城山三郎のレビュー一覧
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明日、死ね。
国家のため、国民のため。皇国の軍人として散れ、と。
いきなり、告げられるのである。
昭和2年生まれの昭和を丸々生き抜いた著者自身の海軍体験を散りばめながら、神風特攻隊として殉じていった海軍兵学校の同期生二人の人生を対比しながら、綴られる一冊。
本書中にも記されているが、茅ヶ崎でかつてサザンオールスターズを誘致して球場でライブを行ったことがある。その際、照明演出のために二射の光線が上下左右、夜を飛び交った。
かつて戦中、この球場は対空砲ではなく対水上の敵機を撃つ為の海軍の高角砲陣地であった。
探照灯である。
遠浅の茅ヶ崎海岸は、米軍の日本本土上陸作戦コースに予想されており、海岸に接近してくる米艦船めがけて砲撃するのだが、そのときには敵艦船からの集中砲火を浴び、空からは爆弾の雨。加えて、北方台地に布陣する陸軍の重砲隊の砲弾まで浴びかねない。その中で仮に生き残れたとしても、次には爆弾を抱え、敵戦車の下に飛びこんで終わり。探照灯を見て、そんな悪夢を思い出されるわけだ。
自分が10代だったあの時、地元でサザンが来るってんで浮かれてた中で、爆弾を抱え肉片が飛び散るあの頃を無理矢理思い出させられていた世代がいると。
無知とは酷く残酷だ。細かな史実も知らないとならないな。戦争を知らない世代が、新たな悪夢を生むやもしれん。
本書表紙右が、最後の特攻隊長中津留大尉。左が最初の特攻隊長関大尉。
無知が罪を生むということを痛感した一冊でした。 -
Posted by ブクログ
痛ましい戦争を知らない世代としてはその生々しい描写を読みながらも今の恵まれすぎる生活と比較してなんともいえない気分になる。有り難いという気分もないではないが、それ以上にどんな言い訳を以ってしても戦争という選択肢を選んではいけないし、このような現実の戦争と関わる小説を通して平和の大切さを認識し続けなければならないと感じる。
「草原の敵」での敵少年兵を人殺しの練習に使おうという発想、極限状態で出現する人間の持つ残忍さに寒からしめられる。
最後の「断崖」は戦争絡みであろうと勘ぐりながら読んだので何か肩透かしされた気分で、この本に収録するのは適切でない気がする。 -
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「もっと早く読めばよかった」が、最初の感想です。
岡山県出身の自分にとって、大原孫三郎は、昔から知っている名前ではありましたが、何をやったかを知らないまま、ここまで来てしまいました。
が、この本を通して、大原孫三郎の人生を知り、「もっと早く知っておくべきだった」「もっと早く、この本を読んでおくべきだった」と思ったわけです。
経営者には、情熱と知性が必要だとよく言われますが、大原孫三郎は、情熱も知性も、高いレベルで備えていた人物だったようです。
しかし、そのバランスについては、非常に危うい印象を受けました。
概ね、情熱に傾くことが多かったように思います。
が、人生トータルで見ると、バランスのとれた形に納まったように思いました。
だからこそ、様々な偉業を成し遂げることができたのだと思います。
話は変わりますが、実は私、大原美術館に行ったことがありません。
次の帰省の際には、是非、行ってみたいと思います。 -
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城山三郎は、没後10年を経過したが、彼の著書はいまだに読み継がれ、新たに出版もされている。
本作は、講演を基にした表題作と、亡き妻への遺稿、それに作家吉村昭との対談で構成されている。
軍隊経験から、組織そのものを信じていない城山は、強い人間の力が時代なり社会なりをよみがえらせていくと考えたいと、講演で語る。
教育問題に端を発し、魅力ある人間として、石田禮助や本田宗一郎たちを紹介する。人生は報われないことも多いけど、それでもやり続ける人間が負けない人間だと、田中正造や広田弘毅を挙げる。
第二篇の「そうかもう君はいないのか」補遺は、妻容子を妖精と呼ぶ、城山の愛情あふれるエッセイ。読んでいて、心が温かくなる。
第三篇は、気のおけない同い年の作家吉村昭との対談で、読者もその場に居合わせるかのような楽しさが伝わってくる。
折に触れ、読み返したい本の一冊である。 -
Posted by ブクログ
経済小説の開拓者、城山三郎。
初めて一冊手にとって読んてみたんだが、
非常に刺激的で面白かった。
家族経営を標榜し、
実際に功績を残し、名経営者だった社長が、
晩年、独裁的なワンマン経営に走り、
落ちぶれていく模様と、
その社長の優秀な腹心でありながら、
最終的には社長を追い落とし、
自らが社長になる男の物語。
この社長を追い落とす中堅社員の仕事っぷりがすごい。仕事のため、ホテル暮らしをする社長に仕えるため、わざわざ同じホテルに暮らし、
昼夜問わず呼ばれたらすぐに駆けつける体制をとる。土日の休みもなく仕事に捧げるその姿は、
一世代前では、サラリーマンの鏡だったんだろう。
今でもこんな人たちいるんだろうか。
決して真似したくはない
会社内のドロドロした政治の世界は今も昔も一緒なんだろう。
サラリーマン稼業を長年やってるとようやく見えてくる世界だけど、
こういう本があるとリアリティをもって想像できてしまう。
個人的にはもっと若いときに読んでおくと人生いろいろ考えたかもな。
毒されると言った方がよいかもだが。
社長を追い落とす腹心社員は、良いことも言っている。
サラリ ーマンの勝負どきは 、上役から質問を出されたとき 、いつでも明確な答えが出せるよう 、常日頃 、勉強しておくこと 。その上で 、 「おまえ 、やれ 」といわれたら 、捨て身になってやり抜くことだと思う 。
確かにこれは出世の近道なのは間違いない。
後で知ったんだが、
ストーリーは今は亡きとなった、
カネボウをモデルにしたストーリーらしい。
この会社も数十年後には、時代の流れにより、
粉飾会計とともに整理解散することになるのは感慨深い。 -
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ネタバレ戦争とはなんて残酷なものなんだろう。
そして、もっと残酷なのは、戦争を理由に人間の命を軽く扱った当時の軍のトップたちだ。
「一億総玉砕」という言葉の持つ意味を本当にわかっていたのか。
国民がいない国家など存在しない。軍は日本が滅びるまで戦争をやめるつもりはなかったということなのだろうか。
現代でも何故こんな簡単なことがわからない?と思うような発言をする政治家がいる。
誰が考えても最優先すべきは他にあるだろう!と思うのに、企業利益を真っ先に守ろうとする企業家がいる。
本当に大切なものは何か?
トップに立つ者が優秀だとは限らない。
上に立つ器でもないくせにトップに立ってしまった人間の下につく者は、悲劇しか待ち受けていない。
関大尉は実は特攻の第一号ではなかった・・・というのは別の資料で読んだことがあった。
先に出撃した者の戦果が確認されていない(出撃にあたり機関銃・無電は不用との本人申し出あり)。
掩護機もなく、何よりも兵学校出身者ではなかった。
特別攻撃隊を「神風」と言い、特攻で散った者を「軍神」と言うためには、第一号はどうしても兵学校出身者でなければならなかったらしい。
周囲からは「軍神」と持ち上げられながらも、戦後は一転、世間は冷たく遺族が石を投げられるようなこともあったという。
戦争が終わっても悲劇は終わってはいない。
宇垣纏中将が第五航空艦隊の司令長官に着任したのは終戦の年。
幾人もの軍人を輩出している一族の出身である。
それまでは通常爆撃が原則であり、あくまで特攻は例外とされていた。
しかし、着任早々に宇垣は主客転倒を宣言する。
すなわち「特例の無い限り、攻撃は特攻とする」と特攻を原則としたのだ。
戦争は人を狂わす。
「桜花」や「回天」に代表される人間を兵器の一部として使う武器。
いかにして身を守り相手を斃すかではない。最初から死ぬことが決まっている戦術である。
「桜花」の初出撃の結果は悲惨なものだった。
70機以上の戦闘機による掩護が必要だと訴えたにも関わらず、配備されたのは55機。
実際の掩護機はさらに少なく30機しかいなかった。
重い爆弾を抱えて動きの遅い一式陸攻は、アメリカ戦闘機集団のかっこうの獲物となった。
「桜花」ごと全機が撃墜されてしまう。
「桜花」隊員15名、一式陸攻隊員135名、掩護機隊員10名の命が一瞬にして失われた。
軍のトップにとって人の命とは何だったのだろう?
戦争がすべて悪かった・・・と言い切れるのだろうか。
当時次々と開発されていた特攻のための特殊兵器。
多くの人間が兵器の部品として出撃させられた。
しかし、隊を組んでの出撃であっても、ほとんどは海軍兵学校出身者は隊長のみ。
あとは予備学生出身者と予科練出身者で構成されていた。
口では「一億総玉砕」と言いながら、職業軍人たちは温存されていた事実。
理由はいろいろあるのだろう。
けれど、こうして時間が経てば、予備学生や予科練出身者に多くの犠牲者が集中していることは明らかである。
「特攻を原則とする」と宣言した宇垣中将は、結局歴史にその名を残した。
終戦の日、玉音放送があったことを宇垣中将は部下たちに隠したまま出撃したのでは?と筆者は伝えている。
米軍キャンプ地に特攻をしたとき、飛行機に爆弾は積まれていなかったようだ。
米軍キャンプ地にたどり着いた特攻機は2機。
ともに直前で進路を変更し、岸礁と水田に突っ込んでいる。
隊長でもあった中津留大尉は操縦士としての技量はトップクラスだった。
だとしたら、意図的に米軍キャンプ地を避けた・・・と考えるのが妥当だろう。
もしもこの特攻が成功していたら。
戦争終結後に攻撃をした日本は、国際的に立場を無くし、戦後の復興にも影響がでていただろう。
宇垣中将は終戦の勅命をどう受けとったのか。
死なずにすんだ若者たちを何故道連れにしたのか。
「宇垣さんが一人で責任をとってくれていたらなぁ」という遺族の言葉は、宇垣中将に届いているだろうか。
戦争は哀しい。戦争は残酷だ。そして戦争は人が人として生きることを許さない。
二度とこんな時代がこないように、心から願う。 -
Posted by ブクログ
高度経済成長の中で、
敗戦から バブル崩壊までの 時代の
創業者は、かくも壮絶に 生きたのだろう。
倉原は、福岡の出身で、「一流」をつねにめざした。
あくまでも 自分が中心でないと満足できない。
権限の委譲ということができない。
それでも、突進力そして人材をスカウトするチカラは
迫力があったが、
しかし、その人たちをうまく使うことができなかった。
『飢えた胃袋にけんめいに食物を詰め込む。
満腹に近づくと、更に大きな胃袋にとりかえて、
また飢えを感じさせ、更に多くの食物を取り込ませる。
腹がくちてくると、もっと大きな胃袋を』
まさに、それを 地にいくのである。
恐ろしいばかりの拡大成長路線。
拡大すること 成長することが 目的だった。
おなじように 東北、満州そだちの 横川3兄弟は素朴で
田舎のにおいをさせながら、知らないことは学ぶ という姿勢で
セントラルキッチンを確立しながら 店を 配達していった。
ここには、あまり壮絶感がないが 同じようなビジネスモデルだった。