梨木香歩のレビュー一覧
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Posted by ブクログ
私には、梨木香歩さんの文章について
語れるほどの何も持ってはいない。
それでもちょっぴり
この本で分かったような気がすることを
かいつまんで紹介してレビューとしたい。
渡りの足跡を追う、梨木さんの立ち位置に
背筋が伸びる思いがする。
筆者は、種としての生きものを
きちんと意識しつつ、しきりに「個体」と
いう呼称を用いている。様々な鳥たちは
彼女にとって、個々に向き合い、自分という
人間の、生きものとしての品格を証明しようと
試みる相手なのかもしれない。
人もまた、渡る。
知床開拓団の1人だったあや子さんの言葉や
身振りを再現してみせる筆者の文章の、
それはそれは饒舌なこと。あや子さんのことが
好きでたまらないことが、梨木作品の愛読者には
間違いなく伝わるだろう。
人もまた、還る。
そこでしか生きられないという消極的な選択
ではなく、そこで生きるという確かで強いものを
心に燃やして。そこがまったく見たこともない場所であっても、生きると決めた場所へ…人も鳥も
還るのだ。
そんなふうにして見たこともない知床で生きると
決めた、あや子さんの言葉が大好きだ。
…人間って、行ったとこで、
生きていくなりのこと。
梨木香歩さんの作品には、梨木さんと梨木さんと向き合ったたくさんの生きもの(もちろん人間も含む)の生命エネルギーがぎゅうぎゅうに詰め込まれていると思う。
決まり切った言葉などで表現されてきた自然など
忘れてしまえ! 誰にともなくそう叫びたい。
季節感がどうだとか、閑静な趣きがどうだとか
言う前に、人間の先入観や予定調和で満たされた
心を解き放たなければ、私たちはいずれ、この
自然の中で個体としてその命を燃やす力を
失ってしまう。きっと。 -
Posted by ブクログ
ネタバレ梨木果歩さんの童話、となるとこれはもう読まないわけにはいかない、少しの緊張とわくわくを胸にページを開く。
そして、やはりその期待が裏切られることはなかった。
梨木果歩節全開である。非常に注意深く丁寧につくりあげられていて、吟味されたことばが美しい。イラストもぴったりだ。
こんなにもやさしい言葉で、深く、たくさんの思いをこめた作品。こどもにもおとなにも等しく、(けれどそれぞれに違った形で。)心の中に大切な「世界のつくり、不条理への疑問」「わからなさの森」を、わからないままにまっすぐなこころのことばで、豊かなかたちで映しこんでくれようとするうつくしい作品だ。
思い出すのは、やはりムーミンの世界。
ヤービというのは、自然界、動物と人間の間にいる、トロール、妖精のようなハリネズミほどの大きさの一族、クーイ族の男の子の名前である。
さまざまの知恵や文化、伝統がその原初の形のままで残っている彼らの暮らし。「ムーミン谷」を思わせるマッドガイド・ウオーター(三日月湖の名)その岸辺の住人達と語り手の人間、
ウタドリさんとの交流の物語。
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「そんざいのつみぶかさ」生き物を食らって生きてきたことの発見、生き物を殺す者のほう助をしなければ生きていけない状況、罪を背負わなければ生きていけない己の原罪に気づき、拒食症に陥るヤービのいとこのセジロ、その事実をつきつけてきたセジロの友人、(恐らく)母からの虐待を受けている虚言症の気味のあるトリカ。
「大きい人(人間)」が自然のバランスを壊し破壊し、ヤービたちの生活をおびやかしているという、その大きな災厄の影が作品全体をうっすりと覆っている。
現代社会の抱える緊急事態への問題意識を色濃くにじませながら、だがその描かれる風景は、冒険は、やりとりは、あくまでもやさしく素直で楽しく美しい。子供が冒険や会話や出来事を通して世界の基礎を、知を、愛、のようなものを学んでゆく、成長してゆく、ごくオーソドックスでスタンダードな良質の児童文学だ。
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で、ワシが思うに、この作品の中での白眉は、ヤービの叔父、マミジロの存在である。
詩人である。彼のライフワークは、ある日天啓のようにひらめいた次のような詩の一行の続きがやってくるのを待ち続けることであった。
「それはいかなる事情のもとにか、なされた」
…「マミジロ・ヤービは、この詩句からはじまるぜんたいの詩を完成させることに、自分の生まれた意味がある、とすら思っていました。」
語り手、ウタドリさんはこの一族の中で一番さえない(重要な感じのしない)道楽者の立場であるマミジロの話を聞きながら、預言者、ということを思う。
「もしかしたら、とてつもなくすごい発明(神さまのことです)をし、クーイ族史に名を残す人物になるかもしれない、とこころひそかに思いました(そして、人間の世界の歴史に名を残した重要人物だって、もしかしたら生きているときはあまり大して「重要な感じ」をあたえる人ではなかったのかもしれない、ともついでに悟りました)。」
光よあれ、という最初の詩句が置かれた瞬間、すべてが始まったように。
世界は、そして認識主体としての己は、その認識がなされた瞬間に、既にもうその存在が「なされている」のだ。在り方は、既に「なされ」ている。理不尽も原罪も、すべては既になされている。決まっている。
これが、始まりだ。
この言葉は、叙事詩的なるもの、神話的なるもの、詩であるから、時空の制約を受けない。それはもしかして未来のことなのかもしれない、とウタドリさんは思う。
まだ「なされて」ないのかもしれない、と。始まりは、未来のことなのかもしれない、と。新たな世界の示唆か、その認識の在り方の方向性を示す預言か。
ううむ。
神の預言とは。この切り口にはぞくぞくする。
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マミジロはまたヤービ族の名づけ方について語る。
「ヤービ族の名づけ方」
冒険譚のなかの挿入話のような位置づけにあたるこの章が私は大好きなのだ。
名前。個としての名前と社会の属性としての名前。
今の我々の社会では、さしあたっては、これはファーストネームとファミリーネームの違いのテーマにあたるだろうか。
ヤービ族の名づけ方においては、個としての名は存在しない。名は世代間で受け継がれてゆく。ヤービ家の最初の子はすべてヤービ、次がセジロ、三番目がマミジロ。ヤービに子が生まれればパパ・ヤービと呼ばれるようになる。
詩人マミジロは、それぞれの自分だけの名、個としての名を持つべきなのではないかと主張する。たったひとりの自分が代々のマミジロと同じマミジロ、と呼ばれることの違和感を述べる。
ヤービはその詩人の叔父マミジロとパパ・ヤービの話を傍らで聞きながら、自分はただのヤービでいいな、と思う。
彼とウタドリさんはこんな風な会話をする。
「名まえって、ちょっとしたコートのようなものなんじゃないでしょうか」
「では、ヤービというのは代々受けつがれたコートかしらね。そう、かくれみののようなものかもしれませんね。自分をやんわりおおってくれる」
(そうそう、とヤービは賛成してくれ、)「たったひとつの自分だけのとくべつの名まえがあって、それをしょっちゅう呼ばれるなんて、なんだか、ひりひりする感じなんじゃないでしょうか」
そしてウタドリさんはこんな風に語ってみせる。
「そういえば、なんとか夫人、かんとかのママ、なんていう、なんとか氏とかかんとかちゃんとに関係づけた呼び方も、その奥で『ちゃんとした』だれかがウインクしている、おおらかな『名まえ』のような気がしませんか。」
…この辺が、梨木果歩の梨木果歩たる梨木果歩節なんである。彼女の幻想的なタイプの小説「f植物園の巣穴」「家守奇譚」「沼地のある森を抜けて」「海うそ」「冬虫夏草」等で連綿と綴られているテーマ、「私とは何か」というアイデンティティの枠組みの正体を問い続け、その牢獄を打ち壊してゆくような解放と救済の色彩を帯びた作品群の、その深淵な思想がここに響き渡る。
それは例えば、「私は私だ、誰かの妻や誰かの母ではない、私は個として私だ。」という現代の正論の孕む、その深奥に潜む、痛み、のようなもの、「ほんとうの私」(コートの奥にくるまれた「ちゃんとした」だれか)の孕む虚無の恐怖、コートの持つ虚構を虚構として見極め、それを優しく再構成してゆくような独特のまなざしのことである。
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で、だがこの作品、ラストシーンのこの締めくくり方に関しては個人的にはちょっと不満、というか違和感が残っている。
ヤービが、忍び寄る「大きい人」の脅威、自然破壊の影と失われる故郷への思いを述べる箇所だ。
「マッドガイド・ウォーター、がんばれ」
「ヤービ、あなたはわたしにとってはすばらしいマッドガイド・ウォーターの一部です」「ウタドリさん、あなたも、マッドガイド・ウォーターですよ」
(中略)
「みんな、がんばれ」
美しい日暮れの風景が描写される。
…とりあえず、文句のつけようがない。
それは、違和感がない、という違和感。きれいすぎるのだ。わからなさがない。考える隙間を読者に与えない。思考停止のところにいざなってしまう。ここに至るには性急すぎる。まだだ、という気持ち。
ああでもやはり、これ以外ではおさめようがないのだという気もする。
祈りは、その思いの激しさは、ともすれば「わからなさ」を離れ、手触りの確かな明確さへ、主義主張、信念や正義の方向へと流れようとする。或いは安易に読解されるメタファへと、教訓的な「わかりやすさ」へと。思考が固着し停止してまうドグマの場所へと。
そしてだが、慎重にその偏重を自覚し自制し、作品中の作者自身の匂いを排除し、絶え間ないゆらめき、たゆまぬ思考のダイナミクスの方向へ向かおうとする意志を感ずる。「わからなさ」の抽象性へと押し戻そうとする意識の流れ、その筆の葛藤を、苦悩の跡を痛いように感ずるのだ。
…ダメだ。梨木果歩さんの作品のあまりにも激しい作者の思い入れは、問題意識の表出やその表現法、その深淵な豊饒は、いつも私をたじろがせる。テーマとしてあまりにも大きすぎて興味深すぎて短い時間で短文でさくさくとまとめあげることなんかできない。
でもせめてこうやって箇条書きメモ的なるものを残しておこう。きっと続編がでる。そのときまた少しでも進展させた読みを試みてみたいと思う。 -
Posted by ブクログ
短編集でした。
草壁皇子が主役の長編小説と思っていたので、ちょっとびっくり。
しかも、少し川上弘美っぽい不思議系の話。
それはそれで好きなのだけど、思っていたのとはちょっと違うので慣れるまで少し時間がかかりました。
でも、「コート」「夏の朝」辺りから、しみじみといいなあと。
慈しみという言葉が自然と思い起こされる。
で、「丹生都比売」
飛鳥時代、奈良時代は結構権力争いに負けて命を落とす皇子がたくさんいたけど、草壁皇子は圧倒的な後ろ盾をもって皇太子になったのに、天皇にならないで亡くなってしまった。
病弱だった草壁皇子の少年時代を書いたお話。
悲劇の皇子と言えば有間皇子や大津皇子が有名だけど、草壁皇子の悲劇はそれとは違う。
母親の過剰ともいえる期待を一身に受けながら、期待に応えることができない。
そんな自分を申し訳なく思う。
現在の子どもたちと同じ思いを抱える皇子。
“ひとはみな、それぞれの生の寂しみを引き受けて生きていく、という芯を持つ蔓なのだろうと思う。”
持統天皇(草壁皇子のお母さん)視点も入った、長編も読んでみたい。 -
Posted by ブクログ
矛盾を抱えて、生きていこう。考え続けて、生きていこう。
梨木香歩が好きだ、と思った。この前読んだ『沼地のある〜』を構想していた頃のエッセイ。あの話に至るまでの思考の流れ、渦巻きを知って、より『沼地のある〜』が気になってきた。
単純には割り切れない。違和感を感じる。だからといって、それを声高に叫ぶこともない。物語の力とは。「心を動かす」ことの危険性。「泣ける話」「全米が泣いた」という文句が嫌いなので、梨木香歩のとまどいが自分のことのように感じられた。梨木香歩の描く、「優しい冷たさ」は、私にとって心地よい。全員がわかってくれるなんて、怖い。でも、閉じこもらず、理解を得られるよう、働きかけること、考えることは、止めないでいたい。人と関わることはエネルギーがいるけれど、敬遠せず、さらっとしたことばだけを語って過ごすのではなくて、きちんと傷つくことばから逃げずにいたい。 -
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からくりからくさを読み終えてから少し間をおいて手に取った。
読んでいる間ずっと、「西の魔女…」と同じ安心感に包まれている感じがした。この世界のことをよく知っていて、どんなことにも動じない、とても信頼できる大人がそばにいる…という感じ。
自身の経験との共鳴かもしれない。
私が社会人になり結婚して間もなく亡くなった祖母。田舎から息子(私の父)を訪ねてくる時は、いつも和服に羽織を重ねた正装だった。苦労に苦労を重ねた祖母は、再婚して改姓していたが、父のところへは定期的に顔を見に来た。
祖母は何でも知っていて、どんなこともくしゃくしゃの笑顔でやり過ごしていた。
祖母のそばにいるのが好きだった。
このことを、読み終えて思い出したのだ。
アビゲイルの話は、胸の奥からうめき声が出てしまっていたくらいに辛かった。比佐子の苦しみが苦しみとして出せなかった時代の日本を思う時、それは私の父の子供時代や、若かった祖母の日々に重なる。
多くの人間や人形の魂が、その重さに見向きもされないままに消えていったことだろう。
からくりからくさの、りかさんの最期を思い出した。彼女は…きっと幸せの中で燃えたのだと思えるようになった。
梨木作品の妖しさとあたたかさには、いつもやられてしまう。心にしみて、しばらくは動けない。 -
Posted by ブクログ
これはノンフィクション。
彼女が植物や鳥に造詣が深いことは知っていたけれど、渡り鳥を見るために何度も北海道を訪れていたとは知らなかった。
サロマ湖や長都沼は知っているけれど、チミケップ湖なんて北海道に住んでいても聞いたこともなかった。
とにかく彼女は自然が持つ力というものを絶対的に信じていて、人間が自然破壊をしたのも自然の意志かもしれないし、自然を回復しようとささやかながら努力することすらも自然の計算のうちかもしれない、と。
ここまで来たら、もう、自分が信じる行動をとるしかないよね。
太古の自然にもどすことは今さら不可能なのだから、無駄に自然を損なうことなどないように気を付けながら、文明の恩恵を享受するというのが、今のところの私のスタンスですが。
自然の前では人間同士はもちろんのこと、人間とほかの生き物の存在は平等であり、風や海流は世界中で命の流れを繋ぐものであるとするならば、それらをぞんざいに扱うことなど当然してはいけないこと。
けれど、ついそのことを忘れちゃうんだよね、私たち人間は。
自分だけ良ければいいなんて思っちゃって。
“太陽は、いくら礼を言っても足りないほどの、そう、神と言ってもいいほどの存在だったのだ。そのことは、私の日常からいつの間にか乖離していた。雨も、風も霧も、みな、必要とされ、過ぎれば脅威も与える。それが自分の生命を左右するものだという、その、生物として当たり前の感覚が、乖離していた。”
どんな環境でも、そこが自分の居場所と思い定めている生物がいる。
環境が変われば、それに合わせて自分を変えていく生物がいれば、自分の過ごしやすい場所を求めて移動する生物もいる。
梨木香歩は前者を植物の中に、後者を渡り鳥の中に見ているが、人間にだってそういうところはあるのではないか、と、外国に移民した日本人や北海道を開拓した人たちに思いをはせる。
自然の中にすっくと立って世の中を見る彼女の目は、ぶれない。
だから私は、ぶれそうになるとき彼女の本を手に取るのだ。かくあらんとして。 -
Posted by ブクログ
渡り鳥というとどの鳥もみな同じで十把一絡げみたいな印象になりますが、この作品に相応しい表現になると渡りの鳥とでも言えばよいのでしょうか。
渡りをする鳥たちや自然への作者の深い愛情や畏敬が感じられるしみじみした作品になっています。ですから、単なるバードウオッチングという点で成り立つものではなく、北海道を中心とした渡りの鳥たちの観察記録はネイチャーライテイングという多面的な要素を持つ作品であるというのもうなづけます。
梨木さんは海外での暮らしの経験もおありなので、鳥たちの大陸横断の旅をみつめる眼は彼女自身の持つ大陸的な雰囲気も相まっているように感じました。ところどころに色々な種類の鳥を、彼女自身が解説した文章も挿入されてあり鳥のことをよく知らない私でも興味を持っ読むことができました。その上、時にはエッセイ的な街角の人間ウオッチングと結びつけた文章もあり好奇心旺盛な彼女の一面を見た思いで好感が持てました。