遠藤周作のレビュー一覧
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理想像として描かれる母の青春、醜く歪んだトシの青春、そして疑問や不安を抱えながらも、清く正しくあろうとする泰子の青春。
青春という浜辺で作るそれぞれの砂の城は波に攫われ消えてしまうけど、たしかにそこにあった。泰子の清らかさに眩しくなりながらも、私もそうありたい、と願う瞬間も幾度となく。
美しい言葉が多くある本だなという印象だった。
「夢みたものは ひとつの幸福 ねがったものは ひとつの愛」「負けちゃだめだよ うつくしいものは必ず消えないんだから」「美しいものと、けだかいものへの憧れは失わないでほしいの。」「人間がつくりだす善きことと、美しきことの結集」 -
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ネタバレ2作品共、神を信じない男が主人公で、性質も振る舞いも好ましくないのが印象的だった。裏切り者として「ユダ」のイメージが示唆され重ね合わせていく。
「白い人」は拷問者側の視点が描かれているのが興味深かった。誰も好き好んでやりたがらないと思っていたが、志願する中には加虐心のある者もいたのかもしれない。この役目を担うまでは芸術を愛していたかもしれない。病のため、使い捨てのように配属されたかもしれない。
今の日本人の日常からは想像のできない拷問という行為が、拷問者を描くことで想像できるものに変わり、すぐ近くに浮かび上がってくる。
主人公がこのような性質になった理由として、家庭での抑圧された教育があったこともリアリティがある。
主人公は神を信じていないのに、ジャックを通じて神の話になっていく。ジャックに勝つことは禁欲を強いた母への挑戦でもあり、母が死してなお縛られているのが哀れだった。
驚いたのはジャックの事を「正義に酔っている」と主人公がきっぱり非難していたこと。キリスト教作家がこの意見を書くことってすごい事じゃないかと思った。
でも結果としてジャックは自殺という大罪を選んででも仲間を守り、マリーを守り、正義を守った。
誰一人幸せではない話で苦しかった。 -
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遠藤周作『沈黙』の初版本を半世紀前に読んで以来、遠藤周作のテーマにはずっと寄り添ってきたつもりでいたが、数年前、念願かなって、二泊三日ではあったが、長崎を訪れる機会に巡り合った時、私は、彼の地の切支丹の歴史はもちろん、「長崎」というものの本質的な姿、実体などもろもろ何も分かってはいなかったことを思い知らされた。唖然とするばかりだ。
この『女の一生』一部、キクの場合を熟読した後の今も、頭の中の混迷はますます深まるばかり。
とりあえず今、言えるのは、二部の「サチ子の場合」は、これを読んだ戦前戦中を生きた人々が物語の中に「あっ、サチ子は私自身だ」と感銘をもって共感できる典型を創造していったことだ。
そして一部は、二部と真逆で、読者である「私の場合」とは全く別人の「キクの場合」を、物語を通して追体験させてくれた。ただ物語に登場してこない数多の人々の一人ひとりの"場合"が隠されていることを強く強く感じさせてくれる。何も、隠れキリシタンだけが長崎の歴史の悲劇を、ひとり背負っていたわけではない。それはキクがキリスト教徒ではなかったことからも推察できる。
かなり言葉足らずの読後感で、誤解を招かなければと心配だ。
が、私が大好きな戯曲『マリアの首』(田中千禾夫)の終末と、この一部キクの場合の終わりごろ、聖母マリア様がキクに話しかけるシーンが、降りしきる雪のイメージとも重なってとても印象的、詩的だ。
やはり私は、未信者だが、母性的なマリア信仰にどうしても惹かれてしまうのだ。 -
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『イエスの生涯』の前にこちらを読んでしまったがものすごく興味深く読ませていただいた。
日本人にとって、仏教よりもよほどとっつきにくいのがキリスト教、イスラム教だと思う。キリスト教について知りたいとは思うが、聖書はとても読めないなということできっかけとしてこちらの本を読んだ。
神格化される前の無力な人間であったイエスが、如何にして人類にとってここまでの大きな存在になったのか。人間の弱さ、悩み、もがき足掻く姿が遠藤さんの読みやすく飾らない文章で綴られている。
原始キリスト教団の群像劇として読んでも面白いです。
この本を読むと“沈黙”という言葉の重みがより解るのだなぁ。
キリスト教ってなんなん?と思っている人にぜひ読んでいただきたい一冊。
自分もイエスの生涯も読まなければ。
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第一次、第二次戦後派作家に続く『第三の新人』と呼称された新しい世代の文学作家達。
遠藤周作もまた、安岡章太郎や吉行淳之介に並んで『第三の新人』の新人と呼ばれる作家の一人です。
ただ、ミスター第三の新人とでも言うべき吉行淳之介に比較すると、遠藤周作の書く作品群には"キリスト教"という明確なテーマがあり、明確なテーマが傾向が無い『第三の新人』たちとは毛色が異なります。
そのため、遠藤周作については、『第三の新人』からは除外する考え方もあります。
本文庫には、遠藤周作初期の2篇、"白い人"、"黄色い人"の2作品が収録されています。
両作品とも遠藤周作らしいテーマとなっており、元々評論家だった作者の試みが感じられる内容でした。
各作品の感想は以下です。
・白い人...
第33回芥川賞受賞作品。
遠藤周作氏が文壇に認められるきっかけとなった作品です。
"白い人"はそのまま白人を意味していて、第2次世界大戦中のフランスを舞台に、ナチスドイツのゲシュタボの一員となった神学生が、元同級生に恐ろしい仕打ちをする作品となっています。
ただ、それを苦悩する物語ではなく、敬虔な神学生である元友人「ジャック」を苛むことに、むしろ喜びすら感じるような描写があります。
この負の感情、悪魔のような行動原理を、自身の生い立ちと、幼少期に目にした老犬を躾ける女中の白い太ももに見出します。
遠藤周作はこの物語を通じて、人間の根源と、神という倫理の象徴が存在する意味を伝えたかったのだろうかと感じました。
本作を読んで何を思うのかは読み手によって異なると思いますが、ただ、衝撃的な作品です。
・黄色い人...
黄色い人は日本人を意味しています。
収容所にいるブロウ神父に宛てた手紙という形式になっていて、神父だったデュラン氏と、主人公の「千葉」の手記が交互に挟まる展開となります。
千葉には「糸子」という従妹がおり、糸子には婚約者がいるのですが、千葉と不倫関係にあります。
デュラン氏は神父で、私の洗礼もした人物なのですが、ある経緯からキミコという女性と関係をもってしまい、教会から追放されてしまいます。
善良なブロウ神父のはからいで生きながらえていたデュラン氏は、キリスト教の決まりで自死もできず、生きながら屍のようになっていました。
デュラン神父は一丁の拳銃を持っていたのですが、警察にマークされていた彼は、キミコの助言からこれをブロウ神父に押し付けることを考えるという内容です。
作中デュラン氏は、千葉に取引を持ちかけるのですが、罪を犯すことに対し動じるものがない千葉はその誘いに乗りません。
その出来事からデュラン氏は、この国の人々が持つ虚無感、無色感を感じ取り、キリスト教が根付かない理由を感じていたシーンが印象的でした。
日本人とキリスト教の関係性を唱える名著だと思います。 -
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遠藤周作は「あとがき」にこう書いている。
「どんな人間にもその人生には書くに足る劇があるのは当然だが、我々世代の一人一人にはそういう意味で個々の劇のほかに共通したドラマがある。私はその共通したドラマを主人公サチ子の中に書いてみたかった。「あっ、これは、わたくしだ。わたくしと同じだ」 毎朝、私の新聞小説を読んでくださる主婦がそこに自分の似姿を見つけられたらなら、この小説は書き甲斐があったと言うべきであろう。」
市井の庶民一人一人の戦中体験が、実は、最も貴重な歴史そのものであるという認識が、作者の心の中を占めていた。
このようなサチ子を私が初めて知ったのは岡本喜八監督の映画「肉弾」の中で、大谷直子演じる少女像であった。そして最近では人気アニメから「あっちこっちのすずさん」が、自らのドラマを語り始めている。
もちろんアウシュヴィッツのテーマや、神の問題も重要ではあるが、歴史は、一人一人に固有のものでありつつ、かつ普遍的なものであるのかもしれない。 -
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面白かったです
タイトルには「怪奇」とありますが、幽霊や不思議な話を作者が体験したように語るエッセイです。私は名古屋に在住なので、「時計は十二時にとまる」がとくに面白かったです。
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装丁が美しいですね。本書に収められている同名の短編の中に出てくる大教会の写真だそう。
どの短編も時代をあまり感じないです。自分は、と言うことですが。
女優のはなしや、別の短編に出てくる女性の言葉使いなど今日的ではない箇所がたくさんあるのでその意味では古い時代の話なのですが、描こうとするものの有り様が当時と今とでもさほどに違いはない、五十年経っても人間の心の中にあるものにそう差異はないということなのかもしれません。
そして自然描写や建物の描写の端的で分かりやすいこと。遠藤先生の文を没後25年経ってまたこのように読めることの有りがたさをつくづく感じました。
佐藤愛子先生のことは他でも書かれていていましたが、初恋の人の話は胸をつかれました。
留学中の体の不調や孤独感と共に綴られた異国での話も、これまで様々読んできましたがやはり染みました。どの短編も遠藤エッセンスとでも呼びたくなるような先生独自の味わいが出ており、遠藤文学を読み続けていた自分の若い頃のことも思い出しました。
この本を出してくださった文学館関係者、出版社の方々、その他の関係者の皆様に感謝です。 -
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「死」というテーマについての短いエッセイがたくさん。「死」は誰も知らない経験。希に臨死体験者はいるが。でもすべての人に平等に訪れるもの。それについて話されることというのは、人間性というか人生観が滲み出てくる感じがする。そう、なんというか、じわじわと伝わってくる。「ああ、そうなんですね」ではない。じわじわとしたのが自分の中のなにかに触れて、ああ、こういうことかという言葉以上の受け取りが出てくるような気がする。
”じたばたして死ぬことを肯定してくれるものが宗教にはあると思うからです。”
たしかにそうなのかもしれない。死ぬことを考えないでもない。でも本当にその可能性があるときとないときでは向き合い方が絶対違うと思う。今は、「じたばたしない」と思っている自分がいる。どこかにいるじゃなくて、わりと大きな顔をして自分の中に座っている。
遠藤氏の書かれるなかで、自分があまり得意ではない「倶会一処」に似たことが、病により死を待つしかない人の慰めになると書いてあるところがあった。先に亡くなった祖父母、父母にあえるというようなことが。遠藤氏の文章から思ったのは、それは家族がいて、それにすべて安心して頼り切っていた幸せな時を思い出すことなのかなと思った。実際には会うという歓びよりも、その人と過ごしたときを今自分の体感として思い出して、なにかに身をゆだねるということなのかなと今までとは違ったことを思った。そうやって、死を迎える瞬間を乗り越えるのかと。
じわじわ感じること。彼の文章には苦しみには必ず孤独があるということが通底している。これは本当にそうだ。仏教もキリスト教も関係ないのだろう。人間の苦しみはそこにある。どんなに近くにいても、わからない。
宗教観。遠藤氏は、山に例えてどの道を通るかわからないが、宗教の行き着くところは同じかもしれないとおっしゃっていたが、ここは自分は違うような気がした。だってそれも誰も確かめようがないじゃないか。どこまでも自分が納得出来ないとだめな自分を再確認した。
とても親近感が湧くというか、近くでお話をしてもらっているような本。宗教に関係なく、一度手に取って読んでみるといいと思う。自分が避けて考えていることをまっすぐに書かれるともう聞くしかないから。