あらすじ
昭和の初め、人文地理学の研究者、秋野は南九州の遅島へ赴く。かつて修験道の霊山があったその島は、豊かで変化に富んだ自然の中に、無残にかき消された人びとの祈りの跡を抱いて、秋野の心を捉えて離さない。そして、地図に残された「海うそ」ということば……。五十年後、不思議な縁に導かれ、秋野は再び島を訪れる。
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Posted by ブクログ
物語は小さな島が舞台で、過去と現在が静かに呼応しながら展開していく。最初は時間軸がある物語と気づかずに読んでいたから、50年後の章に入った時には驚いた。過去編には馴染みのない植物や生き物、伝統的な建物の構造名称など調べながら読み進めたので、じっくり没入していった。
50年後の島を訪れた主人公が目にする変わり果てた姿には、私も一緒に落胆してしまった。開発によって失われた自然や、忘れ去られていく伝統の描写は胸に刺さるものがあった。でも、物語が終盤に向かうにつれて平家に関する伏線が回収されたり、スッキリもした。また、変化に対する心持ちが変化していく過程も丁寧に描かれていて良かった。
この小説を読んで一番考えさせられたのは、歴史や伝統、文化などが時代の流れの中で変化があったり、もしくは廃れていくものもあるという事。島出身の人ですら自分たちのルーツを知らないという現実は、決して他人事じゃないと感じた。戦前の生き証人が亡くなりつつある今、何が正しい記録なのかを見極めることすら難しいんだろうなって思う。
私も現代社会の便利さを享受して生きているけれど、だからといってその土地の歴史や文化を無かったことにはしたくない。何か大きなことができるわけじゃないけれど、せめて父や母のルーツについて話を聞いて、ささやかな記録を残しておこうと思った。
Posted by ブクログ
梨木香歩さん、こんなところにまで達してしまわれたんですね、と深く深くため息をつくように思ってしまう作品でした。
以前、どこかに掲載されていたインタビューで、この「海うそ」という作品を境に、何か大きく変わったというようなことを語っておられた記憶があります。この記憶もかなりあやふやなのですが、それからなんとなく、この作品は、重要な作品だと自分の中で位置づけてきた気がします。そういう先入観で読み始めたのですが、それが確信となるような、なんだかどっしとした重みのある作品でした。
昭和の始めに、人文地理学研究者の秋野が研究のために訪れる南九州の遅島は、読むにつれて実在の島としか思えなくなり、思わず地図を開きたくなりましたが、やはり架空の島とのことでした。その地理的なこと、文化的なこと、伝統などがあまりにもリアリティ溢れるので、作者がどれだけ、たくさんのフィールドワークや文献にあたってきたか、想像するだけで到底かなわないと思ってしまいます。(参考文献については、巻末のリストを見たらその多さ、難解さが一目瞭然です。)
ひとりの人間がとうてい抱えきれるものではない大きな喪失を抱えて、主人公秋野は、上司である教授の研究を引き継ぐように遅島にやってきたわけですが、その喪失と否応なく向き合いながら研究が進んでいくように感じられます。島の青年梶井と島の奥深くにフィールドワークに出るところは圧巻でした。フィールドワークなんて経験したことがないけれど、一緒に島の奥深くに分け入った気がするし、明治の廃仏毀釈によって、今は遺跡となった大寺院(ここにも「喪失」があります)には、恐ろしいくらいの過去の想いを感じました。
そして、遅島に関する論文は結局完成をみないまま、50年の時を経て、老いた秋野が再び遅島を訪れます。この後半に差し掛かった時、「喪失」はこのようにも描写されることになるのか、と思わず「うまいな、すごいな、さすがだな」と思いました。遅島は本土と橋でつながり、観光地として再開発が進んでいました。かつて青年梶井と歩いたあの島ではなくなってしまうという焦り、そもそもあの時知り合った島の人たちはみな亡くなっているという現実による「喪失」。
これまで、こういった田舎の村や島のニュースを見聞きしても、どこか別の世界のように感じていましたが、前半の島での研究の描写を読んで、一緒に体験したような気持になっているこちらにも、この島の変化は思い出を抉られるような辛さがありました。
秋野にとっては、島の変わりようが、神聖な自然や遺跡にまでにおよぶ人間の手の入りようが、ひどく堪えますが、これも時代の流れだ、変化はしょうがないと、諦めの境地ではなく、「喪失とは、私のなかに降り積もる時間が、増えていくことなのだ」との思いに行きつきます。実は50年前から答えは出ていて、それでも居ても立っても居られない状態でこの島に来て、島を歩くことで、どうにか喪失と向き合い、50年という月日というより人間としての老いが、やっとその答えを受け入れられたのかな、と、そんなふうに勝手に解釈しました。
作者がこの作品に込めた思いをどれくらい読み取れたか。全く自信がありませんが、またいつか、きっと読み返すことになるだろうと思える作品でした。読むたびに深く理解できるのか、それともまた違った発見があるのか、今から楽しみです。期待以上にいい作品でした。
Posted by ブクログ
植生や遺跡の描写が緻密で
実在の島ではないかと疑ってしまう
島を歩いて伝承や考察
信仰の対象であった名残を
感じさせるシーンなど
自分もフィールドワークに
参加しているようだった
最後にバブル期の開発?を
思わせる場面があって
面変わりをしんみりと感じつつも
そういった開発は
意外に失敗した事を
知っているので
この物語はまだ続いていて
変化し続けている気がする
ここ数年読んだ本の中で
マイベストに入る本だなぁ
どこか鄙びた温泉地に
持っていって
じんわりじっくり読みたい
Posted by ブクログ
少し前に読んだ『ピスタチオ』も良かったけど、こっちも超良かった!!
読書時の私自身の心持ちにもよると思うけれど、読みごたえとしては『海うそ』の方がずっと良かったかも。
昭和初期。
人文地理学者の秋野は、亡くなった同室の主任教授が残した研究を補完する為、南九州の「遅島」を訪れる。
(秋野は一昨年に許嫁を、翌年には相次いで両親も亡くしている)
遅島には、かつて修験道の霊山があった。
そして死者からの言葉を伝える「モノミミ」と呼ばれる者たちも存在していた。
しかし、神道を国体として確固たるものにしたかった当時の政府は、民間宗教の排除に乗り出した。
この島で知り合った山根氏は、まずその標的となったのが、遅島でいえば「モノミミ」だったと説明する。
「ご託宣なぞを述べたりして、人びとを思うままに操るモノミミなど、邪魔で不浄の存在でしかなかった。海外の諸外国に対しても、日本にそういう未開の習俗があると思われたくなかった。」
そんな山根氏宅の文箱から、遅島の僧侶であった山根氏の父が残していた地図を見付ける。
その地図には「海うそ」との見慣れぬ言葉が書かれていた。
山根氏の父は蜃気楼を「海うそ」と呼んでいたという。
民間宗教は姿を消しても、遅島にはまだ古い慣習も残っている。
船で調査に出掛けようとしていた秋野に、ウネさんは言うのだ。
「こまい船やが、船魂(ふなだま)さんはちゃんとおられるし、乗るときはちゃんと頼まんとあかんよ」
「船のどこに?」
「ほれは、誰も知らんのよ。」…「それは知ったらあかんの。けど船のどっかに入れてるねえ」
「それは、お札のようなものですか」
「いいんや、女の子の髪やったり、櫛やったり、歯やったり、いろいろやねえ」
それに、秋野が山で遭遇するカモシカの目に射止められるシーン。
そのカモシカの黒い眼に、秋野はかつての許嫁を重ね見る。
「許嫁は露西亜風の黒い大きな瞳をしていた。あの何もかも見透かすような瞳で、この世を渡っていくのには、やはり無理があったのだろうか。」
さらには、梶井氏宅の台所の流しを見ながら、自身の母親を思い出すシーンもある。
この旅は、遅島の失われた民間宗教や山岳信仰を辿るだけでなく、秋野から失われた人々をも辿る旅であったのだ。
ウネさんの船魂の話や、秋野の思い出との重なりに、次第に私も、この遅島の雰囲気に包まれてゆくのを感じた。
また、梨木さんらしい数々の動植物や風景描写に、南方の島ならではの湿度や潮の香り、濃い緑の木々たちの香りを感じた。
読み進めるうちに私は秋野と共に、この遅島の魅力と不思議に、すっかり取り込まれてしまった。
(作中、遅島の地名が様々登場するが、冒頭に遅島の地図が載っているので心配はない。
これで遅島が梨木さんの架空の島だというから驚きだ。)
最終章が「五十年の後」というのが、本当に感慨深かった。
戦後の日本は、建設ブーム。
ある日、秋野は、遅島に本土から橋が架かったという新聞記事を見付ける。
もう、ウネさんも山根も梶井も他界している。
秋野自身も八十を迎えた。
それでも秋野は、再び遅島へと向かうのだった。
すっかり変わってしまった島の風景。
次々と明らかになる近代化された遅島の「今」に、言葉を失くす思いだった。
「薄ら寒い風が吹いているような心地がした。」
とは秋野の思いだが、ずっと秋野と共に丁寧に歩んできた読者も、同じ思いに駆られるに違いない。
「それはやめるわけにはいかないのだろうか」
「あれは、霊山なんだ。ご神体だった山なんだ」
あぁ、山が削られてゆく。
緑濃かった島の風景も、道幅が広くなり変わってゆく。
地名は変わり、伝承を語り継ぐ者もいなくなってゆく。
そんな中、甦ったハマカンゾウの群生に、心が慰められた気がした。
けれど、まだだ。
あまりにあっさり明かされた、「海うそ」=「蜃気楼」との解答に、梨木香歩さんがコレだけで終わるはずがないと、ずっと思いながら読み進めていた。
そしてその思いは正解だった。
変わりゆく遅島に、失われてゆくものたちに、切なさを感じるだけではないラストが待っていた。
救われるかのような。
始まりさえ感じるような。
「喪失とは、私のなかに降り積もる時間が、増えていくことなのだった。」
読み終えて、胸がいっぱいだ。
★色即是空
目に見えるもの、形づくられたもの(色)は、実体として存在せずに時々刻々と変化しているものであり、不変なる実体は存在しない(空)。仏教の根本的考えは因果性(縁起)であり、その原因(因果)が失われれば、たちまち現象(色)は消え去る。
(Wikipediaより)
★森羅万象
あらゆる現象、宇宙に存在する一切のもの。「森羅」は樹木が限りなく茂り並ぶことであり、「万象」は万物やあらゆる現象。なお、「宇宙」はあらゆる存在物を包容する無限の空間と時間の広がり、及び宇宙空間を指す。
(Wikipediaより)
Posted by ブクログ
小説の舞台である「遅島」は実在する島ではないけど、文中では、さまざまな植物の名前、地形や地名などの描写が細かく、まるで本当に存在する島のようで、またその空気感、雰囲気が心地良かった。 ハッピーエンドとは言えないものの、明け方を思い出すときのような、どこか清々しさを感じる読後感と余韻。
自然・史跡・遺構等々
朗読サイトでこの本を知り購入。いつもながら自然描写が秀逸で、自然との共生の有様に思いを馳せる。古より心の拠り所としての民間信仰・仏教伝来・帰依、修験道等々様々な要因で各地でそれぞれの栄枯盛衰を経ているよう・・明治政府の神仏分離令はこの島でも容赦なく廃仏毀釈
僧籍剝奪還俗その理不尽な状況も捉えている。何もかも風化しながら現代まで過疎化が進み・・これまた日本各地で見られる観光地として開発されて幾ばくかの経済基盤となっていく。それぞれの意識焦点を息子との対話の中で反映ー海うそとは蜃気楼とのことーすべては幻のようでいて現世に受け継がれる確かなものは海うそだけなのか、作中の記述「喪失とは私のなかに降りつもる時間が増えていることだった」現実といかように折り合っていくかの永遠のテーマ
それにしても表紙見開きページ地図余りに丁寧な描き方、私は必死になって検索した。遅島え~っと読み方は???記載されている地名検索断念し本文を読む。ハマカンゾウ、カノコユリ自生、観光地として開発などで、もしかしてモデルは甑島?今は3架橋ある・・今更ながら本当に愚鈍な私!
Posted by ブクログ
若い時に人文地理学の調査で遅島に訪れる。そこは自然豊かで温かい人の優しさで溢れていた。調査は中途半端で終わり長い年月を経て息子が遅島でリゾート開発に携わっている事を聴き50年振りに訪れる。
そこはかつての自然豊かな島ではなくなり人の手がふんだんに加えられ調査を終わらせなかった自分に悲観するがかつてみえた海うそが今も健在で胸を打たれる。
淡々とした語り口は読んでいて心地よく西の魔女同様素敵な話。
Posted by ブクログ
梨木さんの世界観。
あまりに詳細な地図・場所の表現から、実際にある島かと思っていたけれど、実在はしない「遅島」。
そこに住む人、動物、植物、そして水、風、海うそなどの自然。
この世とあの世の境界が分らなくなるようなモノミミや洞窟の存在。
静かに流れる時間が愛おしい。
そして50年後の世界。
家族との時間。
色即是空、空即是色の世界。
最後に出てくる木切れに書かれてあった「吾都」。
ゾクゾクしました。
私が一番気になったのはカモシカの存在でした。
切ない・・
この本もずっと手元に置いて、何度でも読み返したいと思います。
Posted by ブクログ
作品を通して伝わってくる、なんともいえないもの哀しさが心地良い作品であった。
人生に悲観している時に読めば、一文一句が体に染み渡るように感ぜるだろう。
疲れている人、何かを失いその拠り所を求めている人などにおすすめしたい。
Posted by ブクログ
ベストセラー小説「西の魔女が死んだ」で有名な梨木香歩の作品。
梨木香歩の作品は、「西の魔女が死んだ」くらいしか読んだことがなかったので、作風の違いにすごく驚いた。
同時に作者の作家のとしての力量が卓越していることを思い知らされた。
久しぶりに自分の好みに合った美しく心に残る小説に出合ったと素直に喜べた作品。
人により好みが分かれる作品だと思うが、この小説の醸し出すノスタルジーと詩情あふれる美しさは格別である。
読み終わった後、本当に心地よい余韻に浸ることができた。
戦前、人文地理学を研究していた主人公がフィールドワークの為訪れた南九州の遅島での体験を綴ったもの。
舞台となる島は、作者の創作であるそうだが恐ろしくリアリティーがあり、実在するかのような説得力がある。
その島はかつて修験道が盛んな土地であったが、明治維新後の廃仏毀釈により、その名残が見いだせるだけになっている。
その痕跡を主人公が辿っていく話であるが、普通の小説のようにドラマチックな展開はなくただただ淡々と話が進む。
かといって退屈かと言えばそうではない。
なんというか記述されている描写の全てにその歴史というか、人々の積み重ねてきた生活とか、人の世の無常さを感じられた。
書いてある文章の後ろにある詩情を読者に感じさせる稀有な小説じゃないかと思った。
戦後の恐らくバブル時代と思われる時代に再度その島を訪れる機会を主人公は得るが、そのとき彼が感じた感情を恐らく読者も感じるだろう。
巡り合ってよかったと感じれる作品は少ないが、私にとってこの作品は明らかにその一冊である。
Posted by ブクログ
祖父や父が亡くなってから何年経ってもたびたび感じる切なさは何なのだろうと考える。それは、あのとき聞いた思い出も、そこに祖父と父がいて色んなことを感じ考え生きていたという事実も、私が忘れたときに消えてなかったことになってしまうのだという焦りと寂しさなんだと思う。
その寂しさは、大学の民俗学実習で僭越ながらも感じた、「この習俗、伝承は今私が記録しなければいつか忘れ去られてしまうのだ」という危機感に似ている。
でも考えてみれば、人も歴史も生まれては変わって消えての繰り返し。寂しいけれど、そんなに切羽詰まって寂しがることはないんだよと慰められている気がした。
Posted by ブクログ
昭和の初め、人文地理学者の秋野は南九州の遅島を訪れる。修験道の霊山があり雪も降るこの島は自然豊かで、彼は惹きつけられていく。
戦争を挟み五十年後、秋野は再び島を訪れる縁ができるが――
神仏分離に起こる廃仏毀釈、失われる営み、過疎。
学術的に判別され世に知らしめられたものが遺産となる。だとすると……
人知れず消えていった多くの文化を思うと胸が締め付けられる。
また時を経て読み直したい一冊。
Posted by ブクログ
産まれた時から海無し県から出たことがない私でも郷愁を誘われるような心持ちに。
でも感覚としてはやっぱり息子寄りかなぁ。
私だったら岩の謂われとか息子に喋っちゃうし、そしたら恋愛スポットとして活用!なんて流れになる気がする(笑。
あと論文まで行かなくても手記として島のことを書いて残したいと思っちゃうだろうな。
Posted by ブクログ
渋い。深く味わいのある作品。
昭和初期に私が訪れた遅島は、もともとユタやノロに似た「モノミミ」のような民間信仰のある修験道の島で、寺なども多くあったが、廃仏毀釈の流れの中でモノミミはいなくなり、寺は破壊し尽くされる。その中で還俗させられた善照が「海うそ」=蜃気楼を見た場所で、私もまた海うそを見る。それと50年後に島が再開発され、元の姿を留めなくなった中で、同じ場所で海うそを見ることで、失われたものを嘆くだけの悲しみではなく、万物が移り変わってもそれはそういうものであって、あるものはある、みたいな悟りとしての海うそ、というのを感じた。
許嫁に自死され、両親を相次いで亡くした私が島で感じた色即是空。この世で生きるための足がかりのため、新しく恋をしなさいと島人は言う。全てがどうしようもなく移り変わっていく中で、あるがままを受け入れて生きていくための足がかりは永遠の愛、なんてことではなくて、実際主人公はそれほど劇的なものを妻に持っているわけではなくて、あるがままを受け入れてそこにある、ということが足がかりなのかなと思った。二つ家がただ寄り添ってそこに存在するように、次男曰く「慢性鬱」の私の隣にただ付かず離れずのポジティブな妻がいるように。
Posted by ブクログ
一行目から 島の温度とかにおいとかが感じられる
標高によって植物や虫や鳥 動物の種類が変わって
それぞれの生活があるんだなぁ~って…感じられるなんて素敵すぎます!
しかし、五十年たって変わってしまった島…
変わらされてしまった島…
泣きそうでした でも、生きていくって変わっていくことなのかもしれないとおもいました。
Posted by ブクログ
昔訪れた場所に再訪した時、こんな感じだったろうか?という思いになることはないでしょうか?自分の中でものすごく強い印象を抱いていて楽しみにしていた場合など、あれ?と落差の激しさに戸惑うことがあります。一方で思いがけず、自分の記憶にある景色が人の力で大きく変えられていた場合、つまり大規模な開発が行われて、記憶にある美しい山が赤茶けた肌を晒し、味のあった山道がアスファルトに変わっていたり、そうした場合、再訪したこと自体を後悔することもあるかもしれません。一方で視点を変えればそこに、その地に暮らす人々からすれば、自らの現在の生活を豊かにするために、便利に変えていきたいという思いが当然にあるはずです。その地に暮らす者でない他の土地の人間の中にある想い出を美しく保つためだけに、変わらないことが選択されることなどないのかもしれません。
『山の端から十三夜の月が上がっていた。月はしっとりと深い群青の夜空の、その一角のみを白くおぼろに霞めて、出で来た山の黒々とした稜線から下をひときわ病み濃くしていた』という、冒頭からのあまりにも美しい描写とともに一気にこの世界に連れて行ってくれるように物語は始まります。『私は文学部地理学科に所属する。大学の夏期休暇を利用して、現地調査でこの島を回っていた』というK大学の秋野。『一昨年、許嫁を亡くし、また昨年、相次いで親を亡くしていた』という境遇の中、『研究室の主任教授が亡くなった。研究室を整理しているうち、発表されていない調査報告書を見つけ』その仕事を補完したいという気持ちから興味を抱いたのが『緯度的には南九州とほぼ同等、本土側を見つめたタツノオトシゴのような形状で、南北を貫いて背骨のように山脈が連なる』という『遅島』でした。『古代、修験道のために開かれた島であった。明治初年まで、島には大寺院が存在していた』のが『廃仏毀釈でほとんど跡形もなくなった。その遺構に惹かれるものがあってこの島にやってきた』という秋野。この物語はそんな秋野が島の人々と交流を深め、島の遺構を巡ることで、島の現在と過去を見つめながら進んでいきます。
この作品の舞台となる『遅島』、モデルはあるのでしょうが、あくまで梨木さんが作り出した架空の島です。物語の前半はこの島を旅する一人の青年の書いた紀行文を読むように進みます。そして、植物に関する記載が紀行文でさえありえないと思えるレベルで登場します。『サルトリイバラ、ヤブツバキ、ハマヒサカキ、カナグギノキ、ハイノキ、オニヤブソテツ、ハマカンゾウ』という植物の名前、あなたは知っているものがあるでしょうか。でも梨木さんは例えばヤブツバキについて『丸々とした実をつけている。これが胡桃か何かのように食えるものであったらどれほどいいか』と言った言葉を付け加えます。知らなかった植物がなんだか身近になったような不思議な感覚です。一方で動物の表現も絶妙です。秋野が山の中で遭遇した動物。目と目があった瞬間に秋野が感じたところを『奴らはこちらを馬鹿にしているようなけたたましさがある』とヤギを表現するのに対して、『曰くいい難い神秘的な気配をまとっている。じっと見つめてくる瞳に哀愁が漂っている』とカモシカを表現します。そしてこのカモシカへの見方が伏線として結末の余韻をさらに味わい深いものにしてくれます。
作品は、前半の紀行文のような展開の後、後半4分の一は〈五十年の後〉という章題そのままに『それから戦争を跨いで五十年が経った』後の秋野が描かれていきます。この五十年の間には第二次世界大戦があり、その後の戦後復興を経て各地で観光地開発が盛んに行われます。『遅島』も当然に無縁ではありません。八十歳を超えた秋野が再び島を訪れますが、読んでいて、前半部分と、この章から受ける印象のあまりの大きな落差に衝撃を受けました。まるで帰ってきた浦島太郎のような心持ちと説明すれば、その感覚がなんとなくは分かっていただけるのではないかと思います。その地に暮らすものではない老いた秋野の目に映るもの。変わるもの、変わらないもの、そして変わっていないはずなのに変わったように感じるもの。この章ではそれが極めて印象的に描写されていきます。『セミの鳴き声は五十年前と変わらないのだろうか。何やら勢いが足りないように思うのはこちらの思い込みか』という表現には、何か昔のままにあるものを求め、でもそれであっても自信の持てない秋野の揺らぐ心情が見事に現れていると思いました。
『私の訴えに共感し頷くものは、誰もいない。何もない。風が木々を揺らす音だけが、空しく、その言葉の真の意味において、空しく響いているだけだった』という年老いた秋野。圧倒的な余韻が襲ってくる読後に、作品中では『蜃気楼』のことと説明されていた、この作品のタイトルともなった『海うそ』という言葉が浮かびます。それが本来はかないはずの存在であるが故に、逆に、深く、遠く、そして永遠へと人の心に残り続ける存在なんだと印象深く感じました。
なんて香り高いんだろう、なんて味わい深いんだろう、読後のなんとも言えない余韻に浸りながらそんなことを思った作品でした。
Posted by ブクログ
とても静かな世界観
生い茂る樹木 飛び交う野鳥
時折 突然現れる野生動物
足元の草 温度 湿度 風
少し空気は重いけれど
どろりとしたものはなく
巻頭の地図を何度も見たり
分からない植物をGoogleセンセに聞いてみたり
そんなことは 久しぶりで
新鮮な感じがして
そんな部分でも、楽しめた
変わっていくことは 避けられない
一概に 悪いとも言えない
いいか悪いか、やってみなければ分からない
ということも たくさんだ
だけど
すっかり島が変わってしまった
残念だった
当時の面影すら残さずに…
せめて、もう少しだけでも…
そう 思った
うっそうと木々が生い茂る
湿った森を 歩きたくなった
Posted by ブクログ
時間軸2つからなる物語
むかしのままの手の入らない自然がいいのか、人が自然を楽しめるようにと計画される開発もありなのか
まさに今、家の近くの川沿いの公園化が行われていて、重機が入り、四季の移り変わりを見てきた木がある日行ってみると切られていたりする
胸がギュッと痛くなるが、誰も入れないよりも、自然に近づける場所があって、観察できること、季節を感じる機会を増やして、知ることで守る気持ちを持てるようにすることはいいことなんだろうか、
と思い直すようにしている
まっさらの原生林ではなく、何らかの形で人が作った場所なら尚更なこと、自分の感傷で物事を考えてはいけないのかという葛藤を日々感じている
自然と記憶の中の場面とどう折り合いをつけていくか
その内自分自身もいずれこの世から消えていく自然物の一つ
物語の中に自分を置いて考えてみる
Posted by ブクログ
なんか・・・良さそげな内容なんだけど、文章が頭に入ってこないもどかしさ。
情景がストンと浮かんでこないんだよね。
想像力の無さかな。
たまにとても心の琴線に触れる言い回しがあったり。
いろいろと思いを馳せたくなる。
うーーん。なんだかもやもや。
Posted by ブクログ
この人の本には、毎回毎回、いつまでも読んでいたいと思わせられるのが不思議。
静かな語りを心地よく味わっていると、終盤、がらっと空気が変わるところが『村田エフェンディ滞土録』的。
Posted by ブクログ
せつない。
上手く言葉にできないのだけど、寂しかった。
本を開くと、遅島の美しい風景、清らかな空気が飛び出してくるようだった。
不思議な感覚。
もう一度読みたいな。
Posted by ブクログ
後悔先に立たず。
手遅れというものがある。
日常の中で「私でなくても他の人が...」と思ってしまうことはあるけれど、そこで「他の人がするかもしれないが、私も」と億劫がらずに為すことが、後の後悔を生まない為になる。
Posted by ブクログ
昭和初期に南の島に調査に訪れた学者が主人公。
島はかつて修験道の聖地で、死人からの伝言を伝えたりするモノミミという民間宗教も存在した。
主人公の調査は、特に南西諸島からの流れと思われる住居の構造。
章立てごとに地名と植物や動植物、虫の名前が並べられている。民俗学的道具立てや海に見える蜃気楼も相まって、著者のど真ん中の直球勝負か。
失われた寺院や宗教の痕跡、恋人達の悲恋の跡。豊かに自然を背景に、最初から失われていた事物。許嫁や両親を失ったばかりの主人公自身の心情にも同調しているように感じる。
冒険譚とも思える、島の調査行。濃密な自然と宗教の営みの遺物の記述に引き込まれる。
そして、登場人物達の語らいの後、ふっつりと物語は切れる。
その後の50年後の再訪で、更なる喪失が突きつけられる。
色即是空、空即是色。
「喪失とは、私のなかに降り積もる時間が、増えていくことなのだった」
長い長い、うそ越え。越えた涯。
この感慨は、まだ自分には判りづらいが、また読みなおしたくなる本だった。
廃仏毀釈は、ついこの前に読んだ「逆説の日本史」で取り上げられていた。不思議と同じ話題が違う本でアタルことがよくあるんだな。
Posted by ブクログ
舞台となる遅島が実際ある場所かと思っていたら、梨木さんの作りあげた架空の島だったことに、まず驚いた。ルポタージュを読んでいるかのような感覚になった。
50年後の遅島が、近代的に変貌をとげている様を「色即是空」と秋野が受け止めていることが、超然としているようで、どこか諦めのような、物悲しさを感じた。
ただそこにあるが、実体はなく、執着するものではない。美しいものは、儚さをともなうから、美しいのだろうか。
Posted by ブクログ
海うそとは、海の幻、蜃気楼のこと。秋野は若い頃、九州の遅島、自然豊かな島で修験道だった道を辿った。海、山、水、空、自然の息吹を感じながら、地霊との対話や交感を。島の植物や生き物、海の魚などが生き生きと描かれている。梨木香歩「海うそ」、2018.4発行。50年後に訪れた秋野が見たものは、観光地化によって変わり果てていく島の姿。人間の織りなす文化、風習、歴史はどこに向かうのか・・・。そんなことを考えさせられました。
Posted by ブクログ
「喪失」「再生」「修験道」「島」
喪失を抱えた私は、廃仏毀釈により、元々の信仰を喪失した島を巡る。
そして、50年後に再度島を訪れ、喪失と向き合う。
前半は、「私」の旅の理由は朧げにしか分からないものの、この旅は「私」にとって特別な意味があることなのだろうなと思いながら読み進めました。
自然や信仰の残骸から、独特の神秘的な雰囲気を感じました。
一転し、後半は、その慣れ親しんだ情景や交流した人々との繋がりが失われている様に、喪失感を感じました。
「私」は最後、喪失を超え、前向きになりますが、自分は島の雰囲気に入り込みすぎていたのか、最後まで喪失感から抜け出せず、もの悲しかったです。
読み手にも喪失感を与える描写、素晴らしいです。
深い主題の作品なので、読み直したら、気づくこともありそうです。
そして、「私」の許嫁には何があったのか。
Posted by ブクログ
50年前に既に風化し忘れ去られようとしている土地や言い伝えが、50年後、そこに居た人と共に蹂躙され壊され葬られ、それでもなお少しの片鱗が物語を喪ったまま散りばめられている。
変わらないのは海うそだけ。
そして不思議な、人との繋がり。
「喪失とは、私の中に降り積もる時間が、増えていくことなのだった」
Posted by ブクログ
主人公秋野がフィールドワークする架空の地 遅島。
遅島では多様な植物や動物、かつて修験道だった名残を目にすることができ、島の所々で生を感じる。その五十年後、再び遅島を訪れた秋野は変わってしまった島の姿を目の当たりにする。山は削られ、道が切り開かれ、かつてあった動植物は姿を消していた。ここは遅島ではない。そう感じた秋野だったが、
五十年前に見た海うそ(蜃気楼)は変わることなく、見ることができるのだった。
五十年前も後も遅島は遅島である。
その姿や人々の暮らしは変化すれど。
失われたものもあれば、得るものもある。
自分はそんな変わりゆく森羅万象の中にほんの少しだけ腰掛けているにすぎない。そんな気がした。
少し読むのが難しい小説だった。うまく内容を理解できてないかもしれないが、自分なりにこう解釈してみる。
少なくとも島の姿が変わって悲しい、保護するべきだ!そういうことを訴えてはいないのだなと。