景にしているかを事前に、そして通訳の最中も可能な限り把握し、必要ならば字句の上では表現されていない、その目に見えない文脈を補ってあげねばならない。
―――――――――――――――――――――――――――――

【まとめ】
1 通訳とは売春婦だ
私ども通訳者も、同じ言語圏内のコミュニケーションである限り、その中に入り込む余地などまったくない。異なる言語間のメッセージや情報の伝達、意思疎通の必要性が生じた時に初めて、その存在価値が認められるという、思えばはかない、はかない商売なのだ。
師の徳永晴美氏は、こんなことを言っている。
「いいかね、通訳者というものは、売春婦みたいなものなんだ。要る時は、どうしても要る。下手でも、顔がまずくても、とにかく欲しい、必要なんだ。どんなに金を積んでも惜しくないと思えるほど、必要とされる。ところが、用が済んだら、顔も見たくない、消えてほしい、金なんか払えるか、てな気持ちになるものなんだよ」
サービスをご提供申し上げるお客さんが次々とクルクルと替わる。それが売春婦に似ているのだ。

通訳・翻訳という職業の魅力でもあり、難しさでもあると言えるのが、「多様性」だ。それも、いろいろな面で多様であるといえる。多様に多様なのだ。
翻訳にあたって訳されるテーマそのもの、訳の環境は実にさまざまである。小説や詩などの文学作品や学術論文の翻訳もあれば、敵国のビラ、政府の公式発表、法文書、契約書、特許申請書、機械の説明書、嘆願書や恋文を翻訳する場合もある。通訳ともなると、ありとあらゆるテーマの国際会議や契約交渉、学術会議に呼ばれる。
この稼業は役得で、人間のありとあらゆる活動分野の現場を経験する機会に恵まれる。単にのぞくというよりも、言葉という媒体を通して、ほとんど当事者になりきって実にさまざまな職業、さまざまな人々の立場を追体験できるのだ。そして同時にいろいろな立場の人、各分野の人々の頭の中を垣間見ることが出来る。言葉というのは、表現の手段であるだけでなく、思考の手段でもあり、いわば人間の考え方の型を如実に反映するものである。通訳するとき、あるいは翻訳するとき、訳者はスピーカーや原文作者の思考の型をも他言語に移し替えるのである。だから、さまざまな他人のものの考え方の構造と筋道を、受動的にだけでなく、能動的に実体験できる。まさにこの点が、通訳・翻訳稼業の苦行と魅力の源である。


2 不実な美女か貞淑な醜女か
非の打ちどころのない理想的な訳というのは、まず原文が伝えようとすることがらを余すところなく正確に伝えている、という項目に当てはまる。そのうえで翻訳ならば、もともと訳文で書かれたかのような自然な整ったものに仕上がっている。通訳ならば、もともと訳語で述べられたような自然な無理のない発言になっていて耳障りではない、それを私たちは「いい訳」というふうに判断している。
さて、この原文に忠実かどうか、原発言を正確に伝えているかどうかという座標軸を、貞淑度をはかるものとし、原文を誤って伝えている、あるいは原文を裏切っているというような場合には不実というふうに考える。そして訳文のよさ、訳文がどれほど整っているか、響きがいいかということを、女性の容貌にたとえて、整っている場合は「美女」、いかにも翻訳的なぎこちない訳文である場合には「醜女」、というふうに分類すると、この組み合わせは4通りある。「貞淑な美女」「不実な美女」「貞淑な醜女」「不実な醜女」だ。
最高なのは「貞淑な美女」だが、そう完璧な訳ばかりできるわけではない。世の中の通訳者の大多数は「不実な美女」か「貞淑な醜女」である。
時と場合によって、2つのうち求められるほうが変わってくる。例えばパーティーのような席では、どちらかというとムードのほうが大切ということがある。誰に情報を伝えるよりも、そのときの雰囲気を損ねないような、あるいは盛り上げるような通訳が必要とされる場合が多い。だから、言われた単語を正確に訳すために何度も言い直したり詰まったりするよりも、美しくきれいに仕上げたほうがムードを壊さなくていい。しかし、何億という金の損得がかかっているような重要な商談の最中には、美しい訳よりも、日本語として響きがいいよりも、相手が何を欲しているのか、何で怒っているのかということが正確に伝わるほうが、遥かに大切だ。というわけで、ケース・バイ・ケースで「不実な美女」がよかったり、「貞淑な醜女」がよかったりするわけだ。

といっても、貞淑すぎて(字面にとらわれすぎて)、相手が一体何を言いたいのか伝わってこない訳がしばしばある。その筆頭が挨拶だ。「お疲れ様でした」を「You are tired」などと訳したら煙たがられるし、「Good morning」は「よい朝」ではない。挨拶には型通りで中身のない美辞麗句が多いため、適宜相手の言語の挨拶に合わせた意訳が必要になる。

通訳や翻訳を介する以上、どんな単語で、どんな語順で相手が語ったかということは、受け手には分からないのだ。分かっているのなら、通訳も翻訳も不要。お互い知りたいのは、相手が一体何をいいたいのか、相手が自分に一体何を要求しているのか、なのである。そのメッセージの中核を必ず伝えることが、訳者の使命、至上命題。つまりどんな字句を使って表現したということよりも、情報まるごと全体をとらえて、その本質を伝えることが訳者に何よりも求められているということになる。一見浮気に見えて、その実、心底相手を愛しているタイプがいいのである。


3 はじめに文脈ありき
次に述べるのは、ジュネーブ会談後のゴルバチョフのスピーチを通訳したときの一コマだ。
原発言のスピーカーであるスイス大統領が、同じ舞台に立つ米レーガン大統領とソ連ゴルバチョフ書記長に対して呼びかけているにもかかわらず、フランス語の通訳者が「議長閣下ならびに事務局長閣下……」と言ってしまったのだ。
辞書を引けば、Présidentというフランス語の単語は、英語と同様、議長とも、社長とも、大統領とも、総裁とも、頭取とも、学長とも、裁判長とも訳され得ることが了解できる。しかし、レーガンとゴルバチョフがいる場においての組み合わせは「大統領と書記長」しかあり得ない。
単語のおかれた状況、要するに前後関係のことを、言外の状況をも含めて、脈絡とか文脈、あるいはコンテキストなどと呼んでいる。そして言葉の意味というのは、ずいぶんと文脈に支配されている。つまり前後関係に左右されるものなのである。だから、この例のように、訳語が文脈に裏切られてしまうケースは、実はしばしばあるのだ。

考えてみれば、母国語を駆使する際に誰でもみな、無意識にそういう操作を行っている。とくに同音異義語が驚くほど多い日本語においては、耳から入ってきたその語の意味を同音の他意の言葉と取り違えないで、意思疎通が成立するのは、まさに文脈のおかげなのである。母国語においても、本や新聞、雑誌を読んでいて、あるいはテレビ、ラジオを聞いていて、分からない単語があるとき、われわれは必ずしも辞書を引かない。前後関係でほぼ意味が確定できるからである。生まれてこのかた現在に至るまで、われわれが蓄えた日本語のボキャブラリーの圧倒的大多数を、辞書や百科事典を引いたり、親や先生に教わるのではなく、まさに文脈に頼って身につけてきたはずである。

言葉を駆使することを商売とする通訳者は、宿命的にこの敵とも味方ともなり得る文脈に対する感度を研ぎすましていかねばならない。仕事を依頼された通訳者がうるさいほどしつこく関連資料を請求するのは、会議なら会議の、交渉なら交渉の当事者と同じ文脈を共有しなくてはならないからである。

日本人及び日本語のコミュニケーションにおける「非論理性」は、こうした文脈に「過度に依存しすぎる」ことが原因で起こっている。
第1の原因は、「ツー」といえば「カー」と通じる日本人同士のコミュニケーションに浸り続けてきた習性で、あまりにもあまりにもあまりにも省略し過ぎてしまって、文脈を共有しない仲で通じないものまで省いてしまうせいである。
第2の原因は、「至近距離の」人間関係を損なうことを恐れるあまり、白黒をはっきりさせることを嫌い、因果関係をあからさまにせず、なるべくぼかして表現し、論理性をできるだけ目立たないように隠すか、少なくとも前面に押し出さないように努める傾向が言語習慣の中に根づいているせいである。
第3の原因は、やはり身内コミュニケーション特有の、肝要なところは暗黙の了解ありという習性で、「至近距離のごく微妙なニュアンス」にこだわりすぎて、むやみに枝葉末節に分け入り、全体が見えない話し方をするせいである。

共通の文脈を持たないところで意思疎通を図るというのは、インフラが整備されていないところに工場を建設するようなもので、はなはだ面倒で手間のかかることなのである。そして通訳の使命は究極のところ、異なる文化圏の人たちを仲介し、意思疎通を成立させることに尽きる以上、両方がいかなる文脈を背景にしているかを事前に、そして通訳の最中も可能な限り把握し、必要ならば字句の上では表現されていない、その目に見えない文脈を補ってあげねばならない。


4 外国語を学ぶということ
外国語に接することによって、われわれは初めて母語を意識下にとらえ、突き放して見るようになる。日本語を世界に3,000ある言語のうちの一つにすぎないものとして見つめ直す。
もっとも「外国語を知って、人は初めて母国語を知る」という真理は、とうの昔にゲーテが言い当てていたが。
その点から考えても、ある程度基礎を固めた母国語を豊かにし、磨きをかける最良の手段は、外国語学習なのではないだろうか。例えば通訳や翻訳という作業を通して、両方の言語間を往復する。外国語でこの概念がよく分からない。文脈から推し量ったり、あるいはチンプンカンプンで辞書を引いたりする。対応する日本語が出てくる。結果的に日本語の語彙も外国語の語彙も増える。日本語を外国語にするときも、これは何だろうと懸命に考える。日本人はこれをどういう意味で遣っているのだろうと国語辞典や百科事典に当たり、それを移し換えるために外国語の辞典を引く。こうして語彙や文型の蓄えが、往復運動の強制力によって飛躍的に拡大していく。また両言語の恒常的な比較によって、双方の構造やその背後にある独特の発想法がよりしっかりと把握されていく。
結局、外国語を学ぶということは母国語を豊かにすることであり、母国語を学ぶということは外国語を豊かにすることなのである。

ロシア語通訳協会のシンポジウムで、各言語のトップレベルの通訳者を招いてお話を伺ったところ、とても不思議なことに気付かされた。通訳者一人一人が、それぞれの言語を母語にする本国の国民性を、もう驚くほど色濃く染み着かせていることだった。
中国語や朝鮮・韓国語の通訳者の話は律儀でクソ真面目、冗談など飛ばしたりせず、服装は地味目。英語は、羽目をはずさない程度のユーモアを備えた常識人タイプ。フランス語は服装もしゃべる内容もちょっとキザっぽく気取っており、真面目さを正面から押し出すのを極度に嫌う。英語圏のピューリタン的な発想でいうと、セクシャルハラスメントに該当するような物言いも結構する。それも、なかなかスマートに。カトリックはもっと鷹揚だというのが、さらに露骨に出てくるのが、スペイン語、それにイタリア語。おおらかで、明るくユーモア感覚が抜群になってくる。他の言語の通訳者たちの印象では、ロシア語の通訳者は物事に動じない肝っ玉の太さを共通して持っているとのこと。
言語と同時に人間は、その言語の背負っている文化を否応もなく吸収してしまうようなのだ。このことからも分かるように、言葉は、その国民性の反映であり、その国民性の一部なのである。

言葉は、民族性と文化の担い手なのである。その民族が、その民族であるところの、個性的基盤=アイデンティティの依り拠なのである。だからこそそれぞれの国民が等しく自分の母語で自由に発言をする機会を与えることが大切になってくるのだ。それを支えて可能にするのが通訳という仕事、通訳という職業の存在価値でもある。

0
2024年02月16日

Posted by ブクログ

高校生の頃挫折したのをついに読み切る喜びよ
中途半端な知識人は…のくだりにはウッとなってしまった。笑

0
2017年07月02日

Posted by ブクログ

ロシア語同時通訳者、米原万里さんのエッセイ。
時に下ネタもまじえながらユーモラスに展開する。

同時通訳の仕事を現場の視点で書いているため、
将来通訳になりたい人にとっては参考になるのではないでしょうか?

諺をどのように訳すか、方言をどのように表現するのか、抜けのない訳/雰囲気重視の訳どちらがいいか・・・などなど。

通訳の仕事とは縁のない私も納得できる内容だった。

0
2016年08月13日

Posted by ブクログ

通訳は翻訳と違うこと。
通訳をする際の特殊性,難しさ(正確さと表現のトレードオフ,変換不可能な言葉,・・・)
同じ言葉でも文脈によって意味がまったく異なること
人のスピーチは冗長である。ゆえに同時通訳が成り立つ。冗長な部分を削除するから。しかし,あまりにも削除や換言をすると内容や意図から乖離することがある。
ソ連やロシアの話はあまり聞かないし読まないから新線だった。

0
2015年09月22日

Posted by ブクログ

わたしの尊敬する作家が、著作の中で『この世に面白くない本などない。面白くないと思うなら、それは内容が理解できないだけだ』というようなことを言わせているが、ほんとにそうだと思う。
この本の内容などほとんど知らず、タイトルが面白かったので読んでみた。
ロシア語通訳者のエッセイ。
通訳という仕事について、いろいろと知ることができた。
知らないことを知る、それが本を読むことの醍醐味だと思う。
実に勉強になったし、面白かった。
外国語を習得したいと思うなら、まず母国語を磨けという一言に感銘を受けた。
第一言語以上に第二言語が上達するはずはないのだから、日本語が下手なら外国語はもっと下手ということになる、と。
言葉を習得するだけではなく、操るのならその国の文化や習俗、歴史なども知らなければダメだということも。
確かに、日本語の上手い言い回し、みたいなものって、知識と教養がないと使えないし理解できないよな。

東京生まれ東京育ちのバイリンガルが、地方に行って駐留米軍兵に現地の人との通訳を頼まれ、何を言ってるのかサッパリ理解できず、別の現地の人に標準語に訳してもらってから英訳したなんて話も面白く読んだ。
確かに、わたしも夫の親族に方言が強すぎて言ってることが理解できない人がいる。
日本人なら日本語がわかって当たり前だろ、とはならないこともあるなぁ、と。

0
2015年02月17日

Posted by ブクログ

ネタバレ

<通訳あるある。プロも日々勉強。>

一流のロシア語通訳者である著者のデビュー作。

・時間との戦いが、通訳の宿命である。
・掛けられる時間と、成果物が記録に残るか残らないか、という2点が通訳と本質の大きな違いであること。

ぐらいはある程度想像のつく事であるが、以下の様な事は読んでみて初めて知った

・通訳者は新しい分野、例えば軍事工学、医学、原子力etc...の通訳を依頼された際は関連する知識と専門用語を叩き込む。要はプロでも日々是勉強という事。更に、
◇現在ロシア語通訳協会に百六十名ほどの会員がいる。そのうち理工系出身者はわずか五名で、残りの圧倒的通は大学でロシア語かロシア文学を専攻した人たちだ。78
理科系の出身者が自分の専門分野の複雑さを知りすぎているからこそ、他の分野にはてをだしかねていて、逆に文科系出身者は怖いもの知らずで、難しげな仕事を請け負うのではないかと著者は分析する。そして、
◇どんな複雑な機器や装置であれ、所詮人間の作ったものである。その人間に対し飽くなき探究心を抱く者にとって、機械だけがどうして無縁で有り得よう。79
これは小町直美氏の引用であるが、熟練の通訳者が辿り着いた、非常に示唆に富んだ意見である。

◇通訳稼業に振り向ける時間を八とすると、少なくとも二は、翻訳の仕事を引き受けるように、私はつとめている。なぜか。時間の成約(中略)に甘えて絶え間ない妥協を続けていく通訳という営みには、訳が非常に粗雑に、まずしくなっていく危険がつきまとう。限られた時間の範囲内であれ、最良最適の訳を目指すという、翻訳者的性向を併せ持つためには、時々もう少し時間的余裕のある環境に身をおいて、じっくりと辞書や専門書に当たり、より的確な語彙、より含蓄のある表現を探索する機会がどうしても必要になってくるのである。139

0
2014年08月13日

「エッセイ・紀行」ランキング