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青年作家マルテをパリの町の厳しい孤独と貧しさのどん底におき、生と死の不安に苦しむその精神体験を綴る詩人リルケの魂の告白。
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Posted by ブクログ
断片的感想、備忘ノート、散文詩の一節、過去の追憶、目にした風景の描写、日記、手紙などを一冊にまとめあげた手記体の小説。風景描写、あらゆる想念、思考、追憶など、とても緻密で密度が高く、一寸の隙もない。だけれども文章はもたつくことなく、迸るような勢い、速さがある。そして時にはゆっくりと、緩慢になる瞬間も...続きを読むある。まるで音楽のように。人々の他愛のないお喋り、或いは悲しみや絶命の絶叫、パリの騒音として。人が生きていることの旋律がページから、文章の行間から、立ち上り、響いてくる。雑音をも含む寂寥と美しい音楽として。読み始めは風変わりな印象からシュルレアリスムの自動筆記のように感じたけれど、読み進めるうちに絵画、あるいは写真のように思えました。一枚一枚、並んだそれらは最後、見終わった時に全体を眺めて見ると巨大な一つの絵画になっている――それはマルテという人の肖像画だ。不安や孤独、眠れぬ夜の絶望的な陰影と優しい母の光のランプ、色褪せた追憶の淡い色彩とで描かれたマルテの顔だ。そのモザイクの中にリルケ本人の顔も隠され、だまし絵の如く描かれている。
久々に主だった筋のない、断片を繋ぎ合わせたタイプの小説を読んだ。そうして思うのは、私はこういったタイプの小説に非常に安堵感を覚えるということだ。人生は物語ではない。断片を継ぎはぎしたものである。そう言った方が私の実感と合っているし、結局のところなまの人生をより広く肯定しているように感じられる。 内...続きを読む容であるが、意外と明るい。死という絶対無の恐怖に怯えながらも、全体としては生への肯定が貫いているという印象を受ける。特に終盤などはそうである(ちなみにストーリーらしきストーリーがないにも関わらず、終盤にかけて明らかにボルテージは上がっていき、興奮する)。ところが並々ならないのは、この生の肯定を産み出しているのが死の恐怖なのだということである。〈僕たちにとって、死の恐怖は強すぎるに違いないが、それでも本当は僕たちの最後の力だと、僕はそんなふうに考えている。〉この一文には大変な衝撃を受けた。 他にも閃き悟すような言葉がたくさんあった。それらはまさに一瞬にして閃光をもたらす詩の力と、蓄積の末に静かなる地響きをもたらす小説の力の合わせ技という感じがした。これは何度も読み返すと思う。
果たしてこれを物語としてよいものか。 なんて孤独で乾いているのか。まるでランボーが書きえないものを書こうとして時空から立ち上がり、筆を折ったみたい。きっとこれを書き上げたリルケも筆を持てなかったに違いない。 ゲーテは理解されないのを知ってことばを選んで紡いだ。だが、彼は理解されないのを知りつつも、あ...続きを読むえてことばを変えなかった。表現や訳、ことばが難解なのではない。彼が書こうとしたそのものが難解なのだ。普通の三文作家なら挑むことさえ思いたてない、そんなものを書こうとしたのだ。こんな世の中ですべてのひとに理解される方が恐ろしい。 たったひとりで、ことば以前の存在を追い求めて、マルテはパリを彷徨う。孤独は悲しかったりさびしかったりするものではなく、孤独であり続けられるそのことが難しい。彼は「わかって」しまったひとだった。書かれているものは断片的な手記ではなく、すべて「心」の一縷の流れから生まれたきわめて連続的なものなのだ。 書くにつれて、徐々にリルケとマルテの境界が溶けていく。これだけ壮大な独り言だ。区別できる方がおかしい。マルテがリルケであり、リルケがマルテなのだ。 絶望や悲しみよりももっと遠い、真実に至るために孤独であり続けることの難しさ。受難。これが狭き門なのだろう。ジッドが共鳴するのにも納得がいく。
事件は起きない。あらすじも伏線もない。パリに来たデンマーク人というフィクショナルな設定があるだけ(リルケはドイツ人)。 そのマルテが、自由な形式で、パリで見る景色を語ったり、かと思うと過去を語る。詩や音楽を語り、そんな連関性のない話を重ねていくが、読者はそれにつれて自分の心の奥底を覗き込むように誘わ...続きを読むれる。 リルケはこの小説を、散文というよりは詩として書いたという。それほど長い小説ではないが、6年ぐらいの歳月をかけて、文章を練りに練って書いたので、密度は非常に濃く、読み進むのにもエネルギーがいる。数行読んだだけで本を閉じて物思いに耽ってしまう、僕はそんな読み方をした。そんな感じである年のひと夏ぐらいかけて読んだ記憶がある。 マルテは英雄でも聖者でも有名人でもなんでもない、ただの異邦人の若者。そんな若者の内省の話。それが、特別の価値を持つ世界文学の古典になっているという事実。 それが世界的詩人の実力なんだろうな。
中学生の頃のピアノの楽譜入れだった母の手作りのお洒落な鞄がひょっこり出てきて、中を開けるとこの本がひっそりと息づいていました。 『マルテ・ラウリス・ブリッゲの手記』の作者は、134年前の1875年12月4日にオーストリアのプラハに生まれた詩人で小説家のライナー・マリア・リルケ、スイスに移り住み薔薇...続きを読むの棘の傷がもとで白血病によって51歳で死去。 これは、孤独な生活を送りながらパリの街で出会った人々や芸術や自分自身の思い出などについて、デンマーク生まれの青年詩人マルテが思いついたことを断片的に書き綴っていくというスタイルで書かれた彼のたったひとつの長編小説です。 この本は中1と中2のときに4度読んだのですが、読んだ後の1、2カ月はまるで何かにとりつかれたかのように、普段の自分じゃないような落ち込みようで、当時の私の心情にもっともフィットする雰囲気の小説でした。 パリの町を京都の町に置き換えマルテになりきって孤独と赤貧を自らのものとし、生死の不安に苛まれて苦悩するという時間を持ちました。 初めはその中に沈潜してペシミスティックに埋没して、絶望のどん底という風でしたが、そのうちにそれらを覆すような内心の声に導かれて、今まで断定的に語られていた、あるいは疑問形で問いかけられていたことに対して、違う視点で発想して、行き詰った結論をもういちど洗い直していこうとするような風に変わっていきました。 ちょうど同じような世紀末のいわれのない絶望感や虚無感を共有していたのでしょうか、私は奇しくも頽廃の一歩手前で踏みとどまって生還しましたけれど。 あの頃の読書は、今から考えると、意図した分けでもないのにどこかで繫がっていたようですが、彫刻に手を染めるきっかけの『考える人』のロダン、ドストエフスキーを深刻に読む以前の親しみやすいロシア文学だった『はつ恋』のツルゲーネフや『アンナ・カレーニナ』のトルストイ、『悪の華』のボードレールや『狭き門』のアンドレ・ジイド、『魅せられたる魂』のロマン・ロランや『テスト氏』のヴァレリーなどなど、リルケが影響されたとか交流があった人たちは皆、私にとっても親しみ深く何がしかの影響を受けた間柄でした。 ※3行追加しただけで2009年に書いたものがすべて消えてしまって、全部2012年4月24日に登録したことになってしまいました。私のように推敲して書き改めることもあるというスタイルに適合しない機能のようです。
リルケ自身がこの小説について語った言葉の一部を掲載させていただきます。 ~~~ ぼくは『マルテの手記』という小説を 凹型の鋳型か写真のネガティブだと考えている。 悲しみや絶望や痛ましい想念などがここでは一つ一つ 深い窪みや条線をなしているのだ。しかし、もしこの鋳型から ほんとうの作品...続きを読むを鋳造することが出来るとすれば (たとえばブロンズをながしてポジティブな立像をつくるように)、 たぶん大変素晴らしい祝福と肯定の小説が出来てくるにちがいない。 ~~~ 何かしらちょっとでも感じるものがあったなら読んだ方がいい。 リルケは読み手に静かに一つの方角を教えてくれているんだ。 余談。リルケは薔薇の棘に刺された傷がもとで急性白血症となり死去したらしい。生と死に苦悩し続けたリルケ、些細な出来事が死に繋がってしまったとはなんと儚く、彼らしい…と思ってしまうのは失礼かな。
” 彼らはいずれも自分だけの「死」を待っていた。(中略)子供たちも、いとけない幼な子すら、ありあわせの「子供の死」を死んだのではなかった。心を必死に張りつめて────すでに成長してきた自分とこれから成長するはずだった自分を合わせたような幽邃な死をとげたのだ。”(p23) 私はふと、東日本大震...続きを読む災の津波で亡くなった子供たちを思った。 自然災害の死は戦争の空襲での死に似ている。理不尽で不条理な死。 突然に、誰彼構わず、いっぺんに死に追いやってしまう。 リルケが言うような「死」が彼らにはない。不慮の唐突な死に襲われた人たちを思うと私は胸が痛くなる。 想像力が逞しすぎると笑われるかも知れないが、私は時々亡くなった子供たちの叫びが見える。感じるように心に伝わってくるように見えてしまう。それは私をひどく混乱させる。私は現実から乖離していき、自己が消失してしまう。 『マルテの手記』は、私にはとても合っていた。 あまりにもしっくりとぴったりとし過ぎて本の中からうまく戻って来れなくなった。 どの文章(文章という形の感覚や感情が)も、すごく、とても、よく分かる。 言葉ではなく感覚として私の体の中にすうーっと入ってきて、あっさりと私を「僕」の住む世界へ引きずり込んでしまう。 文章なんだけれど文章ではなく、それはもうそのまま感覚として在る。 つまり、たとえば、私がどうしようもない淋しさというのを表そうとすると絵が生まれるように、言葉が感情を表すのではなく、感情が文章に成っている。 うまく説明ができなくてもどかしいのだが、そこに書かれたことは「心」であって、文章の意味が感覚として伝わるのである。 リルケの言葉を借りるならば、 『言葉の意味が彼の血にしみとおり、細かく分かれてゆくような気持ちがするのだ』 『事物の諸印象は血液の中に溶け、何か得体のしれぬものと一つになり、すっかり形をうしなってゆくみたいだ。たとえば、植物の吸収の仕方がきっといちばんこれに近いだろう』 そういうふうにこの本の文章は私の心に溶けてゆく。 これは素晴しい傑作だと私は思う(とはいえ、恥ずかしくなるくらい仰々しい大袈裟な感があるのは否めないが...)。 『マルテの手記』は『山のパンセ』のように短い話の連続で、物語というのとはちょっと違う。日記、断片的感想、過去の追想などが雑然と並んでいる。無秩序にその断片は並んでいるようなのに、しっかりとマルテという人物の物語として成立している。 リルケはこの構成についてこのように言っている。 『今度の小説は抜きさしならぬ厳格な散文を目ざしている。』 『どの程度まで読者がこれらの断章からまとまった一人の人間生活を考えてくれるか、僕は知らない。僕がつくり出したマルテという青年作家の内部の体験は途方もない大きなひろがりを持っているのだ。彼の手記は根気よく探したらどれくらいあるかちょっと見当もつかない。ここで僕が一冊の書物にまとめたのは、わずか全体の幾割かにすぎぬだろう。机の引出しをさがしてみるとどうやらこれだけ見つけることができた、まず差しあたって、ただいまはこれだけでまあ我慢しておこうというぐあいの小説なのだ。こんな小説は芸術的にみれば大へんまずいでたらめな構成にちがいないが、直接人間的な面からみて結構ゆるされる形式だとおもっている』(訳者あとがきより引用) 主題は「死」と「愛」と「自己の存在」にある。 一部では、死を軸にした「大都市で今を生きるということ」(リルケの書いた現代は100年前だけれど、100年後の現代でも生や死の問題というのは変わらないものである)。そして、そのなかで生まれてくる「孤独」や「不安」や「恐怖」。 二部では、死を軸にした「愛」。 『マルテの手記』は自分の心を自分でうまくコントロールできない、常に不安と恐怖を抱えている、今を生きることに馴染めていない人でないと分かりにくく、ちっとも共感するところのないつまらない作品かもしれない。
孤独・死についての青年詩人の独白のような小説。 哀しくて陰気だけど何故だかとても優しい。 孤独に生きる人間達への愛に満ちている。 ベン・シャーンの描いた挿絵も併せてお勧めです。
マルテの手記が好きって人は、ちょっとヤバい。 何故なら、孤独者の視点が身に浸みてしまうから。 悲しみや苦しみ、そして孤独や不安、影や暗闇、そういったものたちに美しさや豊かさを見出してしまうから。 だけどもリルケが好きって人はそれでいいんです。 少しずつ読んで、隣にマルテがいるような感覚を覚えるまで、...続きを読むじっくり付き合っていくのも良いと思います。 私も実は五年くらい読んでるけど、まだ、終わりません。 リルケ自身も書きあげるのにものすごく時間がかかりました。そういう小説です。 何か面白いことを期待して読み始めると、きっと、面白くないと感じて投げ出してしまう人も多いと思います。 だけど、これらをじっと見つめてきたリルケのことを思うと胸が痛くなるのです。 そういうリルケ自身が詰まった一冊です。
パリで詩人を目指す青年の日記体で描かれた話。リルケ自身、パリで孤独な時間をおくっている時期があったとのこと。
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